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私たちは本質的に孤独だ。だからこそ繋がることを求めている

朝の六時に起きて歯を磨きながら今日の仕事の予定を頭の中で考える。十時から瞳さんの自宅へ行くことになっている。いつもは喫茶店で会うことが多いのだけど、自宅に招待してくれるという。確か親御さんと瞳さんの三人暮らしだ。兄弟はいないと聞いている。一人っ子できっと大切に愛情を込めて育てられたのだろう。そんな雰囲気を瞳さんから滲み出るような感覚を味わっている。きっとみんな仲が良いのだろう。私は朝食にコーンフレーク、豆乳をかけて食べる。外の外気に耳をそばだててみると、道路を走る車の音が微かに聞こえる。なぜかその音を聞くと安らかな気分にさせる。これから出社して仕事をする人たちの足音と理解したのだろう。こうして社会は続いていくのだ。でも、人々は本当に世界の秩序というか、真の幸福の為に働いているのだろうか。自分の行き先もわからないまま、そう言ってしまえば私だって正直に自問してみると、明日さえ分からぬ身だ。でも、私は今真剣に人々の幸福に関わる仕事をしているという信念を抱いて生きている。その気持ちは確かだ。それだけで心が満たされて、この先いつの日か、たくさんの人の心を満たす小説を広めていきたいと思う。一杯のアールグレイの紅茶を淹れて、朝の喧騒に心を奪われながら静かに飲む。この一時がなんとも嬉しい。この世界にはたくさんの小説で溢れている。この世は物語によって形作られているといっても過言ではない。テレビではドラマがいまだに世間を賑わせているし、それらは多くの場合、小説という原作に頼っている。そして映画は動画配信サービスの影響が強くなってきたにもかかわらず、巷に溢れている。小説が売れなくなっていると言われているけど、それはよく言われるように作家の力不足から来ていることなのだ。実際に有名作家の小説は、何千万部も売り上げがあるのだから、そのことを考えると私たち出版業界にも責任があるともいえる。でも、だからと言って作家たちに良い作品を書くように頼んだからといって、すぐに何千万部も売れる作品を書けるようになるわけではない。そこが難しいところだ。世間では一般受けしやすい、有名人や芸能人が書いた小説がコンスタントに出版されているけど、そんな慰め程度では出版業界は復活しないだろう。本当の作家、世界をひっくり返すほどのインパクトを与える物語が必要なのだ。ではどうしたらいいのだろうか?それがわからないから心苦しい。今はとにかく作家たちを信頼して彼ら、彼女らに暖かく、そして深い愛情を注ぐこと、それに尽きると思う。私自身もたくさんの小説を読んで、感動したこと、心を揺すぶられる物語をたくさん読んで、その方程式を作家に伝えて還元してある意味模倣してもらうこと。それが大切だと思う。そう、ある有名な芸術家が言っていたように、最初に真似ること、盗むこと、このことが重要な気がする。もちろんそれだけでは単に盗作となってしまうからそのままでは作品として世間に出すことはできない。だから、いかにその素晴らしい作品の遺伝子を自分の遺伝子に組み込んで新たなる作品として世に登場させることが出来るかが転機となる。世の中には文章読本なる書籍がたくさんあるから、そのひとつひとつをしらみ潰しに調べていくこともひとつの手だ。そしてなによりも小説を読み込んで、その含まれている要素を抽出して、良いと思ったこと、もしくは悪かったことを汲み取ることも重要になってくる。そのようないわば深読みをすることは小説のもっている確信に迫るものとなるだろう。様々な小説を読むことによって自分の描く物語を軌道修正していって、普遍的なストーリーを呼び覚ますことができる。私はそのことを考えていると、自分でも小説を書いてみたいという欲求が沸き上がってくるのを感じた。編集者から小説家になったという作家を知っていた。私がなれるかどうかはわからないけど、ひとまず落ち着いてたくさん本を読むことから始めよう。体が強く振動するような感覚になって自分が本気モードになっていくような、強い電磁波がまとわりついていくようだ。この世界には自分の為に、もしくは人の為に小説を書いている人が多数いる。そして将来小説家としてデビューしたいと思う人たちがたくさんいるのだ。そのうち作家として生活することのできる人は僅かだ。作家一本でやっていくことは物凄く難しい。ほとんどの人は兼業で生活している。そしてかなりの集中力が求められる。それでも作家たちは僅かな時間を使ってひたむきに執筆をしているのだ。それは本当に頭が下がる。常に小説の構想を考えていて、それこそ掛け持ちでやっている仕事の合間にも小説について思い巡らしているのだ。私も見習わなければいけない。一瞬たりとも気を抜くことはできない。そのことをいつも注意していなくては。
