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第三章 懐かしい街

 僕とフィオは、ピレックルを目指して旅を続けた。順調な時もあり、騒動に巻き込まれる時もあった。困っている人に助けを求められ、僕たちのほうから乗り込んでいって悪者を捕まえた時もあった。
 スバンシュは全く攻撃を仕掛けてこなかった。その代わり、僕たちが戦った後は必ずなんらかの鳥が頭上を旋回し、飛び去っていった。きっとスバンシュに報告しているのだろう。あのオウムが「観察する」と言っていた通り、本当に見ているだけのようだ。
 そんな日々が、一ヶ月半ほど続いていた。
 道程の半分以上は過ぎ、だいぶピレックルに近づいてきた。

 ミメンギという農村に来た。『リュンタル・ワールド』でも聞いたことがないような、小さな村だ。本当はこの先の街で泊まる予定だったんだけど、日没までに間に合わなそうだったので、街道の近くにあるこの村で宿を探すことにしたのだ。
 でも、宿屋どころか普通の店も見当たらない。本当に農家の人だけが暮らしている村のようだ。
 夕暮れの中で村人を見つけて、事情を話す。やっぱり宿屋はないようだ。でも、空き家があるからそこを使っていいということで、案内してもらった。
 そこは空き家といってもほとんど小屋のような小さく粗末な建物で、全く手入れがされていなかった。最初の日に泊まったソンペスの安宿のほうが、よほどマシだと思えるくらいだ。でも泊まれる場所があるだけでもありがたい。僕たちは村人にお礼を言って、この空き家を使わせてもらうことにした。
「久しぶりだな、こういう場所で寝るのは」
 黒ずんだ古い板が敷かれた床に、フィオが仰向けに寝転がる。床がギシギシと軋む音を立てた。
「リッキと出会う前は、よくこんな粗末な小屋で寝たものだ。いや、小屋で寝られれば良いほうで、野宿も珍しくなかった」
「そうだったんだ。大変だね、野宿は」
 僕は寝転がらずに、床にお尻をつけて座っている。この空き家には、椅子もテーブルもない。フィオが床に寝転がったのも、もちろんベッドがないからだ。
 空間を指でなぞり、魔石灯を取り出す。青白い光が、二人がいる範囲だけを照らした。
「修行の旅とはそういうものだぞリッキ。毎晩宿屋のベッドで寝るほうが、むしろ不自然だ」
「そうだったのか……。ごめん、お父さんからそういう話は聞かなかったから、わからなかった」
 出会った人の話やどんな事件があったかという話はたくさん聞いたけど、夜はどんなところで寝たかという話は聞いたことがない。きっと、寝た場所なんて大した話じゃないとお父さんは思っていたんだろう。僕も今フィオに言われるまで、他の旅人がどんなところで寝ているかなんて気にしていなかったし。
「そ、そうか……まあ、コーヤ様くらいのお方なら、こんな汚いところで寝ることはなかっただろうがな」
 フィオは顔を背けてしまった。気を悪くさせてしまったようだ。
「と、ところで、リッキは、まだ寝ないのか?」
「その前に、食事にしようよ」
 再び空間を指でなぞり、袋状の薄い生地に具材を詰め込んだ食べ物を二つ取り出す。
「な、なんだ、それは」
 起き上がったフィオの顔が、なぜか赤い。魔石灯の青白い光の中でもよくわかる。
「これはピスルグ。ピレックルではよく食べられているんだ」
 一つをフィオに渡した。
「ちょっと辛いから、気をつけてね」
 一緒に旅を続けてきて、フィオに食べ物の好き嫌いはないということはわかっているけど、一応注意する。
「おいしいな、これは。リッキはこれが辛いのか? 私はあまり気にならなかったが」
「そっか、なら良かった。あと、飲み物もあるから」
 ザサンノジュースも取り出し、フィオに渡す。
「このジュースもおいしいな! これもピレックルの飲み物なのか?」
「えっ、と……。うん、そうかな」
 ザサンノジュースはさっぱりした酸味が特徴で、ピレックルに限らずリュンタルで広く飲まれているジュースだ。旅の中でも、何度も飲んだことがあるはずなんだけど……。
 もしかして、フィオは好き嫌いがないんじゃなくて、味覚オンチなだけなんじゃ?
「ピスルグは具材を自由に選べるんだけど、今は僕が好きなのしか持ってなくて。ピレックルに着いたら、いろいろ食べてみようよ」
 白身魚のゴエとトーンゼン豆に香辛料を混ぜた具材のピスルグを、一口食べる。なんだか懐かしい。
 ……あれ?
 今、頭の中にピレックルが浮かんだ。
 このピレックルは……どっちだ?
 懐かしんで思い浮かべたんだから、『リュンタル・ワールド』のピレックルのはずだ。
 でも、僕は本物のリュンタルのピレックルへ行って、ピスルグを食べようとしている。
 懐かしさを本物のリュンタルに求めてしまっている。
 なんだか混乱してきた。
 ここは決して、僕がいるはずの世界ではないというのに。
 もやもやした気持ちのまま残りのピスルグを急いで食べ、ザサンノジュースを流し込んだ。
「じゃあ、寝ようか」
 また明日だ。一日でも早く元の世界に帰れるように、しっかりと体を休めなきゃ。
 体を仰向けに倒す。そのまま自然と眠ってしまった。

