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覚悟と恋の自覚 ⑤

 ――もうどれくらいの間、悶々としていたのだろう?
 窓の外が(あかね)色に染まり始めた頃、ベッドの上に座り込んでいたわたしは、まだ着替えていなかった制服のポケットでスマホが振動していることに気がついた。

 そういえば、マナーモードを解除することすら忘れていたのだということを、改めて思い出した。

 画面を確かめると、「桐島さん」との表示が出ていたので、わたしは迷わず応答ボタンをタップした。

「――はい、絢乃です」

『絢乃さん、桐島です。メッセージ、読ませて頂きました。「連絡してほしい」とあったので、お電話を』

「……えっ? 桐島さん、お仕事は――」

『もう就業時間は終わってます。今は車の中で、これから帰宅するところです』

 ハッとして腕時計で時刻を確かめると、夕方五時を過ぎていた。

「そっか……。もうこんな時間だったのね。全然気がつかなかったわ」

 いくらショックが大きすぎるあまり、思考が止まっていたとはいえ、時間の経過にまで気がつかなかったなんて……。わたしは自分でも信じられなかった。

『実は僕も、メッセージにはもっと早く気がついてたんです。本当はすぐにでも、それこそ仕事も放りだして連絡したかったんですけど』

「それはダメでしょう? お仕事はちゃんとしなきゃ」

『ですよね。そうおっしゃると思ってました』

 わたしがたしなめると、彼からそんな返事が返ってきた。こんなに緊迫した状況だったはずなのに、彼の言葉でわたしの気持ちは思わず和んだ。

『――そんなことより、絢乃さんのお父さまのことですよ。末期ガン……なんですって? それはショックだったでしょうね』

「うん……。ママからの電話で聞いた時、わたし、目の前が真っ暗になったわ」

 この時は、わたしは泣かなかった。でも、声は沈んでいたらしく、彼は電話越しにうんうんと相槌を打ち、「お気持ち、お察しします」と言ってくれた。

『泣かれたのは、ショックだったからですか?』

「それもあるけど……、パパの苦痛を思うと苦しくなって。あと、自分がその苦しみを代わってあげられないことがもどかしくて」

 普通は逆だと思う。子供が大病を患った時に、親が「この子の病気を自分が代わってあげられたら……」と心を痛めて泣くものだ。
 でも、そうしたいと思う権利は、子供の側にもあるのではないだろうか。――わたしはそう思ったのだ。

『うん、なるほど。お父さまのことを思って泣かれるなんて、絢乃さんは優しいですね。そんなお嬢さんに恵まれて、会長は幸せな方だと思います』

「……えっ? そうかしら」

『はい。多分、口ではおっしゃらないでしょうけど、心の中ではいつも感謝されてると思いますよ』

「そう……」

 父の愛情表現は、時々分かりづらかった。元々が照れ屋な性格だったから、というのもあったのかもしれない。だから、父がもし本当にそう思っていたとしても、彼のこの言葉がなければわたしは気づけなかったと、今は思う。

『――それで、お父さまは今、どうなさってるんですか? 今後の治療方針とかは聞かれました?』

「ううん、それはこれから聞くけど。一応、今日は家に帰ってきてるから、すぐに入院ってことにはならなかったんだと思う。先生はパパのお友達みたいだから、パパの意思を尊重したかったんじゃないかしら」

 死期が迫っているのなら、医師は最期(さいご)の瞬間まで患者の好きなように過ごさせてあげたいと思うものなのかもしれない。

『そうですか……。でも、「あと三ヶ月しかない」と悲観するよりも、「あと三ヶ月は一緒にいられる」って前向きに考えた方が、絢乃さんも気持ちが楽になるんじゃないですか? 三ヶ月もあれば、お父さまにして差し上げられることもまだまだたくさんありますし。最期には()いも残さずに、見送って差し上げられるじゃないですか』

「……うん。そうね。わたしも、パパには悔いを残してほしくないもの」

 わたしがそう答えると、彼も「そうでしょう?」と同意してくれた。

『僕が絢乃さんにして差し上げられることなんて、こうしてお話を聞くことくらいですけど。それでもよければ、またいつでも連絡して下さい。それで、絢乃さんのお気持ちが楽になるんでしたら』

「ええ。ありがとう、桐島さん。――それじゃ、また何かあったら連絡するわ。じゃあ、失礼します」

『はい。じゃあまた』

 彼は律儀(りちぎ)にちゃんと一言答えて、電話を切った。

 彼と電話で話したことで、わたしの心はだいぶ落ち着いた。

 彼の口調は穏やかで優しくて、温かくて。まるでお日様のような包容力がある。この後も、今だって、わたしは彼のこの温かさにどれだけ救われてきたか分からない。

 彼の言葉をもっと聞いていたい。彼の笑顔が見たい。――わたしはこの日から、どれだけそう思ったことだろう。

 わたしは読書が好きで、恋愛小説もよく読んでいたから、この時にピンときた。「これが恋なんだ」と。……まだ、()っすらではあったけれど。

 そして、その時のわたしの心には、彼の言葉がジーンと響いていた。
「あと三ヶ月」と悲観するよりも、「あと三ヶ月は父と一緒に過ごせる」と前向きに考えた方が気が楽になる。――なるほど、確かにその通りだと。

 この事実を知って、一番ショックを受けていたのはわたしではなく、父と母だったのだ。でも、すぐに事態が急変するというわけではなく、三ヶ月という猶予(ゆうよ)があった。
 だったら、その三ヶ月という猶予をどう使えばいいか。ただただ悲しみに暮れて泣き暮らすのか、父が悔いを残さないために有効に使うのか。それを、彼はわたしに教えてくれたのだと思う。

 わたしは今でも、彼に感謝している。この言葉のおかげで、わたしも母も、悔いを残すことなく父を天国へと見送ることができたのだから――。

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