バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ


「じゃあ一緒に住んでみるのはどうですか?」

田中さんの提案に武藤さんはピクリと反応した。私は「うーん……」と煮えきらない声を出した。

「同棲したら結婚を意識するようになるかもしれないですよ」

その可能性はとっくに考えた。正広の家にほとんど毎日行っていた時期もあった。でもその時にいっそ同棲をしよう、とはならなかったのだ。武藤さんのグラスは気づけばまた中身がなくなっていた。

「武藤さんすごい飲みますね」

そう言って私は立ち上がった。

「新しいビール持ってきますね」

話題を変えるいいチャンスだ。顔の赤い武藤さんが心配だけど私は従業員の女性の立つ壁際まで新しいビール瓶をもらうため歩いていった。

「とーだー」

同じく瓶ビールを取りに来たであろう山本さんに話しかけられた。

「武藤あんま酒強くないから飲ませすぎないようにな」

「え? そうなんですか? 自分からすごく飲んでますけど」

「あいつ何やってんだ……まあもうやめとけ。部屋まで運ぶの大変だから」

「わかりました」

山本さんは瓶ビールを自分のテーブルに置くと宴会場のステージに歩いて行った。従業員からマイクを受け取ると満面の笑みで会場を見回した。スピーカーから山本さんの声が響いた。

「えー皆さんもう既に盛り上がっていると思いますが、この宴会場でカラオケもできるということで、歌いたい人はどうぞー」

「山本さんってば……」

私の口から思わず呆れた声が出た。盛り上げようとするのはいいけれどカラオケなんてこの場ではみんな歌いたがらないだろう。そう思いながら瓶ビールを持って田中さんと武藤さんのいるテーブルに戻った。

「ビールお待たせしました」

「ありがとうございます……」

武藤さんは空になったグラスをまた差し出した。

「武藤さん、お酒弱いって聞きましたよ。もう飲まない方がいいんじゃないですか?」

ビールを注ぐのは何杯目だろう。武藤さんは顔も腕も赤くて目がとろんとしている。仕事したあと旅館まで長時間電車を乗り継いで、疲れた体に大量のアルコールを入れたら酔うに決まっている。

「武藤さん、大丈夫ですか?」

「………」

武藤さんは私の顔を見るけれど焦点が合っていない。完全に酔っている。その表情は色っぽくもあった。

「誰もいませんかー」

ステージの前に立った山本さんがカラオケを促しても誰1人歌おうとする様子は見られない。

「仕方ないな。じゃあまずは俺が1曲」

山本さんは慣れた手つきでリモコンを操作するとステージに上がった。

「踊れる人は一緒に踊ってくださーい」

山本さんがそう言った直後に曲のイントロが流れ始めた。周りの社員が次々と歓声をあげていく。その曲は普段テレビを見ない私でも知っているドラマの主題歌だった曲だ。男性シンガーソングライターで、ミュージックビデオやドラマのエンディングのダンスが個性的だと話題になった。ドラマが終了した今でも根強い人気の曲だ。
山本さんが歌いながら踊る姿に宴会場は盛り上がった。その内別の男性社員がステージに上がり山本さんと一緒に踊り出すと、数人の酔った社員も次々とステージに上がって踊り始めた。

「こら武藤! お前も踊れ!」

間奏に入ると強引に名指しする山本さんに武藤さんは面倒くさそうに手首を前後に動かし「こっちに振るな」とでも言うように山本さんに合図した。

「美優さん、私たちも踊りましょ!」

田中さんは勢いよく立ち上がると私の腕を掴んだ。

「え、え!?」

戸惑う私を無視して酔っぱらった田中さんはステージまで強引に引っ張っていく。このままステージに上がってしまったらもう踊るしかない。私は恥ずかしさを堪え見よう見まねで同僚と一緒に踊った。実際に踊ってみるとそれはそれで楽しいのだ。
曲が終わりテーブルに戻ると武藤さんは頬杖をついて口をほんの少し開けて眠っていた。
綺麗な寝顔だ、と見入ってしまった自分に引いてしまう。武藤さんが苦手なはずなのに、綺麗なものを目にすると感情さえも誤魔化せてしまうらしい。

