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父の誕生日 ①

 ――その日は父・源一の四十五歳の誕生日だった。グループの本社・〈篠沢商事〉の大ホールを貸し切り、父のバースデーパーティーが盛大に行われていた。

 和・洋・中華・エスニックなどの料理がビュッフェ式で並べられ、アルコールも提供されていた。全国のグループ企業から、管理職以上の人たちが招待されていて、その人数たるや相当な数になっていた。

「――んもう! パパったら、どこに行ったんだろう?」

 当然ながら、身内なので母と一緒にパーティーに出ていたわたしは、あの時一人で会場内を駆け回っていた。一人でフラフラとどこかへ行ってしまっていた、当時すでにあまり体調のすぐれなかった父を探すために。

 膝下丈の、淡いピンク色のパーティードレスは裾がジャマで走りにくかったし、ヒールの靴で転ぶのも怖かったので、「走る」というより早歩きに近かったけれど。

「どこかでひとりで倒れてたらどうしよう……。なんか心配だわ」

 一度立ち止まり、辺りをキョロキョロと見回す。――その時だった。彼の存在に気がついたのは。

 彼が明らかに会場内で浮いているなと感じたのは、彼ひとりだけがものすごく若かったから。

 着ていたのはグレーのスーツだったけれど、まだ着慣れない感じが見て取れた。多分、入社して五年も経っていないんじゃないか……。わたしはそう推測したのだ。

 それともう一つ、管理職以上の人ばかりがいる中で、彼は腰が低かった。当時、ウチのグループにこんなに若い管理職はいなかったはずだし、彼は何だか居心地も悪そうだった。

 何より、あの会場で自分にもっとも歳が近そうな彼に、わたしが親しみを感じたのも事実だった。
 嬉しくなったわたしがニッコリ微笑んで会釈(えしゃく)すると、彼も丁寧にお辞儀を返してくれた。

 ……この人、とっても感じがいいな。わたしはすぐ彼に好印象を持った。これが〝恋〟の感情なんだと知ったのは、この数ヶ月あとだったけれど。

「――あっ、いけない! パパを探してる途中だったんだ!」

 わたしは彼をもっと見ていたいという誘惑を頭の中から払いのけ、再び広い会場内を早歩きで移動し始めたのだった。

 その時、母がさっきの彼と何か話している光景がわたしの目に飛び込んできた。
 母は彼を楽しそうにからかっているようで、それに対して彼は何だか(きょう)(しゅく)した様子で、母にペコペコと頭を下げていた。

「ママ、あの人とどんな話してるんだろう……?」

 二人の様子も少し気になったけれど、その時の優先順位は父を探すことの方が上だったので、その疑問はとりあえず頭の隅っこに追いやった。

「――あっ、いた! パパー!」

 その少し後、わたしはバーカウンターにもたれかかっている父の姿を見つけた。

「絢乃、どうしたんだ? そんなに血相かえて」

「どうした、じゃないでしょう? パパのことが心配だったの! 最近、具合悪そうだし、食欲もないみたいだから……」

 そう言いながらカウンターの上にチラリと目を遣れば、ウィスキーの水割りが入ったグラスが。

「お酒……飲んでたの? ママに止められてるのに」

「安心しなさい、絢乃。これで()()一杯目だから。誕生日くらいいいだろう、大目に見てくれ」

「もう、パパったら!」

 わたしは心配をかけた父に怒ってもいたけれど、わたしや母の前では子供みたいにダダをこねる父が憎めなくて、ついつい笑ってしまった。
 これでオフィスにいる時には、堂々たる経営者の風格をたたえているのだ。そんな父のギャップを見られるのは、家族である母とわたしだけの特権だった。

「仕方ないなぁ……。じゃあ、それ一杯だけでやめてね? ママもそれくらいなら許してくれると思うから」

「ああ、すまないな。絢乃もいつの間にか、こんなに大人になったんだなぁ」

「パパ、わたしまだ高校二年生なんだけど」

 わたしはそうツッコミを入れたけれど、多分父が言いたかったのはそういうことじゃなかったと思う。
 父に説教ができるくらい、成長したと言いたかったのだ。

 ちなみに、その時わたしが高校二年生だったというのは事実である。
 わたしは初等部から、(はち)(おう)()市にある私立(めい)(おう)女子学院に通っていた。
 女子校に入ったのは父と母に決められたことではなく、わたし自身の意思だった。「制服が可愛いから」というのがその理由である。

 父も母も、わたしの教育に対して厳格(げんかく)ではなかった。どちらかといえば、「お嬢様だから箱入り娘」という考え方はナンセンスだと思っていたようだ。世間のことは、ちゃんと知ってほしいという考えだったのだと思う。

