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第15話 もう自分はゾウリムシになってしまいたい病

 PCにてメールチェックをする。
 マウスから手を離し、うん、と腕を上に伸ばして伸びをする。そのまま少しの間、天井を見つめる。
 またPCに眼を戻し、社内SNSの新着記事を確認する。
 マウスから手を離し、上体を左右に捻る。そのまま少しの間、窓から見える外の景色――会社は中心街から電車で小一時間近く離れた地区にあるので、窓からは低めの山とその麓の竹林が見える――を見つめる。
 またPCに眼を戻し、取引先企業のWEBサイトのトピックスを拾い読みする。
 マウスから手を離し、片腕ずつ別の方の手で胸の前に押し付けるストレッチを行う。そのまま少しの間、壁際の冷蔵庫を見つめる。眼を閉じる。
「あと二日ッ」恵比寿は、己れに喝を入れた。「あと二日! 四十八時間! 二回、寝て起きて、六回、飯を食って、二回、風呂に入って、そして」
「きゅーっと、一杯やって」
「きゅーっと、いっぱ」鯰の甲高い声につられて復唱しかけ、恵比寿はハッと眼を剥き息を呑んだ。「お前、いらん事を言うな」部屋の片隅にある池に向かって文句を言う。
「きゃははは」石囲いの中から鯰の甲高い笑い声が響く。「こういうのあれだよね、見るも哀れっていうんだよね」
「うるさい、魚」恵比寿は文句を言うが、顔は情けない表情に歪んでいた。「お前に何がわかる」
「あー、阿呆らしい」鯰はさらに馬鹿にした事を言う。「ていうか、意志よわっ」
「うう」恵比寿は下唇を噛みしめ、何も言葉を返すことができなかった。
 糞、あと二日、どうにかして気を紛らわす手はないか。茶を飲む? いや、便所が近くなって面倒臭い。ガムを噛む? いや、噛むのが面倒臭い。あと捨てるのも。菓子を食う? いや、甘いのはそんなに好きじゃあない。あと買って来るのが面倒臭い。そんな事を心中で思い巡らせる。酒を買いに行くことについては微塵も面倒臭いと思わないのだが、その点についての考察は行われずにいた。

 がちゃり

 その時突然、ドアが開いた。
 入ってきた人物を見て恵比寿は「あ?」と声を上げ眼を丸くした。
 それは、鹿島常務取締役その人だったのだ。仕立ての良い、濃紺にピンストライプの入ったスーツは、出張帰りといえども抜かりなくかっちりと手入れされており、皺の一つも見つけられない。鹿島はスポーツ選手かと思わせるような逆三角形の逞しい体格をしており、よくアメリカンヒーローみたいだと言われている。その体格でぴしりと姿勢よくスーツを着こなす姿は、まずそれを目にするほぼすべての者の審美眼を、満足させるだろう。
 即ち、格好良い、男だ。
 だが今恵比寿は、格好良いよりも何よりも、不思議の念に包まれるばかりだった。「鹿島常務? あれ?」
 だが鹿島は特に何も言わず、真っ直ぐ彼の“陣地”へ進み行き、がらっと椅子を引いてどっかりと座ったかと思うと素早くPCを起動させ、熱心に打ち込みを始めたのだった。
「あ」恵比寿はもうそれ以上、何も言葉をかけることができなかった。
「あれー、鹿島っちじゃん。お帰りー」恵比寿の代わりに、鯰(なまず)が池の中から声を掛ける。
「うん。ただいま」鹿島はPCを見たまま答える。
「あれえ、帰って来るの二日後じゃなかったの? 早いね」
「ああ、ちょっと先方のスケジュールの都合で予定早めに切り上げになってね」鹿島は打ち込みながら答える。
「へえ、そう」鯰は恵比寿の瓢箪に押えられている為、水面から顔を覗かせたり、増してや池の周囲を囲む石の上に体を乗せたりすることはかなわないのだが、口だけは達者で、池の中を右に左にくねくねと泳ぎながら鹿島と言葉を交わす。
 恵比寿はその会話を耳に入れつつも、所在なさげに自分のPCの方に向き直り己れの仕事を再開するしかなかった。

 かちゃかちゃかちゃ
 かち、かち、
 かちゃかちゃかちゃ
 かち、かちかち、かち、
 かちゃかちゃかちゃかちゃ
 かちかち

 しばらく室内には、キーボードを叩く音とマウスのクリック音だけが響き続けた。
 どれほど時が経っただろうか。ふと、鹿島は手を止め、それからはた、と恵比寿の方に顔を向けた。「あ」そして眉をひょいと上げ「お疲れ、恵比寿君」と言いながら満面に笑顔を浮かべた。「どう、調子は」
 ――認識モード、オン。
 心中でそう告げる機械音声が鳴る。
「あ、はい」恵比寿は大きく頷いた。「おかげさまで、すこぶる順調です」
「あホント、そりゃ良い」鹿島は笑顔をずっとキーブしたままで頷き返した。「また新体制になるからさ、よろしく頼むよ」
「はい」恵比寿はさらに頷き、全身でお任せ下さいと答えた。
 この人は――鹿島常務取締役という恵比寿の上司は、このように恵比寿の存在を認識する事がある。
 時々。
「あ、じゃあ、鹿島常務」恵比寿は、腰のベルトから垂れ下がっている紐――池に浮かぶ瓢箪につながっているもの――を手に取り、言った。「鯰抑え……代っていただけますか」
「ああ」鹿島は初めて気づいたような顔になり、頷いた。「そうだね。悪い悪い、ありがとう」と言いながらスーツ上衣のポケットに手を突っ込み、少しまさぐって何かを取り出す。そして取り出した“それ”を、池に向かって軽く、ひょいと投げ込む。

