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1-7 Not Be A Hero

 次の日。流雫は何時ものように学校へ向かった。と云っても、教会爆破事件の被害を受けた校舎は修復工事で当面使えず、その間別の学校の空き教室などを間借りするような形で、授業を再開させる運びとなった。それはあの事件の翌日からのことだった。あれから、もう1週間も経つのだ。
 教室に入ると、1人の同級生だけは流雫を心配していた。どうやら、現場からの中継が速報で流れていたらしく、テレビカメラに流雫が映っていたと言う。そこで彼が人質になったことを知ったのか。当の本人は、昨日テレビや動画ニュースを見ていないため、それは初耳だった。
 銃で男を撃ったことは、幸いにも知られていない。自分からも武勇伝などとして話すことは無い。その事実は、流雫にとっては明るみになってほしくない。できれば、自分もそのまま忘れたい。それは非常に難しいことなのだが。
 やがて担任が教室に入ってくると、銃を扱う際の心構えについて、クラスごとに特別教育を行うことが急遽決まり、それが今からの2時間分だと知らされる。理由は、昨日河月市内であの事件が起きたからだった。
 高校生以上であれば、所定の講習と手続きさえ踏めば、殺人や強盗などの重犯罪を犯していない限り、ほぼ誰でも銃を所持することが可能だ。そして、所持率の統計調査の結果でも、高校生でも流雫以外に持っている人は少なくない。

 銃で人を撃つこと。その目的と意味から入った特別教育は、流雫にとって気に留めるまでもなかった。そう云う教育の前に、既に銃を握り絶体絶命の事態を二度も生き延びた身としては、今更過ぎることでしかない。
 人を撃つことは本来犯罪で、護身の時だけ正当防衛になるが、改正銃刀法によって法律的に認められていても、倫理的に認められるものではない。犯人とは云え、尊い人命を奪ったと云う十字架を常に背負って生きることになる、そのことを常に念頭に置くように。
 それが、講習の本筋だった。
 それ自体は、流雫も知っている。講習でも、似たようなことを言われたからだ。その上で、しかし撃たなければ撃たれる。殺さなくても、怪我を負わせることさえできれば、殺されない可能性が高くなる。

 1週間前、流雫が学校で撃った不審者は、一命を取り留めたが重体で、今も病院に収容されているらしい。そして前日、ホールセールストアで撃った男は、それより容態としては軽いが、太腿に命中したことで動脈を損傷し、一時は輸血を施したほどらしかった。また、容態が安定した段階で、精神鑑定を行うことになっている。
 ……全ては正当防衛なのだが、やはり後味は悪い。これが映画での世界であれば立派な活劇にでもなるのだろうが、それはあくまで娯楽にモディファイされたものであって、実際はそれとは大凡正反対だ。……少しは平和になってほしいのだが、それすら今は叶わないのか。そう思うと、明るくはならない。
 昨日、流雫が人質として味わった緊張は、ミオと話して消えた……ように見えて、全く消えてはいなかった。同時に助かった人質も、PTSD……心的外傷後ストレス障害の可能性が有るとして、心療内科の受診を勧められたようだが、流雫だけは唯一銃を手にした者として、昨日書いた紙の無料受診のように多少なり特別扱いされることとなった。ただ、こう云う特別扱いなら、寧ろ無くてもよいのだが。
 流雫は、そう思いながら、この退屈な時間が過ぎるのを待っていた。

 特別教育は、正しく2時間目までで終わった。放課後まで5時間半ほどか。
 ……前夜ミオとメッセージを遣り取りした後、寝付くのに1時間以上掛かった。目を閉じても、意識が落ちない。脳は落ち着いていなかった。何より、あの男による伏せた直後の犯人への発砲と、自分の額を狙ってきたこと、そして流雫が太腿を狙ったこと。
 額に銃を向けられると、途端に恐怖で力が入らなくなるとは講習でも言われていたが、流雫の場合は本能的に銃を取り出して撃った。生への執着がそれだけ強かったからか。しかしその影響が、夜になって寝付きに及ぶとは思っていなかった。
 しかし、とにかく眠い。早く放課後にならないものか、と思いながら流雫はホワイトボードに次々と並ぶ文字列を、必死にノートに書き写していた。

