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混雑した電車の中でも、最寄り駅から自宅マンションまでのひっそりとした帰り道でも、先ほど見た光景を思い出していた。
力づくで連れていかれそうになるところを別の男性に助けてもらうだなんて、本当に沢井ちゃんの言う通り少女漫画のようだ。
あんなこと、現実にあるんだなぁ。あの二人はどんな関係なんだろう。
これからあの二人の間に恋が始まったりするのかな?
それとも、もう恋人同士なのかしら。
そんなことを考えている内に、私の中にとうに手放してしまった恋への羨望がくすぶりだす。
「いいなぁ……」
唇から零れ落ちた心の声は、湿った夜気に溶けていく。
仕事と恋愛に精を出した二十代。
正直、若い頃はわりとモテたし、恋人だと呼べる人も何人かいたこともある。
それでもみんな、最後には決まって同じようなことを言って私に背を向けるのだ。
「麗香は強いから。俺がいなくても大丈夫だろう」
「麗香は一人で生きていけそうだよね」
そんな、ものすごく勝手で私からすればどうしようもない理不尽な言葉たちは、今でもしっかり胸に突き刺さっている。
恋愛なんて、もういらない。
思い切ってそう決めてしまえば、気が楽だった。
でも、こんな風に。たまに疼きだすこともある。
誰かを好きになりたい。誰かに深く愛されたい。大丈夫だよ、俺がいつもそばにいるからなんて甘くて頼もしい言葉を囁いてほしい。
手を握って、よりかかって甘えて、抱きしめあってキスをして。
独りじゃないって、思いたい。
部屋に帰るとやっぱり侘しくて。次の更新でペット可のマンションに引っ越そうかななんて思いながら、ぽいぽい服を脱ぎ捨てていく。
玄関からベッドまで何かの目印のように服が点々と転がっているけれど、気にしない。
だって、誰が見るわけでもないし。何もかもが面倒くさい。
掛け布団の上に脱ぎっぱなしにしてあった寝間着のTシャツだけかぶって、そのままベッドに勢いよく倒れこんだ。
あ、ちょっと頭痛い。やっぱり春ちゃんの忠告、聞いとくべきだったかなぁと毎度の後悔をする。
それでもそのまま眠ったりせずに体を反転させてうつ伏せになると、サイドテーブルからタブレット端末を引き寄せた。
YouTubeのアプリを開いて検索履歴の一番上を選んで検索。
『カラフルストリーム 佐久真 大翔』
五人組アイドルグループ、カラフルストリーム。略してカラストのヒロくん。あぁ、私の愛しい人。
大量に表示される検索結果の先頭に出てきた動画をタップする。
先週の音楽番組で新曲を披露する様子がタブレットの画面いっぱいに映し出された。
キャッチ―で運命の相手を想って紡がれるラブソングはアイドルらしい楽曲で、センターのヒロくんだけでなくカエデくんもリュウくんもソウちゃんもハヤトくんもメンバーみんなキラキラの笑顔を振りまきながら歌い踊っている。
今回の衣装、みんな明るい色で可愛いなぁ。ヒロくん似合ってる。
ヒロくんのパートで顔がアップでカメラに抜かれて、胸がきゅんとした。
うん。やっぱり私の隠し持った乙女心を萌えさせるものは、これだけでいい。
ヒロくんがこの世に存在してくれている。彼が歌やダンスやお芝居で活躍する姿を見ることができる。
それでいい。それだけでいい。
ヒロくんとの出会いは十年前。
その当時、付き合っていた男に「麗香は俺がいなくても大丈夫だよ」なんて、お決まりの独りよがりな別れを告げられて。
もう三十歳だったし、今度の人とは結婚するかもと淡い期待を抱いていたから、それはもうひどく落ち込んだ。
仕事に生きる!と無理して宣言してみたものの、周囲の人間たちの目には痛々しく映っていたかもしれない。
そんな時、学生時代の友人、紗栄子に男性アイドルのコンサートに誘われた。
一緒に行くはずだった人が、やむを得ない事情で来られなくなったという。
私は正直、アイドルのコンサートには興味が一欠けらもなかったので腰が重かったのだけれど、紗栄子に「絶対、楽しいから!」と半ば無理やり連れていかれることとなった。
芸能界で男性アイドルを売りにする事務所としては、最大手。
