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後書き2 創世神話の創作メモ

二重の虹を見たことがあるでしょうか?

私がそれを見たのは、中学生か高校一年生のある土曜日の午後だったと思います。

子供の頃から、私は一人で家のすぐ近くの海岸を散歩するのが日課でした。
その日、黄昏前の海の上に、鮮明な美しい虹とやや薄目の虹とが上下に架かっていて、それが空に溶けて見えなくなるまで、じっと眺めていました。
本当に幻想的な風景でした。

二重の虹について調べると、古い時代に雄と雌の竜の一種と考えて「 虹蜺(こうげい)」と呼んだことを知りました。

後年、対象による「レインボー」に対して、月光による「ムーンボー」というものがあることも知りました。ハワイなどで見られるらしいですね。

虹とは儚いものですが、夢もまた儚いもの。
私は、子供の頃から総天然色の映画のような奇妙な夢をよく見ていました。
夢の中で波乱の運命に叫んだり、切なさに泣いたり、その感情は、目が覚めて夢の内容を定かには思い出せない時でさえ、胸にしこりのように残っていて、朝から妙に疲れていたり、気持ちが沈んでいたり。
夢と現実との境界が曖昧でした。

宇宙って何なのだろう。
人間というものが何故存在するのだろう。
この寂寞とした想いはどこからくるのだろう。

幼い頃からそんな疑問を抱いていましたが、答えてくれる人はもちろんありません。
宇宙の果て、宇宙の外には何があるのか、そんな疑問に対して、以前は
「宇宙の果てなど観測できないのだから意味がない」「宇宙の外なんて考えること自体が無意味」そんな考えしか聞けませんでした。

時が流れ、今では、科学者や天文学者の方々も、宇宙の果てや宇宙の外について考えを発表したりして下さっているようです。

なので、この「創世神話 (改)」の終章は書き変えました。

もともと、この「創世神話 (改)」は、書籍化前のオリジナル原稿とも、書籍版とも大きく違っていますし、序章を書き変えた事で、書籍版の終章は成り立たなくなっていました。
オリジナル原稿の終章では、あまりにもつまらない。

今回の終章は、宇宙と、宇宙の外に対する、私の現段階での答えのようなもの。
誰も見たことは無いし、おそらく誰も見られないのだから、いいですよね。

私がこの「創世神話 」という物語に着手した時には、これほど壮大な物語になるとは思ってもみませんでした。
着手するきっかけとなったメモはただ2つ。
「二重の月虹」
「日中には雨が降り続く」

この2つのメモからSFを書くにあたり、私は考えました。
二重の月虹が立つためには、相当な湿気と相当な光度の月光が必要。
日中に雨が降り続くことが不自然ではない科学的根拠が必要。

私は、科学雑誌を読みまくりました。
科学的なことへの興味は幼い頃から人一倍あったけれど、何しろ文系人間で、知識は乏しかったので。

そんなこんなで、この物語は生まれました。

凡庸な私の頭に、知識とイマジネーションを分け与えてくれたのは、過去に乱読した書籍や雑誌の数々。

“ナーサティア”はインドのリグ・ヴェーダに出てくるアシュヴィン双神の別名で、「治療者」「救助者」という意味があるようです。

メラネシア語のmana (太平洋諸島に見られる宗教的観念であり、宇宙に存在する恐ろしい超自然的・非人格的力)、
聖書に出てくるmanna (神与の食物や霊の糧)、
ヘブライ語のmanah (「選ばれた」という意味)、
“マナ”という言葉の不思議さに震えました。
日本語では“まな”は「真名井」のように、褒め称える気持ちを添える接頭語でもあります。

「創世神話」は、はじめに終章が頭に浮かび、次に、冒頭の詩のような部分が出来ましたが、そこからが大変でした。
私は、文章が沸いてくるというよりも、情景が浮かぶので、その情景を言葉に移し替えるのに難儀したのです。

「日本語使いさばき辞典」や「同音異義語・異音同義語辞典」などを購入して読み込み、私の中に美しい言葉が満たされると、第1章の「1 月読祭の夜」の情景が浮かび、湧き出るように文章が出てきました。

私は美しい物が好きです。美しい言葉で綴りたい。

編集者からは私の文体は難解だと指摘され、そう言われるだろうとは予想していたけれど、ライトノベルのような読みやすい文体にしては、物語の世界観が損なわれると思うと答えました。
編集者には、呆れられたかもですね。

この「創世神話 (改)」を書き始めたのは昨年11月半ばですが、年末までの1ヶ月半は、次々にイメージが降ってきて、文章も流れるように湧き出し、前に戻って書き直すことも無く、全てのピースがはまっていきました。

けれど、年末からはモチベーションを保てなくなり、体調悪化もあって、相当な無理をしながら、休み休み苦しんで書きました。

結果として良いものが書けたかどうかは分かりません。

スポーツ選手と同じように、作家もゾーンに入るそうですね。
私にも似た体験が、書籍化前のオリジナル原稿を書いていた時に1度あります。

それは物凄く強烈な体験で、一瞬にも満たない刹那に、物語の最初から最後が見え、今自分が無意識に書いた文章の意味が分かって、金色の光に包まれ、恍惚とした幸福感に満たされました。

至福の光に包まれた経験はずっと昔の1988年にもあって、詳細は省きますが、自宅で日記を書いている時でした。

この「創世神話」に至福の金の光が出てくるのは、そうした理由です。


美しい風景との出合い、書物との出合い、その他多くの出会い、その積み重ねがあってこの物語を世に出す機会を得ました。
心より感謝。
お読み下さった皆様、ありがとうございました。

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