 ようやく訪れた放課後。月曜は、毎週決まってこの時間になるのが遅いと感じるが、今日は特にそうだ。
「特別教育、ね……」
流雫は最初の授業で渡された資料をファイルケースごと取り出して、呟く。
 この学校で扱う教科書の類いは全て、入学時に配布された薄型のタブレットに入っている。しかし、こう云う資料に関しては紙での配付だ。そのためにファイルケースの類いも持ち歩いている。
 流雫はタブレットとファイルケースを鞄に入れると、当面の間通うことになっている臨時の学校を後にした。
 そして、通学に使うロードバイクのペダルを漕ぎながら、午前中の話を思い出していた。

 ……あの8月最後の週末、パリからの12時間のフライトを終えた飛行機の窓から見えた、小さなビジネスジェット機が全ての始まりだったように思う。
 あれがトーキョーアタックの原因だと云う、明確な理由は無い。しかし、あの飛行機の影響で着陸が遅れ、結果テロに遭遇した。自分は無傷だったからまだマシだったが、そう云う問題ではない。
 ……何度でも思う、何故こんなことになったのか、と。
 政治思想や人種、宗教に関する概念の対立、それはどの国でも見られる。特に後者は、人類が存在する限り解決は有り得ないだろうと言われるほど、昔から至る所で起きている。更に、異教同士だけでなく、同じ宗教下での宗派の違いだけでも十分起き得る。それは中東情勢を見るとよく判る。
 日本でも、既に難民を巡る対立の火種が生まれ、大なり小なり衝突は起きていた。そして、それが何らかの拍子に爆発することは可能性としては有ったのだ。
 ただ、人は生まれつき悪人ではない、とする所謂性善説がもたらす、根拠無き安全神話と云う幻想が、その不都合な真実を黙殺していた。あの日まで平和だったのは、本当に奇跡でしかなかった。この半年で、そう思い知らされた。
 あのカルト教団による地下鉄サリン事件から四半世紀以上経ったが、日本はその意味では進歩していない。
 ……流雫の頭からは、疑問が離れない。この半年で、テロに遭ったのはもう3度目だ。呪われているのか、と思っても不思議ではない。
 何故、こんなことになったのか。誰も持ち合わせていない答えを、流雫は見つけようとしていた。しかし、答えなど見つかるハズもない。何度やってもそうなのだ。ただ、何度も呟いては、答えを探そうとしていた。
 「……ミオ……」
流雫はふと呟き、昨日のメッセンジャーアプリで交わしたメッセージを思い出す。
「あたしは、ルナの味方だから」
「あたしが、ルナの味方でいたい。ただそれだけだから」
その言葉が、流雫には深く突き刺さっていた。

 ミオは全肯定ボットかと思えるぐらいに、自分の話を聞いて、決して否定しない。聖母の化身かと思う時も時々有るが、強ち間違ってはいないだろう。
 しかし、もし今ミオと何処かで出逢ったとして、自分はどんな表情をすればよいのか。恐らく、明るく振る舞うべきなのだろうが、そう云う器用なことが自分にできるのか。そもそも、そう云うこと自体有り得るのか。
 ……彼女の自分への好意は、嬉しくて助けられる。今、両親や親戚を除いて唯一、いやそれ以上に何でも「話せる」。
 オンラインでのみ繋がる関係は、結ぶのも簡単なら断つのも簡単だ。だから関係を維持するなら、常に誰に対しても腫れ物に触るような対応を迫られる、とネットニュースのコラムに書かれていた。
 しかし、流雫はミオが赤の他人だからこそ、身内に心配を掛けることなく、何でも言える。
 ただ同時に、その好意が少し重苦しくもあった。彼女に美桜の面影を探そうとしている時点で、ミオの前に立つのに相応しいのかが疑問だったから。そして、イエスだと即答できない。銃を撃つと云う穢れに手を染めたから、ではなく、常にメッセージで助けられてばかりいることが負い目だったから。
 それに、逆にミオを何かの形でも助けたことは記憶に無い。それでも
「ルナと話せるだけでいいよ」
と、ミオは微笑みながら言うだろう。その顔は、本当に天使か聖母のそれなのだろうか。
 ただ、何度も思い返しても結局、そこから先の答えが出ない。二度と会えない美桜に対するリグレットと、それでも誰かに縋り付きたい欲望が混ざっていた。そしてミオの優しさを、真正面から受け止めることに抵抗している、躊躇している自分がいた。
 
