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遺言…… ①

 ――父は入院せず、通院によっての抗ガン剤治療を受けることになった。わたしの推測どおり、主治医の後藤先生の計らいで、父には自宅で最期を迎えてもらおう、ということになったのだそう。

 父曰く、

「会社にも、顔を出していいそうだ。具合が悪くなったら、後藤に連絡を入れることになってる」

 とのこと。わたしも最初は「大丈夫かな」と心配していたけれど、父は言い出したら聞かない人だったし、何より主治医の先生が許可してくれていたので、最後には折れることにした。

 父の病気と余命宣告のことを知った日の夜、このことを里歩に電話で話すと、彼女はこう言った。

「なんか、絢乃のお父さんカッコいいね。でも、あたしもその方がいいと思う。だって、この世に未練(のこ)して()ってほしくないもんね」

 父は仕事の鬼、というわけではなかったけれど、仕事をしている時には活き活きしていた。だから経営者として、会社を放り出して入院しているなんてきっと()えられなかっただろう。

 そして、わたしが彼への恋心を自覚したことについては。

「あらまぁ、やっぱりねえ。例の、パーティーで知り合ったイケメンさんでしょ? あたしもさ、絶対そうなるって思ってたんだよねー。そりゃあ惚れるよ。そういう時に優しくしてもらったら」

 と、思いっきり納得されてしまった。わたしは、里歩のことだからもっと冷やかしてくるだろうと思っていたので、ちょっと拍子抜けした。 

「でもさぁ、不謹慎じゃな~い? お父さんが大変な時に、っていうかそれが理由で恋に落ちちゃうなんて」

 里歩はその日の朝、わたしが登校中の電車の中で言ったことをちゃんと覚えていて、それを思いっきりツッコミとして返してきた。

「……いいでしょ、別に。それはただのキッカケだったんだから! もうその話は忘れて!」

 ちょっとばかりばつが悪くなったわたしは、顔を真っ赤にしてそう抗議するしかなかった。

****

 抗ガン剤治療を始めた父は、かなりつらそうだった。家でも食欲がガタっと落ちていたし、吐き気をこらえている姿をわたしは何度も見た。

「――パパ、大丈夫?」

 本当はつらかっただろうに、わたしが心配して声をかけると、父はその度に強がって「大丈夫だ。心配するな」とムリに笑顔を作ってそう言った。

「パパ、強がらないで。ホントはつらいんでしょう? できることなら、わたしが代わってあげたいよ」

 もう何度、そう言ったか分からない。

「ハハハ……、お母さんも同じことを言ってたな。――ありがとう、絢乃。お前の優しい気持ちは、ありがたくもらっておこう」

 父はその度に、あやすように泣きそうになっていたわたしの頭を優しくポンポン叩いてくれた。まるで、幼い頃のわたしにそうしてくれていたように。

「パパ……、わたしはもう小さな子供じゃないってば」

 膨れっ面で抗議したつもりが、泣きそうだったので湿っぽい声になってしまった。

「何を言ってる。絢乃はいつまでも、お父さんの可愛い子供だよ」

「……うん」

 死を間近に控えた父の言葉は、どれも重かった。わたしがこの(ひと)の娘でいられるのもあとわずかな時間なのだ――。そう思うと、しんみりしてしまうのもムリはなかった。

「ところで絢乃。好きな男はいるのか?」

「……えっ? どうしたの、急に」

 それまでに父と恋愛について話したことは一度もなかったので、わたしは面食らった。

「お前ももう十八になるだろう? 年頃だし、一人くらい、そういう相手がいるのかと思ってな」

「何言ってるの、パパ。わたしの誕生日まで、あと半年近くも――」

 そう言いかけて、わたしは気づいた。わたしの誕生日は四月三日。その頃にはもう、父はこの世にいないのだと。

「……ゴメンなさい。――好きな人ならいるわ。つい最近気がついたの。わたし、この歳で初めて恋をしてるの」

 わたしはその場で、彼のことを思い浮かべた。
 当時はまだ生まれたての小さな恋。これが大きな愛情で結ばれて、生涯の伴侶にまでなるなんて、まだ高校二年生だったわたしにどうして想像できただろう?

「そうかそうか。絢乃ももう、そんな歳になったんだなぁ……。絢乃、幸せになりなさい。絢乃のウェディングドレス姿、お父さんも見たかったな」

「……うん」

 ささやかな遺言のような父の呟きに、わたしはこらえきれなくなって鼻をすすった。

****

 ――今日という最高に幸せな日を迎えてなお、わたしに唯一悔いが残っているとすれば、今日のわたしの姿を生きている父に見てもらえなかったことだ。
 でもきっと、彼が言ったように、父はどこかでわたしのウェディングドレス姿を見て、喜んでくれていると思う。

 わたしは今日、彼の優しい一言で、やっと唯一の後悔から解放された気がする。
 やっぱり、彼を伴侶に選んでよかった。わたしの決断は間違っていなかったと、今なら胸を張って言える。

****

 ――彼とは父の闘病中、よく連絡を取り合っていた。
 彼は社会人で、わたしは当時高校生。生活スタイルも少し違っていたので、主にメッセージのやり取りだった。

 彼は会社での父の様子を、同じ大学の先輩だという会長付秘書・小川(おがわ)夏希(なつき)さんから聞いては、わたしに知らせてくれていた。
 わたしは家での看病についてや、日常での些細(ささい)な出来事を彼に送り、時々落ち込みそうになった時には彼に電話して、励ましの言葉をもらったりしていた。

