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第六話 不安な想いを、雨に流して

 「おはよう、早苗」
 目の前に現れた昨日とは雰囲気が違う優衣に、一瞬言葉が出てこなかった。慌てて挨拶をして、そのまま席に向かっていく彼女を目で追った。
――また明日ね、早苗ちゃん
 ただ昔の呼び方に一度変わっただけでこんなにも意識をしてしまうのは、きっとあの日からずっと優衣との距離には一際敏感だった私の癖なんだろう。昨日はきっと少し疲れていただけだったのだと安心してふと空に目をやると、どんよりとした雲が広がり始めていた。
 お昼休みになって少しどきどきしながら彼女に声をかけると、私とお弁当を食べるために机の上を片付けているところだった。ほっとして彼女の前にある椅子をくるりと回し、二人でお弁当を広げ始める。包みの結び目を解く彼女の手の甲に昨日気が付かなかった傷を見つけて、思わず右手を伸ばした。
「優衣、また傷が……」
 私が手で触れた瞬間に彼女は手をそっと引いて、顔を逸らしながらまた「大丈夫」とだけ言った。かさぶたにもなりきっていない傷を見て、私の鼓動がまた強く鳴り始める。
「そうだ優衣、久しぶりにうちの卵焼き食べて! 今日はうちのお母さんが会心の出来だって言ってたから」
 悲しい空気を変えようと美紀の真似をして明るく笑うと、優衣は私の顔を見て頷きながら笑った。ちっとも幸せそうじゃないその笑顔を見て、いつも通りの優衣であることに安心する。
「じゃあ、早苗も私の卵焼き食べて」
 お互いに美味しいねと笑い合う時間さえいつも通りで、それが私に「昨日の優衣」について話すタイミングを失わせた。昨日が信じられないくらいの小さな弁当箱を、昨日よりも長い時間をかけて優衣は空にしていた。
「さな先生! 宿題お願いします!」
 弁当箱を片付けようと包んでいると、美紀が私たちの席にやってきた。仕方がないなぁと笑いながら席を立った私の後ろを、美紀が笑いながら付いてくる。自分の席に戻って宿題を渡すと、昨日家に帰ってからもずっと仲間と幽霊について語っていたのだと話しながら、私の宿題を写し始めた。
 「さながいてマジで助かったー。あ、お礼にこれあげるー」
 美紀は宿題を写し終わると、ポケットから取り出したいちごの飴を私に二つくれた。お礼を言って受け取り、座ったまま右手を鞄の中に入れたとき、昨日鞄に入れたキーホルダーが見えた。そう言えばまだお礼を言えていないことを思い出して優衣をちらりと見てから、美紀に話しかけられて視線をまた戻した。
 放課後まで学校にいた優衣に声をかけて、下駄箱まで一緒に行く。靴を履きかえてドアに向かった足を止めたのは、ざーっという雨の音だった。
「あ、私折りたたみ傘あるよ。優衣は?」
「あー……、今日は持ってきてないや」
 申し訳なさそうにする優衣に一緒に入ろうと言うと、優衣はお礼を言って、また悲しそうに笑った。ごそごそと折りたたみ傘を出そうとすると美紀にもらった飴が出てきて、空を眺めていた優衣に一つ渡す。
「二個あるから、舐めながら帰ろ!」
 小さな傘を少し優衣の方に傾けたまま玄関から外へ出る。校舎を出てすぐ見えた狂い桜を見て、私は傘にあたる音に消されないよういつもより大きな声で話しかけた。
「昨日、学校の七不思議にそこにある狂い桜が出てくるって聞いたの。昔そこで亡くなった人がいて、それからあんな風に咲くんだって」
 私がそう言うと優衣は「そうなんだ」と俯く。口の中の飴を転がしながら優衣の足もとを見ると、小さな歩幅で上手くタイミングを合わせながら、足元にある水溜まりを踏まないよう注意して歩いているようだった。雨の中でも咲き誇るその桜を横目に私たちはいつもの分かれ道へと差し掛かる。家まで送るよと言った私に優衣は驚いた顔をしたけれど、視線を私の右肩に向けてしばらく考えてから、少し照れくさそうに頷いた。もう一度目を合わせると彼女は傘を持つ私の左手を上から握り、右側へと少し倒した。
「送ってくれるなら、家までは早苗が濡れないようにして」
 なぜだか熱く火照った優衣の小さな手が私の左手から離れると、優衣は前を見て歩き出す。遅れないようにと私も歩き出しながら、優衣の優しさに口元を緩ませた。
「そういえば優衣、昨日は大丈夫だった? 何か、辛いこととかしんどいこととかあった?」
 雨の音に紛れるようにとタイミングを見計らって出した声は、肩が触れ合った優衣に寸分の遅れもなく伝わっていた。
「昨日? あ、うん。大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、早苗」
「何かあったら、いつでも言ってね」
 弱まることのない雨音の中に、優衣の「ありがとう」が優しく混じり、口の中のいちごの甘さがより一層強くなった気がした。優衣の足が止まったのにつられて立ち止まると、そこはもう優衣の家だった。子どもの頃見た一軒家はもっと大きなイメージだったのにと思い出に浸っていると、優衣は右手を小さく私に振ってから、勢いよく傘を出て玄関の柵を開け敷地に入った。はっと我に返って声を上げる。
「優衣! キーホルダー嬉しかった! ありがと!」
 柵を閉じて玄関へ飛び込んでいた優衣は私を振り返って、左手を胸に押し当てながら離れた距離を埋めようとしたのかいつもよりも大きな声を出した。
「良かった! 絶対早苗に似合うと思って!」
 ルーズリーフに書かれていたものと全く同じ言葉を聞いて、思わず笑った。
「昨日体調悪そうだったけど安心した。あんまり食べ過ぎちゃだめだよ! じゃあまた明日!」
 くるりと背を向けて元きた方へと歩きながら、折りたたみ傘の下で一人笑顔になる。降り続く雨の下、キーホルダーを付けた通学鞄を頭の中で思い描いてから、口の中にあった飴をカリッと噛んだ。心なしか、歩幅は少し大きくなっていた。

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