   ◇ ◇ ◇

 目を覚ました。
 まだ暗い。
 床が、ギシギシと音を立てている。
「すまない、起こしてしまったか」
 フィオの足音だったようだ。
 目をこすりながら訊く。
「どうしたの? まだ夜中なのに」
「うむ。ちょっと外の様子が気になって、見てきたのだ。聞こえないか? 変な音が」
「変な音?」
 耳を澄ます。
 どこか遠くで、低い音が響いているのを感じる。
「風の音じゃないの?」 
「風など吹いてない」
 フィオと二人で、外に出てみる。たしかに風は吹いていない。
 音は街道とは反対側の、山のほうから聞こえてくる。
 ゴオオオオォォ……という、低い音。鳴っては止み、また鳴っている。
 確かに変ではあるけど……。
「でもさ、村の人たちは起きていないみたいだし、この村ではこれが普通なんじゃないのかな?」
 村は寝静まっている。灯りはないし、人の声も聞こえない。
「そうか、ならばよいのだが」
「もう寝ようよ。明日も歩くんだからさ。この音のことは、朝になったら村の人に訊いてみようよ」
「う、うむ」
 僕たちは家の中に入り、また眠りについた。

   ◇ ◇ ◇

「んんっ、ぅううん……」
 まただ。
 目が覚めた。壁板の隙間から太陽の光が差し込み、朝を知らせている。
 そして、僕の上には、フィオが覆いかぶさっていた。
「ん……んっ、うぅん……」
 体をこすりつけて身悶え、熱い吐息を漏らす。
 寝相が悪いだけならいいんだけど、これはさすがに……。
「フィオ、起きて、朝だよ」
「んんっ、ん…………、んっ?」
 開いたフィオのオレンジの目が、視点が合わないくらいの近さで僕を見つめる。
 そのオレンジの目が瞬きをして、数秒後。
「ぬわああああああぁぁっ!」
 古ぼけた小さな空き家の隅々にまで、絶叫が響き渡った。
 上体を起こしたフィオが、僕に謝る。
「す、すまぬ。一度ならず二度までも」
「大丈夫。僕もちょっと油断してた」
 ジピートン家からお金を出してもらったおかげで、旅の間は二部屋だったり、一部屋でもベッドが二つの部屋に泊まることができていた。だから一緒に寝るのは最初に泊まったソンペス以来で、こうなることをすっかり忘れてしまっていたのだ。
「…………えっと、フィオ」
「ん? どうしたリッキ」
「その……降りてくれると、うれしいんだけど」
「へっ? …………あっ」
 上体を起こしただけで、下半身はまだ僕に跨ったままだったフィオが、ようやく僕の体から降りた。
「なんかボーッとしてたけど大丈夫? まだ眠い?」
「い、いや、そうではない。ちゃんと目は覚めている」
「そっか。ならいいんだけど」
 解放されて、立って伸びをする。
 ドアを開け、外に出た。夜中に聞いたあの音は、今は聞こえない。
 でもあの時フィオに言った通り、まずはあの音について村の人に訊くことから、今日を始めることにした。

   ◇ ◇ ◇

「あれは魔獣が吠えているのさ」
 たまたま近くにいた村のおばさんに訊くと、事情を話してくれた。
「何年か前に、あの山に山賊が住み着いてねえ。たびたび村を荒らしに来て困ってたのさ。それがとんと来なくなった。代わりに、夜な夜なあの声が聞こえるようになったのさ。
 昔からあの山には魔獣が封じてあるという言い伝えがあってねえ。それなのに山賊が祠の鎮め石を壊しちまったのさ。山賊は逃げちまったのか、それとも食われちまったのか、そこまでは知らん」
「そんなことがあったんですか……」
 こういう魔獣は、魔獣使いに操られたものではない。昔のことだから、おそらく瘴気にあてられた野生の魔獣が暴れて、祠に封じられたのだろう。その封印を、山賊が解いてしまったんだ。
「昔は山の洞窟を抜けて向こうの村に行けたんだけどねえ。山賊がいなくなっても魔獣がいたんじゃ、結局行けないままだよ」
 フィオが僕の目を見た。
「リッキ、魔獣を倒そう」
「うん」
「あんたら、本当にできんのかい?」
 おばさんは半開きな目で僕たちを見上げる。胡散臭そうな人間だと思っているようだ。
「下手に手を出して暴れられたりしたら困るんでね」
「任せてくれ。私たちはこれまでにも何度も魔獣を――」
「あれがどんな魔獣なのか、わかってんのかい?」
 自信満々に答えるフィオを遮って、おばさんが釘を刺す。
「……いや、わからぬ。どんな魔獣なのだ」
「あたしもわからんよ。見た人間なんていないしね」
「では、なぜあれが」
「すいません、いろいろ教えてもらって。ありがとうございました」
 僕はフィオの腕を引っ張り、おばさんにお礼を言って別れた。

