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◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



仕事が一段落した午後、私のデスクの上には取りかかっているイベントの資料が広げられている。それにうんざりしながらコーヒーが飲みたくなって立ち上がった。

「コーヒー淹れますけど飲みたい方いますか?」

フロア全体に通るように声を大きくして聞いた。今フロアにいるのは営業部の数人と事務の子と合わせて20人くらいだ。その中で手を上げてくれたのは4人だった。

「戸田さんありがとー」

「美優さんすみません」

「いいえー」

お礼を言ってくれる人に返事をしながらフロアから出て給湯室のドアに手をかけたとき、通路の奥のエレベーターから営業の武藤さんが出てきた。

「あ……おつ、かれさま……です」

苦手な武藤さんの出現に一瞬言葉を失ったけれど、挨拶をしなければと精一杯言葉を振り絞った。

「ああ、戸田さん……お疲れ様です」

武藤さんも一瞬だけ顔が曇ったのを見逃さなかった。やっぱりこの人は私を嫌っているのだ。そう感じずにはいられない。そうして彼は私を避けるように足早でフロアへ入っていった。

同じ営業部だけど武藤さんとは過去にも挨拶程度しか会話をしたことがない。営業2課の課長で営業成績のいい会社の期待のエースだ。おまけに長身のイケメンで頭の回転が速い。イベント企画を次々と成功させている、取引先にも評価の高い人だ。性格も穏やかで人付き合いもいい。それなのに私にだけは違う。それがどうしてなのかはわからないけれど。

給湯室に入ると自分の分と手を上げた4人分のマグカップを食器棚から出した。武藤さんにもコーヒーを淹れるかを聞きそびれてしまった。できれば武藤さんの分は淹れたくない。でもここで持っていかないとますます私のことを悪く思って一層冷たい態度になるかもしれない。
あの人さえいなければ会社の人間関係に文句ないのにな。
たかがコーヒーなのに武藤さんに気を遣わなければいけないと思うことが堪らなく嫌だった。
もしかしたら飲むかもしれないからと結局武藤さんの分と合わせて6個のカップを出した。インスタントコーヒーの粉を入れてお湯を注いでトレーに載せるとフロアへ運んだ。

「どうぞ……」

私は武藤さんのデスクにカップを置いた。

「え? 戸田さんが淹れてくれたんですか?」

「そうですよ」

驚く武藤さんについ素っ気なく答えてしまった。

「僕にもですか?」

イスに座った武藤さんは目を見開いて横に立つ私の顔を見上げた。

「はい。いらなかったですか?」

やっぱり武藤さんはコーヒーをいらなかったのか。余計なことをしてしまったとカップを下げようとすると、

「あ、いえ、嬉しいです。ありがとうございます!」

と武藤さんは慌ててカップの取っ手に指をかけた。なぜか焦ったような様子がおかしくてつい笑った。武藤さんはそんな私を見つめた。

「すみません……」

私が笑ったことで武藤さんが気分を害したら大変だと謝り、にやけた顔を必死で真顔にする。私が慌てても武藤さんは怒った様子はなく、意外にも少し照れたように笑うと再び「ありがとうございます」と言ってカップに口をつけた。
イケメンはコーヒーを飲むのも絵になるなと惚けたけれど、すぐに自分を嫌っている人の前に立つことは疲れると実感し、私は武藤さんのそばを離れた。
コーヒーを淹れたはいいものの、こんなに疲れるのでは淹れなきゃよかった、近づかなきゃよかったと後悔していた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



定時を過ぎると社員が次々と退社していく。正広の家に行きたいから早く帰りたいのに、山本さんがまだ会社に戻らない。先に帰るのも悪い気がして資料の整理をして連絡を待っていた。
フロアに電話が鳴る音が響いても残った社員は積極的に受話器を取ろうとしなかった。定時を過ぎてかかってくる外線にはみんな出たくないのだ。

「もう……」

私は不満気味に呟いて仕方なく電話に手を伸ばしたけれど、それより早く前のデスクに座る同じく営業事務の後輩が受話器を取るのが早かった。後輩は用件を聞くと「申し訳ありません」と電話の相手に謝っている。何かトラブルがあったようだ。眉間にシワを寄せて電話応対する後輩の顔は、何度も謝罪をする度にどんどん暗くなっていく。

「大丈夫? 何かあった?」

電話を切った後輩を心配して声をかけると顔がますます不安そうになった。

「美優さん……武藤さんの顧客から至急データを送り直してほしいって言われたんですけど、どのことかわかります?」

「え? 至急?」

ホワイトボードを見ると昼過ぎに外出した武藤さんは直帰になっている。武藤さんの企画の多くを担当している営業事務の田中さんもさっき帰ってしまった。私には武藤さんの企画のデータなどさっぱりわからない。