 ペンションに帰り着くと、何時ものように手伝いをこなし、それが終われば自分の部屋に入る。ミオからのメッセージは届いていなかった。ほぼ毎日、何らかの遣り取りはしているが、来ない時も有るし送らない時も有る。それでも2日空くことは無い。そして今だけは、来ないことは好都合だった。
 一気に宿題を済ませようとノートを3冊積み、更に別の1冊を開く。手始めに面倒な計算問題に手を着ける。その間だけでも、気を紛らわせることができるならそれでよい。
 そして今は、水曜日の放課後に予約した心療内科の受診だけを、気にすることにした。そうでもなければ、何時までも悩んで、終いには眠れなくなりそうだった。

 水曜日。この日、朝から弱い雨が降っていた。しかし幸い、雪になると云う予報は無い。
 放課後、流雫は予約していた心療内科へと足早に向かった。河月駅から歩いて5分のところに、立派なコンクリート製の建物が見える。そこは河月メディカルビルと呼ばれる施設で、開業医が共同で管理している。内科から形成外科、歯科や眼科まで入居しているが、今から向かう心療内科もその一角に構えていた。
 流雫は受付で鞄から茶封筒を取り出し、中に入っていた警察からの受診案内の用紙を職員に渡す。待合室ではテレビが点けられていたが、流雫は目を逸らした。
 夕方のワイドショーは、日曜の件について言及していた。事件の背景や警察の対応について、初めて聞く名前の専門家とインテリ系芸能人のコメンテイターが遣り取りしている。……呑気なものだ、と少年は思った。それは彼が当事者だから、そう思えるのだが。
 20分ほど経っただろうか、ようやく名前を呼ばれた流雫は診察室へ入る。そこには、中年の医者が座っていた。白髪が混ざる頭に、眼鏡を掛けた50歳ぐらいの中年だが、それ以外に特徴は見えない。
 受診についての概要は、警察署で同意書を書いた時点で、指定の病院へ希望日時と共に電送される手筈になっていた。その上で、医者は先ず、銃を向けた時にどんな心境だったか問うた。
 流雫は、何れのケースもただ生き延びたいと思うだけだった、と答えた。怖かったが、それは銃で人を撃つことに対して、ではなく、自分が撃れることへの恐怖に由来するものだった。
 医者の問いに淡々と答える流雫。医者は、咄嗟の判断で護身のためだけに銃を撃ち、犯人の戦力を奪った彼の判断力については、それなりに評価した。しかし、懸念が無いワケではなかった。彼の経緯が経緯だけに、普通ならば大前提に来るハズだとされている改正銃刀法への否定が無いのだから。

 シルバーの外ハネショートヘアに、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳を持つ、日本人らしからぬ見た目の少年は、本来かつてのように……半年前までと同じに戻れるのなら、銃など要らないと思っている。ただ、トーキョーアタックを経て改正された結果、持つことが認められた。その結果、自分が必要だと判断したから持っているだけの話だ。消極的な肯定、と云うのか。
 そして、こうして2度も銃で命拾いしている。賛成ではないが反対でもない、そのスタンスを持ち、ただ
「生き延びるためなら、撃つしかない」
と撃つことを否定しない流雫。それは、相手の医者を唸らせた。
 あの時撃たれなかった、殺されなかった。だから今……自分が望んだとは云え、面倒だと思っている心療内科で受診中なのだ。それは流雫にも判っている。
 生きるために、本来必要でないハズのものが必要になる。それが、この2024年の日本においては護身用の銃で、その引き金を引く相手は己の命の危険を感じさせる連中……武装集団やテロ集団なのだ。
 学校で聞いたようなステレオタイプの「銃は使うべきではない」
をどう云う形であれ否定するのは、医者にとっても想定外だった。

