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退行

高鳴る鼓動を抑えながら、タージアは牢の中のマティエに向き合った。

「こ、こんにちは……マティエさん」
軽く小首をかしげる。まるでタージアを知らないかのような。

「私の名前、知ってるの?」
「え、ええ……ちょっと前に会ったはず……なんですけど」
「私は……初めてかな」
「さっきね、ルースが来て教えてくれたの。白くって小さなお兄ちゃんが」
「お兄ちゃん……?」
「うん。ルースのお友達を連れてきてくれるって。もしかしたら、あなたがそうなの?」

マティエのその顔からは険しさも、相手を威圧するかのような目つきも失われていた。
いや、もっと率直に言うと……
…………
「心が子供の頃に戻ったんだ、マティエは」
ルースの言う通りだ。あの女は……そう、俺が初めて会った時とは全く違う。
チビのような雰囲気すら漂わせた、まさに子供そのものだ。

「つまり、秘跡の副作用……だというのですか?」
恐らく。とエッザールの問いに頷くルース。
「僕と会う前の記憶しか持っていない。つまりはタージアのことも知らないんだ」
「ここから、また元のマティエさんに戻れるのですか……?」
分からない。とルースは大きくかぶりを振った。

だが……

「もしかすると、彼女はこのままでいるのが幸せかも知れない……だってそうじゃないか? 辛かった過去を全て忘れて、また子供の頃に戻れてやり直せるのだから」

……そうか? それはルースが無理やり納得してるからじゃないのか?
「ジールが以前教えてくれた。俺たちはいい思い出も辛い思い出も背負って生きていくんだと。ここにいるお前たちだって……過去はどうだか知らねえけど、きっとその二つを胸の中にしまって今日まで生きてると思う。毎日幸せにご馳走食って遊んで暮らし続けてる奴がこの世に存在するか? 俺はそんなの絶対にいないと確信する」

あ、王子はどうだか知らねーけどな。

「ラッシュ……覚えてたんだ」
そう、親方の思い出に押しつぶされそうになったあの夜、ジールがぎゅっと背中を抱いてくれたこと。今でも鮮明に覚えてるさ。

「はっきり言わせてもらう、俺もエッザールもあの女のことは大ッッッ嫌いだ。酒飲みかつ酒乱で傲慢で、自己を抑えきれねーほどにわがままでめちゃくちゃ目つき悪くて、事あるごとに相手を見下した言動ばかりしやがるし、なおかつテメェのやった騒動に一切頭を下げることもなく、ブッ飛ばしたくなるほど憎らしい女だ。それはルース、許嫁であるお前がいちばん分かってなけりゃいけない事だ。だから……」

いつもの俺なら、ここでルースを一発殴っていたかも知れない。落ち着け俺。深呼吸だ。

「だからこそ、そんなあいつに惚れたんだろ?」
「ラッシュ……」

「彼の言う通りだ。ルース。未来も過去も偽って生きることに、なんの価値があるんだい?」
王子がそう言い放った。まさしく、俺の言いたかったことを簡潔にしてくれた……流石だな。

「でも……これから一体どうすればいいんだ? またマティエの意識を取り戻せられる方法があるとでもいうのかい?」
ルースは諦めにも似た顔で先にあるマティエの姿を見つめていた。
楽しそうにタージアと話しているその姿。
だけど二人の間には冷たく頑丈な鉄の格子。

……そっか、そういえばなんでこんな場所に閉じ込めてるんだ?
迂闊だった。俺はついタージアを呼び戻そうと、覗き窓のある部屋から出ちまった……声が届かないと思って。
「ラッシュ! だめだ!」
「え?」

俺とマティエの目が合ったその時だった。
ずっとにこやかだったあいつの顔が、まるでなにか恐ろしいものでも見てしまったかのように、恐怖で凍りついた。
「だめだ! ラッシュ早く隠れて!」
だが……気づいた時にはもう遅かった。

「あ……あ……」
ルースが部屋から飛び出て、彼女に懸命に呼びかけた。落ち着いてマティエ、と。
その姿は子供に戻った彼女でも、そしてあの時の冷徹な彼女ですらなかった。

「く……来るな……やだ……こっちへ、来ないで」
「大丈夫だマティエ! 彼は【あいつ】じゃないから!」
あいつ……ってもしや、異形のバケモノ!?

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
マティエの悲痛な絶叫が、部屋を引き裂いた。

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