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夢の中で物語は進行してゆく

ツバサさんとの打ち合わせプラス魂の滋養を兼ねた話し合いを終えて、編集室に戻ってから席に着くと、同僚の立花道子が私の両肩に手をのせて、揉み揉みした。
「みつきさん、お仕事ご苦労様です。ツバサさんとの交流はどうでしたか?」
「そうね、彼女、日増しに成長している。私が褒める分際じゃないけれどね。なにか心を揺さぶられる映画を一本見たって気がする。そう、映画、私たちって不可思議な流れに乗って泳ぎまくっている、そんな感じがするんだ」私はデスクに置かれたノートパソコンを起動させた。
「そうですよね。私たちってまるで夢の世界を漂っているだけの存在なんですから。だからなるべく楽しまなくちゃ。できるだけ物語に没入して様々なストーリーを構築して喜怒哀楽を経験していく。それが人生ですよね」立花道子は愛嬌のある表情で私から離れて行った。私はノートパソコンでメールをチェックする。私が受け持っている作家のうち、二十代の新人と呼べそうな人が多い。ちょうど私の五歳くらい年下といってよいだろう。可愛い弟や妹といった感じだ。心から彼女らの成功を願っている。まだ一歩先に何が見えているのかわからないといった、方向性が見つからない人が多く、でも、そう言ってしまえばどんな作家にも当てはまりそうな感じだろう。そう、人は自分はいつの日か死ぬと分かっているくせに、そのことを、重大なことなのに忘れたふりをすることが上手にできるという面白い種族だ。そんな人たちに衝撃的なパンチを喰らわしたい。そう、あたかも今この瞬間に自分が死ぬかもしれないんだと思わせること。微かな生きたいという心の底から沸き上がってくる衝動、それを味わわせたい。メールをチェックしていると、我が社の出版社からデビューしたばかりの新人の作家、瞳さんのメールが目に入った。
『どうもこんにちは、瞳です。いつもお世話になっています。相談があってメールしました。なかなか自分の文章について自信がもてなくて停滞しています。なにかいいアドバイスがないでしょうか、もしよかったらお会いできないですか、この頃外出することもなくて、いつも家に引きこもっています。連絡待っています。では』
新人作家にはよくある悩みだ。自分の書き出す言葉に自信がもてない。いや、それを言うならば全ての作家にとって宿命といえる問題だろう。私は瞳さんに返信した。
『どうもこんにちは。お気持ち理解できますよ。なかなか難しいですよね。明日でよかったら自宅までお伺いします。瞳さんに会いたいと思っていたところです。何時ごろがご都合がいいですか?連絡待っています』私はメールを打ち終わると編集室にある自販機でコーヒーを買って自分の席に座って飲みながら瞳さんの返信を待つことにした。直ぐにスマホにメールの着信をつげる振動が鳴った。瞳さんからだった。
『どうも瞳です。お気遣いありがとうございます。明日の午前十時頃でどうでしょうか?お待ちしています』私は返信をして、十時に行くことを告げた。
編集室から窓に近づいて外を眺めた。とても爽やかな天気で思わずほっこりしてため息が出た。私は生きている。なんだかそんな気持ちになってとても清々しく幸せに感じた。周りを見るとみんな席に座って一生懸命に仕事をしている。潤子は今、何をしているのだろう。そんな思いがよぎった。横須賀から東京に来て本屋さんで彼女の書いた本を読んでくれる人を探しているんだろうか。憎めない奴、なんて可愛らしいのだろう。あの美味しいアップルパイのことが浮かんだ。今度の休日に潤子の喫茶店に、横須賀まで行こうか。あのサクラさんが描いた絵も見てみたい。夜に行って潤子のお父さんが出してくれるお酒を飲みながらゆっくりと過ごすのも良い。今日は残業をしないで帰ろう。夕方の暮れていく、オレンジ色の太陽が横から光を浴びせかけて、とても神々しい。ビル群の窓ガラスがその光を反射させてキラキラときらめいている。私は会社を五時半に会社を出て帰宅するべく地下鉄の駅に向かった。街の中を歩いていると穏やかな風が吹いていて、その街角に商業地区では珍しく大型犬のゴールデンレトリバーを散歩させている女性が歩いていた。その人は本当に幸せそうに笑みを浮かべながら、まるで犬に行き先を導かれるようにして曳航されているようだった。私は今まで飼った動物といえばセキセイインコしかない。そのインコも北海道の冬の寒さで凍え死なせてしまったという経験がある。最後の瞬間に死ぬ間際に身体中を震わせて息を引き取ったことが今でも記憶に残っている。だからそのゴールデンレトリバーを散歩させている女性にも、いつの日か愛犬の死を迎える日があるのかと思うと、少し侘しさを感じる。喉を潤す為に鞄からペットボトルのお茶を立ち止まって飲んでから、私はガラスに写った自分を眺めた。