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それぞれの役割

「く、くるな……いやぁ来ないでぇぇぇぇっ!」部屋の隅でうずくまり、マティエは見えない何かにずっと怯えていた。

「分かったろラッシュ。彼女をここから出すことができない理由が」
俺が視界から去った後も、あいつはガタガタ身体を大きく震わせながら、なにかをつぶやいている……それほどまでにあいつの心に刻まれた恐怖は凄まじかったのか。

「ラザトがこの前話してくれただろ? あの事さ。秘蹟によってずっと心の奥底に閉じ込めていた惨劇を引きずり出してしまったんだ。彼女の祖父である騎士団長が、異形のバケモノによって身体を引き裂かれ、そして目の前で食われる一部始終を。さらには……」
「あいつもボロボロにされたってわけか……」
「そう、全身の傷と砕けた角。発見されたときは話もできない状態で、かろうじて姿を潜めていた兵の一人がこれを伝えてくれたんだ。だが当のマティエは全てを……いや、記憶の断片だけは残っていたんだ。ラッシュの姿にすり替えてね」
「はぁ……つまりバケモノの顔形と俺の顔が似ていたってだけで、ずっとあいつは仇だと信じていたのかよ……」
人騒がせな女だ、と隣にいたエッザールは大きくため息をついた。

確かにな。昔受けた嫌な記憶のおかげで、至る所に迷惑をかけていたのだから……でもある意味、マティエも俺と一緒の生き方を歩んできたんだよな。背負っているものが違うだけの。
あいつは自分の家柄と、そしてこの国。
そして俺は親方の笑顔だけのため。
そう考えてくると、あいつがすごくかわいそうに見えてきた。

「どうにかして、あいつを元に戻せねえかな」
そうだ、マティエもタージアも、そして俺も、このくだらない戦争によって生まれた犠牲者のようなもんなんだから。
「ラッシュさん、私も……同感です」タージアが自分の胸にそっと手を当てた。
「どんな辛い過去を持っていようが、私たちは生きていかなくてはいけないんです……だから」
ルースに向き直り、彼女はぴしゃりと言い放った。
ジールの陰に隠れず、自分の言葉で。
「デュノ様の情けない顔なんて、私見たくありません。だから……ここにいる全員で力を合わせて向き合いましょう! マティエさんの未来のためにも!」

「タージア……」

「マティエだけの未来のためじゃない。ルースと二人の未来……だろ? タージア」
振り向くとそこにはシェルニ王子が。
そうだ、この二人は結婚するんだ。だからこそ俺たちは今やるべきことを成し遂げなくちゃいけないんだ。

「ということで……す、すいません、ちょっと私の考えを聞いてもらえませんでしょうか」

おいおい、またいつもの弱気なタージアに戻ってるし……まあ、いいか。
「マティエさんと会話した時に、身体から少し違和感のある匂いがしたんです。恐らくそれは摂取された成分が、汗や呼気を通して体外に排出された匂いだろうと思って」
やっぱりな。とルースと王子が同時に相づちを打った。

「オグードの秘蹟そのものは1時間にも満たない夢のような幻覚で終わると聞いたことがあります、でもマティエさんの場合はそれがずっと続いてるんです……つまりは長時間に及ぶ覚醒作用のある薬。それを何者かによって摂取されたからなのです。オグードの酒と一緒に」
「えっと、つまりはその薬ってやつが特定できれば、あとは……えっと」
「対処できる。ってことですよね。タージアさん」エッザールすまねえ。俺はこういう会話は苦手だ。
「ええ、なんとかしてそれを見つけ出しましょう。ということで……全員で手分けしてお願いしたいのです!」

タージアの作戦が告げられた。
まずジールとエッザールはこのラボに残って、タージアと一緒に事例とか何やら……うん、とにかくそういったものを探し出そうということに。
でもって俺とルースはというと、ディナレ教会へ行って証拠と原因と、そして犯人を見つけることに。
身体を使う仕事じゃないからめちゃくちゃ大変だけど……これもルースのためだ、しょうがない。

「えっと、僕の役割は……?」
最後に残されたのは……誰でもない、王子その人。

「もう。困るじゃないか……この僕を忘れてしまっては」いや、そう言われても……王子に命令を下せることができる奴なんて、ここにいるのか?

「え、いや……その、王子様は……ですね」耳まで真っ赤になったタージアが、消え入りそうな声で王子に応えた。
「シェルニ王子……さまに、なんて……恐れ多くて命を下すことなんて、できません……」

その瞬間、俺も、ルースも……そして王子すらも。一斉にどっと笑いだしてしまった。
「え、ちょ、いや、その、私……そんなつもりで言ったわけでは……!」まるで熟したリンゴのように真っ赤になった彼女は、いそいそ走り去るようにまたジールの背中に隠れてしまった。

「ごめんねタージア。僕にはいっぱい仕事がある。残念ながらお手伝いすることはできない。けど……」
つかつかと歩み寄り、彼女のそのちいさな手を、王子はぎゅっと握った。
「祈らせてくれ、君たちの成功を」

「……って、えっ!? お、お、お、王子様ああああぁぁ……ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」

苦手な人間である王子が手を握ってくれたのがいけなかったのか、それとも王子が自ら来てくれたのが嬉しかったのか……
まるで糸の切れた操り人形のように、タージアは……

かくんとその場で失神した。

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