 ある時、わたしから電話すると、彼は何だかすごく忙しそうだった。

「――どうしたの? 桐島さん、何だかすごく忙しそうだけど」

『ああ、すみません! ちょっと今、引き継ぎでバタバタしてまして』 

「引き継ぎ? 桐島さん、会社辞めちゃうの?」

 〝引き継ぎ〟と聞いて、イコール会社を辞めるという発想しかなかったわたしは、すごく驚いたけれど。

『……えっ? いえ。辞めませんよ。ただ近々、部署を異動しようと思ってまして。そのための業務の引き継ぎなんです』

「ああ、異動ね。なんだ、ビックリした」

 社内での転属だと聞いて、わたしは安心した。
 彼は篠沢で働くことに誇りを持っているし、退職するなんて考えられなかった。
 それに……、これは個人的にだけれど、わたし自身が彼に辞めてほしくないと思っていた。

「でも、どこの部署に転属するの? 総務課の仕事じゃ不満?」

『そういうわけじゃないですけど……、僕も覚悟を決めたといいますか。部署はまだ、絢乃さんには教えられませんけど』

「…………えっ? わたしに教えられないって、どういうこと?」

『それは……、今はノーコメントでお願いします』

「えーーーー……?」

 彼の言葉は謎だらけで、その時のわたしはただ首を捻るばかり。――その謎が解けたのは、父が亡くなった後だった。

 それにしても、その当時、わたしと彼はまだお付き合いどころかお互いの気持ちも知らなかったのに、まるで恋人同士みたいなやり取りをしていたのだなと今では思う。

 こうして男性とプライベートで交流を持つのは彼とが初めてだったのだけれど、初めてではないように、まるで恋愛にこなれた女性のように、彼とは打ち解けていられたのが不思議だった。

 今にして思えば、わたしに余計な気を遣わせないように、彼がわたしを(くつろ)いだ気持ちになるよう大人の対応をしてくれていたのだ。
 だから、わたしと彼との距離が縮まるのに、それほど時間はかからなかった。

****

 ――父がガンの闘病を始めて二ヶ月半ほどが過ぎ、篠沢家でもクリスマスイブを迎えていた。

 実は、わたしはそれまでは毎年、里歩と二人でお台場(だいば)までライトアップされたクリスマスツリーを見に行き、その近くで夕食を摂るのが定番になっていたのだけれど。

「――絢乃。今年はお台場のツリー、どうするよ?」 

 この年のクリスマス前には、彼女は「一緒に行こう!」ではなく「どうする?」という訊き方をした。もちろん、父と最期のクリスマスを過ごすことになるだろうわたしを、彼女なりに気遣ってくれたのだ。

「ゴメン! 今年はムリだわ。パパがあんな状態だし……」

 父がいつどうなるか分からない状態だったので、その年のわたしはクリスマスツリーを見に行くどころではなかった。
 でも、察しのいい彼女は、それで気を悪くした様子もなく。

「……だろうね。あたしも、今の絢乃ならそう言うと思ったんだぁ。じゃあさ、今年は絢乃ん家でクリパしない? パパさんにも参加してもらってさ」

 わたしが断ると、里歩は代替(だいたい)案としてそんな提案をしてくれた。
 家でのパーティーなら、わたしは外出する必要もないし、闘病中の父も気兼ねなく参加できる。――なかなかのグッドアイディアだとわたしも思った。

「ああ、それいいかも! さっそくパパとママに都合訊いてみるわ!」

 というわけで、わたしはその場で――まだ学校にいたのだけれど――、母にメッセージで里歩から聞いた話を伝え、クリスマスイブに家でパーティーをすることはできるのか訊いてみた。
 すると、母から来た返信はこうだった。

『そういうことなら大丈夫。パパもきっと喜んでくれるわ。
 イヴは我が篠沢邸でクリスマスパーティーね! 私も楽しみだわ!
 里歩ちゃんに、「ありがとう」って伝えておいてね。』

「――ママが、イブのパーティーは大丈夫だって。里歩に『ありがとう』って伝えて、って」

「えっ、ホント? オッケー! じゃあ、今年のクリスマスはそういうことで」

「うん。ウチのコックさんたち、張り切ってご馳走作ってくれると思う。ケーキも準備しなきゃ! わたしとママで作ろうかな……」

 実は、わたしは料理が得意で、学校での家庭科の成績もよかった。特にお菓子作りについては、スイーツ好きが高じて自分で作るようになり、腕もグンと上達したのだ。

「おっ、絢乃の手作りケーキかぁ。久しぶりだな……。アンタの作ったスイーツってどれも美味しいもんね。あたしも楽しみ♪」

 里歩も、わたしの手作りスイーツのファンの一人で、バレンタインデーには友チョコを交換いたりしていた。――彼女はあまり料理が得意ではないので、手作りではなく市販のチョコレートだったけれど。

「うん! 腕によりをかけて美味しいケーキを焼くから。楽しみにしてて」

 この年のクリスマスは、父と過ごす最期のクリスマスだった。わたしは里歩にはもちろん、父に自分の作ったケーキを食べてもらいたかったのだ。

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