 ぽちゃ。

“それ”は、素朴な音を立てて池の中に落ちた。
「ぐっ」その瞬間、鯰が首を絞められたような声を挙げる。
 池の水の様子には、特に何も変化は見られない。色が変わるわけでも、光が迸るわけでも、妙なる音が鳴るわけでもないのだが、それでも“それ”の凄まじき威力が今、池の水に――そして池の中の鯰に、振り落とされたのだ。
 恵比寿は、相変わらずのんびりと水面に浮かぶ自分の瓢箪の紐をするすると引っ張り上げながら「ありがとうございます」と鹿島に言った。
 だが鹿島からの返事はなく、見るともうPCに向かって作業を始めていた。
 ――認識モード、オフ。
 また脳内に、機械音声のアナウンスが流れる。
 それはともかくとして、不思議なものだ。今鹿島が投げ入れた“それ”――要石(かなめいし)――を、鹿島はいつも、今のように上衣のポケットから取り出す。さっと手を突っ込んで、少しまさぐり、すい、と手を引き抜けば、その手の中に要石はあるのだ。傍から見た感じでは、それは決して大きなものではなく、精々がとこ径一、二センチ程度の、ほんの小振りのものだ。
 だが以前、鹿島が恵比寿に――その時も認識モードがオンとなり――「これ、掛けといて」と脱いだ上衣を投げて寄越した時に、恵比寿はこっそりポケットの部分を上から触ってみた事があった。
 そこに、石が――というか何か物が入っているような感触は、一切なかった。
 まさか上司の上着のポケットを広げてまじまじと中をあらためるなどできるわけもなく、そのままハンガーに掛けラックに吊り下げたのではあったが、しかし確かにそのポケットの中には――左右とも――物は、入っていないようだった。
 それであるのに、鹿島はいつも要石を、そこから取り出す。どこか別の空間に、そのポケットというのは繋がっているのかも知れない。しかし恵比寿はいまだにその事について鹿島に質問できずにいた。何しろ鹿島は恵比寿のことを、時々しか認識しない。その短い時間の間に、あれやこれやの決済をしてもらったり報告をしなければならないので、要石のことを質問している余裕などないのだ。
 否。
 余裕があったとしても、その質問はどこか禁忌めいたものを纏っており、中々どうして口に出せるものでは、なかった。
「鯰ー」鹿島は唐突に鯰を呼んだ。
「んー」要石で抑えつけられている鯰の声は、明らかに瓢箪の時よりも重く沈んで聞こえた。
「お前さ、ゾウリムシって、食う?」PCを打つ手を止め、鹿島は池の方を見る。
「ゾウリムシ? あの小っこいの?」鯰はあまり抑揚のない声で訊き返す。「まあ口に入りゃ飲み込むけど、目の玉ひん剥いてまで探して食うほどじゃあないね」
「あそう。ま、小っせえもんな、あれ」
「なんでいきなりそんな事訊くの?」鯰は逆に質問した。
「うん、まあ出張先の会議で出たんだけどさ。ゾウリムシの話が」
「へえー。ゾウリムシの」
「そうそう。ゾウリムシをね、ちょっとこれから色々使って行こうかねって話でさ」鹿島は、先程恵比寿がやっていたように両腕を上に伸ばしながら答える。
「何に使うのさ」
「それはまあ、これから追々検討していくのよ。まずは培養設備を確保しなきゃだな。見積もりが明日届くからー……」鹿島は鯰と会話しながら再びPCのファイルをあれこれと検索し、確認し、打ち込んでいく。
 恵比寿は、そっと席から立ち上がった。足音を、なんとはなしに忍ばせて、冷蔵庫へと向かう。忍びやかに、ドアを開ける。新発売の、レモン皮ごとすり下ろし入りの缶チューハイを、丁寧な作業をする職人のような手つきで取り出す。

 ぷし。

 缶のプルタブは、いつも引き開けられる時と同じレベルのトーンで音を立てた。そのまま、少しの間動きを止める。

 かちゃかちゃかちゃかちゃ
 かち、かちかち
 かちゃかちゃかちゃかちゃ

 咎める言葉は何ひとつなかった。恵比寿はゆっくりと、缶を口元へ持ち上げた。
「けどさ」鹿島が言う。
 ぴくり、と恵比寿の手が止まる。
「ゾウリムシって、あれ、旨いの?」
「あのねえ、それが結構、いい味出すのよ」
「まじで? 旨いんだ」
「あたしは好きだね。ミジンコよりも、ゾウリムシの方が好き。あと藍藻類よりも」
「へえー。そうなの」
 鹿島と鯰の会話はいよいよ盛り上がっている。恵比寿は、運びかけて止めた缶に口をつけ、ぐびり、と呑んだ。
 咎める声は、何ひとつ聞こえて来ない。

 ぐびり、ぐびり。

 続けざまに、呑む。
「でさ、ゾウリムシって」
 ゾウリムシですか。あの草履の。はいはい。あれでしょ、知ってますはい。
 恵比寿は窓の向こうの竹林を見つめながら、独り心の中だけで相槌を打っていた。
 ――いいなあ、ゾウリムシ……
 それはごくうっすらとした、憧憬にも似た心情なのかも知れなかった。

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