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会長としてすべきこと。 ①

 ――初めて恋をした相手である彼と、やっと両想いになれたわたしだけれど、交際を始めるにあたり、ひとつだけ彼に言っておかなければならないことがあった。

「――桐島さん、ひとつ、貴方にお願いがあるんだけど」

「はい。何でしょうか?」

「わたしたちが交際を始めること、社内では秘密にしておいてほしいの。……一応、ママと里歩は知ってるんだけど」

 別に、わたしと彼との関係は不倫でも何でもないし、法に触れるわけでもなかったのだけれど。前にわたし自身が気にしていたことを、彼にも打ち明けた。

「……なるほど。了解しました。今はマスコミやメディアだけじゃなく、どこの誰でも気軽に情報を発信できる時代ですからね。ましてや、絢乃さんは僕と違ってセレブですから。社員が何気なくSNSで発信した情報が、どこからマスコミに流れるか分かりませんもんね」

「〝僕と違って〟は余計だけど。余計な噂流されたり、冷やかされたりしたら貴方だって仕事がしにくくなるでしょ? だから、オフィス内ではなるべく恋愛モードは封印するようにしましょう」

「そうですね」

 よくよく考えれば、この会話だって社内の他の人に聞かれれば(あや)うい内容で、わたしたちはこれだけでも危ない橋を渡っていたと思うのだけれど。幸いにも、この間は誰ひとりこの部屋を訪ねてこなかった。

 そして、この時のわたしには、彼のために解決してあげなければと思っていた由々(ゆゆ)しき問題がひとつあった。

「――ところで、貴方が半年前まで受けてたっていうパワハラのことだけど。被害に遭ってたのは貴方だけだったの? それとも、島谷さんは他の社員にも同じような嫌がらせをしてた?」

 わたしは会長として気持ちをサクッと切り換え、彼に向き直った。

「多分、他の人も被害に遭ってたと思います。僕が気づかなかっただけで……。島谷課長は外面(そとづら)がいいので、他の部署の人や役員の人たちがお分かりにならないところで(こう)(みょう)にやってたんだと思うんです」

「そう……。許せないわね。この組織のトップとして、この問題は見過ごすわけにいかないわ」

「他の人たちも、泣き寝入りしてたわけじゃないと思うんですけど……。労務担当の人に相談しても、課長本人は知らず存ぜずで押し通してたでしょうし、確かな証拠もないのでうやむやになってたんでしょうね」

「なんてこと……。ますます許せない!」

 わたしは憤りを隠せなかった。
 島谷課長が彼を苦しめていたことはもちろん許せなかったけれど、それはあくまで個人的なこと。彼以外の社員まで被害に遭っていて、しかもほとんど泣き寝入りのような状態になっていたというのは、これはもうこのグループのトップとして、絶対に捨て置くことができない問題だった。

 とはいえ、ことはすでに会社全体の問題で、わたし個人が島谷課長のところへ怒鳴り込みに行ったところで何の解決にもならないのは分かっていた。

「……桐島さん。わたし、ちょっと出てくる」

「は!? 会長……! まさか、今から総務課に怒鳴り込みに行かれる気じゃ……。行っても何も解決しませんって! おやめになった方が――」

「違うわよ。人事部の山崎さんのところ。パワハラの件、労務へ相談してるなら、当然彼のところへも報告が上がってるはずでしょ?」

 彼は何を勘違いしたのか、わたしを引き留めようとしたけれど。わたしは至って冷静だった。

「わたしは会長として、そして貴方の恋人として、わたしにしかできないことをするわ。じゃあ、行ってくるね!」

「……分かりました。行ってらっしゃいませ」

 彼は納得してくれたらしく、恭しくわたしに頭を下げて見送ってくれた。

****

 ――人事部は、三十階にある。そして、人事部長である山崎さんは、自身の執務室を持っていた。

 わたしはエレベーターで三十階まで下りると、人事部長室の前のデスクにいる女性秘書に声をかけた。
 彼女は三十代初めくらいだったろうか。彼の秘書室の先輩にあたる女性だった。

