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父の誕生日 ②


****

 ――それから一時間ほどが過ぎた。

 わたしは母に頼まれたとおりにパーティー会場に残り、それまでの間に招待客であるグループ会社の役員や管理職の人たちに、父が体調を崩して早めに帰宅したことを伝えた。

「それでも、大したことはないと思うので心配なさらないで下さい」

 わたしは本心からそうは思っていなかったものの、彼らを安心させるためにそう言った。
 それに納得してくれる人、「本当なのか」とわたしに詰め寄る人、「お大事に」と言葉をかけてくれる人……。反応は様々だった。

 その対応にも少し疲れてきて、わたしはテーブルについて料理に手をつけ始めた。とはいってもあまり食欲はなく、父の容態が心配なこともあって美味しいはずの料理の味もほとんど分からなかった。

「――ママからまだ連絡ないなぁ……。パパ、大丈夫かな」

 そのあと、テーブルについたままオレンジジュースを飲みながらスマホを気にしていると……。

「失礼ですけど、絢乃お嬢さん……ですよね?」

 すぐ側で、若い男性の声がした。私はすぐに反応して、声のした方に顔を上げた。
 とはいっても、この会場には若い男性は一人しかいなかったはずなので、わたしは声の主が誰なのかすぐに気がついたのだ。

「えっ? ……ええ、そうだけど。――貴方はさっきの……」

「はい。僕は〈篠沢商事〉本社総務課の、桐島貢っていいます」

 彼は丁寧に名乗ったあと、向かいの席に座ってもいいかどうか訊ねた。わたしが「どうぞ」と促したので、失礼します、と席についた。

「桐島さんっていうのね。……えーっと、わたしの名前はどうして知ってるの?」

 わたしと彼――貢はその少し前に目礼を交わしただけで、お互いの自己紹介もしていなかったのに。

「ああ、先ほどお母さまから(うかが)いました。お嬢さんは高校二年生だそうですね」

「ええ。茗桜女子学院の高等部二年生よ」

「そうですか、茗桜女子ですか……。あそこって名門の女子校ですよね」
 
「そうらしいわね。わたしはあんまり気にしてないけど」

 わたしが通っていた学校は、世間では〝名門お嬢さま学校〟として有名らしい。でも、わたし自身はそこに在籍していたことを鼻にかけたりしなかった。
 たとえ名門校に通っていても、自分は普通の女子高生なのだと思いたかったから。

「――ねえ。貴方、総務課って言ってたよね? 今日、総務課の課長さんは?」

 父が招待していたのは、彼の上司である課長だったはずだけれど。

「はあ、課長は今日、急用ができて出席できなくなったとかで。僕が急きょピンチヒッターで出席することになりまして」

「そうなの。……うん、確かに貴方、頼まれたら断れないタイプに見えるわ」

 貢の第一印象は、はっきり言って〝お人()し〟の典型だった。きっと真面目な性格のせいで、職場でも苦労させられていたのだろう。

「でもね、桐島さん。どうしてもイヤな時にはちゃんと断らなきゃ。パワハラに苦しめられてるなら、労務に相談した方がいいと思うの」

「はい、そうですね……。でも、今日はむしろ出席してよかったと思ってます。絢乃お嬢さんや加奈子さんとお話しする機会なんて、こういう場でもなければめったにありませんし」

「…………そう」 

 今思えば、貢のその言葉は口説(くど)き文句だったのかもしれない。当時のわたしは恋愛未経験だったので、気づかなかったけれど。

「――そういえば、お父さまは大丈夫ですか? さっきお倒れになったでしょう?」

 彼は先刻までの明るい表情から一変して、深刻そうな顔でわたしにそう訊ねた。

「ええ、そうなの。母に付き添われて、早めに帰ったんだけど……。パパは最近、具合が悪そうだったからわたしもママも心配してて。でもまさか倒れるくらい悪かったなんて……」

 彼がただの興味本位ではなく、心から父の容態を案じてくれていると分かったので、わたしも素直に胸の内を彼に吐き出した。

「『家に着いたら連絡する』ってママ言ってたのに、あれから全然連絡もなくて……。パパの具合、そんなに悪いのかな……」

 わたしの(けわ)しい表情を見たからだろうか、貢がおそるおそる口を開いた。

「それは心配ですね……。あの、僕のような平社員がこんなこと申し上げるのも差し出がましいとは思うんですけど……」

「なぁに? 言ってみて」

「お父さまには、ちゃんと病院にかかって頂いた方がいいと思います。できれば、精密検査も」

「え……?」

「もしかしたら、命にかかわる病気かもしれないでしょう? だったら、発見も一日でも早い方がいいと思うので」

 〝命にかかわる病気〟――。その一言は、その時のわたしに特大のショックを与えた。
 そしてそれは、この後すぐ現実になってしまった。

「……分かったわ。ありがとう。パパにはわたしから話をしておく。わたしの言うことならパパも耳を貸してくれると思うから」

「はい」

 わたしはワガママで自己中なお嬢さまにはなりたくなかった。彼だってきっと、こんな提案をするのは心苦しかったと思う。それでも、父のことを思って言ってくれたから、わたしは素直に聞き入れることにしたのだ。

