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住む世界が違う? ②

「はーい! お願いね。……あっ、髪ジャマになるわよね? じゃあこうしとくわ」

 わたしはシートベルトを外すと彼に背中を向け、長い髪を右手で一まとめにして前に垂らした。

 運転席から助手席に身を乗り出して作業にかかった彼は、少しでも楽な体勢が取れるようにセンターコンソールに片膝をつき、ネックレスの小さな留め金と格闘していた。
 男性特有の少し太い指ではやりづらいらしく、時々首筋に触れる彼の指先がちょっとくすぐったかった。彼のそんな不器用な指先からですら、わたしは彼の愛を感じていた。

「……はい、できました! こんな感じですかね。どうですか?」

 わたしは彼の手が離れるのを待って、助手席の窓に写り込む自分の姿を確認した。首元に手を遣り、ペンダントヘッドに触れて、大きく頷いた。

「うん、いい! ありがとう! ……どう? 似合ってるかしら」

 この日のインナーはVネックのオフホワイトのカットソーだったので、首元にアクセサリーが一つ加わっただけで、シンプルなコーディネートが少し華やかになった。

「はい、よくお似合いです」

「嬉しい! なんか、少し大人に近づいた気がするわ」

 十八歳といえば選挙権も与えられるし、世間的にも大人として認められる年齢。十七歳でいきなり経済界に飛び込んだわたしにとってこの日は、自分がちゃんと〝一人前〟になれた日だった。

「――あの、絢乃さん。このごろ僕には、絢乃さんの背中が少し大きく見えるようになりましたよ。さっきもそうなんですけど」

「えっ? わたし太ったかな? まさか、急に身長伸びるなんてことはないだろうし……」

 彼の口から出た意外な言葉の意味を、わたしは身体的な変化と捉えたのだけれど。

「違いますよ。会長の風格というか、(かん)(ろく)というか、そういうものができてきたのかな、って。あの会見の少し前からそう思い始めました。『社員を守るんだ』という、強い信念を感じましたよ。絢乃さんも、少しずつお父さまに近づいてきてるんじゃないですか」

「……えっ、そうかしら? そうだと嬉しいけど」

 その当時で、わたしは会長に就任してまだ四ヶ月目入るか入らないか。そんな時期にもう風格ができつつあったなんて、やっぱり父の血筋なのだろうか。

「はい。僕だけじゃなく、社長や専務からもそう見えてるはずです。あなたはもう、名実ともに〈篠沢グループ〉の立派な会長になられてますよ」

「え…………。ありがとう」

 彼はよくわたしを褒めてくれるけれど、この時ばかりはベタ褒めしすぎだと感じて少しむず痒かった。

 それをごまかすように、わたしはあえて無邪気なフリをしてみせた(実際、わたしはいつも無邪気なのだけれど、それは置いておいて)。

「このクマちゃん可愛いよねー♪ お名前、何にしようかなっ」

 テディベアを両手で抱っこして、毛並みを確かめるように撫でながらはしゃいだ。

「名前ですか? 絢乃さんにも、ぬいぐるみに名前つける趣味がおありだったんですね」

「ナニよぉ、悪い? わたしだって女の子だもん。……あ、貢にもらったコだから、〝ミッくん〟にしようかな☆」

 呆れているような彼に口を尖らせてから、クマに名前をつけた。

「貢で〝ミッくん〟ですか……」

「うん! ね、いいでしょ? 貢お兄ちゃん」

 わたしはクマの右手を持ち上げて、満面の笑みで彼に話しかけた。彼はもっと呆れると思ったけれど、彼はただの女の子に戻ったわたしを、目を細めて見ていた。

「やっぱり、絢乃さんって可愛いですよね。キリっとした大人の表情もいいですけど、等身大の笑顔が僕は大好きです。この表情を見られるのって、家族を除けば彼氏だけの特権ですよね」

「……うん」

 〝彼氏〟……。わたしが言わせたのではなくて、彼は自分からそう言った。わたしの愛情が押しつけではないことを、その言葉がちゃんと裏付けてくれたのだ。

 カーナビの時刻表示を確認すれば、まだ夕方六時。帰るには少し早い時間だったので、わたしたちはもう少し車内でお喋りをしていくことにした。
 あと五分か十分くらいなら、お店のジャマにはならないだろうと。せめて売り上げには貢献しようと、彼が店内でペットボトルの飲み物を買ってきてくれた。彼はミネラルウォーターで、わたしの分はカフェラテだった。