 1時間にも及ぶ診察が終わると、流雫はメディカルビルを後にした。医者は終始頭を悩ませていたが、流雫の経緯が経緯だけに、何と言っていいか迷っていたように見える。彼のような経験のケースは、ただでさえ銃を持つことにした人間の中でも特に稀なケースで、対応に苦心していた。
 このテの診察は一度のみで、通院の必要も無い。
「……行かなくてよかった、かな……」
そう呟くと、45分掛けてペンションへと戻る。雨は弱いまま降り続けていた。
 ……あの日曜日の件は、それ以上親戚夫妻との間で話題になることは無かった。誰もが、話題に挙げるのを避けていた。
 流雫と共に買い出しに行って、2人は逃げることはできた。しかし逃げ遅れた流雫が人質になり、結果として助かったが解決までの2時間半はひたすら、流雫の無事を遠目から確認することしかできなかった。そして、無血の結末を迎えなかったと云う後味がよくないものだっただけに、この夫妻も話題に出すことは避けようとしていたのだ。
 話題は専ら、あの事件の影響で損壊したホールセールストアが店舗の復旧作業が終わるまで休業することになったことで、もし来月まで長引いたとすると別の店を探すことになり、面倒だと云うものだった。

 ユノディエールと名付けられた7部屋のペンションは、水曜日としては珍しく満室だった。普段なら、1部屋は空室が有る。
 流雫は何時もより手伝いを多くこなそうとしたが、早く部屋に戻るよう言われた。彼にとって、イヤなことを紛らわせるのに手伝いが多いことは好都合なのだが、親戚から今日ばかりは止められた形だ。
 心療内科での診察は、精神的な疲労が大きいと2人に思われていた。実際、当たってはいる。ただ、だからと何もしないまま過ごすのは、何か時間のムダな気がしていた。
「ま、いいか……」
と流雫は呟き、部屋に入る。
 テレビは見ないが、ネットの動画配信が代わりになる。それでも、ニュースとごく一部のチャネル以外見ないが。
 今日出されていた宿題は、もう少しして始めてもよい。別に量は多くないし、1時間も有れば終わる。
 流雫は一度ベッドに身を投げ、目を閉じる。
 ……銃を握り、人を撃つこと。それが何を意味しているのか。それは特別教育でも聞いたし、心療内科での診察でも話したが、1週間前から常に自問自答を繰り返しては、辿り着けない答えに溜め息をつく、そう云う日々を過ごしていた。
「どうして……」
どうして、こうなったのか。それが、決まって一言目に出てくる。