会社に着き、編集長の田崎さんに挨拶をしてから私は自分のデスクに座って今日の仕事を始めることにした。十時からの瞳さんとの約束までの間、他の作家から送られてきた小説の原稿の目を通す。それからわが社のネット小説に投稿された新しい物語を読んで、どこかに心を動かされるものがないかと注意深く探る。そんな作業をしているとあっという間に時間が過ぎてゆく。瞳さんの家に向かわねば。私は出版社を出て、瞳さんの家に向かう。これからの行く先を表しているように素晴らしい天気だ。雲ひとつなく青い空が広がっている。タクシーを停めて乗車して行き先を告げると運転手はにっこりと笑い、車を発進した。流れる景色を見ていると、ビル群や高層マンションなどの建造物がとりとめもなく、まるで繰り返し再生されているように感じる。十五分ほどすると目当ての瞳さんの住所に着いた。料金を払って車を降りる。周りは閑静な住宅街で立派な家が建ち並んでいる。瞳さんの家もコンクリートで造られた豪華な建物だ。インターホンを押すと、
「高瀬さん、おはようございます。どうぞ、入ってください」と、応答があった。玄関まで向かうとドアが開いて、瞳さんが笑顔で出迎えてくれた。
「高瀬さん、お久しぶりです。お元気ですか?」
「ええ、瞳さんも元気そうですね」私はノーメイクの瞳さんを見て、すっぴんの彼女をとても美しいと思った。
「私の部屋で話しましょう。どうぞあがってください」私は瞳さんに案内されて二階に上がった。彼女の部屋に入ると、微かなラベンダーの香りがした。
「ちょっと待っててください。高瀬さん、コーヒーと紅茶どちらがいいですか?」
「それじゃあ、紅茶で」
「わかりました。座って待っててください」
瞳さんが階段を降り行った。彼女の部屋には本棚が四つあって文庫本とハードカバーの本で占められていた。潤子と同じように本の虫なのだ。デスクにはノートパソコンだけが置かれている。とてもシンプルな部屋でとても綺麗に片付けられている。
五分ほどすると、階段を上る足音がして、瞳さんが紅茶とクッキーを御盆にのせて、テーブルに置いた。
「アールグレイの紅茶ですけど飲めますか?」
「私、いつもアールグレイの紅茶を飲んでいるんです。とても、大好きです」それにクッキーは手作りのようだ。クッキーは自家製のほうが美味しい。
「私、小説を書くうえで気をつけていることがあるんです。それは最初の場面で雨を降らせること。だってほとんどの作品で雨を降らせているんですもの。何でその事に作家は気づかないんだろうといつも疑問に思っているんです」そういえばそうだ。あまりにも雨の場面が多い。
「確かに、何でだろう、雨には特別な魔術のような効果があって、作家たちを引き寄せるんだろうか。言われてみればそうよね。物語を天候から始める。ほんと不思議だわ」私は皿に盛られたクッキーをとってかじった。バターの香りと若干の塩味、そして香ばしい小麦粉と甘さが広がった。
「このクッキー手作りですよね」
「はい、そうです。お母さんが作ったんです」
「とっても美味しい。ショートブレッドみたいな味がする。私、クッキーはウォーカー社のクッキーしか買わないんです。それに似た味がする」
「そうですよね。クッキーって手作りで作ったほうが絶対に美味しいですよね。何故だろう、売っているクッキーって美味しいとは思わない」
「ほんと、面白いわね。小説もプロの作家さんのほうよりも、素人が描いたもののほうが美味しかったりして」私はそう言って、数多あるアマチュアの作家が書いた小説を思い浮かべた。しかし、小説に関しては、プロに軍配があがるだろう。
「瞳さん、なかなか筆が進まないってことだけど、だいぶ悩んでいるの?」
「ええ、なかなか構想が思い浮かばなくて。どうしても、ありきたりの文章になってしまうの。ずっと机に向かっても時間だけが流れていく。そんな日が続いて、苦しくて苦しくて仕方がないの。何か解決策がないかなって考えているんだけど、なかなか方策が思いつかない」
