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1 事象分析局 ― 失われた記憶 ―

 事象分析局長官タウジ・ガネは、自分のオフィスに居ながら、落ち着かない時間を過ごしていた。窓の外に映る初夏の 長閑(のどか)な風景とは裏腹に、彼の心境は居ても立ってもいられないほどであった。
 椅子から立ち上がり、部屋の対角線上を往復し、再び椅子に腰掛ける。それから机の上の 映話機(ヴィジ・フォン)に手を伸ばし、低い声で言った。
「ヘラ、コーヒーを。ブラックでだ」
  映話機(ヴィジ・フォン)に現れた女性秘書が答えた。
「長官、もうさっきから何杯目だと思ってるんですか」
「いいから持ってくるんだ。私をイライラさせるんじゃない」
 タウジ・ガネは、指先で (せわ)しなく机を叩きながら言った。
 数分後、女性秘書が盆に載せたコーヒーを運んできた。
「なんだ、これは」
 机の上に置かれたコーヒーを見て、タウジ・ガネは声を上げる。
「カフェオレですわ、長官」
「それぐらい見れば分かる。私が頼んだのはブラックだぞ」
「もう朝から十杯以上、いくら何でも身体に毒ですわ。長官の胃は生身なんですからね。それとも、人工胃に取り替えます?」
 女性秘書ヘラは澄まし顔で答える。
「ブラックに入れ換えてきますか?」
「もういい」
 タウジ・ガネは、諦めたようにカップを口に運び、一気にのどに流し込もうとした。
「あちちちち……。俺に火傷を負わせる気か」
 タウジ・ガネは、放り出すようにカップを机の上のソーサーに戻した。
「慌てて飲むからですわよ。ロウギ・セトの動きが悪いからと言って、イライラしても始まりませんでしょ? 銀河連盟にもタワスの情報局にも、まだばれてないんですから、落ち着きなさいませ」
「ばれてたまるか。銀河中がパニックになる。未来曲線は限りなくゼロに近付いている。もう手をこまねいている暇はない。処理すべき問題はあまりにも多く、それに割ける時間はあまりにも少ない。それなのに、監視衛星のエリアから、ロウギ・セトの体内信号が消えた。奴め、裏切って逃げたのかも知れん」
 タウジ・ガネは、悪態を付いて言った。
「彼に限って、そんなはずはないと思いますけど?」とヘラが言った。
「奴を信頼しているのか?」
 タウジ・ガネは、ヘラをじろりと見て言った。
「長官もご存知でしょ? 彼にはそういう感情は無いんです。それより、カフェオレ、要らないんですか? 飲まないんなら下げますわよ」
 ふいに、机の上の 映話機(ヴィジ・フォン)がけたたましく鳴った。
「ガネ長官、ロウギ・セトから緊急通話です」
 映話機に映ったのは、オペレータの若い男の顔だった。
「よし、繋げ」
 タウジ・ガネは、にやりとして言った。
「それが、もう切れたんです。現在位置不明の為、至急座標を教えて欲しいと……」
「それで教えてやって通話を切ったのか。なんで直ぐに私に繋がなかった」
 タウジ・ガネが若いオペレータを相手に説教を始めた隣で、不意にヘラが奇妙な悲鳴を上げた。
 タウジ・ガネは、振り向いてヘラの方を見た。己の目に映ったものを見て、タウジ・ガネもまた絶句した。
「ガネ長官、どうかなさったのですか?」
 オペレータの若い男は、映話機の向こうで不思議そうに尋ねた。
「いや、何でもない。何かあれば、また連絡しろ」
 タウジ・ガネは、 映話機(ヴィジ・フォン)に向かってそう答えると、スイッチを切り、ゆっくりと後ろに向き直った。
 ヘラのすぐ横に、ロウギ・セトが立っていた。にこりともせず、 灰金髪(アッシュ・ブロンド)だった頭髪は、金色が抜けて灰色に近くなっている。左肩には、もう乾いているとは言え、出血した傷が口を開けていた。

