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会長としてすべきこと。 ②

『分かりました。――あの、一度こちらにお戻りになりますよね?』

 彼はわたしがあのまま直帰するとでも思っていたのだろうか? でも、バッグは会長室に置いたままだったし、出社時と退社時の送迎は彼の務めだったので、わたしがひとりで帰宅する可能性はほぼゼロに近かった。

「うん。もう話は終わったから、これから戻るわ。じゃあ、また後で」

 電話を切ると、わたしは山崎さんに改めて言った。

「それじゃ、わたしは上に戻ります。明日の会議、よろしくお願いしますね」

「はい。わざわざお疲れさまでございました」

 人事部長室を出ると、わたしは秘書の女性を始め、まだお仕事中だった社員のみなさんに「おジャマしました」と声をかけてから、人事部を後にした。

 ――再びエレベーターに乗り込み、四階上の会長室に着いた頃には、ちょうど彼もわたしがお願いしていた電話を終える頃だった。

「――はい。急なお願いで申し訳ございません。では明日の会議、よろしくお願い致します。失礼します」

 彼は村上さんの携帯ではなく、内線で社長室に繋いでいたらしい。電話を終えると静かに受話器を戻し、わたしのヒールの靴音に気づいて顔を上げた。

「――あ、会長。お帰りなさい」

「ただいま。――村上さんも、明日大丈夫って?」

「はい。ということは、山崎専務も? ……というか、聞こえてらしたんですか?」

「うん……、ゴメンね。戻ってきたら、貴方まだ電話中だったんだもの。声をかけるのも悪いなぁと思って……。わたしがお願いしたことだったし」

 わたしは素直に、両手を合わせて彼に陳謝した。

「謝られる必要なんてありませんよ、会長。別に無理難題ふっかけられたわけでもないですし、あなたのお願いでしたら、僕は何でもお聞きしますよ。……惚れた弱みで?」

 最後にボソッと付け足された一言に、わたしは思わず吹き出した。……なるほど、悠さんのおっしゃっていたことは本当だったらしい。

「会長、ありがとうございます。僕が苦しめられた問題のために、わざわざ会議まで開いて下さるなんて……」

「まあ、貴方を守るって約束したしね。それにこれは、貴方のためだけじゃないの。会社のイメージにも関わる問題だし、来月から働いてくれる新入社員のためにも、今年度中に解決しなきゃいけないから」

「なるほど。そういうことでしたか」

 我が〈篠沢グループ〉は――、少なくとも中枢である篠沢商事は、世間から優良ホワイト企業というイメージで通っている。そのため、毎年の入社希望者が多いのだけれど、パワハラなんて問題がのさばっていたら、四月に入社してくれる新入社員の人たちを騙し討ちにするようで(まこと)()(かん)だった。

「――そういえば、あっちのテーブルの上、カップ置きっぱなしでした。洗って片付けてこないと。ちょっと行ってきます」

「じゃあ、わたしもお手伝いするわ。たまにはね」

「よろしいんですか? ありがとうございます」

 彼はすっかり空になっていた三人分のカップや湯呑みをトレーに回収し、わたしがドアを開けて、二人で給湯室へ向かった。

 初めて足を踏み入れる給湯室は、彼のもう一つの〝城〟のような場所。もちろん、秘書室に在籍している他の社員も利用するのだけれど、その一画に揃えられている彼愛用のコーヒー道具一式には、誰ひとり手を触れないのが暗黙のルールになっているようだった。
 それはなぜかというと、村上さんも山崎さんも、コーヒーはインスタントしか飲まないから、なのだとか。

「わぁ……、本格的ね。これでいつも淹れてくれてるのね。ホントにバリスタみたい」

 わたしが彼の愛用品に感動していると、彼は眉を軽くひそめた。

「どしたの?」

「……やめて下さい。兄に言われたことを思い出してしまうんで」

「あぁ~……、さっきの話ね」

 お兄さまに「兄弟で喫茶店をやろうぜ」と言われたことが、本人には不本意だったようだけれど。わたしには、彼が白シャツ・黒パンツに長いバリスタエプロンをして、喫茶店の厨房に立っている姿が簡単に思い浮かんだ。