「リッキ、どうしたのだ。もっと詳しく調べたほうが」
「あのおばさん、あれ以上のことは知らないって。それにちょっと迷惑そうだったし。他の人に訊いてみようよ」
「そ、そうか、うむ」
 熱くなっているフィオをなだめ、山の方向へ歩きながら他の村人を探した。
 そして村長に話を聞くことができたんだけど、結果は同じだった。
 つまり、「祠が壊れているのを見ただけで、魔獣を見た人はいない」「倒せるのなら倒してほしいが、失敗して迷惑をかけることだけはやめてほしい」ということだ。
 結局、「どんな魔獣なのか、確認しに行く」と言って、僕たちは山に向かった。

 実際には、確認するだけなんてことはない。もちろん倒すつもりだ。
「本当は、また魔獣を封じられればいいんだけど……」
「そんなこと言わずに、倒してしまえばいいではないか」
「でもさ、きっと魔獣に悪気はないんだよ」
 魔獣のほうから人間を攻撃することは、基本的にはない。昔の人が魔獣を封じたように、今回も魔獣を封じられるのならば、そのほうがいい。でも僕たちは剣士だ。魔獣を封じる力は持っていない。我を失ってしまった魔獣は、残念だけど殺す以外にない。
 山道を進むと、砕けた石が散らばっているのを見つけた。これがきっと魔獣を封じていた祠の残骸だ。
「この近くに魔獣がいる、ということか」
「うん、気をつけて進もう」
 とは言っても、この辺りの木はそこそこ切られていて見通しがいい。魔獣が隠れているようには見えない。
 それに、あの声の大きさ。
 もし魔獣があの声に見合う体の大きさなら、隠れることはできない。
 結局、何も起きないまま洞窟の入口に着いた。
 巨大な洞窟だ。垂直な岩肌に空いた巨大な穴の天井付近を、コウモリが飛んでいる。グッと首を傾けて見上げなければ、そのコウモリを見ることができない。
「ここか」
 見上げたまま、つぶやく。
「これだけ大きい洞窟なら、体が大きい魔獣も身を隠せる」
「本当に、この洞窟の大きさに見合うような巨大な魔獣が、いるのだろうか」
 フィオも洞窟を見上げている。
「うん。いてもおかしくない。あの声の大きさなら、むしろそうでなければおかしいと思うよ。じゃあ入ろうか」
 この先、いつ魔獣が現れても、おかしくない。しっかり前を見据え、中へ入っていく。
「リッキ、ちょっと待ってくれ」
 後ろから呼び止められた。フィオはまだ、洞窟の中に入っていない。
「どうしたのフィオ。何かあった?」
「いや、そうではないのだが、その……」
 何をするでもなく、ただ立ち止まってこちらを見ている。
「早く行こうよ」
「それが、その」
 どうもはっきりしない。どうしたのだろう。
「フィオ、一体」
「あ、足がすくんで、動けないのだ!」
 顔を真っ赤にして、フィオは叫んだ。
「こんなことは初めてだ。私は今、怖いのだ。怖くてどうしたらいいのかわからない。いや、進むべきだ。進まなければならない。わかっている。わかっているのに、足が動かないのだ。リッキ、わ、私は……」
 最後は普段のフィオからは考えられないほどか細い声になり、そのまま言葉が途切れてしまった。
 僕は入口まで戻り、フィオの隣に並んだ。
「今度の魔獣は大きそうだからね。これまでにはない戦闘になるかもしれない。たぶん、僕一人で戦ったら勝てないと思う。フィオ一人でも、勝てないと思う。でも僕とフィオ二人で戦ったら、きっと勝てるよ」
「無理だ!」
 すぐ隣にいる僕に、また叫ぶ。
「また、先を見ずに行動してしまった。よく考えれば最初からわかっていたことだ。あんな声が出せる魔獣なら、体も巨大であることを。そして、私なんかが戦える相手ではないことも。それなのに私は威勢のいいことばかり言って」
 フィオの目の端から、涙がこぼれようとしている。
「大丈夫だって。もしかしたら、ただ大きいだけの弱い魔獣かもしれないじゃないか」
「どうして! どうしてリッキはそんなに余裕があるのだ! 冷静でいられるのだ! 怖くはないのか?」
「怖いよ」
「怖い……のか? リッキも」
「だからフィオと一緒に行くんだよ。フィオと一緒なら、大丈夫だって思えるから」
「……こんな、怖気づいた私とでもか?」
「だってフィオは強いから」
「私は強くなんか」
「ずっと一緒に旅をしてきたじゃないか。だからわかるよ。フィオは強いって」
「……本当に、そう思うのか」
「嘘をついていると思う?」
「…………リッキ、君はどうして、そんなに私を認めてくれるのだ」
 涙がフィオの頬を伝う。
「故郷では私を強いなどと言ってくれる人はいなかった。修行の旅に出ると言って村を離れたものの、そんなのはただの口実だ。本当は周りの冷たい視線から逃げたかっただけなのだ。私はただ強がっているだけで、本当は強くなんかないのだ。それなのに、どうして君は私のことを」
「だったら、強くなったんじゃないかな」
 僕は正直に言う。それしかできない。
「昔のフィオのことは知らないけど、今のフィオは強いよ。だから大丈夫。先へ進もうよ」
「……………………」
 フィオは僕の顔を見たまま、何も言わない。
 僕は右手でフィオの左手を握った。
「手をつないで行こっか。利き手は塞がらないから、このままでも剣が振れるし」
 フィオの顔がさらに赤くなった。そして、
「バ、バカにするな!」
 握った手を弾き返されてしまった。そのまま手を顔に持っていき、涙を拭う。
「一人で歩ける! 心配などいらぬ!」
 僕を置いて、洞窟の奥へと歩いて行ってしまった。
 その後ろ姿を見失わないように、僕も洞窟の奥へと足を進めた。

