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◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「戸田さん、昨日はありがとうございました」

「いえ、気にしないでください」

出社してすぐ武藤さんは私に近づいてきて昨日のお礼を言った。普段は私に近づかないように意識しているのかと思えば、今日は抵抗なく話しかけてくる。私に借りを作るのが嫌なのだろうか。

「お礼がしたいので今夜あいていますか?」

「え?」

「お食事でも……いかがですか?」

「………」

返答に困ってしまった。武藤さんに誘われるとは思わなかった。何かを企んでいるのではとさえ思えてくる。

「あの……今日は予定があるので……」

「じゃあいつならあいていますか?」

「あ……」

社交辞令の割には思いのほか食らいついてくる。私はどう断ろうか迷う。

「昨日のことは本当に気にしないでください……」

「そうですか……ではまた機会がありましたら誘いますね」

「はい……え?」

遠回しの断りの言葉も気づいていないようだ。意外にも武藤さんは諦めない。
私から離れていく武藤さんの後姿を見ながら混乱していた。
嫌いな相手を食事に誘うだろうか? もしかしたら嫌われているわけじゃないの? それとも私の自意識過剰?
武藤さんの考えていることがわからなくて薄気味悪いとさえ思ってしまった。





雪の予報も増えた2月の上旬。期限の迫った書類を処理した私は慌てて退社すると百貨店に寄り、正広や職場の男性社員のためにバレンタインのチョコレートを買った。
閉店時間のギリギリであまり選ぶ時間もなかったけれど、値段がちょうどいいものが買えた。

もう1週間以上も正広に会っていなかった。そんなことは珍しくないけれど、電話もLINEも一切しないというのは珍しい。
付き合ってからの期間が長いとはいえ会えないことを寂しく思い始めていたし、今度はいつ会えるのかもわからない。外食しようという話も結局まだ実現できていない。

正広にはこのバレンタインのプレゼントを今から渡しに行くのもいいかもしれないと突然思い至った。
フロアのエスカレーターの横に寄るとスマートフォンを出して正広に電話をかけた。

「……もしもし」

疲れた正広の声がスマートフォンを通して聞こえる。

「あ、私だけど今家?」

「……そうだよ」

「今から行ってもいい?」

「え? 今?」

電話の向こうで正広が焦った気配がした。その様子に私も残念な思いが胸に湧く。

「だめかな……?」

正広は私に会えないことを寂しく思っていないのかもしれない。なんて嫌な考えを頭から振り払う。

「いや、いいけど……飯もう食べちゃったよ」

「そっか……大丈夫。私は何か適当に買うから」

正広がもう夕食を済ませてしまったことにがっかりした。自分が正広の家で1人で夕食を食べる姿を想像したら寂しくなった。けれど突然行きたいと言ったのは私だし、正広に会えるなら1人で食べるくらい小さな問題だ。

「じゃあ今から行くね」

「おう」

電話を切って惣菜コーナーでおかずを買った。その辺のスーパーやコンビニよりも高くて躊躇うけれど、正広に早く会いたい思いが強くて無駄な時間は省略したい。自分の夕食を買う時間を削ってでも1分1秒でも早く正広の顔が見たかった。
付き合ってからの期間が長くても私の正広への想いは根強くなっていた。



パンプスの中で浮腫んだ足を引きずりながら小走りで正広の家の前に着くとチャイムを鳴らした。合鍵はもらっているけど部屋の中に正広がいるのに私から積極的に使いたくない。恋人とはいえ正広のプライベートに図々しく入り込むのは遠慮したい気持ちもあった。
部屋の内側から鍵が開けられ、ドアの向こうから髪がしっとりと濡れた正広が顔を出した。先にお風呂に入っていたのだろう。

「ごめんね急に」

「いいよ」

首にタオルをかけた正広はドアを大きく開けて私を部屋に招き入れた。

「米なら少し残ってるけど」

そう言って正広はキッチンに置かれた茶碗を差した。茶碗に盛られたご飯はラップをかけられ、内側に水滴がついている。まだ少し温かそうだ。

「じゃあいただこうかな」

おかずはあるのでお米があるのはありがたい。
正広は早く仕事が終わった日は自分で料理もする。お互い大学に進学してから1人暮らしを始めてもう8年になる。もしかしたら正広は私よりも料理が上手いかもしれない。