「とにかく焦らないことよね。今まで通り、悩んで悩んで悩みまくって自分の心の中を見つめて、そこに新しい何かが浮かび上がってくるのを待つこと、それは正直苦しいことだけど、我慢することも必要かもしれない。そのうち考えがまとまって転機になり良いアイデアが出るかも。そして大切なのは自分の思いを掘り下げて何が埋まっているのかを見つけること。それは必ずある。だから、じっくりと慎重にその核心にあるものを探し出すこと。瞳さんもきっと気づいているかもしれないけど」
「なかなか難しいですよね。でも、高瀬さんの言っていることよくわかります。血の滲むような経験が必要なのかもしれない。私は今まであまり苦しんだ経験が無かった。だから試練を与えられて乗り越えられるように努力することが必要なのかも。これは素晴らしい転機なのかもしれない」瞳さんはなにかプレゼントを貰ったような嬉しそうな表情を浮かべた。
「そうよね、よくある表現だけど、忍耐して努力すれば必ず新たな場所への道が開けてくる。今の時代の人たちはあまりにも理想主義に酔いしれてもっと身近な人たちの幸福を忘れている。大切なのはきっと、自分のもっとも近い人の幸福を支えることなのかもしれない。私はそう思う。それなしでは今までに愛や平和の為に戦ってきた人が浮かび上がれない。小説の持つ力は今後さらに人々に影響を与えていくのかもしれない。私はそう感じるの」
「今の世界では死があまりにも溢れている。ニュースでは死が些細なことだと報道されている。だから私たちはそこに何の感傷も無くそれを既成事実として認識してしまう。でも、本当は一人の人の死はとても、そう、全人類が滅亡してしまったほど重大なものなのよ。それを多くの人は理解していない。一人の死をそれこそ一日中考えていかなければならないと思うの、少なくとも。そうして初めて私たちは人類が抱えている問題を、つまり生き、そして死というものを本当の意味で理解することができるんじゃないかと思う。私たちはいずれ死ぬ。そのことを分かっていない。それが真実なのに何故私たちは平気で生きることができるんだろう。とっても不思議だわ」
「そうよね。愛や平和を語れば語るほどそれらは希釈されて薄まっていく。面白いわね。語れば語るほど、濃厚になっていくべきなのに。人類最大の謎だわ」私は人々が繋がることを本質的に求めているのにますますお互いを隔離していく姿が目に見えるようだった。これだけインターネットが普及して人と人が密接に通じ会う機会が増えたのに、それでも本当の幸せを手に入れることができないでいることに疑問を覚えた。どうしてだろう。それは結局人は他人の幸福を願うことよりも自分自身の幸せを優先してしまうからだろう。大切なのは利他的な愛情だ。それが欠けている。あまりにも自分の意見や考えを人に発信して、あたかもそれが全てなんだと言わんばかりに強制的ともいえるほど全世界に、できるだけ多くの人にのべ伝えようとする。正当性を、自分が正しいと語りながら自らの権益を得ようとしている場合が多い。いったい誰を信じればいいのだろう。
「でも、そんな中にあって、ごく少数の人たちがひたむきに正しい道を歩む為に努力しているんじゃないかな。そして多くの人を目覚めさせるように懸命になっている。私はそう思うし望んでいる」
「まるで地中に埋まっている純金のように。無価値なものの中からとても高価な輝く鉱物を発見するみたいにね。きっと、人々を魅了して永遠に心に巣くうようなとてつもない大きくて純粋なダイヤモンドの原石のような。私たちみんながその原石を研磨して輝く価値の計り知れない鉱石を造り出していく。共同作業だね。相手が発信するだけでなくて、受信する側にも作家に対してアクションを起こす。双方向の原動力」瞳さんは紅茶のマグカップを両手で包みこんで悟りを得たような仕草で言った。
「瞳さんはダイヤモンドだかサファイアだかエメラルドかは分からないけど、とても磨きがいのある作家だわ。ほんと美しく輝いている。これからもっと成長していくことが明白って感じ」
「私、とても嬉しいんです。作家になれたことが。心から読者の人達には感謝したい。悩むこともあるけどそれでも満足して、ああ、幸せだなあって。私は生きている、そう心から叫びだしたい気持ちになることがあるんです」
