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スマートフォンから着信を知らせる音が鳴る。画面を見るとシバケンからの着信だ。起きて着信に気づいて折り返しかけてきてくれたのだろうと応答した。
「もしもし、ごめん電話出れなくて」
シバケンの声は背景の音に妨害されて聞き取りにくい。どこか外にいるようだ。
「あれ、今家じゃないの?」
「ああ、実はまだ仕事中なんだ。今やっと休憩」
「そうだったんだ……お疲れ様」
そういえば警察関係者は今通り魔事件の捜査で忙しいはず。てっきり家で寝ているのかと思っていた。
「電話してくるなんて何かあった?」
「ううん……声が聞きたくなっただけ」
一瞬の沈黙の後に「それは嬉しいね」と電話の向こうの彼が笑ったのがわかった。
「実弥」
「何?」
「会いたいね」
この言葉に涙が出そうになる。シバケンの声はどこまでも優しくて私を安心させる。
「私も会いたい……」
精一杯の思いを込めて呟いた。シバケンに鼻をすする音が聞こえないように気を付けた。
「もう切らなきゃ。また連絡するね」
「うん。お仕事頑張って」
プツリと通話が切れた。その途端涙も出ないほどの虚しさが心を支配した。シバケンの声が聞けても今私の横にシバケンはいてくれない。寂しさでいっぱいになる。
「ふぅ……」
思わずため息をついた。
父に突き放されては私だって意地になる。今はそれほど嫌いではない仕事を手放すのは惜しいけれど、父の力で入った会社を辞めて転職だってしてやる。
けれど準備の時間が足りない。まずは住む家を確保して、転職活動を始めなければ。
自立する覚悟はできたけれどけれど、現実はすぐには自立できないのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
転職するには何から始めたらいいのだろう。きっと面接を受けたりするよりも、先に会社に退職願を提出するのが先だろうか。通勤時間にスマートフォンで求人を検索し、退職願の書き方を調べていた。
部屋の契約はいつにしよう。候補の部屋はまだ私以外に入居を希望する人がいないから待ってもらっている状態だ。会社を辞めるとなると部屋を契約するのも難しくなる。
自立するにはまず自力で新しい仕事を見つけて安定した収入を得られるようにならなければ。道のりは遠く感じる。
定時を既に1時間過ぎた今、フロアを見渡すと総務部の社員の半分が退社している。締め日を過ぎた今日は残業する理由がない。私だって他部署の社員が書類を出し忘れたりしなければ定時で上がれていたのだ。
けれど総務課に異動してから数ヶ月、恐れていたほど雑用の押し付けもなくなった。前任者の北川さんがそうであったように、うまくかわして効率の良い動き方がわかれば面倒だと思うことも少ない。
経理課の頃からさすがに締め日は無理でも普段残業することはあまりなかった。お給料も身の丈にあっている。気づくのが遅すぎたけれど私には良い条件の職場だ。それが自分の力ではなく父に決められた環境であることが悔しい。
卓上カレンダーで明日の予定を確認する。日付の横に小さく書かれた『△』のマークに頬が緩む。今日シバケンは非番の日だと気がついた。もし起きているなら今夜も電話したい。
シバケンの仕事のサイクルが一目で分かるように当直の日は『×』、非番の日は『△』、週休の日は『○』を日付の横に小さく書きこんでいた。非番や週休だからといって頻繁にシバケンに会うわけではない。お互いの休みが重なることが少ないので声だけでも聞ける可能性がある日だから心が踊る。
少しでも早く帰って夕食を食べてお風呂に入って、ベッドに潜ったら電話をするのだ。眠くなるまで彼の声を聞いて、お互いに「おやすみ」と言って彼の声を耳に残したまま眠りにつきたい。
