3
「あの……直矢さん、私……」
「すみません!」
直矢さんは突然キスをやめると私の体を支えながら立ち上がった。
「え?」
直矢さんの一段高い位置に立たされ目線が同じになり、私の戸惑う目と直矢さんの焦った目が合わさった。
「気持ちを整理すると言ったのに、今美優のことしか考えていなかった」
直矢さんは髪を掻きむしった。
「僕はつい美優に触れてしまいたくなる……」
「直矢さん……」
直矢さんは自分に対して怒っているようだ。成り行きとはいえ私を抱き締めてしまい焦っている。
「あとは僕が運びますから戸田さんは戻ってください」
「でも……」
「もういいですから」
その声音は拒絶を含んでいた。今まで私を抱いて甘い声で名を呼んでいたのに、直矢さんはまるで別人のように何も言わず無表情でうちわを拾い始めた。
ぶつけたお尻が痛んだけれど、直矢さんのそばにしゃがんで一緒にうちわを拾った。そんな私を彼は一瞬見たけれど黙々と拾っている。
「すみません、私のせいで」
「とんでもない。手伝わせてしまったのは僕ですから」
抑揚のない声に気まずい関係にしてしまったことを後悔し始めていた。
結局最後まで2人でうちわを拾ってビルの前に止めた車に載せた。
「ありがとうございました。この後戻りは遅くなるので戸田さんは定時で帰ってくださいね」
「わかりました」
短い会話を終えると直矢さんの車が走り出したのを見届けた。
私は直矢さんが好きだ。直矢さんに愛され続けたい。
気持ちを整理してと言ったのは私だけれど、素直に直矢さんの言葉を信じればよかった。愛美さんの存在を勝手に不安に思ってるって正直に打ち明ければよかった。劣等感をさらけ出せばよかった。今それを伝えても直矢さんはこんなバカな私を許してくれるだろうか。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
遅くなってもいいから直矢さんを待っていようと決めたけれど、定時を過ぎて社員のほとんどが帰ってしまっても直矢さんは戻ってこない。もしかしたら直帰してしまうかもしれないないのに会社で待つ意味はないのではと思い始めていた。
明日から七夕祭りが始まる。直矢さんと行こうと決めていたのに、待ち合わせの話しも何もできていない。
帰ろうか迷っていると山本さんが出先から戻ってきた。
「あれ? 戸田まだいるの?」
「まあ……ちょっとだけサービス残業です」
ホワイトボードの自分の名前の下に『直行』と書いた山本さんは「ふーん」と興味なさそうに声を漏らした。
「戸田さ、俺結婚するわ」
「え? 誰とですか?」
突然の告白に間抜けな声が出てしまう。
「誰って、彼女とに決まってんだろ」
山本さんは驚く私に呆れている。だってチャラい山本さんが結婚するなんて思わなかった。
「相手は?」
「戸田も知ってるだろ、もう付き合って2年だぞ」
「ああ、カフェの……」
山本さんは会社の最寄りのカフェでバイトしていた大学生を熱心に口説いて付き合っていた。私は当時未成年だった彼女によく付き合いたいとアプローチしたなと呆れていた。2年も付き合っていたなんて山本さんにしては珍しいのに結婚なんて意外だ。
「でも彼女まだ若いですよね。確か20歳でしたっけ」
「いや、そろそろ22かな。でももうあっちは就職して落ち着いたし、そろそろいいかなって。あ、子供ができたわけじゃないから」
山本さんが彼女とのことを真面目に考えていたなんて本当に意外だ。短大生だった彼女を口説いていたときは本気だとは思えなかったのに。
「はぁ……山本さんも先に結婚しちゃうのか……」
私はイスの背もたれに寄りかかって体を後ろに反らして伸びをした。しかも彼女は22歳。そんなに若いのに私より早く結婚するなんて羨ましい。
「いや、お前らもそろそろじゃないの?」
「何言ってるんですか……全然無理ですよ」
今の直矢さんと私は結婚なんて考えられない。それどころか別れてしまうかもしれないのに。
「武藤は真面目に考えてるだろ」
「武藤さんの方が考えてないですよ」
私は自虐的に笑う。山本さんは首を傾げた。
「だって昨日指輪はどこで買ったのか聞かれたぞ」
「え?」
「婚約指輪。武藤が俺にどこで買ったのか聞いてきた。だから武藤も戸田と近々結婚を考えてるってことだと思ったんだけど」
私は驚いて山本さんを見つめた。いつものように冗談を言っているわけではなさそうだ。山本さんはいつものいたずらをする子供のような笑顔ではない。珍しく真面目な顔だ。
「それは私とじゃないかも……」
相手は結婚を考えた元カノってことは十分にあり得そうだ。
「バカかお前」
山本さんは呆れた顔で私に言い放った。
「武藤は戸田以外の女なんて眼中にねーんだよ」
山本さんの言葉に私は反論したくなった。
「山本さんが知ってるはずないです……」
2人は仕事上のライバルで性格も仕事のやり方も何もかもが違うんだから。お互いのことに興味があるはずがない。
「武藤が言ってたんだよ。戸田とは未来を見据えて付き合ってるって。俺と武藤よく飯食いに行くから」
「え? そうなんですか?」
「俺らは周りが思うほど仲悪くないから。戸田と付き合い始めてからはあんまり行かなくなったけど。でも武藤が言ってたのはホント」
知らなかった。関わりの少ない2人だと思っていたのにプライベートも話していたのか。
「だからさ、ここで待ってないで武藤のところに行けよ」
「別に待ってるわけじゃないです……」
「嘘つけ、無意味なサービス残業はやめろ」
山本さんには嘘がばれている。
「あいつまだ銀翔街通りにいるよ。今行けば会える」
「………」
直矢さんは私が会いたいと思ったときいつでも駆けつけてくれた。でも直矢さんが私を求めてくれたとき、私は直矢さんを突き放した。
本当に私は直矢さんに甘えて自分勝手に接していた。直矢さんはいつだってありのままの私を愛してくれていたのに。
「武藤も今戸田に会いたいと思ってるよ。行けって」
山本さんに後押しされて私は立ち上がった。
「山本さん、フロアの電気は全部消してってください」
「わかってるって」
「扉も忘れずに鍵かけてくださいね」
「了解」
私は「お先に失礼します」と言ってカバンを持ってオフィスを出た。
銀翔街通りは街灯とビルから漏れる明かりに照らされた七夕飾りが風に吹かれキラキラと輝いている。
七夕まつりの本番は明日だけれど立ち止まってスマートフォンで写真を撮る人が目立つ。
私は設置作業中に飾りが落ちた街灯の下で立ち止まった。スマートフォンを出して直矢さんに電話を掛けた。
「もしもし」
すぐに聞こえた声は疲れているようだ。
「お疲れ様です……」
「お疲れ様」
恋人同士のはずなのに事務的な挨拶で会話を始めるとはなんて寂しいのだろう。
「あの……私、今銀翔街通りにいます」
「え?」
直矢さんは驚いている。もうすでに帰ったと思っている私が来たのだから無理はない。私も自分の行動に驚いている。
「直矢さんは今どこですか?」
「君の前にいますよ」
その言葉に私は通りを奥まで見渡した。街灯と、揺れて光を反射する飾りと、車のライトで夜だというのに街は明るい。その中にこちらに向かって歩いてくる直矢さんの姿が見えた。
「どうしてここに来たのですか?」
「直矢さんに会いたくて」
数メートル先の直矢さんが微笑んだ。お互いの姿を確認しても電話を切らずに話し続ける。