「行方不明かと思ったら、いきなりテレポーテーションで御帰還とはな、ロウギ・セト」
 タウジ・ガネは、皮肉そうに言った。
 ロウギ・セトは、口を開いて何かを言いかけたようだったが、言葉を発する前に、崩れるように床に倒れた。

「気を失っています、長官」
 倒れたロウギの肩に手を掛けながら、ヘラが言った。
「心配いらん。バッテリー切れだろう」
 タウジ・ガネは、全く動じてはいないようだった。
「そんな、彼は機械じゃありませんわよ」
「単なるものの例えだ。本気じゃない」
 タウジ・ガネは、少し決まり悪そうにヘラから顔を背けて言った。
「長官、手を貸して下さい。彼を、取り敢えずソファに運びましょう。それから医療部に連絡して……」
 狼狽するヘラの腕を、気を失っていたはずのロウギの手が掴んだ。
「大丈夫だ」
 ヘラが、倒れたロウギに視線を戻すと、ロウギは目を開け、ヘラを見上げて自ら身を起こした。
「無理な移動をして消耗したが、直ぐに元に戻る」
「喋れるなら、大丈夫そうね。傷だらけになってそんな目で見られると、あなたが誰かを忘れて思わずクラクラしそうよ。でも、髪の色は、エラーラに立つ前の 灰金髪(アッシュ・ブロンド)の方が好みだったわね」
 ヘラは、安堵の息を吐きながら冗談を言って微笑んだ。
「髪の色?」
 ロウギは怪訝そうに繰り返した。
「そうよ。金色が抜けて灰色になっている。知らなかったの?」
「そうか。たぶん超長距離テレポーテーションのせいだろう。任務が終わったら元に戻そう」
 ロウギは、自分で立ち上がり、ヘラを見やった。
 ヘラには、いつも無表情なロウギが、微かに笑みを返したように見えた。

 タウジ・ガネが咳払いをした。
「邪魔して悪いが……」
 タウジ・ガネが不機嫌そうに言う。
 ヘラは、可笑しさを堪えきれずに吹き出しながら、ロウギ・セトの横から離れ、自分の椅子に向かった。
 そのヘラを横目に、タウジ・ガネはロウギ・セトに向けて続けた。
「……ロウギ、エラーラから突然消えた理由は何だ」
「敵の妨害。いきなり未知の宇宙空間に跳ばされたのです」
 ロウギ・セトは、ゆっくりとタウジ・ガネに向き直り、無表情のまま答えた。
「現在位置と転移先の座標が認識できていなければ、瞬間移動は出来ません。それで、緊急通話で確認する必要があったのです」
「緊急通話はどうでもいいが、跳ばされたとはどういう意味だ。エラーラにはサイ能力者が居たのか? その銃弾の傷も、そのせいなのか?」
 不審そうに、タウジ・ガネはロウギの傷を見やった。
「この傷のことなら、問題ではありません。弾は貫通していますし、接続を切りましたから痛みはありません。それよりも、アルティマの使用許可を。私の帰還の目的はそれだけです」
「アルティマの? アルティマは確かに銀河連盟最大級の人工知能だが、そのアルティマを以てしても、鍵となるポイント=目的点=宇宙崩壊の臨界点、それが辺境のセルム恒星系第三惑星エラーラにあるらしい、ということしか分からなかった。だからこそ、ロウギ・セト、お前が任務に選ばれたのだ。エラーラに戻れ。そしてポイントを見つけて消去するのだ。もう一刻の猶予もない」
 タウジ・ガネは、しかつめ顔で言った。
「ポイント=目的点なら既に見つけました。しかし、今エラーラに戻っても、ポイントの消去は不可能。状況は非常に複雑です」と、ロウギは答えた。
「簡単に行かないのは承知の上だ。しかし、この仕事はお前にしか処理できない」
 タウジ・ガネは、ロウギに向かってそう言うと、今度はヘラに向かって言った。
「ヘラ、傷の手当と、それから着替えを準備してやれ。この無頓着な男は血まみれのままでも平気な奴だが、周囲の者はそうはいかん」
「傷の手当の方は、ドクターに連絡しますか? それとも、絆創膏を貼って包帯を巻きますか?」
「取り敢えずは絆創膏でもガムテープでもいい。どうせ、見掛けだけの傷だ。別状は無い」
 ヘラはタウジ・ガネの言葉に頷き、部屋の外に出ていった。
「アルティマの使用許可を、長官」と、ロウギ・セトは繰り返した。
 タウジ・ガネは、ロウギの方に向き直って訊いた。
「アルティマを使って、何を調べるつもりだ」
 ロウギは、タウジ・ガネと向き合い、しばらくの沈黙の後に漸く口を開いた。
「私にしか処理できない仕事。普通の人間には無い能力。私は、ずっとラダス政府で仕事をしてきました。しかし、それ以前のことは何一つ記憶が無い。過去の私に関する一切の記録も無い。ガネ長官、私は誰ですか?」
 ロウギのその言葉は、タウジ・ガネの問いに対する返答にはなっていないように思えた。そしてまた、ロウギ・セトらしくない質問でもあった。
「私にそんなことを聞いても無駄だと知っているはずだが?」
 タウジ・ガネは、 (いぶか)しく思いながら言った。
「いいえ、長官。あなたは前長官から、私の報告を受けているはずです」
「確かに報告は受けている」とタウジ・ガネは答えた。
「お前に関する一切は、歴代の長官と一部の人間だけが知るトップ・シークレットだ。ラダスの宇宙船が偶然お前を発見した時、お前はすでにサイボーグ化されていた。ラダスの文明とは異質ながら、同様に高い水準を持った文明によってな。だからこそ、壊れた小型宇宙挺を棺代わりに、銀河標準時間で推定千二百年の間漂流してなお蘇生が可能だったのだろう。もっとも、その蘇生に際しては、新たなサイボーグ化を必要とした。そして、お前は生き返り、既に七百年が経過しようとしている。異質な文明による二度のサイボーグ化手術は、お前の身体を超時空的構造に変えてしまったらしい。元々何かの超能力を備えていたのかも知れない。その結果、お前は未来の一部を読み、空間を瞬間移動する。ロウギ、お前はロウギ・セトとしての七百年間の自分を知っているはずではないか。せいぜい百年程しか生きていない私に、一体何を語れと言うのだ」