 彼自身、故郷フランスでもストライキに端を発する暴動や宗教絡みのテロを、テレビ越しにだが何度も見てきた。特に9年前のパリ同時多発テロ事件は、23年前のアメリカ同時多発テロ事件をリアルタイムで知らない世代の流雫にとっては、大きなインパクトだった。
 だから、短期間の帰郷でも思うことは有るし、日本に帰国すると異常なほど平和であることに、少なからず戸惑っていた。だから、今の日本はそれほど驚くようなことでもなかった。唯一つ、銃を持つことになることを除いては。
 護身用として銃を持ち、まさかの事態には引き金を引く。言葉で説明するのは簡単だが、いざ持ってみると、それができるのか不安になる。2回はそれができたが、この次同じような事態に陥った時、同じようにできるのか。
 相手にも命が有り、その重さについては倫理の授業で事有る毎に聞かされてきた。皆同じ命と云うように。それは尤もなのだが、しかし今はその綺麗事だけで平穏に過ごせるような社会ではない。
 撃たなければ撃たれる。殺さなくても殺される。だからその時は、自分が生き延びるために犯人を撃つ。相手の命を軽視したいワケではないが、相手の命を尊重すれば自分が死にかねない。
 それは、そう強く決意してもふとした瞬間に襲ってくる迷いや躊躇いを
「これしかない」
と無理矢理押し殺すことでしか、できないのだ。
 だから、流雫はできるなら相手を動けなくするだけに留めたかった。それも理想論でしかないことは、彼自身判っていたが。
 ……心療内科での診察で、医者からは人を撃つことに対する倫理的な観点からの話を聞かされた。その上で、これらは緊急事態下での特例であり、事によっては自分の命を狙ってきた犯人とは云え、人の命を奪ったと云う十字架を背負って生きることになることは、常に認識していなければならない、と云うものだった。
 2日前に聞いた特別授業と同じだ。ステレオタイプのような感じがして、真正面から聞く気にはならなかった。

 そして、この日から周囲の目が少し変わっていることが判った。日曜日の事件について連日報道される中で、「少年」が人質の中心のようにされ、男が「少年」を撃とうとして、逆に警察の目の前で「少年」が撃ったことが採り上げられていた。何処から知られたかは判らないが、下手すると自分だとバレる。もうこの際、バレてもよいが。
 SNSでも、それについてのコメントが見られ、男の発狂についての罵詈雑言が多かったが、「少年」への意見も有った。何故太腿なのか、胸部や腹部や頭部を狙わなかったのか、そもそも高校生が銃を撃つことは是か非か、多岐に及んだ。「少年」が男に向けて撃ったことそのものに対する批判も散見されたが、それは銃刀法改正を巡る混乱の初期から改正、もとい改悪反対を叫んでいた連中によるものだった。
 その一方で「少年」をヒーローだと言う者までSNS上には現れた。
 犯人を撃ち、警察が突入するきっかけとなったのは、皮肉にも発狂の末「少年」に銃口を向けた男だった。そして男は、「少年」を完全に殺す気でいた。だから「少年」は男の太腿を狙って引き金を引いた。だから自分がヒーローだとは、元から思っていない。
 ……流雫は否定したがっていた。自分はヒーローなんかではないのだ、と。もしヒーローなら、ヒーローになりたいのなら、ほんの一瞬の隙を突いて、隣にいた犯人を撃っているハズだからだ。しかし、撃たなかった。
 至近距離だから、隣にいた主犯格の男は倒せただろう、しかし、同じだけの装備をした犯人は残り9人いた。そもそもその時点で銃弾の残りは5発以下、まず足りない。
 緊急事態だからと、本来取り外しが禁止されている弾倉を外し、その前に購入していたものと同じ銃弾を探して詰めれば、弾数としては全員倒すことはできる。ただ、頑丈にロックされていて、鍵を警備員の屍から入手したとしても、それまでのたった数秒の間に事態に気付いた残りの犯人が、自分や他の人質に向けて撃ち、自分を含む全員が殺されていたとしても、不思議ではない。それは今更思ってみたものの、現実的ではなかった。
 そして、好きなアクション映画に準えた理想論でしかない。あの時、流雫は動いてはいけなかった。だから何もしなかった、できなかった。
 もし、そう云う時でも、ハイどころの話ではないほどのリスクを冒してでも犯人を撃ち、自分と人質を救うことが、ヒーローのセオリーなのであれば、ヒーローになんかならなくてもいい。
 ただ、テロの脅威から生き延びたい。それだけが、流雫の望みなのだ。