 本物のリュンタルも、『リュンタル・ワールド』同様に洞窟の壁が青白く光っている。照明器具は必要ない。
「リッキは、巨大な魔獣と戦ったことはあるのか? 私は一度もないのだが」
「あるよ」
 何度か戦ったことがあるけど、その中でもヴィッドの妹フィセを救い出した後の戦闘を思い出す。
「その魔獣は頭の角が弱点だったんだけど、ものすごく背が高くてさ。だから、背中を一歩一歩よじ登って行ったんだ。突起があって登りやすいと思っていたんだけど、落とされちゃって。ははは」
「笑ってる場合ではないだろう! ……いや、無事だったのはわかるが。無事でなかったら、今ここにリッキはいない」
「うん、仲間が助けてくれた。助けてくれることがわかっていたから、登ることができた」
「そうか。頼もしい仲間だな。で、それからどうしたのだ? また登ったのか?」
「いや、もう登れなくなっちゃったからどうしようかと思っていたら、別の仲間がドラゴンに乗って来てくれたんだ」
「ド、ドラゴンだと?」
「うん、それで空から頭に飛び乗って倒したんだ」
「……は、はは、それはすごいな。私はドラゴンに乗ったことなど一度も――」
 僕のほうを見ながら歩いていたフィオが、急に話すのをやめて前を見た。
 僕が剣の柄に手をかけたのが、目に入ったからだ。
 洞窟は右にカーブしている。その先に、何か細長いものがある。
 筆のように先に毛が生えているそれが、ピクピクと震えていた。
「尻尾か?」
「うん。だろうね」
 尻尾しか見えないのでは、体の大きさはわからない。
 足音を殺し、少しずつ、近づいていく。
 体が見えてきた。やはり大きい。体を丸めて眠っているからはっきりした大きさはわからないけど、五メートル以上は確実にある。
 黒い毛に覆われた、その体を観察する。どこかに弱点はないだろうか。こんな時、シェレラがいてくれたら<分析>のスキルを使って調べられるんだけど、今はそうはいかない。僕も<分析>を覚えておけばよかった。シェレラがいるからと思って<分析>を覚えていなかったのが悔やまれる。
「どうするリッキ。このまま近づいて首を斬り落とそうか」
「この体勢から一撃で首を斬り落とせるとは思えないし、傷を追ったら目を覚まして暴れるはず。いっそのこと起こして……あ、起きた」
 魔獣の目が開いた。大きな目玉が、ギロリとこちらを向いた。
 僕とフィオが、同時に剣を抜く。
 そして、魔獣が体を起こした。体は熊のようだけど、頭にはたてがみがあり、まるでライオンだ。尻尾もライオンのようだけど、かなり長い。
 やはり体の大きさは五メートル、いや、胴体だけで五メートルだ。
 最初は四つん這いだった魔獣が二本足で立ち上がり、七メートルくらいの高さから僕たちを睨む。
 フィオの左手が、僕の右腕を掴んだ。フィオが震えているのが、右腕に伝わる。
「リッキ、やはり、わ、私は」
「あそこがきっと弱点だ。フィオ、あの胸を狙おう」
 体を丸めて寝ていた時にはわからなかった弱点。それは胸だ。胸だけ毛が薄くて白い。あそこに何かがあるはずだ。
「でも、どうやってあの高さを攻撃するのだ!」
「武器ならある。でも、一回しか使えない。使う時を慎重に見極めないと」
 絶対に外さずに一点を攻撃する方法はある。シュニーの槍だ。
 ただ、まだ本当に胸が弱点なのかがわからない。早まって槍を使ってしまうのは禁物だ。
 とりあえず、今は足元を攻撃するしかない。戦っているうちに、本当に胸が弱点なのかがわかるだろう。
 そう考えて一歩踏み込んだのと、ほぼ同時だった。
 魔獣が鼻の穴を大きく広げた。白い胸が、風船のようにぷっくりと膨らんでいく。
 そして、顎が外れそうなほど大きく口を開いた。
 とっさに踏みとどまり、フィオの手を掴んで左に飛ぶ。