「私もそう。また新たに生まれても出版社に、とは思わないけどそれでも今の仕事に満足してる。みんな向上心が旺盛で前向きだし。でもみんなの幸せも大切だとは思うけど、それプラス自分の幸せも探求しなくてはとも感じるのよね。自分自身が楽しくないと人を喜ばせることはできないみたいな。なんか世界の仕組みって難しいけど、意外と単純に構成されているのかもしれない。ほんと生きているだけで満足しなければいけないのかもしれない」
「高瀬さんの気持ちよくわかります。人ってどうしようもなく孤独でだからこそみんなと繋がっていたい。そうゆう生き物だから。私もそうですもん」
「自分一人で仕事をしているより、まわりに人がいてガヤガヤ騒いでいるほうが仕事が捗(はかど)る。そんな時ってあるよね」私は人から見られることが自分の精神というか心に安堵を覚える感覚があることを知って、みんなから注目を浴びて喝采される喜びを抱かせる効果があることに気づいた。人からそんなふうに、もちろん肯定的に賛美されるのは間違ってない、そう思った。でもそのことで自信過剰になったりまるで自分が偉くなって王様のような素振りを見せてその結果人からの顰蹙(ひんしゅく)をかったりする。難しいものだ、人間って。それでも私は不完全な人々を愛している。ポンコツであればあるほどいとおしさが込み上げてくるものだ。
「ほんと人生って面白い。世界中にいろんな人がいて、みんな同じ土俵の上に立っているんだから。たとえ巨万の富を持っている人も私たちと同じく寝て食べて働いている。そのことには変わりはない。せめて私たちよりも高価な食べ物やワインや高級車に乗っているだけ。眠くなったら寝て、一日が過ぎてゆく。正直言ってなにも変わらないんだよね。死ぬ時には一円たりとも冥土に持っていくことはできない。だからお金持ちの人はそれだけ死ぬことを恐れていると思うんだ」瞳さんはたくさんある本棚を見た。
「私の唯一の宝物はこの本たち。現実ではできないことを成し遂げるんだから凄いですよね。中古本だったら百円で夢の世界へ誘ってくれるんだから。百円で買えるアイスクリームと同じ値段だなんて不思議ですよね。アイスクリームは一時の爽快感しか与えてくれないのに、小説は一生かかっても味わい尽くせないほどの感動を与えてくれるんだから。それらが同じ値段だなんてどうかしてる」
「そうだね、作家が古本屋で自分の小説が百円で売られていると知ったら愕然としてしまうかもしれない。瞳さんはそんな経験ある?」
「百円コーナーにはなかったけど、中古で四百三十円って値段がつけられていた。正直、淋しかったな。ずっと手元に置いて欲しかった」瞳さんは紅茶が入ったマグカップを両手で包みこんで、じっと褐色の液体を眺めている。
「瞳さん、あまり深刻にならないほうがいいわ。それを言うなら超有名人作家の本がたくさん百円コーナーにあるじゃない」
「うん、そうだね。確かにたくさんあった。古本屋に本が並んでいること自体、売れていることの証明なのかもしれない」
「そう、これから目指す所は直木賞よ。目標を持つとそれだけでやる気が起こるし、イマジネーションも沸き起こってくる。みんなを楽しませる物語を作っていこう」瞳さんが驚いた表情をした。
「直木賞なんて無理ですよ。私がそんな賞を受賞するなんて想像もつかない。」
「ここ数年ってことじゃない。何十年後着実にこの世界を歩んでいけば必ず瞳さんは直木賞を得るほどに成長していける。そう感じるの。必要なのは、根気と努力。毎日二十四時間小説について考えることが求められる。それは軽く考えるものではない。修行僧のように一秒一秒を大切に用いて己を厳しく磨いていかなくてはいけない。その為に教訓となる本を持ってきたの」私は鞄から一冊の本を出した。
「宮本武蔵の五輪書、私も読んだけど、武蔵のストイックな性格が表されている。きっと瞳さんにもとても役立つことが書かれている。読んでみて、とても面白くて、共感できることがたくさん書かれているから」私は本を円卓の上に置いた。瞳さんはその本を手に取って、ページをめくった。そして最初のページを開いて読み始めた。
「激動の現代に生きるわれわれは、常に心の安まるときがない。秒単位で動くと言っても決して過言ではないわれわれは、心のよりどころをどこに置くべきなのであろうか」そう語ると、瞳さんは全身を暖かな空気に包まれたかのように大きく呼吸をした。