「私を乗せて漂流していたという小型宇宙挺、確かテラの物でしたね」
 ロウギ・セトは静かに訊いた。
「今はもう無い星だ」
 タウジ・ガネもまた、静かに、溜息のように答えた。
「私はテラ人ですか?」
「さあ。テラという星がどこにあったのか、どういう星だったのか、記録は極わずかしかない。そしてまた、ロウギ・セトと呼ばれる以前のお前の記録もどこにもない。それに、今はお前の自分探しになど割ける時間は無いのだ」
 ロウギは、真っ直ぐな目をなおもタウジ・ガネに向けていた。
「私は、自分の記憶を取り戻すためだけに言っているのでないのです。ポイント=目的点はシェリンという娘。それは娘が“マナ”という特殊能力を持っているためらしい。その能力は、娘の前世がテラに生きていたことと関係している。そして、恐らくは、私もそれに関わっている。詳しく話している時間はありませんが」
 タウジ・ガネは、一瞬目を見開いてロウギを見た後、俯いていった。
「記録は無い。蘇生と共にお前の記憶は失われた。蘇生手術に関わった七百年前のコンピュータも、もう何百年も昔に廃棄されている」
「アルティマの中のどこかに、そのデータが受け継がれているはずです。そして、ナーサティアの謎を解く鍵も、きっとアルティマのデータの中になら存在するはず」
 ロウギは、哀しみを映したような青く深い眼差しを、窓から見える新緑の景色に向けて言った。
「ナーサティア? 何だ、それは」
 タウジ・ガネは顔を上げて訊いた。
「まだ分からない。謎が多過ぎる。しかし、ポイント=目的点を消去するためには、是非ともこの謎を解かなければならない」
「しかし、膨大なデータの中から、どうやって見つけるつもりだ。承知していると思うが、一刻を争う時なのだぞ」
「アルティマとの半融合アクセスを試みます。私にはそれが出来ます」
 タウジ・ガネは、息を飲んでロウギを見た。

