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(23)想いの沼底3

 最初のきっかけは、絵里子と知らない男がホテルに入るところを目撃してしまったことだった。
 平日の昼間——白昼堂々というやつだ。

 恐竜を絶滅させた隕石ほどの衝撃を受けた。当時としては人生最大の落ち込みようだった。
 今現在、その記録を更新中ではあるけれど。

 けれど、少し時間をおいて冷静に思い返したら、そのとき垣間見た彼女の表情から、決して彼女が望んでやっていることではないのではないかと考えるに至った。

 何か事情があるんじゃないか——。

 決定的な場面を見てもなお、そう思いたい自分がいた。
 それほど彼女の存在は大きかった。

 相手の男が絵里子が勤める会社の上司だということはすぐに分かったけれど、それ以上のことを自分で調べるには限界があった。それで興信所や探偵事務所を探したというわけだ。

 日坂は普通の浮気調査だと受け取ったようだった。だから、浮気の証拠集めなんてどうでもいいと強調した。どうして彼女があんなことをしていたのか。その事情が知りたいのだと。
 最初はそう伝えても(あわれ)みの目で見られるだけだった。
 ああ、探偵になんて頼むんじゃなかったと、後悔の念にかられた。

 それでも依頼はした。
 とりあえず一度調査をしてもらって、その結果を聞いてから判断しようと考えた。
 二度目の訪問時に通されたのが、二階の事務所ではなくこの夏雪という店だった。
 その時点での具体的な成果としては、ホテルに出入りする二人の写真が手に入っただけだ。
 だが、調査の過程で絵里子の人柄に触れたという探偵は、調査の続行を持ちかけて来た。

——確証はない。けれど、あなたの言う通り何か事情があるのかもしれない。であれば、もっと突っ込んだ調査をさせて欲しい。

 その申し出を一旦は断った。
 まだ日坂との間にそこまでの信頼関係もなかったからだ。単に金づるとして扱われる恐れもあった。何より、もう知りたくないことを知ってしまうのが嫌になったし、怖くなった。

 どんな事情があるにせよ、一度ならず彼女がほかの男とそういう関係にあることは事実だったのだ。それを自分が許せるとも思えなかった。
 どのタイミングでどう別れを切り出すか。気持ちはそちらに重心を移しつつあった。

 潮目が変わったのは、さらに数日後のことだ。
 日坂の方から連絡があった。

——例の彼女の件で、もう一度会って話がしたいんだ。こちらからそっちの都合のいい場所に出向いてもいい。

 その電話が直接のきっかけではない。
 電話を受けた段階では、もうそっとしておいてくれとだけ言って切ってしまった。

 だが、同じ日、絵里子の方から別れを告げられた。
 理由を訊ねたところで、彼女は本当のことなど言わないだろう。
 彼女との話もそこそこに、その場から立ち去る途中、日坂に電話を入れた。やはり会いたいと。会って、もう一度調査をお願いしたいと。
 彼女を失うことがいよいよ現実化して、やはり諦めきれない自分がいたということだろうか。
 日坂の方から先に電話を架けてきた理由を知って驚いた。

——実はな、別のルートから同じ調査依頼がきたんだよ。

 意味が分からなかった。

——立花絵里子と彼女の上司である石本部長との関係について調べて欲しいという調査依頼だ。

——そんな……いったい誰からそんな依頼が?

——彼女の直属の上司、次長の各務(かがみ)という男からだ。
 
 各務次長の名は何度か彼女の口から聞いたことがあった。その口ぶりから、どうやら社内では彼女が最も信頼を寄せている上司らしいという印象を持っていた。
 偶然にも各務は日坂の旧友でもあるのだという。
 だから日坂探偵事務所に依頼を持ち込んできたということらしい。

 上司と部下、二人の様子がどうもおかしい。さらには部署の経費の流れにもおかしなところがあるという。詳細を確認しているうちに、その二人というのが絵里子と(くだん)の部長と同一人物だということが分かったとのことだった。

 そんな偶然があるだろうか。
 神など信じてはいないけれど、ここが探偵事務所ではなく宗教団体だったとしたら、もしかしたら信者になってしまっていたかもしれない。

 通常であれば個々の依頼者の素性などは極秘扱いになるのだろうが、本件は両者が合意して合同調査という形になった。
 各務のことは信用できる。そう彼女から得ていた印象が後押しをしたことは否めない。

 その各務は、今の部署に異動してきた当初から二人のことを(いぶか)しく思っていたそうだが、そこに経費の不正な流れにも石本が関与している疑いが強まったという。
 本来ならまずは社内調査をすべきところだが、社内で事が公になった場合の絵里子の立場を案じて、友人の探偵に相談してきたのだという。

——はじめから探偵としての俺に調査してくれという話ではなかったんだ。どうしたらいいだろうかという、友人としての俺に対する相談だった。事を乱暴に扱って、社内での彼女の立場が危うくなるのは避けたいが、どう動けばいいのか分からないってな。それで、神堂くんからの依頼のことを各務にも伝えて——もちろんその段階で神堂くんの名前や素性は明かしてはいないがな——、俺に任せてくれないかということになった。

 各務と協力して、助手の春香を派遣社員として同じ職場に送り込むことになった。
 春香は佐藤千佳という偽名を使って仕事をしながら、まずは部長の不正経理の証拠集めを行った。 
 その経過報告を受けながら次の作戦を相談していた最中(さなか)、さらに嫌な連絡があった。

——立花さんから退職の申し出があった。会社を辞めて東京へ行くと言っている。

 各務が絵里子からその話を聞いたのがこの店だったので、先に絵里子を帰し、その足で二階にある日坂の事務所に相談に行ったようだ。
 退職の申し出を受けて、その場で慰留しても意味がないと感じた各務はとりあえず意向だけを聞いてその場は終わらせたらしい。

 恋人に別れ話をしても特に抵抗もされず、上司に退職の意思を告げても慰留もされない。彼女はさぞ落ち込んだことだろうと、自分の責任を棚に上げて可哀想になった。

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