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「これいいじゃん」

優菜が指したのは第一候補にしている物件だ。

「だよねー。私もここがいいと思ってたの」

会社からも近いし家賃も間取りも申し分ない。けれど何よりの決め手はシバケンの家まで電車が乗り換えなしの直通なことだ。シバケンも私もお互い会いたいときに会えるのだ。

「でもさ、一人暮らしなんかしないで柴田さんと一緒に住んじゃえばいいのに」

「うーん……」

それも考えた。けれどいきなりそんなことを言ってシバケンが困るのも嫌だった。シバケンは本気で私とのことを考えてくれているのはわかったけれど、急に話を進めて重荷になりたくなかった。彼が考えていると言ってくれたのだから急かしたくはない。

「優ちゃんも異動を前向きに考えたら? 人間関係はよくなるかもよ?」

「そうなんだけど……」

「私も総務課の仕事がやる気になってきたとこなんだ」

「あんなに嫌がってたのに?」

「他の部署とコミュニケーションが取れるようになったから面白くなってきたの。今まで知らなかった部署の仕事がわかって、特にレストラン事業部は楽しそう」

「ああ、確かに内勤は楽しいよ。店舗勤務はお勧めしないけど」

優菜には総務課の仕事は不満だと言っていた。けれどさすがにコネ入社だとは言えなかった。優菜も努力をして就職してきたのに、私だけ親の力だなんて恥ずかしくて申し訳なくもある。

「異動願い出してみたら?」

「え、異動?」

優菜の思いがけない提案に面食らう。

「総務の仕事も良し悪しがあるだろうけど、レストラン事業部は企画からオープンまで成長過程が楽しいからね。オープンしてからも改良していかなきゃいけないから、頭も使うしリサーチもし続けなきゃいけない。忙しいけれど充実はすると思うよ」

「異動か……」

「部署替えたいって言ってたじゃん? レストラン事業部にくれば?」

今までレストラン事業部で働く自分を想像できなかった。何かを望んではいけないと自然と思い込んで動けないでいた。

「このままうまくいくといいね。会社での生き方」

「お互いにね」

優菜も高木さんといい方向に進んでくれたらいい。





部屋の契約は今度の休みに行くとして、両親に家を出ることを伝えようと帰ると、父も食事に出ていて帰っていなかった。母に先に打ち明けると予想外に「頑張りなさい」と反対されることはなかった。

「お母さんからそれとなくお父さんに言っといてよ」

「そうね……」

父には直接言うつもりはない。私が黙っていても母はすぐにでも父に報告するのだろうから。父の反応次第では母の態度も変わり反対し始めるかもしれない。

早速荷造りを始めようと読まなくなった雑誌をビニール紐で縛っていたとき、リビングから「実弥!」と私を呼ぶ父の怒鳴り声が聞こえた。
ほら、母はもう父に報告したのだ。
父のどんな命令だって聞くつもりはない。無視してビニール紐をハサミで切ると再び私を呼ぶ煩わしい声がする。怒鳴り合いのケンカになることを覚悟で仕方なくリビングに下りるとスーツを乱した父がソファーに深く座っていた。

「なぜ今更一人暮らしをするんだ?」

酔っている父はいつも以上に横柄な態度だ。

「………」

「家を出ても援助するつもりはないぞ」

「いらないよ。一人で生活できるから」

「お前まさかあの警察官と住むんじゃないだろうな?」

「違うよ」

いずれはそうなるかもしれないけど、という言葉は言わずに飲み込んだ。

「まだ付き合っているのか?」

「別れないって言ってるでしょ」

何度この会話をしたら気が済むのだろう。私は父の思い通りに動くロボットじゃないのだ。

「家を出ることは許さない」

「え?」

「今更家を出てなんになる? 坂崎くんと住む家はお父さんが用意してやるんだから。それでいいじゃないか」

当たり前のように言い放った父に絶句した。新しい家に住みたいわけではない。父はそこを理解していない。まだ私を坂崎さんと結婚させる気でいる父が恐ろしくなった。シバケンの存在をどこまでも否定する。

