4
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「戸田さん」
「……はい」
パソコンに向かう私の後ろから名を呼ばれて振り向くと武藤さんが立っていた。ぼーっとしていたせいで武藤さんが近づく気配に気がつかなかった。
「えっと……どうしました?」
先日食事に誘われてから武藤さんを自然と警戒するようになってしまった。近くに寄られただけでも緊張で体が硬直する。
「あの……」
武藤さんは手に箱を持ったまま何かを言いにくそうにしている。その様子に私は更に身構える。
「えっと……これ昨日出張した先のお土産なんですけど……」
「ああ、お帰りなさい」
「はい……ただいま……」
私の自然に出た「お帰りなさい」の言葉に武藤さんは顔を赤くした。自分で何気なく返事をした「ただいま」にも照れたように。
「それでこれはお土産です。1課の皆さんでどうぞ」
「わあ、ありがとうございます!」
武藤さんがおずおずと差し出した箱を受け取った。箱は大きいものと、その上に小さい箱が載っている。
「あの……小さいのは戸田さんに……」
「え……私にですか?」
「先日仕事をフォローしてくださったお礼です」
お土産は武藤さんが出張した先の県で有名なお土産だが、上に載る小さい方は去年スイーツコンクールで受賞したお菓子だ。特産品の卵を使用した焼き菓子は以前に食べたことがあり、受賞も納得の絶品だ。このお菓子は嬉しいのだけど、私にだけ別のお土産があるというのは増々戸惑う。
「ありがとうございます……私これ大好きなんです」
警戒しつつもお菓子のお礼は言わなければと精一杯の作り笑顔を見せた。武藤さんも照れたように笑った。
「それなら良かったです。こちらこそ、あのときはありがとうございました」
「いいえ……」
当たり前にしたことでこんなプレゼントをもらうなんて逆に申し訳ないほどだ。これで食事の話はチャラにしてくれているといいのだけれど。
「あ、そうだ。私からも渡すものがあります」
私は足元に置いたカバンから昨日百貨店で買った包みを出した。
「少し早いですけどバレンタインです。どうぞ」
私は手の平に載るほどの大きさの、リボンをかけられた包みを武藤さんに差し出した。
「あ……ありがとうございます……」
武藤さんはまた照れたように笑うと私から包みを受け取った。
イケメンで仕事ができて出世コースに乗った武藤さんは女性にもモテる。毎年バレンタインは何人もの女性社員が個人的にチョコを渡しているのを知っている。それなのに浮いた話は一切聞かない不思議な人だ。
私に見せる照れた顔をどう受け止めたらいいかわからない。
「何人かに配ってるんです」
思わず言わなくてもいいことを口走った。武藤さんにだけ渡したと思われたくなかった。
「今からチョコを配ってるんですか?」
「はい。バレンタイン当日は皆さん忙しいでしょ? それに社員旅行もありますし。だから今渡せるときに渡してるんです」
「男性社員全員には大変ですもんね」
「いいえ、さすがに男性社員全員には渡せません。武藤さんと、山本さんと、あとはほとんど幹部だけですね」
「そうですか……それは嬉しいな……ありがとうございます」
武藤さんは今までの私への冷たい態度からは信じられない機嫌の良さそうな笑顔で自分のデスクに戻っていった。
本当は課の違う武藤さんに渡すつもりはなかったのだけれど、思わぬお土産を頂いたお礼のつもりだった。女性社員が武藤さんに下心を持ってチョコを渡すとしても、私は武藤さんが苦手だ。
バレンタインなどの季節行事の際は会社が忙しくなる。この季節に商品を販売して儲かる会社も多いのだろうが、女性だからと気を遣って同僚に配らなければいけないバレンタインは金銭的にも少々苦痛だった。
本命チョコも呆気なく食べられちゃったし……。
昨夜正広に拒否されたことを思い出して気持ちが沈んでしまった。今朝起きてからもお互いにいつも通り朝食を一緒に食べて、いつもと変わらず出勤した。
社会人になったばかりの頃はお互いの家に泊まった翌日はいってらっしゃいのキスをしたものだ。そんな初々しさはもうとっくに消え去ってしまった。正広なんてきっと私との甘い思い出なんてきれいさっぱり忘れたのだろうけど。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
部長に会議室に来いと言われて私は足取りも重く会議室に向かった。呼び出されるなんてこの時期は人事異動の件に違いない。もしかして異動することになるのだろうか。今の環境が気に入っている。もし山本さんの下を離れて2課に配属でもされたら武藤さんに近づいてしまう。
「失礼します」
恐る恐る中に入ると部長はニコニコと笑顔で私を迎えた。
「戸田さん座って」
「はい……」
部長に促されて向かいの席に座った。
「田中さんが結婚することは戸田さん知ってる?」
「え?」
部長は何故か口元に笑みを浮かべて話を切り出した。田中さんは私の1歳下の後輩で武藤さん付きの営業2課の事務の子だ。彼氏がいることは知っていたけれど結婚するとは知らなかった。
「いいえ……知りませんでした……」
「田中さんが結婚を機に退職したいと申し出てきてね」
「そうなんですね……」
珍しいなと思った。夫婦共働きが増えた時代になったし、この会社でも寿退社なんて久しく聞かない。友人も同僚女性も結婚してからもそのまま会社に勤め続けるものだと思っていた。
「その田中さんの後任で武藤君のアシスタントは戸田さんにお願いしたい」
「え!?」
嫌な予感が的中して思わず大きな声が出てしまった。
「私……ですか?」
田中さんの後任ということは武藤さんと共に仕事をするということだ。武藤さんの考えていることがわからないし、私とタッグを組んだところで良い仕事ができるとは思えない。
「武藤君は来月からさらに大きなプロジェクトが入るし、サポートは戸田さんが最適だからね」
40代半ばの体格のいい部長は笑顔で私を見る。
「でも……山本さんは?」
私が武藤さんのアシスタントに回れば山本さんが困ってしまう。この先山本さんも大きなプロジェクトを担当する。私もそれに向けて準備を進めていた。課長2人の業務を兼任するなんて私には自信がない。
「山本君には新入社員の子をつけるよ。慣れるまで大変だろうからサポートでもう1人事務をつけるけど、それは戸田さんじゃない他の人にやってもらう」
ではもう私が武藤さんの営業事務をする決定は覆らない。不満と不安が混じった顔をしていたのだろう。部長は私に困った顔を向けた。
「あの武藤君の下につけるんだ。戸田さんにとってもメリットはある。やりがいのある仕事ができるチャンスだよ」
部長の言葉に苛立ちを覚える。今山本さんの下についていたってやりがいのある仕事をしているつもりだ。確かに武藤さんの方が派手な案件をいくつも持っている。大手顧客も多い。けれど山本さんも成績は抜群だ。