「お疲れさま。山崎さん、いらっしゃるかしら?」

「あっ、会長! お疲れさまです! ――ええ、いらっしゃいますよ。お声がけ致しますので、少々お待ちください」

 彼女はわたしに断りを入れてから、人事部長室のドアをノックした。ちなみに、この部屋のドアも木製だけれど、会長室ほどの重厚感はない。

「――山崎部長、今よろしいでしょうか。会長がいらしてますが……」

「会長が? ――分かった。入って頂きなさい」

 室内から、渋い男性の声で返事があった。この声の主は、紛れもなく山崎さんだった。

「――どうぞ、お入りください」

「ありがとう。失礼します」

 彼女がドアを開けてくれたので、わたしは遠慮なく入室した。

「これは会長! こんな時間にどうされたんですか? ――どうぞ、おかけ下さい」

 彼は椅子から立ち上がった状態でわたしを迎え入れてくれて、応接スペースの黒い革張りのソファーを勧めてくれた。

「ありがとうございます。――ごめんなさいね、終業時間の間近に突然おジャマしちゃって。貴方にちょっと急ぎの話があったものだから」

「急ぎのお話……ですか。――君、会長にお茶を。コーヒーの方がよろしいですか?」

 彼は続いて入室してきた女性秘書に、お茶汲みを命じたけれど。

「ああ、いいの。すぐに終わるから、どうぞお構いなく」

 わたしはそれをやんわりと断った。彼女を傷付けないように、それでいて山崎さんのプライドも傷付かないように、慎重に言葉を選んだ。

「失礼します」と言って、秘書の女性が退出していくと、わたしは山崎さんに本題を切り出した。

「――山崎さん。半年前にあった、総務課でのパワハラの件なんですけど。こちらの労務担当に相談があったんですよね? 山崎さんにも報告上がってます?」

「どうでしたかね……、半年も前のことはちょっと。確認しますので、少々お待ち頂いてもよろしいですか?」

 彼はソファーから立ち上がり、デスクのパソコンに向かった。
 社員からの相談を受けた場合は、その内容が部長にも共有されているらしいと、わたしも生前の父から聞いたことがあった。
 
 しばらくして、彼はプリンターから吐き出された数枚の紙を手に、私の元へ戻ってきた。

「――えーと、……ああ、ありました。これですな。総務課所属の社員ほぼ全員から相談を受けていたようですが、島谷課長がその事実を認めなかったので、結局はウチの労務担当も何の対策もできんかったようです」

「ほとんど……、全員から……」

 わたしは愕然とした。これはもはや、我が〈篠沢グループ〉の汚点というか、(うみ)と言っても過言ではなかった。

「……ねえ、その中に、桐島さんからの相談もあったんですか?」

 わたしは山崎さんに、この件を知ったのは彼の身内のお話からだったのだと説明した。彼がパワハラのせいで、会社を辞めたいと思い詰めていたのだと。

「桐島くん……ですか? ……いえ、この中にはありませんねぇ。彼は相談に来ていなかったんじゃないでしょうかね」

「そう……ですか」

「彼の真面目さは、社内で評判になってますからね。きっとひとりで抱え込んでたんじゃないでしょうかねぇ。そこまで追い詰められる前に、ひとこと相談してくれたらよかったんですが」

「ええ……」

 山崎さんの言葉には、わたしもまったくの同感だった。
 幸いにも、彼はわたしと出会ったことで気持ちが楽になり、転属を決めてパワハラから解放されたけれど。もしもそうでなかったら……と思うと、わたしは心が痛んだ。

「――山崎さん。もうすぐ新年度も始まりますし、わたしは新入社員が入る前に、この問題は解決した方がいいと思うんですけど。明日の朝、ご都合はいかがですか?」

「大丈夫……だと思いますが。――ああ、会長室で会議を行いたいと?」

「そうです。この問題への今後の対応を、村上さんと三役会議で話し合いたいんです。――ちょっと待ってて下さいね」

 わたしはスーツの右ポケットからスマホを取り出して、彼に電話をかけた。内線電話でもよかったのだけれど、彼が山崎さんからの内線だと思ってビクビクするのではないかと思ったのだ。

『――会長、今どちらにいらっしゃるんですか?』

「人事部長室よ。山崎さんのところ。――急な話で申し訳ないんだけど、明日の朝イチで、三役会議をやるから。山崎さんは大丈夫らしいから、村上さんには貴方から連絡しておいてくれないかしら?」

『三役会議? ……ああ、例の件で、ですね』

「そう。お願いね。ご本人に繋がらなかったら、秘書の小川さんに伝えておいてくれて構わないから」

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