そのなかでもトップクラスの人気を誇るアメイズのドームツアーは、オリンピックレベルの四年に一度くらいしかチケットが当たらない、らしい。
芸能人に疎い私ですら、アメイズはメンバーの顔と名前が一致する。
すでに暑さが猛威をふるっていた七月の下旬、東京ドームへの道すがら、紗栄子は今回のチケットを取れたことがどれだけ奇跡的かということをずっと熱弁していた。しかもそれがツアー初日の昼公演、神席だとのことで鼻息が荒い。
「あんたのところ、まだ新婚じゃない。それなのにそんなに他の男に熱を上げるもんかね」と紗栄子の左手薬指に嵌る指輪を横目にため息をつくと「ホストよりは健全だし、旦那とは別物だもん」と豪快に笑われた。
東京ドームはツアーロゴの入ったツアーTシャツ、メンバーカラーだという五色――赤、青、黄、白、緑の洋服で着飾った老若男女でいっぱいだった。
みんな、手にペンライトや顔写真入りのうちわ、何事か文字が入っているうちわを持っている。
物珍しくて盗み見ると『投げKISSして』『バーンして』などの文字が躍っていて「おお、これがアイドルのコンサートか!」となんだか洗礼を受けたような気分だった。
私たちの席はメインステージを肉眼でも見ることができるであろうアリーナ席。左手に伸びる花道の真横だった。
席についた途端「やっぱり神席!死んじゃうかもしれない!」と紗栄子が小さく叫んだ。
――こんなので死んでたら、命がいくらあっても足りないって。
あの日はずっと彼女に呆れっぱなしだったのに、今の私には痛いくらいよく分かる。
もしも、こんなに間近で見ることができたら。もしも、ヒロくんのあの黒目がちな瞳と目が合うようなことがあれば、間違いなく私は死んでしまうだろう。
コンサートが始まると会場内の熱気が一気に増して、黄色い悲鳴が轟いた。
歓声と大音量の音楽で鼓膜がびりびり震える。空間が揺れるようだ。
アメイズが登場し、一曲目が始まるとより一層、歓声が大きくなる。
呆然と辺りを見回した。
こんなこと、あるんだ。好きのパワーって、すさまじい。
さすがに国民的アイドルグループと称されるだけあって、その曲は私でも知っていた。
アップテンポの片思いの始まりを歌ったラブソング。
耳心地の良い曲で、いつの間にか隣の紗栄子と同じように自然と手を動かしていた。
三曲目でメンバーが花道に移動して踊る。
紗栄子のお目当てのメンバーが、私たちの目の前で華麗にターンを決めた。
悲鳴を通り越し「ひっ」と息を飲む音が隣から聞こえる。
彼女がそのメンバーに釘付けになっている瞬間、私は彼の隣で踊る男の子から目を逸らせなくなっていた。
中学生、いや高校生だろうか。色黒で引き締まった顔は子供から大人へと向かう中間地点のあどけなさで、目鼻立ちがはっきりしている。
ダンスはきっとそんなに上手な方でもない。それでも、大きな身振り手振りで懸命に踊っている。
高校生の頃、恋をしたサッカー部の男子によく似ていた。
髪の毛から汗が散る。それすら煌めいていて、笑顔が眩しい。
まだ恋愛に疲れていなかった頃の、淡いときめきが呼び覚まされる。
懐かしい高校の校舎。教室の窓からサッカー部の練習をそっと眺める。仲間に囲まれながらグラウンドを駆ける彼。響き渡るチャイムの音。
一瞬、そんな風景が私の視界に広がったような気がする。
曲が変わると彼は私の隣の観客に手を振って、移動していった。
気付けば私はコンサートの間中ずっと彼のことを目で追っていた。
いい年して恥ずかしいとか、アイドルを斜に構えて考えていた自分が嘘のように必死だった。
コンサートが終わって魂の抜けかけた紗栄子を質問攻めにすると、彼は佐久真 大翔といい、まだ十五歳のバックダンサーだということが分かった。
アメイズの所属する芸能事務所は他にもいくつも男性アイドルグループを抱えているが、アイドルの研修生というのか、候補生というのか、子供たちを育てているらしい。
その研修生時代にはCDデビューを果たした先輩グループのバックダンサーとしてステージに立つ。
数多の研修生のなか、デビューできるのは一握り。
なかなかに過酷な世界だと紗栄子は言った。
話を聞くうちに、私の心に「彼を応援したい。デビューするのを見届けたい」という感情が芽生えた。
そこからはもう、清々しいくらいに急速に沼に落ちていった。