「わからないな……武藤さんか田中さんに聞かないと」

「そうですよね……」

後輩は困ったように言うと壁掛け時計を見た。既に定時は過ぎていて、後輩は今帰り支度をしているところだった。

「じゃあ私聞いてやっとくよ。まだ山本さん戻らないから帰れなかったし」

「いいんですか?」

「いいよ」

「ありがとうございます!」

何度もお礼を言う後輩を笑顔で帰らせて田中さんの携帯に電話をかけたけれど、何度コールしても繋がらない。営業1課の私は営業2課長の武藤さんの仕事は把握していない。嫌だけれど仕方なく今度は武藤さんの携帯に電話をかけた。

「はい、武藤です」

武藤さんは数秒のコールですぐに繋がった。

「あ、お疲れ様です、1課の戸田です」

「……戸田さん?」

「はい、今電話大丈夫ですか?」

「ああ、はい……」

武藤さんは私が電話を掛けてきたことに驚いているようだけど、今は事情を深く伝えている余裕がない。

「武藤さんの担当顧客で田中さんが先週提出された商業ビルのオープニングセレモニーの提案書ですが、今連絡があって2回目の提案書をもう1度送ってほしいそうです」

「え、もう1度ですか?」

「2回目の提案書で決定したのに、田中さんが送ったのは最初の提案書だったみたいで……」

「あー、間違えちゃったのかな」

受話器の向こうで武藤さんは呑気な声を出した。

「そうみたいです。田中さんももう帰っちゃって電話が繋がりません。先方は急いでいるようです」

「じゃあ僕が今から会社に戻るので送ります」

「え? でも武藤さん今日は直帰なんじゃ……」

「仕方ないです。今僕から先方に電話して何とか今日中に送るので、会社に戻る間だけでも待ってもらえるようにお願いしてみます」

武藤さんは全く焦っていない。いつも冷静、それが武藤さんの特徴である。

「あの、私でわかることであれば今先方に送りますよ?」

「え?」

「メールで添付すればいいんですよね? 私がやります」

私でもできる。わざわざ武藤さんが会社に戻ってやることでもない。

「でも……申し訳ないので……」

「いえ、大丈夫ですよ。まだ私も会社に残らなきゃいけないので。こちらのミスですから早くやった方がいいかと思いますし」

「じゃあお願いします。営業の共有サーバーに僕の名前のフォルダがあります。その中の商業ビルの名前のファイルがそうです」

「えっと……」

私は左手で受話器を持って右手でマウスを動かした。武藤さんに言われた通りのフォルダに提案書のデータがあった。

「ありました! じゃあこれを送ります」

「本当にすみません……」

「いいえ、これくらいはお手伝いできますから」

「今度何かお礼でも」

「そんな、別にいいですよ」

珍しくお礼をすると言う武藤さんに笑ってしまった。2課の担当とはいえこれも営業事務の仕事なのだからフォローして当たり前だ。私だって他の社員に助けられながら仕事しているのだから。それに、武藤さんにお礼をされるのも怖い気がしてしまう。

「ではお疲れ様です」

「本当にありがとうございます。お疲れ様です」

武藤さんは電話を切る直前まで申し訳なさそうな声だった。私の方が後輩で年齢だってもちろん下なのに、いつもの態度からは信じられないくらい武藤さんは低姿勢だ。仕事はできるのに自慢したり高圧的な態度もとらないから敵もいないのだろう。
電話を切ると武藤さんからすぐに私のパソコンにメールがきた。提案書を送る相手の担当者の名前とメールアドレスが記載されている。細かい気配りができることと仕事の早さも彼の魅力と言える。
指示されたファイルを指示された宛先へ送ったところで営業の山本さんが帰ってきた。

「ごめんな戸田ー、契約書もらってきたからこれだけコピーよろしくー」

長身の山本さんはデスクに座る私の前に書類の束を置くために屈んだ。

「かしこまりました」

私はコピーをとるために立ち上がった。厚い書類をよこした本人は紙カップに入ったコーヒーを飲んで呑気にスマートフォンを弄っている。
山本さんも社内で有望の営業の1人。武藤さんと同期で営業1課の課長だ。そのせいか武藤さんと常に仕事を競い合っている。武藤さんと山本さんのどちらが先に営業部次長になるかを他の社員は話題にしている。

山本さんの指示通り契約書を複数コピーし、『コピー』の文字の赤いスタンプを右上に押すと部長のデスクの上に置いた。そうしてやっと私も退社することができた。


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