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プロローグ2 過去・「行かないで」

「行かないで」

 あの時の奈都(なと)の必死な顔を、大志は今でも覚えている。



 一年前。場所は穂住町(ほすみちょう)のある通り。時間は早朝だった。
 警察病院から退院した次の日、大志は簡単な荷物だけまとめて、そっと警察寮を出た。
 朝霧(あさぎり)が立ち込める、ヒヤッとする空気の中。なんとなく足音を忍ばせて駅へ向かう。
 まだ首を()められているような感覚が残る首をさすった。だけどその感覚は振り払わず、むしろじっくりと味わう。
 己の中に生まれた憎悪が、(かす)んでしまわないように。

「行かないで」

 まだ商人や農民さえも目覚めていない時間。
 その声は明らかに大志に向けられたものだった。声で人物の検討(けんとう)はつく。大志は(みょう)に静かな気持ちで振り返った。

大志(たいし)、ハルカの(かたき)を取りに行こうとしてるんでしょ?」

 栗毛色(くりげいろ)の髪。薄い体。口調や仕草は女性だが、声は男のもの。
 体と心の性が一致していない、大志の幼馴染。奈都は震える声を必死に(おさ)えて、冷静に言った。

「行かないで。ここにいて。大志がいなくなったら、ツバメはどうするの? ツバメ、すぐどっか行っちゃうけど、それは大志っていう帰る場所があるからなんだよ? お仕事はどうするの? 佐江島(さえじま)さんが困るよ」
「…………」
「私もいやだよ。大志。ね、行かないよね? だって、みんなで約束したでしょ、『三人で協力して生きていこう』って。覚えてるでしょ? あの日、この町の駅のホームに降りた時だよ」
「……………」
「ね、大志、なにか言って。行かないって、ちゃんと言葉にして。行かないよね?」
「…………………」

 大志の口は、一向(いっこう)に動く気配はない。
 どこかぼーっとしたような、遠くどころかなにも見ていないような、そんな目をしている。
 奈都の声もちゃんと届いているかわからないような様子(ようす)だった。
 この状態の大志を、奈都は何度か見ている。
 怒りや悔しさ、悲しみが一気に高まってごちゃごちゃになった時の顔だった。
 孤児院にいた頃、奈都が(この)んで伸ばしていた髪を切られて泣いていた時のことが頭を駆け巡る。その子供は肋骨(ろっこつ)まで折る大怪我をした。大志はその時、ただ静かにその子供を殴っていた。無表情で、(にら)むでも怒鳴(どな)るでもなく。
 ただ無表情で、冷静に子供を殴り続けていた。
 その(さま)に、奈都の涙はすぐに引っ込んだ。大志を止めなければと思って泣くことも忘れた。
 今の大志は、あの時にそっくりだ。

復讐(ふくしゅう)なんて、したって仕方ないよ。大志が危ない目に()うほどのものじゃない」

 その言葉だけは、すんなりと大志の中に入ったのだろう。

「………復讐が、仕方ない……?」
「そうだよ、だって、そんなことしたってハルカは帰ってこない。大志が元気でいることのほうがずっと大事だよ」

 やっと反応と言えるものを見せた大志に、奈都はたたみかけるように続けた。

「私だってハルカが死んじゃったのは悲しいよ。殺した人のこと、絶対に許せない。だけど、私は大志のことも大切なんだよ。大志まで失ったら、もうどうしていいかわからない」
「俺は、そいつを殺して、ちゃんと帰ってくる」
「そんなのわかんないよ、げんに入院までしたじゃない!」
「今度は必ず殺せる‼︎」

 普段あまり聞かない大志の怒鳴り声に、奈都は肩を震わせた。
 大志の開ききった瞳孔(どうこう)が揺れる。爪先から脳天まで一瞬で駆け上るような激情は、口から飛び出ていった。

「復讐したって仕方ない? 俺が元気でいるほうが大切? ハルカは家族だろうが、お前はそう思ってなかったのかよ‼︎」
「思ってない!」
「は………」

 予想外の言葉に、大志は言葉を失い固まった。
 奈都はまっすぐな目で大志を見ている。いつものおっとりした人の良さそうな顔じゃなくて、強い意思のある顔をして。

「大志にとってハルカが家族でも、ハルカにとっての家族は私たちじゃない!」
「!」
「あの子には、ちゃんとした、血の繋がった家族がいる。私たちはせいぜい同年代の友人くらいにしか思われてない。大志の家族は、私と、ツバメと、スラムで亡くなったアナタのお爺さんだけ。わかる?」
「………………」
「私が守るべきなのは家族で、それは大志とツバメ。例えハルカの仇が目の前にいても、私は二人の安全を優先する」
「………………」

 奈都は迷いの無い声で言い切ってから、ゆっくりと一歩、大志に近づいた。
 そして、朝の空気で冷え切った大志の手を取る。

「ねぇ、大志、行かないで」

 奈都の、その時の必死な顔が、大志の心に響いた。
 幼馴染を悲しませるのは本意では無い。大志がハルカを失って絶望したように、奈都も大志が目の前から姿を消せば絶望してしまう。その可能性に、彼はやっと気付いた。

「ごめん、奈都……俺はどこにも行かないから」

 このまま奈都の手を振り払って、背を向けることもできた。
 だけど大志は、約束を口にした。
 全て捨てていくには、彼には大切なものが多すぎた。手放せないものが多すぎたのだ。
 幼馴染と、協力して生きていこうという約束と、今までの暮らしと、やっと手に入れた職と、心から願った安定。
 それを手放す思い切りも、勇気もなかった。手放すには、それはあまりにも心地よいぬるま湯だったから。
 復讐の為だけには生きられない。
 仇を取る利益と、生きている家族を捨てる恐怖。大志の中でこの時わずかに、後者に気持ちが寄った。
 彼は復讐の為に生きるには、あまりにも臆病で自分が可愛かった。

 __警察に残れば、犯人の情報が入るかもしれない。

 でも臆病者とは認めたくなくて、そんな言い訳まがいのことまで考えて。
 無闇(むやみ)に捜すよりよほど効率がいいじゃないかと言い聞かせる。


 奈都の手を握り返す。その時の奈都の顔は、大志はあまり覚えていない。

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