 膨らんだ胸が、一気にしぼんだ。次の瞬間、見えない塊がさっきまで二人がいた場所に炸裂し、地面をえぐった。魔獣の大きな口が、空気を放ったんだ。
 やっぱりあの胸が弱点だ。胸を膨らますことができなければ、この攻撃はできない。
 剣を鞘に収め、指を動かす。左手に槍が出現した。スイッチを入れ、握り直して構える。
「リッキ、それは」
「これで魔獣の胸を突き刺す。魔力の効果で必ず狙い通りに命中する武器だ」
 でも胸が膨らんでいない今攻撃しても、はたして効くだろうか。万全を期すなら、膨らんだタイミングがいいだろう。
 魔獣の顔をじっと睨み、槍を構えたまま次の攻撃を待つ。
 魔獣は、何もしてこない。
 もしかしたら、一定の時間を置かなければあの攻撃ができないのか? それとも、槍を見たことで警戒してしまっているのか……。でも、胸が膨らんでから槍を取り出そうとしても遅いし、あらかじめ構えておくしかない。
「膨らんだ瞬間に突き刺して破裂させるのがいいと思ったけど、攻撃してこないな。仕方ない。普通に攻撃しよう」
 槍のスイッチを切り、ウィンドウにしまう。
「フィオ、分かれて戦おう。的を絞らせないんだ。危なくなったらとにかく逃げよう」
「う、うむ。わかった」
 フィオの手を引いて、体を起こす。
 そして一直線上にならないよう、左に迂回しながら魔獣に突っ込んでいった。そのまま剣を抜いて右足を斬りつけ、向こう側へ駆け抜ける。しかし一撃程度では、さほど効果はない。
 フィオも剣を構えている。魔獣から目を逸らさぬまま、右へ走った。遅れて地面がえぐれ、小石が飛び散る。
 しまった。僕が背後に回ったタイミングで、空気の塊を放ってきたか。やはり僕を警戒している。先に槍を見せてしまったのは失敗だったようだ。
 でも予備動作がわかりやすい攻撃だから、それを見ていたフィオは逃げることができた。フィオは怯えてなんかいない。ちゃんと戦っている。
 僕はもう一度、魔獣に向かっていった。魔獣がフィオに気を取られているなら、攻撃はたやすい。
 しかし、魔獣は長い尻尾を振り回して、僕を近づけさせなかった。
 だったら正面から行けばいい。僕は回り込んで、前から魔獣の足を斬りつけた。足元に空気の塊を放ってくることはないだろうから、蹴り飛ばされることにだけ注意すればいい。
 何度も何度も、くり返し斬りつける。
 魔獣は抵抗しない。フィオが魔獣の注意を引きつけてくれているとはいえ、全く反撃がないのはどういうことなんだ? 反撃の意志はあるはずなのに。
 魔獣が前に倒れそうになり、横に飛び退く。手をついて四つん這いになった魔獣が、僕を蹴り飛ばそうとした。飛び退いた時に距離を取っていたから、蹴りは空振りに終わった。
 たぶん、魔獣は片足で立つことができなくて、四つん這いになってからでないと蹴りを繰り出すことができなかったんだ。
 四つん這いになられてしまうと、槍を投げて胸を攻撃するのには無理がある。でもこれなら、剣が届く。
 魔獣の前に回る。黒い体毛に覆われた、巨大な熊の体に付いたライオンの頭を正面から見据え、胸を狙って剣を構えた。
 魔獣の鼻の穴が広がり、胸が膨らんだ。
 思い切って踏み込む。むしろ近づいたほうが、攻撃されにくいはずだ。目の前の敵に空気の塊を放てば、地面に当たった衝撃が魔獣自身に跳ね返ってきてしまう。
 魔獣の口が大きく開く。
 しかし、魔獣は空気の塊を放たなかった。
 魔獣は、吠えた。
 低い音が衝撃波となって僕を襲う。思わず身を屈めた。吠え続けながら、魔獣が突進してくる。衝撃波でまともな体勢が取れず、転がるように横へ逃げた。
 魔獣は反転し、また僕に突進してきた。僕は再び槍を出現させた。この体勢からできることは、これしかない。