「おかずは買ってきたんだ。正広も食べる? ビールも買ってきたよ」

「じゃあ飲むわ」

ローテーブルに食器を並べて2人で座った。

正広は缶ビールを片手に時々つまみを口に入れて、バラエティ番組を見てゲラゲラと笑っている。私は正広と過ごすそんなゆっくりとした時間が好きだった。

「あ、渡し忘れるところだった。はい、バレンタイン」

カバンから先ほど買ったバレンタインのチョコレートの包みを出して正広に渡した。

「お、さんきゅー」

正広は綺麗に包まれた箱をよく見ないで包装紙を破っていく。百貨店のシンプルなロゴがプリントされた包装紙はそのプレゼントの可愛さを打ち消されるほどビリビリに破かれた。そして正広は箱から出したチョコを眺めることもなくすぐに口に放り込んだ。3種類のベリーがチョコでコーティングされたプレゼントは味の感想をもらえることすらもなく完食された。
何年前からだろう、手作りのチョコレートを渡さなくなったのは。こうやって見た目を重視しない正広に呆れたからだったか。

「ありがとう」

「どういたしまして」

正広が淡白なのは今に始まったことではない。元々の性格なのと付き合いの長さがそうさせる。

お互いに社会人になって4年。そこそこに貯金もできてきた。私は結婚しても会社を辞めるつもりはないし、会社は子供を産んでからも仕事に復帰できる環境がある。
チューハイを飲みながら私は2人の未来のプランをぼんやり考えていた。



後片付けをして正広の家の使い慣れたお風呂に入り、私専用のシャンプーやボディーソープで全身を丁寧に洗う。バスルームから出ると見慣れた柄のバスタオルで体と髪を拭く。以前に私が持ち込んだドライヤーを洗面台の引き出しから出して、いつものように髪を乾かした。置きっぱなしの歯ブラシで歯を磨いて、入念に鏡で自分自身をチェックする。そうして緊張しながら先にベッドに入ってしまった正広の布団にいつものように潜り込んだ。
背中を向けて横になっていた正広は私が布団に入ってくると弄っていたスマートフォンを枕元に置いた。
それを合図に私も体を横に向けて右に寝る正広のお腹に左腕を回す。額を正広の肩につけると後ろから抱きしめているような格好になった。
遠まわしに、けれど確実にわかるように誘った。
正広と最後に身体を重ねたのはいつだったのか思い出せない。それどころかキスだっていつ以来だろう。
長く付き合っていればスキンシップも減るのは仕方がないことかもしれない。けれど今日こそは愛情の再確認をしたいと私は意気込んでいた。
顔を上に向けて正広の首の後ろにキスをした。精一杯の愛情を込めたキスだ。けれど正広の反応はない。

「正広?」

「………」

左腕に力を入れて正広を強く抱きしめた。その私の腕は正広の手によって引き剥がされた。

「ごめん……今日はもう寝たいんだ……」

「……そっか」

私はショックを受けたことを知られないように静かに答えると正広から体を離して仰向けになった。正広から断られてしまってはもうこれ以上自分から行動なんてできない。

「疲れてるの?」

「……ごめん」

「うん……いいよ……」

予想外の展開に思った以上にショックを受けた。疲れているのは仕方がない。急に押しかけたのは私の方なのだから。でもまさか拒否されるとは思っていなかった。
それでも実感したかった。付き合いが長くてお互いの存在が当たり前になっているとしても『愛されている』と。
しばらくして正広の寝息が聞こえてきた。寝返りをうった正広の体は仰向けになり、左手が私の腰に当たった。本人の意思ではなくても正広から私に触れてきたことが嬉しい。こんな些細なことに嬉しさを感じるなんて惨めだ。右手でこっそりと私の体に当たる正広の左手を握った。強く握っても正広が握り返してくれることはない。

春を感じるほど暖かくなる日が増えてきたというのに、今夜は一際寒いと感じる夜だった。



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