まるで別人のような姿をしていて、過去か未来の姿のようだった。顔の表情まではわからない。でも、将来の老いた身体を想像して、今の自分をいとおしく、そして大切にこの肉体を扱っていこうと念じた。私が立ち止まっている間、幾人もの人が私を通り過ぎた。その人たちのことを考えると、あたりまえだけど、親身になって自分のように接することはできない。その人が死ぬか、もう少しで寿命が尽きるとする。それでも、悲しいとか心を引きちぎられるような衝動に駆られることはないだろう。そのような心からの深い愛情というべきものは、いかに自分と身近に接してきたか、その事に尽きる。だって、自分のことでさえ、詳しくは知っていないんだもの。もっと自分のことを知る必要があるな。私はもう一度自分というものを重要に、そして大切にしなければいけないと、左手を心臓がある位置に持っていって深呼吸した。そうすると心が落ち着いてため息をつき、目を閉じて一瞬だけどその黒いキャンバスにサクラさんが描いた絵が現れてきて私は救われた気がした。そこまで彼女の絵が影響を与えていることに、驚きと感動を覚えてまたその絵を見ることができる日を楽しみにした。その絵が潤子の住んでいる喫茶店にある。それだけでも幸せだ。それだけで生きている意味がある。ネットでサクラさんの絵が販売しているなら、買ってみよう。それはきっと心が暖まるにちがいない。音楽が耳を伝わって脳を揺さぶるように、素晴らしい絵画は目を通して心にまで達して様々な、勇気とか自信とか深い愛を呼び起こすものだ。それが自分の体にまで作用して皮膚に潤いや張りを与えて、きっと顔の表情まで変えてしまうのだろう。なんて素晴らしいのだろう。その時、夕暮れの太陽がいつにも増して赤く輝いた。まるで私の鼓動に対応するように。それは太陽が私だけに答えを表してくれているようだった。スポットライトに照らせれているように私だけに照明が当てられている。そんな気持ちになった。何かの予兆といえばいいのだろうか。以前見た冒険活劇アニメのように不思議な感覚だ。
私は歩き出して地下鉄の駅にたどり着いた。改札を過ぎてホームに立つ。独特な特有な匂いがする。地下鉄の車両のタイヤの匂いがというのか。それでも何故だか知らないけど、なんだか落ち着く臭いだと、そして学生時代のことをふと、心に浮かんだ。もう二十年以上も前のことだ。その時代は小説が大好きで大好きで仕方なかったな。物語がこんなにも自分に影響を与えるなんてとても興奮していた。何故だかその当時は日本の戦国時代の小説をたくさん読んでいた。司馬遼太郎や海音寺潮五郎、池波正太郎といった、時代小説のアイドルがお気に入りだった。それから幕末へと移って、その後はローマ帝国の歴史や中国の歴史の物語へとすすんだのだった。それらの書物が助けとなったのか、今では小説の編集者として、生活しているとは、その当時では考えられないことだった。地下鉄の構内から車両が近づいてくる音が聞こえてきた。この音も独特な響きを聞かせてくれる。私の心は突然に全て解放されたように自由に羽ばたいて、今までに生きていたなかで、多分三番目くらいに幸せな気分になった。どうしてこの環境でそうなったのかはわからない。ただこの先も同じようにますますこのように多幸感が続いていきそうだと感じるのだった。その事は心配いらない。そういえば、一番楽しかったこと、嬉しかったことってなんだっけ?そう人生で最も感動したこと。記憶に残っていること。そうだ、母の実家があった夕張に旅行で行ったことが記憶にまざまざと染み付いていることを思い出した。何もない夕張だけど、その風景と幼い時に体に当たる風が記憶に残っている。心から落ち着くことができる場所だ。町全体は古びているけれど、そこがなんとも風情がある。まるでタイムスリップしたようだ。いわゆる昭和初期の街並みというやつだ。昔は炭鉱で潤っていて、今は基幹産業はないけれど、昔、映画のロケ地として有名になった場所や、高級メロンだとか、懐かしい風景を求めてやってくる観光客もいる。私の体にそよ風が吹いてきた。それはまるで過去の時代から時空を越えて来たようだった。それで昔のことが頭によぎった。幼い時にたくさんのトンボが飛んでいて捕まえたこと、小高い山の中腹にある、お婆ちゃんの家の窓から見下ろす線路を走っている電車の姿、そして出前をとって寿司を食べたのはよかったけど、エビが当たって全身にじんましんが出たこと。ほんと懐かしい。今は寂れているけれど、いつの日かたくさんの人が夕張を訪れて楽しんでくれたら良いのに。きっとその悲しいなんとも言えぬ美しさというか、寂しさに心を打たれるのではないか。私がそんな空想に耽っていると地下鉄がホームに入ってきてドアが開いた。中に入ってドア際に立って地下鉄が発車するまでの間、穏やかな気持ちで静かに前方を見ていると、ベビーカーを押した女性が車内に入ろうとしてた。私はカートに乗っかっている赤ちゃんに目をとめて、とても心が暖まった。