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驚いて声をかけると武藤さんは顔を上げた。その顔は宴会場で見たときと変わらず赤く、目がとろんとして口は半開きだ。あれから2時間近くたつのに武藤さんがまだ酔っているのだと瞬時に理解した。

「大丈夫ですか?」

「………」

私の顔をじっと見つめたまま返事をしない武藤さんは呼吸が荒い。普段物静かで穏やかな武藤さんと、酔って弱る今の武藤さんが結び付かなくて戸惑った。さすがにこの状況はまずい。

「お水飲みましょうか?」

そう言うと私はバッグから財布を出して目の前の自動販売機で水のペットボトルを買った。

「どうぞ」

武藤さんの顔の前にペットボトルを差し出すと「ありがとう……」と小さく言って水を飲んだ。
そのまま立ち上がって歩き出した武藤さんはフラフラとおぼつかない足取りで今にも倒れそうな様子に不安になった。今の私は武藤さんに対する嫌悪よりもその不安の方が勝ってしまった。

「武藤さん、危ないので!」

そう言うと私は武藤さんの腕をつかんで自分の首の後ろに回し、武藤さんの体を支えた。武藤さんは意識が朦朧とするのか、突然の行動に何も言わず私の顔をただ見た。
今武藤さんが何を思っているのかはわからないけれど、私だって自分の行動に驚いている。
片方に武藤さんを、もう片方の手で自分のバッグを持って武藤さんを支えるのはかなり大変だ。
私も私だけど今日の武藤さんは何か変だ。宴会場で同じテーブルに座ったときから違和感はあった。あんなに会話をしたのも初めてならここまで距離が近づいたのも初めてだ。まさか武藤さんに自分から触れる日が来るとは思わなかった。でも具合の悪そうな武藤さんを廊下に放っておくことはできなくて体が先に動いてしまった。

「武藤さんの部屋はどこですか?」

「306です……」

肩に武藤さんの重みを感じながら306号室を探した。

「ありがとうございます……」

耳元で武藤さんが囁いた。私も小さく「いいえ」と呟いた。

「今日の武藤さんはいつもと違いますね。それとも、お酒を飲むとこうなるんですか?」

何気なく言った言葉に武藤さんは「すみません、ご迷惑かけて……」と言ったから慌てた。

「いいえ、迷惑とかじゃなくて……いつもよりたくさん話してくれるから」

さっきも正広に本音を伝えろと言ってくれた。

「この方がいいと思います。武藤さんと話すことあまりなかったので、新鮮です」

これは私の正直な思いだった。

「武藤さんはもっと思ったこととか気持ちを出していただけると鈍感な私には助かります」

何を考えているのかわからない、本心を言ってくれないよりも今夜の武藤さんならまだ私も心を開ける。これから一緒に仕事をしていくのなら尚のこと。できれば以前から私を避ける理由も知りたい。そして食事に誘う理由も。でも今の具合の悪い武藤さんには聞くのを躊躇う。

「こんな僕でもいいんでしょうか……」

「はい。いつもの武藤さんよりもよっぽどいいと思います」

少し嫌みを込めてしまったことを武藤さんは気づいただろうか。だって目も合わせない、会話もままならないで私は傷ついていた。自分が武藤さんにこんな態度をとられる理由がわからなくて不快だったことを反省してほしかった。

「あ、ここですね。武藤さん鍵ありますか?」

306号室の前に着くと武藤さんは私の肩に載せた腕を下ろしポケットに手を入れルームキーを取り出した。
焦点の合わない目付きの武藤さんでは鍵穴になかなか差し込めず、持っていたペットボトルも床に落としてしまった。私が呆れてペットボトルを拾い「貸してください」とルームキーを武藤さんの手から取り鍵穴に差し込んだ。
ドアを開けてそのまま部屋に入ろうとする武藤さんの腕をつかみ「靴脱いでください」と声をかけた。