「――絢乃お嬢さん、デザート召し上がりませんか? さっき見た時、ビュッフェテーブルに美味そうなフルーツタルトがあったんですけど」

「そう言うってことは、ホントは貴方が食べたいんじゃない? 桐島さんって甘いもの好きなのね」

 わたしはからかったつもりだったけれど、それは図星だったらしい。彼は気恥ずかしそうに、頬をポリポリ掻いていた。

「ハハハ……、バレちゃいました? 実はそうなんですけど、男ひとりで食べるのは勇気が要るんで……」   

 父が倒れた後で不謹慎だったけれど、わたしは彼と一緒にいると何だか気持ちが(なご)んでいくのが分かった。
 やっぱりわたしは、この夜から彼に惹かれていたのだと思う。

「じゃあ……、わたしもお付き合いしましょうか」

 食事は喉を通らなかったけれど、スイーツは別腹だろうと、わたしも彼オススメのフルーツタルトを頂くことにした。

「――お嬢さん、どうですか? 美味しいでしょう?」

「うん、美味しい! これなら食べられそう」

 一口食べて、わたしは顔を(ほころ)ばせた。サクっとしたタルト生地の上に載っているフルーツはどれも瑞々(みずみず)しくて、カスタードクリームもコッテリしすぎていなくて、すごく食べやすいスイーツだった。

「ところで桐島さん。わたしのことを『お嬢さん』って呼ぶの、いい加減やめてくれないかしら?」

 わたしの名前は〝絢乃〟であって、〝お嬢さん〟という名前ではない。それに、〝お嬢さん〟という呼ばれ方は、特別扱いを受けているようでわたし自身がキライだったのだ。

「……すみません。分かりました。じゃあ……、〝絢乃さん〟ってお呼びしてもいいですか? ちょっと()れ馴れしすぎでしょうかね?」

 彼は提案してから、オドオドとわたしの反応を(うかが)っているようだった。

「うん、ぜひそう呼んで。馴れ馴れしいなんて思わないで? 貴方の方が年上なんだから」
 
 彼は年上だけれど、わたしはもっと彼との距離を縮めたいと思っていたのだ。

 ――二人で楽しくデザートを頂いてから、そろそろ三十分が経とうとしていた。

 クラッチバッグの中でスマホが短く震えた。メッセージが受信したという合図だ。
わたしは淡いピンク色の手帳型のスマホケースを開いた。

「……あ、ママからだわ」

〈パパはもう部屋で休んでます。九時になったら解散の挨拶をよろしくね。お客様たちのお帰り用ハイヤーは、こっちで手配しておいたから〉

 メッセージに書かれていたのは、たったそれだけだった。父の具合も、わたしが帰る時に迎えを寄こしてくれるのかどうかも、何も書いていなかった。 

「ママ……、わたしはどうやって帰ればいいのよ」

 わたしが漏らした呟きは、果たして彼の耳に入っていたのかどうか。

「お母さまからですか?」

「ええ。九時になったら解散の挨拶をよろしく、って。あと、お客様たちの帰りのハイヤーは手配済みだって」

 さすがは当主で、元教師だ。手回しがいい。……ただ、どうして娘のことは案じてくれないのか、わたしは(はなは)だ不満ではあったけれど。

「――ああ、もうすぐ九時になりますね。少し早いですが、そろそろ」

 腕時計に目を遣りながら、彼がわたしを促した。主役のいないパーティーは、早く終わらせた方がいい。
 というか、本当は父が帰宅した時点で終わらせるべきだったのだ。

「そうね。じゃあ、行ってくるわね」

 わたしも、母から頼まれた仕事から一分でも早く解放されたかった。
 ステージの壇上に立ち、スタンドにセットされたマイクを手に持つと、わたしは深呼吸をしてからスイッチを入れた。

『皆さま、本日は父のためにお集まり下さいまして、本当にありがとうございます。わたしは篠沢源一の娘で、絢乃といいます』

 解散の挨拶って、何を言えばいいんだっけ? ――わたしは頭の中が真っ白になった。
 しかも、主役がいないことを伝えたうえで、この会場にいらっしゃるお客様たちの機嫌を損ねることなく、気持ちよくお帰り頂くにはどういたらいいのか。当時高校生だったわたしには、この仕事は無理難題に近いものだった。

『……えー、皆さまもお気づきかもしれませんが、本日の主役である父は、体調を崩して早めにここから引き揚げさせて頂いております。予定より早くはなりますが、このパーティーはこれでお開きとさせて頂きたいと思います』

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