 槍を見た魔獣は、危険を察知したのだろうか、僕を攻撃することなくそのまま四つん這いで走り去っていく。
「大丈夫か、リッキ!」
「大丈夫。それより魔獣を追おう」
 すぐに立ち上がり、吠えながら走る魔獣を追いかける。
 誰もいない空間に向かって、魔獣は吠える。攻撃なのではなく、足の傷を痛がって、苦しんで吠えているのかもしれない。
 カーブは終わり、真っ直ぐな道になった。向こうから光が差し込んでくる。
「しまった!」
 この洞窟は、山の向こうの村とつながっている。このままでは魔獣が洞窟を飛び出し、村に侵入してしまう。
 なんとか食い止めなければ。でも魔獣の足が速く、なかなか追いつけない。むしろ距離が開いてしまっている。
 失敗した。村に被害が出れば、すべて僕のせいだ。謝って済む話ではない。
「待て! 止まれ!」
 無駄だとわかっていて叫ぶ。当然、魔獣は止まらない。
 吠えながら走り続ける魔獣が、ついに洞窟の外に……。
 止まった。洞窟の外へは、出て行かない。
 そして、なぜか引き返してきた。
 吠えるのも止めている。一体何があったんだ?
 近づいてくる魔獣は……胸が破れていた。破裂したのではない。十字に斬り裂かれた(あと)がある。
 一体何があったんだ?
 魔獣の足の動きはおぼつかない。真っ直ぐ進むことができず、右へ左へと逸れながら減速していく。
 そしてついに、倒れてしまった。
 胸を斬り裂かれた魔獣が、苦しそうに呼吸をしている。しかしそれは呼吸の動作をしているだけであって、呼吸の役割は、おそらく果たしていない。
「トドメを刺そう」
 抵抗する力がなくなった魔獣に近づき、首に剣を突き立てる。
 一瞬のけ反って体を痙攣させ、魔獣は息絶えた。
「やったな、リッキ」
「うん。フィオが注意を引きつけてくれたおかげで攻撃できた」
「いや、私は何もしていない。リッキが倒したんだ」
「でも、それを言うなら……本当に倒したのは、僕じゃない」
 洞窟の出口で、何かがあった。その時点で魔獣は倒されていた、と言ってもいい。
 それを確かめるために、出口へ向かう。
 近づくにつれ見えてきたのは、一つの人影。外から差し込む光が逆光となって、顔はよく見えない。
 でも、その小さな人影が見えた時、僕は納得してしまった。
 魔獣が負けてしまうのは当然だ、と。
「久しぶりだな、リッキ。もっと背が伸びたんだな」
 洞窟を出た僕に、そいつが声を掛ける。
「そっちは相変わらずだな」
 小さい体。赤い目。あちこちに撥ねまくった緑色の髪。
 昔のままのヴェンクーが、僕を待っていた。
「リッキが来ているのはジザが教えてくれたから、いつか会うとは思っていたけどな。それが今日だったのは、きっと偶然じゃないはずだ」
「えっと……なんで?」
 まるで今日会うべくして会ったような言い方をしているけど、ちょっと理由が思いつかない。
「忘れたのかリッキ? 今日はちょうど二年前、オレとリッキが出会った日じゃないか」
「あーーーーーーーー!」
 思わず大声を上げてしまった。
 ヴェンクーと初めて会ったのは、梅雨の雨が降り続く六月だった。もちろん忘れてなどいない。でも、
「ごめん、ちょっと、今日が何日か忘れてた」
 最近、日付をあまり気にしなくなっていた。元の世界と違って、リュンタルでの旅は今日が何日なのかはそれほど必要ではなかったからだ。オフにしていた日時の表示をオンにする。本当だ。こんな大事な日だったのに、すっかり忘れてしまっていた。
「……リッキはしっかりしてるヤツだと思ってたけどな」
 ヴェンクーに呆れられてしまった。でも、ちょっと笑っている。
「すまぬ、リッキ、この人は……」
 話について行けないフィオが、僕に尋ねる。
「ああ、こいつはヴェンクーって言って……」