「そうだ、今度こそ坂崎くんと食事に行きなさい。彼も実弥と会いたがっていたんだ。先日の失礼な態度を詫びてきなさい」

「お父さん、坂崎さんはお父さんの所有物じゃないの。もちろん私も。意志があるんだよ。話を聞いて」

父に説教をする日が来るとは思わなかった。けれどもう譲らないと決めたのだ。

「坂崎さんとは付き合わない」

「坂崎くんはそのつもりだぞ」

「嘘だね」

あの人だって父に逆らえないだけだ。私を本気で相手にしたいと思うはずがない。

「それがどうした」

「………」

「坂崎くんがお父さんの命令で実弥と結婚すると決めても、実弥を幸せにしてくれると信じているからいいんだ」

「なにを……言ってるの? 坂崎さんの気持ちはどうでもいいの?」

「坂崎くんと結婚すれば安泰なんだ。坂崎くんも自分の立場や将来を考えてのことだよ」

「バカみたい……」

私は坂崎さんのことを何も知らない。坂崎さんと結婚しても私が幸せとは限らない。坂崎さんは父に取り入るために好きでもない私と結婚する。父は私が望まない相手と一緒になることを望んでいる。

「理解できないよ……」

「実弥も坂崎くんを支えなさい。彼は今後会社に大いに貢献できる人材だ」

「嫌だ……」

「仕事も辞めていいんだ。家庭に入りなさい」

「お父さんが決めたくせに!」

早峰フーズに就職をと決めたのは父だ。勝手に就職先を決めて勝手に辞めろと言うのか。やっと現状を受け入れてきたのだ。私にしかできないことを見つけようとやる気になっていたのだ。

「事務なんて替えがいくらでもいるだろう。実弥じゃなくても問題ない。そのために異動させてもらったんだからな」

「え? 私の異動ってお父さんがお願いしたの?」

「そうだ。事務の中でも特に重要じゃないポストにしてもらったんだ。その方がスムーズに寿退社もできるだろう」

体が震えてきた。だから本来契約社員が多くいる総務課になったのだ。父と早峰フーズの役員が知り合いだからといって私の会社での位置を簡単に動かされては堪らない。そこに私の意志はまるでない。

「坂崎くんを支えるのは実弥だけだ」

この言葉に一気に怒りが湧いた。父が早峰フーズに入社しろと言って配属先まで決めたのに、勝手な都合で辞めろなんて酷すぎる。

「言いなりにはならない。私の人生を勝手に決めないで!」

「おかしいぞ実弥、どうして今になってお父さんに逆らうんだ。あの警察官がお前に悪影響を与えているんだな」

「そうじゃない!」

「あの男とは別れなさい」

「別れない!」

喉に痛みが走るほど怒鳴った。ドアの影から母が心配して様子を見にきた気配がした。

「実弥はお父さんに従っていればいいんだ」

父は静かに言った。

「嫌なら自分の力で生きてみろ。誰がここまでお前を育てたと思っているんだ」

「だから家を出るんだって。私はもう子供じゃないから。自分のことは自分で決める」」

冷たい声で吐き捨てる。でも父は無言で新聞を読み始めた。返事を期待したわけではないから私はそのままリビングを離れ2階に上がった。

こんな時に会いたい、声が聞きたいと思える人は一人しかいない。スマートフォンを操作してシバケンに電話をかけた。数秒間待つとブツっと音がしたかと思うと留守電に切り替わってしまった。今日彼は非番の日だから電話に出ないということは寝てしまっているのだろう。
徹夜で仕事をすることもあるという彼は非番の日は寝て終わってしまうそうだ。それならば寝かせてあげた方がいいかもしれない。今夜シバケンに連絡を取ることは諦めた。

けれど諦めたら一層寂しさを感じた。一人ぼっちだという事実が胸を締め付ける。「自分の力で生きてみろ」と言った父から逃げてきたのに、一人は嫌だとシバケンに頼ろうとした自分が情けない。

ここ最近の変化は私にとってはかなりの進歩だった。ようやく本気で仕事をし、自分の力で生活してみたいと思うようになってきたのに、会社を辞めろなんて言われるとは思わなかった。会社は私がいなくてもいいなんて、そんなことを父にだけは言われたくなかったのに。
今の私は仕事も、恋愛すら親に干渉される。それが情けなく恥ずかしかった。
きっと私自身や環境はシバケンとは不釣り合いかもしれない。そう思ってしまうことが辛い。
シバケンに会いたいな……。

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