「ふふっ」

思わず私は笑ってしまった。いつもは冷静で完璧に仕事をこなす武藤さんに靴を脱いでと言う自分がおかしかったのだ。
笑い声に武藤さんは振り返って私をじっと見た。武藤さんの部屋の中は暗く、まだ同室の同僚は戻ってきていないようだ。
私は「おやすみなさい」と言って部屋を出ていこうとした。そうして武藤さんに背を向けると突然後ろから抱き締められた。

「え?」

驚いて武藤さんの体を引き剥がすつもりで振り向くと、その勢いで体から武藤さんの腕が離れた。かと思えば武藤さんは私の体の左右に両腕を突き出してドアに手を付いた。顔を私の肩に押し付けたから身動きがとれなくなって体が震えた。背中はドアに、前は武藤さんの体と、左右を武藤さんの腕で遮られては逃げ場がない。

「武藤さん?」

「………」

武藤さんは何も言わない。あまりに急に拘束されて私は驚き、涙で目が霞んできた。

「ふぅ……」

武藤さんの荒い息が首にかかる。

「武藤さん……あっ」

武藤さんはゆっくりと私の首筋に唇を這わせてきた。

「ちょっ!」

あまりの事態に首を動かして抵抗するけれど、武藤さんの唇に軽く吸われる感触がした。
驚いて武藤さんの肩を思いっきり押したけれどカバンとペットボトルを持ったままで力が入らずびくともしない。

「やめて!」

私の叫び声にやっと唇を離した武藤さんは私を正面から見つめた。そのまま数秒間見つめ合った。武藤さんの鋭い目付きと荒い呼吸に完全に怯えていた。少しでも動いたら武藤さんに何をされるかわからない恐怖がじわじわと私を支配した。
武藤さんの顔が近づいてきた。けれど怯えて動けない私には武藤さんを拒絶することができない。
ゆっくり近づく顔と顔が数センチの距離になって私は更に震えた。

「武藤さん……放してください……」

声までも震えている。それでも武藤さんは私を拘束する。徐々に近づく武藤さんの唇を拒絶するように顔を背けると、武藤さんの手が私の顎に添えられ無理矢理正面を向かされた。

「やめて……」

目をぎゅっと閉じると武藤さんの唇が私の唇に触れてきて涙が頬を伝う。抵抗しようと武藤さんの肩を押したりシャツを掴んでみたものの、唇は離れず武藤さんの体は微動だにしない。私が抵抗しないようにか震える肩に武藤さんの手が置かれた。

「はっ……ん……」

口を無理矢理塞がれ息が乱れる。呼吸をしようと口を僅かに開いた瞬間武藤さんの舌が侵入してきた。

「んー! ん!」

胸を叩いても肩を抑えられているので力が入らない。武藤さんは私の下唇を舌でなぞる。その感覚にゾクゾクした。恐怖よりもどんどん怒りが湧き上がる。武藤さんを叩く手の力が抜けてカバンを落とした。
ほんのわずかに唇が離れた瞬間を見計らい、ペットボトルを持つ手首を振って武藤さんの顎にぶつけた。弱い力でも驚いたのか私の体から手が離れ、その隙に思いっきり突き飛ばした。顎を手で押さえながら驚いた顔をする武藤さんの顔に間髪入れず手を勢いよく振り上げた。パチンと乾いた音と手のひらの痛みが私の意識をさらに覚醒させる。

「ふざけないで!」

武藤さんにそう吐き捨てると落ちたバッグを拾い後ろのドアを勢いよく開けて部屋を飛び出した。叩かれて驚いたのだろう武藤さんは私が逃げ出しても追いかけてきそうにはない。
背後で部屋のドアが閉まる直前にドスンという音を聞いたけれど、振り返らず廊下を走って自分の部屋に戻った。
同室の社員はまだ誰も戻ってきていないようだ。暗い部屋に入ると中居によって布団が敷かれ、足の力が抜けて私はその布団の上に座り込んだ。
肩も手も震えが止まらない。まさかあの武藤さんに強引にキスをされるとは思わなかった。

許せない許せない許せない……。

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