「――実は、生前あなたのお父さまから頼まれてたんです。『いざという時は、絢乃さんのことを頼む』と」

「……えっ? 初耳だわ、そんな話。パパといつそんな話してたの?」

「去年のクリスマスイブに、お宅に招かれた時に。――絢乃さんはキッチンに行かれてたので、お聞きになってなかったんですね。今にして思えば、あれが僕への遺言だったんじゃないかと」

「それって……。パパは気づいてたのかな? わたしの好きな人が貢だってことも、貴方のわたしへの恋心にも」

「そうかもしれませんね。もう死期を悟ってらっしゃったでしょうし、自分のいなくなった後に、僕と絢乃さんが結ばれることをお望みだったのかもしれません」

「…………」

 彼の屈託のない笑顔に、返事に困ったわたしはカフェラテをグビッと(あお)った。
 もしそれが事実だったとして、わたしと彼が結婚することになったら――というか、今それが現実になっているのだけれど、父が仕組んだ政略結婚でもあるということを示していた。

 でも、愛情によって結ばれたと確信している今は、この結婚は決して政略結婚なんかじゃないと二人ともが言い切れる。

 ひとつだけ確かなことは、父も母も政略結婚はキライだったこと。つまり、父はあの時すでに、わたしの想い人が彼だということに気づいていて、娘の幸せを何よりも願っていたということだ。

「まあ、僕はまだ交際を始めたばかりですし、急いで結婚を考える必要もないと思ってるんですけど……。ゆっくり考えていってもいいですよね、絢乃さん?」

「……えっ? うん……そうね」

 わたしの考えは違っていた。父の喪が明けて、高校を卒業したらすぐにでも結婚の準備を始めたいと思っていたのだ。なので、彼の考えが自分とは少し違っていることには正直戸惑った。

 ……あれ? わたしの中に、小さな引っ掛かりが生まれた。もう本当に、ほんの些細なすれ違いだったはずなのに、わたしはどうしようもなく不安になった。
 わたしは本当に、彼と結ばれるのだろうかと。

「――さてと。そろそろ帰りましょうか。絢乃さん、明日から新学期ですよね」

「うん」

 彼とわたしはシートベルトを締め直し、再び車がスタートした。

「高校生活最後の一年ですね。新しいお友達もできるといいですね、絢乃さん」

「うん、楽しみ♪ 里歩ともまた同じクラスになれるといいな」

 わたしは学校では友人が多い方だった。里歩はその中で一番親しい友人だったけれど、他にも親しくしていた友人は何人かいた。三年生で初めて同じクラスになった阿佐間(あさま)(ゆい)ちゃんもその一人だ。
 ただ、学校行事での思い出作りは期待できそうになかった。体育祭と文化祭は休日開催なので参加できそうだけれど、二泊三日の修学旅行は参加を諦めるしかなかった。

「――あ、ねえねえ! 今度、お休みの日にデートしようよ。わたし、一緒に観に行きたい映画があって。恋愛映画なんだけど」

 実は、彼とはまだ一度もデートらしいデートどころか、二人で食事にすら行ったことがなかったのだ。春休み中はほとんど仕事ばかりしていたので、恋人らしいこともほとんどできなかった。

「ああ、いいですねぇ。タイトル教えて頂けたら、ネットでチケット押さえておきますよ」

「わぁ、ありがとう! それと、別の日にだけど、貢のゴハン作りにお家まで行ってあげるわね」

 一度芽生えてしまった不安のせいだろうか。わたしは彼との距離を縮めようと躍起になってしまった。

「ありがとうございます。助かります。――さ、着きましたよ」

 彼はお礼を言ってくれたけれど、本心では少し困っていたのではないだろうか。わたしの押し付けがましい愛情を、迷惑に思っていたかもしれない。

「今日もお疲れさま。プレゼント、ありがとね。明日はまた一時前に、ここまで迎えに来てね」

 わたしはテディベアとネックレスの箱や包装紙などを手早く紙袋に入れ、車を降りた。

「分かりました。お疲れさまでした」

 彼がそう頷き、車に乗り込むのを確認してから、玄関へ向かって歩き出した。

「――ただいま!」

 玄関のドアを開け、中にいる母や史子さんに声をかけた――。

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