 その証拠に、両親はわたしの意思をちゃんと尊重してくれて、わたしが「やりたい」と言ったことには何でもチャレンジさせてくれた。学校へも電車で通学していたし、放課後に友達と買い物を楽しんだり、カフェでお茶をしたりといったことも禁止されなかった。

 だから、わたしはのびのびと学校生活を送ってこられた。習いごとを押し付けられることもなく、でもわたしが「これ習いたい!」と言えば、希望は叶えてくれていた。

 ――それはさておき。

「――あら、あなた。こんなところにいたの。……まあ! お酒はダメって言ったじゃない!」

 父とわたしで楽しく談笑していると、母がやってきて開口一番で父の飲酒を(とが)めた。

「あなた、体調があまりよくないんでしょう? それなのに飲酒なんて――」

「ママ、そんなに目くじら立てないで。今日はお誕生日なんだから、それくらい許してあげて」

 わたしは父の肩を持った。特にファザコンというわけでもなかったのだけれど。

「ね? お願いママ!」

「…………しょうがないわねぇ。ここは絢乃に免じて、許します。ただし、その一杯だけにして下さいね?」

「分かった。加奈子、君にも心配をかけてすまないね」

「ありがとう、ママ!」

 父は母に頭が上がらなかった。それは父が結婚前、〈篠沢商事〉の営業部の社員だったから。
 営業部の部長の勧めで、父は当時会長令嬢だった母とお見合いし、その日にすぐ意気投合したそうだ。結婚を決めるのに、それほど時間はかからなかったと聞いた。

 でも、政略結婚ではなくてちゃんと愛のある結婚だったので、父は母のことを本当に愛していたと思うし、わたしのこともすごく大事に思ってくれていた。わたしたち親子三人は幸せだった。
 
 この二人の娘に生まれてきて本当によかった。わたしは今でも胸を張ってそう言える。
 父のことが大好きだったし、尊敬もしていたから、わたしも幼い頃から自然と父の後を継ぎたいと思うようになっていた。

 ――そんな幸せな時間は、その後すぐに崩れ去った。

****

 ――ガタン! 

 父が座っていたバーカウンターの椅子が、突然音を立てて倒れた。すぐ(そば)には、父が真っ青な顔で(うずくま)っていた。

「パパ!? どうしたの!?」

「あなた、大丈夫!?」

 わたしと母が驚いて呼びかけると、父はあまり大丈夫そうではない声で「大丈夫だ」と答えた。

「少し目眩(めまい)がしただけだ。本当にすまない」

 そのまま父はヨロヨロと立ち上がろうとしたけれど、足元に力が入らないのか一人ではなかなか立ち上がれなかった。

「……あれ? おかしいな」

「あなた、立てる? 私の方につかまって、ほら」

「ああ……。加奈子、本当にすまないな」

 母に支えられながら、父はやっと立ち上がることができた。でも、父は明らかに具合が悪そうで、もうパーティーどころではないなとわたしも母も思った。

「パパ……、今日はもう帰って休んだ方がいいよ。そんな具合じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ」

「そうね。私もそう思うわ。あなた、帰りましょう? すぐに迎えを呼ぶから」

「ああ、そうだな。申し訳ないがそうさせてもらおうか」

 母は我が家のお抱え運転手に迎えに来るよう連絡してから、わたしに言った。

「絢乃、申し訳ないんだけどあなたはここに残って。主役のパパがいなくなったら、ここにいる人たちは混乱すると思うの。あとでちゃんと連絡するから、九時になったら、あなたはパパの代わりにパーティー終了の挨拶をしてくれる?」

「うん、分かった。二人とも、気をつけてね」

 ――それから十数分後に、運転手の寺田(てらだ)さんが会場に現れた。

「旦那さま、奥さま! 急いでお迎えに上がりました! 一体どうなさったんですか?」

「寺田、悪いわね。この人、具合が悪くなって倒れたの。私はこの人と一緒に帰るわ。一緒に車に乗せるの手伝ってくれないかしら」

「ああ、はい。かしこまりました」

 父は()せていたけれど、それでも女性である母一人で駐車場まで抱えて連れて行くのは不可能だったと思う。

「お嬢さまは……、ご一緒にお帰りにならないので?」

「わたしはここに残ることになってるの。寺田さん、パパとママのことお願いね」

「かしこまりました」

 体調の悪い父と、それに付き添う母を乗せた黒塗りのリムジンは、夜の(まる)(うち)の闇に消えていった――。

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