「ありがとう、高瀬さん。とても興味深い本のようですね。これを読めば小説を書くうえでのヒントが隠されているような感じがします。スランプからも脱出できそう。ほんとありがとう」
私たちはそれから瞳さんが影響を受けた本の話とか、最初に読んだ小説のどこがよかったとか、様々な話をして楽しんだ。瞳さんは小説の話になると饒舌になって、本当に本が好きなんだなあと思った。夕方になるまでその話は続き、瞳さんのお母さんが現れて、一緒に夕食を食べようという話になった。私は遠慮なく、ご馳走になることにした。一階に降りて食卓に着くと、私が大好きなシーフードカレーだった。
「わー、シーフードカレーですか、私大好物なんです。とても嬉しいです」
「お口に合うかどうか分かりませんけどどうぞ食べてください。瞳も大好きなんです」瞳さんのお母さんはいかにもお金持ちの令嬢といった雰囲気でしかも気さくな人だった。
「高瀬さん食べましょう。私、お店のカレーより好きなんです。お母さんが作ったものが」
私はたくさんの海鮮が入ったカレーをまるで宝石を眺めるように見つめた。具材は、いか、海老、ホタテ、アサリ、鮭、ムール貝、かきなどが入っていた。ルー自体にも食材の出汁が浸透しているのだろう、複雑な味がした。
「とても美味しいです。家庭の料理の安心感って言うか、まるで祖母が丹精込めて作った料理みたいな感じって言うのかしら、自然でナチュラルで慈愛がこもっている。こんなに美味しいカレーを食べたのは初めてです。何年後でも記憶に残ってしまうとても興味深い経験をさせてもらいました」
「それは良かった。娘も楽しみにしているんですよ。今日シーフードカレー?みたいな」
「娘さん、本当に自由に羽ばたいていますよね。これもお母様の教育のおかげだと思います」私は瞳さんとお母さんを見比べて、二人はまるで年の離れた姉妹のような、そんな華やかさを漂わせているのを感じた。
「私にとって一番大切なものですもの。子供を育てるって生きがいだから。こんなに幸せでいいんだろうか?ってぐらい感動することが多いんです。子供が私より幼いからといって、全て私が教えないといけないと思っていたけど、娘に教えられることがたくさんあって、もっと謙虚にならなければいけないと感じることっていっぱいあるんです。例えば純粋さとか、真面目さ、ひたむきな態度とか、本当に感心します。私はまだ一人前の人間ではないな、って。こんなに小さな赤ん坊に教えられるなんてとても不思議だな。そう自分を見つめ直して今まで生きてきました。今の瞳からもたくさんのことを学んでいるんです。もう赤ちゃんじゃないけど。そのことがちょっぴり寂しいわ。だからたまにアルバムを開いて当時のことを思い出すの。不思議よね、過去のことが走馬灯のように頭をよぎる。過去の写真って魔術みたいに今の現実をぶれるように動かす。意外と悲しかったことって無いのよね。記憶になかったことがらでも、写真を見ることによって潜在意識のなかに組み込まれていることがらでさえ一瞬のうちに記憶に甦るの。過去を覗き込んだみたいに。はっきり言えるのは、娘と出会えてとても私たちの人生は素晴らしく光輝いた悪夢など一切無いおとぎ話みたいなもの。一抹の不安も無く全てにおいて完璧なまでに一億ピースのジグソーパズルが嵌まっている感じ。何物にも代えられない、唯一の宝、それが私の瞳なの。だからこれからも瞳をよろしくお願いします。いつも側にいてください。瞳の小説ができるだけたくさんの人に読まれることを願っています」瞳さんの母は丁寧にお辞儀をして、きっとこれまでに経験したなかでベストワンに輝くお辞儀だった。私はお母様の言葉に痺れて、これが親の愛かと恍惚になって酔いしれていた。この家族模様を世界中の人に知らせたい。そんな気持ちだ。瞳さんの小説にはご両親の温かな影響が溢れているのだろう。こんな素敵な家族がきっと私の知らないほどたくさんあるのかもしれない。世の中の数知れない大勢の人々、隣の住民のことさえ正確には理解できないのに私はお互いに分かち合うことについて世界に発信している。不思議なことだ。でも最後まで諦めなければ必ず数少ない人の心に灯火を植え付けることができるはずだ。瞳さん親子の絆を糧として生きて行ける。私たちは本質的に孤独だけど、だからこそ繋がることを求めているのだ。

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