   ◇ ◇ ◇

 ヴェンクーはジザに乗ってこの辺りを飛んでいた時に、異様な音が鳴り響いてくるのを不思議に思ったのだそうだ。それで音の出どころである洞窟に来てみたら、中からあの魔獣が吠えながら走ってきたのですかさず斬った、ということだったのだ。

 村の人たちに魔獣を倒したことを報告して、僕たちは村を後にした。
 本来の予定は、街道に戻って次の街へ行くことだ。
 でも、予定は変更した。僕が今いるのは、ジザの背中の上だ。
 これまでのことを話し、ピレックルに連れて行ってもらうことにしたのだ。

「ドラゴンに乗って飛ぶ日が来ることになるなんて、全く想像していなかった。す、すごいな、これは」
 フィオが興奮するのもわかる。僕も初めてジザに乗った時は、仮想世界でドラゴンに乗ったことがあるにもかかわらず興奮した。全くの初めてなら、なおさら興奮してしまうのは当然だ。
「ところでリッキ、あの小さい子供が本当にフォスミロス様の息子なのか? あの魔獣をあっけなく倒したのだから、力は認めるが」
 手綱を握るヴェンクーの後ろで、フィオが小声で僕に尋ねる。
「うん、そうだよ。見た目はあんまり似てないけどね」
 お父さんは初めてヴェンクーを見た時にそっくりだって言ってたけど、僕には目と髪の色以外どこがそっくりなのか、未だにわからない。
「それと、ああ見えてヴェンクーは僕より一つ年上、つまりフィオと同い年だから」
「ほ、本当か!」
 立ち上がりそうになったフィオが、すぐに座り直す。ここがジザの背中の上であることを一瞬忘れてしまったのだろう。
「フィオ、声が大きい」
「すまぬ、つい」
「リッキ、ちょっと訊いていいか?」
「いや、その、すまぬ、その、悪気はないのだ」
 慌てふためくフィオに関係なく、前を見たままヴェンクーが話す。
「どうしてベルを鳴らさなかったんだ?」
 一方を鳴らせばもう一方が鳴る、一対のベル。それを僕とヴェンクーは持っている。
 僕がベルを鳴らせば、ヴェンクーはすぐに駆けつけてくれたはずだ。
「ジザはリッキに気づいてすぐに飛んで行こうとしたんだ。でもベルが鳴らないから、助けは必要ないんだと思って止めたんだ。前にもちょっとあっただろ? そんなことが」
 前にヴェンクーと会った時も、ジザが気づいて勝手に飛んできたのだった。なぜかはわからないけど、そういう能力があるらしい。ちょっとそんなことがあったというのは、シュニーの時のことだ。あの時は、ヴェンクーが来れば解決するとか、そういう話ではなかった。
「でも、リッキは大変な目に遭っているじゃないか。それなのに、どうして」
「それは……」
 最初は、ベルを鳴らすのを考えたこともあった。
 でも、旅をしているヴェンクーを邪魔しないようにとか、フィオに助けてもらえばいいとか、そんな理由で僕はベルを鳴らさなかった。
 本当にそうだったのだろうか、と僕は思う。
 あの時、自分でも気づいていない気持ちがあって、それでベルを鳴らさなかったんじゃないだろうか。
 そう思うのは、今ならその気持ちがわかるからだ。だからベルを鳴らさなかったのだ、と。
「僕も、旅をしたかったんだよ」
 旅を続けてきてわかった、本当の気持ちだった。
 やや間があって、ヴェンクーが振り向いた。
「それなら、しょうがないな」
 ヴェンクーは、笑っていた。

   ◇ ◇ ◇

 懐かしい街並みが見えてきた。
 いつもいた街と同じようで、同じじゃない。二年ぶりに見る、本物のリュンタルのピレックルだ。あの時も今と同じように、空は夕焼けに染まっていたのを思い出す。
 噴水の広場を越え、高度を下げながらゆっくり王城の西側へと回って行く。
 王城の敷地内にある、騎士団長の屋敷。その正面にある広い空き地に、ジザは着地した。
「懐かしいな」
 屋敷を見上げて、ヴェンクーがつぶやく。
 懐かしいのは、僕だけじゃなかった。いや、ここに住んでいたヴェンクーのほうが、懐かしいという感情は強いだろう。
 ヴェンクーを先頭に、三人がジザから降りた。すると、
「兄さま! 帰ってきたのですね!」
 兵舎がある方向から、鎧姿の女の子が走ってくる。
「訓練中だったのですが、ジザが見えたので……リッキ! リッキではありませんか!」
 近づくにつれ、僕がいることに気がついたようだ。
「久しぶりだね、リノラナ」
 ヴェンクーの妹、リノラナだ。鎧を着て走ってきたのに、息を乱していない。
「リノラナ、変わってないな」
「兄さまこそ」
 二年前に来た時、リノラナは僕より少しだけ背が高かった。それなのに、今は僕のほうがだいぶ背が高い。ヴェンクーもそうだけど、リノラナの身長も変わっていない。
「兄さま、そちらの方は」
 リノラナはフィオに目をやった。
「僕が話すよ。この人はフィオ」
 今日会ったばかりのヴェンクーには答えられないだろうから、代わりに答える。
「フィオは一緒に旅をしてきた仲間で――」
 屋敷の扉が開いた。
 中から現れたのは、僕よりもっと背が高く、全身に筋肉の塊を備えた、これ以上ない屈強な体を持った大男。緑色の長髪が腰まで伸びているのも、二年前と同じだ。
「父さま!」
 ヴェンクーが駆け寄る。
「ずいぶん逞しくなったではないか」
 二年ぶりに会った息子を前に、フォスミロスの顔がほころんだ。
 ヴェンクーは振り向いて、僕たちのほうを見た。
「リッキも一緒にいます。それと、リッキの仲間のフィオも。父さま、リッキの話を聞いてください」