家に着きドアに鍵を差し込むと施錠されていないことに気がついた。中には母が、恐らく父も帰ってきているだろうが、無施錠なんて無用心だなと呆れて中に入ると玄関には見慣れない男性用の革靴が揃えて置かれていた。その持ち主が坂崎さんであるとは容易に分かる。それを見て驚いたのは坂崎さんが来ていることにではなく、父が懲りずにまた我が家に招待していることに呆れたからだ。
もう帰ってきてしまったけれど、このまま外に出てどこかで夕食を済ませよう。また父とケンカになり、坂崎さんに嫌な思いをさせてしまうだろうから。
脱ぎかけたパンプスを再び履いてドアノブに手をかけたとき「実弥! こっちに来なさい」と父がリビングから私を呼んだ。帰ってきたことに気づかれてしまったようだ。呼ばれても行くものかとドアを開きかけたとき「実弥」と今度はキッチンから母が出てきて呼び止められた。
「おかえり。ご飯食べよう」
「外で食べるからいい」
「これから一人暮らしをしようってのに、外食してお金使うのはもったいないでしょ」
「………」
穏やかな顔をして私を見る母に言葉がつまった。
「無駄なことにお金を使わないで節約した方がいい。今夜はうちで食べなさい」
「でも……」
「坂崎さんは仕事の話でうちに来たのよ。実弥に会わせるためじゃないの。一緒にご飯は食べるけど、仕事が終わったらすぐに帰られるから」
「………」
珍しく私を説得する母に反抗する気持ちも失せた。
「話したくなければ何も言わなくていいから。でも坂崎さんには失礼なことをしてはだめよ。お父さんの会社の社員さんなんだから。あなたも社会人ならわかるでしょ」
「そうだね。わかった……」
ただ座って母が用意した食事を口に入れる。食べたらすぐに部屋に引きこもろう。母の説得に素直に応じた。しかし今まで口出ししてこなかった母がどうして今急にこんなことを言うのだろう。
「なんで今さらお母さんが間に立つの?」
母への疑問が湧いたところに「母さん! 実弥!」と私と母を呼ぶ声がリビングから飛んでくる。それに返事をしながら母は笑った。
「最近のお父さんは確かにやり過ぎね。お母さんも呆れるくらい」
母は腰の後ろに手を回し、エプロンのボタンをはずした。
「もう実弥の好きなようにやりなさい。お母さんは応援するから」
首にかけたエプロンの紐をはずすと小さく畳んだ。
「でもお父さんも実弥のためを思ってお節介しているのもわかってあげて」
「……そんなの迷惑だよ」
「二人で思う存分ケンカしなさい」
他人事のように言う母に再び怒りが湧く。
「いつだってお母さんは味方になるから」
この言葉にもう遅いと母を思わず睨んでしまった。味方になってほしかったタイミングはたくさんあった。子供の頃からだ。母の助言があれば、少しでも違った未来があったかもしれないのに。
返事をすることなくパンプスを脱いで母の横を抜けてリビングに入った。
「こんばんは実弥さん。お邪魔しています」
ソファーに座り書類を手にしながら坂崎さんは今日も爽やかに私に笑いかけた。
「こんばんは……」
坂崎さんは何度見てもうっとりするほど整った顔を惜しげもなく私に向けた。少し乱れた髪とネクタイの緩んだ首もとから見える鎖骨が色気を出している。
普通ならこの人と結婚するかもしれない状況なら喜んだかもしれない。もし私にシバケンがいなければ父に反発しながらも坂崎さんを受け入れただろう。裏の顔があるのではと警戒してしまう笑顔だって気にならなかったかもしれない。
テーブルの半分に母が作った料理の皿が並び、もう半分はノートパソコンや父の会社の資料だろうコピー用紙が散乱している。
「さあ、お父さんも坂崎さんも片付けてくださいね。ご飯ですよ」
母は刺身の盛り合わせをテーブルの真ん中に置いた。父と坂崎さんは慌ててテーブルの上を片付け始めた。そうして私だけが気まずい晩餐会が始まった。