 小さい頃、映画で見て憧れたヒーローがいる。大事にしてきた人や街を失っても、平和のために戦っていた。それはカッコよかったが、作中では反面常に強く振る舞い、強く在るべきを強要されていたように見えた。
 作中では描かれていなかったが、それに対して少なからず思うことが、キャラクター自身に有ったのではないか、と今では思う。
 そして、リアル世界のヒーローと云う存在への憧れは、とっくの昔に捨てた。そして、自分がそう見られることは、なるべくなら……いや、何としてでも避けたい。ただ、殺されることが怖いだけの、そこら辺にいるような普通の人間なのだ。
 それなのに、自分が知らないところで勝手にヒーロー扱いされるのは、受け入れられるようなものではない。
「ヒーローになんて、ならない」
流雫は、ミオとのタイムラインを開いて、脈絡もなく送った。
「僕は、生き残りたいだけだから」

 何時もよりバスタブに長く体を沈めて温まっていた澪は、空色のルームウェアに身を包み、部屋に戻る。ドアを閉めると同時に、スマートフォンが鳴った。彼女の掌より大きい端末を机から拾い上げると、ポップアップ通知にはルナからの
「ヒーローになんて、ならない」
と云うメッセージが表示されていた。……彼に、何か有ったのだと澪は察した。それと同時に、ポップアップ通知が上書きされる。
「僕は、生き残りたいだけだから」
その一言に、彼の本音が詰まっていた。
 ……確かに、夕方テレビで見た二ユース番組でも、例のホールセールストアの事件の報道が流れていた。「少年」と言われているのが、ルナのことだと澪には判る。
 ニュースでは、その活躍を評価する一方で、銃を撃つ者へのメンタルケアが課題だったり、また銃を持たなくても再び安心安全に生活できるよう、警察の組織強化を求める意見が出された。
 ルナは、こう云うことで活躍を評価されることを望まない。あの時、発狂した男はルナを狙っていた。だから撃った。それだけの話で、自分が事件を解決に導いたとは微塵も思っていない。皮肉なことに、その男が犯人集団を撃ったことで、ゲームチェンジャーになったからだ。
 そして、あの1日から彼と交わすメッセージ量が増えた澪が、そのことを誰よりよく知っていた。
 恐らく、澪は今この世界で誰よりルナと「話して」いる。同い年の2人は、やがて世界を席巻することになるスマートフォンが生まれた頃に生まれた。そして国内外で乱立するSNSが、幼い頃から盛んだった。言ってみればオンラインコミュニケーションのネイティブ世代だ。物心がついた時から、情報がモノを言う時代だった。
 オンラインでのコミュニケーションは、フェイス・トゥ・フェイスでの対話より交遊や絆の濃度は薄く、互いの関係は希薄で、それはコミュニケーションと呼べるのか、と何処かの有識者は語っていた。それは或る意味間違ってはいないのだろうが、最早社会において必要不可欠なもの、社会の中心に据えられるほどに成長していた。
 その意味では、2人は「使い熟せて」いる。顔も知らない、会ったことすら無い。それでも、コミュニケーションは成り立っている。
「ルナ」
澪はその2文字だけを打った。3日前のあの事件で、誰よりも悩みを抱えているのはルナなのだと思っている。

 「一人の生命は地球より重い」
と、偉い誰かが昔言っていたことは、父から聞かされた記憶が有る。誰だったかは忘れた。とは云え、それが鎖になっていることには、誰も気付いていない。
 綺麗事だけ並べて、したり顔で語るのは簡単なことだが、それだけでは生きられない。その甘くない現実は、澪もよく知っている。刑事として警視庁に属する父、室堂常願の影響だ。
「ヒーローになんてならなくても、あたしだけはルナの味方だから」
「ルナは、何も間違っていないのだから」
澪は続けて打つ。全肯定ボットのようにルナを肯定しているが、それはリップサービスでもなく、流雫に対する本音でしかなかった。
 そして、今まで思っていながらも躊躇っていたことを、切り出した。
「あたし、ルナに会いたい」