赤ちゃんには自意識というものがない。それはいつ芽生えるのだろう。私にはその赤ちゃんが成長して大人となり、背広を着て働く姿が浮かんだ。身長は百八十センチ、頑健な体だ。そう、人は、一人前の大人でも昔は当たり前だけどみんな赤ちゃんだったのだ。そのことを考えると一人一人に対してもっと寛容に振る舞えるように思えた。どんな失礼なことをされても笑って済ませるぞ。私はお調子者のような笑顔を赤ちゃんに向けた。その様子が伝わったのだろう、赤ちゃんは両手をばたばたと振って興奮した様子だった。その子の母親はその様子を見て嬉しそうに私に笑顔を向けてからベビーカーを席の近くに持っていって座席に座った。自分の子供を持つということはどういうことだろう。新たな命を宿し、その奇跡的な生き物は小さな体で自分の母親とか何も知らぬままに抱かれて初めての乳を飲み込む。それが温かくて甘いこと、それが己を養うために与えられることはわからないけど、とても幸せな気分になって眠気を誘うこと、母の懐に抱かれて何故だか知らないが安心感で母と父の笑顔に迎えられて自分を理由を知らずに笑ってしまうこと。私はそんなことを想像してこの母親と赤ちゃんとお父さんに祝福を送った。どうかこれからも幸せでありますようにと。
アパートに帰宅して私は早速メールチェックを行うことにした。作家たちの熱い思いが伝わってくるようなメールが届いていた。石毛コウキさんは近頃、大好きな女性と付き合いだして、その喜びが文面に踊り出している。しかも、付き合っているのはガールズバンドのボーカルの女性だ。彼女から今度、作詞の依頼がきたという。それでいかに小説にその話題になっているネタを組み込もうかと構想を練っているという。ネットでもその作家とバンドメンバーとの逢瀬が話題になっている。コウキさんの手腕が発揮されるかどうか、その才能を期待している。彼のことだ、きっと貪欲に溢れ出すエネルギーを吸収していって開花させることだろう。でも、そんなことより恋愛に夢中になりすぎて小説を執筆する時間は少なくなってしまわないかが心配でもある。それでも必ずコウキさんが素晴らしい文章を書くことを期待している。彼がとても優秀で人の心に訴えかける文を紡いで感動させることができるし、心配する必要はない。コウキさんのことを私は信じている。また彼と会って話したいな。また豚汁でも作ってあげようかな。でもその役目は新しくできた恋人がしてくれているだろう。なんか自分の弟に彼女が出来たみたいな感覚だ。嬉しさ、喜びと、少しの嫉妬。
それから潤子からのメールも届いていた。元気にしているだろうか。
『こんにちは、潤子です。お仕事は順調ですか?私は毎日小説を書く生活を続けているよ。本をいっぱい読んで、そこからインスピレーションを受けて面白いなって思うところは真似してる。もちろん盗作って言われないように自分の出汁をいっぱい織り込んでいるけど。なかなかそこが難しいところだよね。でも、あまり深刻にならないで、開き直って考えるようにしている。また、私の家に遊びに来てね。楽しみに待っているから』
私はその潤子の言葉を噛みしめながら、彼女の幸せを心から願った。どうか潤子がいろんな人から愛されて成長していきますようにと。でも、ほっといていても彼女のこと、すくすくと伸びていくことだろう。想像のなかで潤子は小説家としてデビューして書店でサイン会を開いているという空想で頭のなかが満たされた。それはほんとに嬉しいことだ。それが現実になる可能性の秘めたものであるという確信が私にはあった。そう、いつの日か必ず潤子は作家になって、人々を魅了して、みんなの心を幸福や感動や喜びでいっぱいにして毎日やりがいのある生活を送ることができる。
ああ、なんだか眠たくなってきた。きっと私の周りにいる人たちが幸せな生活を送っているから安心してしまった。それで心が弛んだからに違いない。私は服も脱がずにベッドにダイブした。良い夢を見られるだろう。私はよくやっている。ひたむきに一生懸命働いている。よしよし、誰も頭をなぜてくれないから、私は自分の両手で頭をなぜ回す。そういえば自分を褒めることは心身にも良い影響を与えるということをネットで知った。それで私は自分探しと己がいかに頑張っているのかをイメージし始めた。そうだ、大切な作家たちと胸襟を開いて話すことができる。会社の仲間たちとも率直に語り合って将来の展望を広範に広げることを目指すこと、新たな発想をもって新機軸を探求することができる。だんだんと睡魔が脳をシャットダウンするように静かに囁き始めた。それにしても眠る前と眠ってしまった瞬間の間ってどんな状態なのだろう。まあいいや、この居心地の良い、誰にも邪魔されることのない瞬間って最高だな。そして夢の中で物語は進行してゆくだろう。

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