 人工知能にアクセスする場合、キーボード入力によるアクセスが一般的であった時代もあったようだが、現在は音声言語によるものが一般的である。より高度に直接的なアクセスを求める場合には、誘導ヘッドギア装着による脳波アクセスも行われる。しかし、自らの身体を人工知能の中枢と一体化させることによる半融合アクセスは、普通の人間では成し得ない。

「分かって言っているのか? 機械の部分は耐えられても、生身の部分は耐えられまい。機械の部分さえも、許容量の限界を遙かに超え、機能停止どころか脳そのものが破壊される危険もあるのだぞ。そうならなかったとしても、膨大な電気的信号に変換された全宇宙のデータが、お前の頭脳コンピュータに津波のように押し寄せる。お前は押し流され、幾億京いやそれ以上の記憶の海の中に溺れ、自分を見失ってしまうかもしれない。そうなったら、アルティマに取り込まれ、記憶喪失どころか、ロウギ・セトとして戻ってくることすら不可能になる」
「私は戻ってきます」
 ロウギは静かに答えた。

 ドアがノックされ、ヘラが入ってきた。
「傷の手当と着替えの準備ができましたが」
「折角だが、後だ」とタウジ・ガネは言った。
「これから地下に降りる。保安部に知らせろ。アルティマを使用するとな」
 ヘラは、と胸を ()かれてロウギ・セトを見やった。
 地下に降りてアルティマを使用するということの重大さが、ヘラには分かっていたのだ。ロウギの表情からは、彼の気持ちなど推し量りようもない。しかし、ロウギは最早覚悟を決めているとヘラは察知した。
 ヘラは、無益な質問に無駄な時間を費やすようなことはしなかった。手際よく必要な手続きがなされ、アルティマ心臓部入り口のバリアは解除され、そこへ降りるエレベータのロックも解除された。三人は、そのエレベータに乗って地下深くに向かう。エレベータのカプセルは半透明で、周囲の鍾乳石のような岩肌が、不気味に過ぎっていくのが見えた。

 エレベータの終点は、地底の空間に作られた銀色の部屋であった。その部屋は肌寒さを感じる低温で、閉ざされた銀色のドアの向こうからは、静かな低い電気的な唸りが響いていた。
「もう一度訊くが、無事に戻ってこられる保証は無い。いいのだな」
 タウジ・ガネの言葉に、ロウギ・セトは黙って頷き、 躊躇(ちゅうちょ)無く銀色のドアの向こうに消えていった。

「ガネ長官、本当に良いのでしょうか?」
 ロウギの消えたドアを見つめ、ヘラは悲痛な面持ちで口を開いた。
「きっと彼は、アルティマに取り込まれてしまいます。彼は、人間というよりも寧ろコンピュータの端末に近い存在なんですから。そうなったら、一体誰にこの危機を収拾できるというのですか?」
「祈るしかないな」とタウジ・ガネは答えた。
「太古の人間は、危機に直面すると神に祈ったそうだ。神が存在するかどうかは知らないが、今出来るのはそれだけだ」


 ドアの中は、やはり一面銀色であった。機械的な装置は殆ど目に入らない。ロウギ・セトがゆっくりと歩を進めると、頭上から柔らかな光が降り注いできた。
「還ってきましたね、愛し子ロウギ・セトよ」
 荘厳な音楽のように、アルティマの声が響いた。
「上着を取りなさい。そして、そのまま奥へと進むのです」
 声に導かれるまま、ロウギ・セトは人工血液で汚れた上着をその場に脱ぎ捨て、奥へと進んだ。
 壁も床も眩しく発光していた。その光に方向感覚を失い、どこを歩いているのか、最早ロウギには分からなくなっていた。何かの窪みに身体が触れる。その途端、ロウギの身体は吸い込まれるように窪みに密着し、融合した。

 さらに眩しい銀の光が、幾千億の矢となってロウギの脳裏に押し寄せた。

しおり