「そんなにイヤなの? 似合いそうだけど」

「イヤというか……。バリスタには興味あるんですけど、兄と一緒に店やるのだけは御免被りたいんです。野郎同士で仲良し兄弟って、なんか気持ち悪くないですか? ムサいというか」

 どうやら彼は、〝ブラコン〟だと周りから冷やかされるのがイヤなようだった。わたしには兄弟・姉妹がいないため、その感覚がよく分からなかった。

「どうなのかなぁ……。わたしはひとりっ子だから、兄弟の関係がどうとか分かんないけど。仲がいいのはいいことだとは思うな」

「……まぁいいですけど」

 彼はムスッとしたまま、水を張った洗い桶にカップと湯呑みを浸け、洗剤を泡立てたスポンジで洗い始めた。
 わたしは彼がすすいだ食器をクロスで拭いて、食器棚にしまうのを手伝おうと、水切りカゴの前で待っていたのだけれど。

 ――不意にわたしのジャケットの右ポケットで、スマホが震えた。

「……ちょっとゴメンね、電話みたい。――ん? この番号って」

 どこかで見覚えのある番号、と思ったら、その日に教わったばかりの悠さんの携帯番号だった。

「――もしもし、悠さんですよね? 先ほどはどうも。――あの、どうなさったんですか?」

 素早く通話ボタンを押し、わたしは応答した。
 一体何のご用件だろう? 忘れ物でもされたのかしら? ――わたしには、彼がわざわざわたしのスマホに電話してきた理由が思い浮かばなかった。

 そして、その隣では発信者がお兄さまだと知って、彼が(ぶっ)(ちょう)(づら)で立っていた。

『ああ、絢乃ちゃん。まだ仕事中だろ? ゴメンな。――いや、別に大した用件じゃねえんだけどさ、さっき訊き忘れたことあって』

「訊き忘れたこと?」

『うん。――あのさ、絢乃ちゃんって誕生日いつ? もうすぐだってのは、アイツから聞いてんだけど』

 ……ああ、なんだそんなことかと、わたしは脱力した。

「三日です。四月三日」

『四月三日かぁ。んじゃ、あと一週間ちょっとだな。ありがと。――悪いけど、貢に代わってくれる?』

「えっ? ……はい。――お兄さまが、貴方に代わってほしいって」

 わたしがスマホを差し出すと、彼は受け取るなり電話に向かって噛みついた。

「オイ兄貴っ! そんな用件でわざわざ会長の携帯にかけるくらいなら、最初っから俺に電話しろよ!」

『だってさぁ、絢乃ちゃんの誕生日、お前に訊くワケにいかねぇじゃん? やっぱ本人に訊かねぇとさぁ』

「あー……、まぁなあ。そうだけど」

 彼は完全に悠さんのペースに引っぱられ、いつの間にか毒気を抜かれていた。

『だろ? っつうワケでさ、お前、プレゼントちゃんと考えてやれよ? 今回は失敗(しく)んじゃねぇぞ。お前の物選びのセンス、めちゃめちゃ悪ぃもんな。いつだったか、彼女にドン引きされてたじゃん?』

「やかましいわっ! つうか、絢乃さん横にいんだぞ? そういう話はやめてくれ!」

 彼は小声でまくし立てていた。兄弟ゲンカは非常に微笑ましいのだけれど、わたしに聞かせたくない話なのだろうかと、わたしは小首を傾げていた。

『お前、いい加減センス磨けや。あっ、何ならオレも一緒に選んでやろうか? この兄ちゃんに任せなさい♪』

「遠慮被るよ。確かに兄貴の物選びのセンスはピカイチだし、女性のツボもちゃんと心得てるけど。絢乃さんが兄貴に心変わりしそうでコワい。……あ」

『〝あ〟?』

 不用意な発言をしてしまったことに気がついた彼の顔には、ハッキリと「ヤベぇ」と書いてあった気がする。
 彼はしきりに、わたしにペコペコと頭を下げていたけれど、わたしは苦笑いしつつ、言ってしまったことは仕方ないと肩をすくめて見せた。

『心変わりって……。お前、ついに絢乃ちゃんの彼氏になったのか! よかったなぁ!』

「……うん。そうなんだよ、あの後すぐに、めでたく両想いになってさ」

 お兄さまにそう話す彼は、満更でもなさそうだった。 

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