「武藤さん? 寝ちゃいました?」

私の言葉に武藤さんは目を開けた。

「ああ、すみません起こしちゃって……」

「いえ……」

このまま寝てくれたらいいのにと思ったけれど残念だ。武藤さんが起きてしまってはまた緊張してしまう。寝顔を見ていた方が何倍も楽なのだ。

「武藤さん、大丈夫ですか? 部屋に行った方がいいんじゃ……」

「ダンス……」

「え?」

「可愛かったですよ……」

武藤さんは掠れた声でそう伝えた。これには目を見開いた。

「みんなノリノリでしたからね……」

「戸田さんが……」

「………」

私が可愛かった、そういう意味だろうか。そう解釈するのはあまりにも自意識過剰だ。だから何も返す言葉が見つからない。
武藤さんにそんなことを言われるとは思わなかった。私の横に座る田中さんも首をかしげた。

「武藤さん酔ってます? よね……」

田中さんが身を乗り出して武藤さんの顔を覗きこんだ。

「言いたいことは言葉にしないと男はわかんないんですよ」

「え?」

唐突に武藤さんは訳のわからないことを言う。

「恋人に会えなくて寂しいと思っているならそれを言わないと」

私は驚いて固まった。武藤さんは気だるそうだけれど言葉自体ははっきりとしている。

「あの……それ私に言ってます?」

「気持ちをちゃんと伝えないと遅いときだってあるんです」

「武藤さん?」

武藤さんの顔が赤い。けれどまっすぐ私をみている。先程までの焦点の合わない目付きとは全然違う。

「伝えてください、ちゃんと。彼氏に戸田さんがどう思っているのか」

「はい……」

力強い言葉に思わず頷いてしまった。武藤さんは私の返事に満足したのか下を向いて目を閉じた。

「意外です。武藤さんがそんなことを言うなんて……」

私の言葉に下を向いたまま武藤さんは目を開けた。

「あんまり話さない人なのかと思っていました」

浮いた話を聞かない武藤さんに正論を言われるとは予想外だ。武藤さんは恋人には気持ちをちゃんと伝える人なのだろうか。この人に好きだと囁かれたり、寂しいと甘えられたら喜ばない女性はいないだろう。
武藤さんは顔を上げたかと思うと突然立ち上がった。

「すみません、酔ったのでもう部屋に戻ります……」

「ああ、はい……」

武藤さんを引き留める者はいなかった。ふらつく足取りで宴会場を出ていく武藤さんを私は混乱しながら見つめていた。

「武藤さん、あれ相当酔ってますよ」

武藤さんと付き合いの長い田中さんですら武藤さんの様子に驚いていた。



いつの間にか宴会場から人が減り始め、私も田中さんら同僚とお風呂に入り直し、卓球をするという同僚と別れて自分の部屋に戻るところだった。
正広に社員旅行に来ている感想をLINEで送る。すぐには既読にならないことも慣れきってしまった。

思えば最近正広の方からLINEを送ってくることは減っていた。今までも何か用がなければ連絡を取らないでいたけれど、それは恋人同士と言えるのかという考えを振り払うことが日常になってきている。今が良い状況じゃないこともわかっていた。けれどどうしたらいいのかもわからない。

手に持ったバッグにスマートフォンを入れると自動販売機が視界に入った。お茶でも買って戻ろうと思い近づくと、自動販売機の奥から腕が出てきて驚いて動きが止まった。
旅館の誰もいない廊下で突然見えた腕に寒気がした。
大丈夫、ここは『出る』旅館じゃないもの。
自動販売機の奥の手が引っ込んだのを確認したので恐る恐る近づくと、見覚えのある男性が自動販売機に寄りかかって座っていた。Yシャツに濃紺のネクタイをした男性は武藤さんだった。

「武藤さん?」

しおり