 ミオからの一言に、流雫はディスプレイを見ながら
「え……?」
と声を上げた。何の予兆も無く
「あたし、ルナに会いたい」
とだけ送られてくると、流石に驚く。どう返すか1分だけ迷って、流雫は打った。
「……僕に?」
「色々、話を聞いてみたいの。ルナが何を思ってるのか」
「……上手く話せるかな……」
流雫は打ち返す。
 オフ会と云う、リアルで会うイベントと云うかパーティーのようなものが有る。しかし、彼にはその経験は無い。しかも、先にオンラインで知り合った人とリアルで会うことは初めてだった。
 だが、特に断る理由も無い。それに、ミオには問うてみたいことが有る。何故、ここまで自分の味方なのか。
「理由なんて無いわ。あたしが、ルナの味方でいたい、それだけだから」
と一蹴されることは判っている。ただ、それでもだ。
「……何時にしよう?」
腹を括ったように、流雫は文字を並べ、送信ボタンを押した。
 ……それでも一つだけ、彼には気懸かりが有った。ミオと美桜。変に面影を探そうとしないか。
 ミオは美桜とは別人だが、そうは判っていても、やってはいけないと判っていても、しそうな予感がする。少しだけ、誘いを受け入れた自分を恨んだが、後の祭りだ。流雫は大きな溜め息をついて、目を閉じた。

 次の日の放課後、澪は何時もの同級生2人と駅まで歩いていた。彼女たちの名前は、立山結奈と黒部彩花。結奈がライトブラウンのセミロングヘアでボーイッシュ、彩花は黒いロングヘアを三つ編みにしたヘアスタイルに眼鏡を掛けている才女。だから判りやすい。
 高校入学と同時に知り合ったが、このトリオは気付けば何時も一緒だ。何故か澪が、その中心になっているが。
「澪、何かいいこと有った?」
結奈は顔を覗く。
「え……?……少し、会いたい人に会う事になって」
澪は答える。ただ、顔に出ているとは思っていなかった。
「それって、ネットで知り合ったっての?……何か危険じゃない?」
結奈は言う。
 確かに、普通に聞けば相手がどんな人かも知らないのに、危険とは思われる。ただ、ルナがそう云う相手ではないことは確信していた。それは、この数ヶ月の遣り取りで判る。
「別にデートとかじゃないから、ただ会うだけだから」
「それがデートなんだよ」
結奈が言い、彩花は続ける。
「端から見ると、最早デートだよ?」
 ……2人がそう言うなら、やはりそうなのか。澪は昨日のメッセージの後、これはもしかしてデートなのだろうか、と思っていた。しかし、何処かでそうではないと思っていたかった。
 ……初めてのデート。そう意識すると、澪はどうしてよいか判らなくなる。16歳でデートなんてのは、流石に早過ぎると思っている。そもそも、それまで澪から恋愛のれの字を聞いたことが、この2人にとっても無い。半ばそう云うものに無縁、と云うか無関心なのだろうかと思っていた。
 ……やる時はやる性格か。それが2人の意見だった。
「デートなんて、初めてだから……」
「なるようにしかならない、かな」
結奈は続ける。
「元も子もないけど、何か変に取り繕うと絶対綻びが出てくるから、自然体で挑まないと。後は、流れに任せて……でもエッチなことになりそうなら逃げたりしなきゃだよ?」
「それは安心して?対処法は知ってるし、そもそもそう云うことにはならないわよ」
澪は答える。
 元々刑事の娘であることはルナには話していないが、その事実は確かな抑止力にはなる。その一方で、そもそもルナはそう云う意味での一線を越えようとはしてこないだろう、と思っていた。
 文字だけでの遣り取りなら、どんな脚色もできる。ただ、あれだけの影を抱え、何かに縋り付こうと藻掻いているのに、そこに下心を隠すほど、彼は器用だとは思えない。
「まあ、変に緊張するなってのが無理だろうけど、肩に力は入れちゃダメだよ?」
彩花は言った。
 まあ、約束は1ヶ月近く先の話だ。まだ時間はいっぱい有る。澪は、だから今は先延ばしでもいいと思っていた。何だかんだで、どうにかなると期待していた。

しおり