   ◇ ◇ ◇

 僕とフィオは屋敷の応接間に通された。二年前に来た時も、まず案内されたのがこの部屋だったのを思い出す。急な来客に、メイドさんたちが廊下を行ったり来たりしながら準備してくれている。これも二年前と同じだ。
「リッキ、わ、私は、とんでもなく場違いなところに来てしまったのではないか?」
 フィオはさっきからずっと震えている。寒くはないはずなんだけど。
「え、どうして?」
「だ、だって、フォスミロス様のお屋敷だぞ?」
「大丈夫だって」
 僕は笑って答える。
「フォスミロスは見た目はあんなだけど、怖くないから」
「怖くて震えているのではない!」
 フィオは顔を真っ赤にして、大きな声を上げた。
「私のような田舎者がフォスミロス様のお屋敷に入れて頂けるなんて、き、緊張して震えが止まらぬのだ」
「あはは、大丈夫だって」
「リッキはコーヤ様の息子だからいい! しかし私は」
「だから大丈夫だって。フィオは僕の大事な仲間じゃないか。フォスミロスは分け隔てするような人じゃないから。リュンタルの人間ですらないお父さんとだって、すぐに打ち解けて仲間になったような人だよ? 何も心配することはないよ」
「本当にそうだろうか……」
 廊下を通るメイドさんたちの足音に混じって、大きな足音と話し声が聞こえてきた。
「待たせたな。ミオザを呼びに行っていたのだ」
 フォスミロスがドアを開けて、後ろを待つ。
 ヴェンクーのお母さん、ミオザは……車椅子に座っていた。
「ミオザ! 大丈夫? どうしたの?」
 ミオザだけは、他の家族と違って体が弱そうだった。病気になってしまったのだろうか。
「心配しないで。ちょっと転んで足を挫いただけだから」
「母さまがケガをしたと知っていたら、旅をやめて早く帰っていたのに」
 車椅子を押すヴェンクーが、ミオザに話しかける。
「ちょっとケガをしただけなのに大げさね。それに、早く帰ってきていたのなら、今日リッキに会うこともなかったでしょ?」
「それはそうですが……」
「リッキ、久しぶりね。コーヤは元気?」
「はい。お父さんは相変わらず忙しく働いています」
「そう、良かったわ」
 にっこりとほほえむミオザ。そこへ、
「お食事の準備ができました」
 メイドさんが僕たちに声をかけた。
「うむ。すぐ行く。さあ、リッキもフィオも、たくさん食べてほしい」
「じゃあ、行こっか」
「う、うむ」
 まだ緊張が解けきらないフィオの手を引いて、フォスミロスの後について行った。

   ◇ ◇ ◇

「……………………」
 ヴェンクーとリノラナの食べっぷりに、フィオが圧倒されている。
 ジピートン家の食事も豪華だったけど、一人ずつに料理が用意されていた。でもこの家の食事は違う。大皿の料理を奪い合う、まるで戦闘のような食事だ。
「ヴェンクー、リノラナ、もっと落ち着いて食べなさい」
 フォスミロスが静かにそう言った途端、二人の動きが止まった。大皿の料理を取るために身を乗り出していたヴェンクーが静かに座る。口元にソースを付けたままだったリノラナは、ゆっくりとナプキンを当て、ソースを拭った。
「……………………」
 さっきまでとは違い、フィオはぽかんと口を開けている。
 ヴェンクーは精神的に大人になったと思っていたけど、食事は変わっていない。旅先でもこんな食べ方をしていたのだろうか……。
「兄さま! 兄さまは旅の間、どのようなものを食べていたのですか?」
「それよりリッキの話が先だ」
 リノラナの質問には答えず、僕に話をするよう、目で促す。
 軽くうなずいて、フォスミロスをはじめ全員の顔を見回した。
「えっと、僕がここに来た理由は――」

「スバンシュか……」
 僕の話を聞いて、フォスミロスが考え込む。
 話をしている間にフィオはすっかり落ち着いて、今は食事を楽しんでいる。目の前にあるノスルアザラシのステーキは、もう半分くらいに減っていた。
「心当たりはありませんか?」
「そのような者には会ったこともなければ、聞いたこともない。だが調べさせることはできる。すぐに調べさせよう」
「ありがとうございます。僕としては、雰囲気がエマルーリに似ているように思うんですけど」
「エマルーリだと! リッキ、エマルーリに会ったのか?」
 フォスミロスの声が大きくなった。
「前にここに来てから一ヶ月くらい後のことなんですけど、エマルーリが仮想世界に来て、お父さんを連れて帰ろうとしたんです」
「そんなことがあったのか! で、コーヤは無事だったのか。あいつのことだから、魔獣を相手にするよりもむしろ危ない」
 さすがフォスミロスだ。お父さんのことをよく知っている。
「大丈夫です。エマルーリは捕まえました。今でもお父さんの元で囚われの身となっています」
「そうか。それはよかった」
 フォスミロスは胸をなでおろして、二枚目のノスルアザラシのステーキにナイフを入れる。
「それから、フィオ」
「はっ、はい!」
 急に名前を呼ばれてびっくりしたのか、フィオはものすごく大きな声で返事をした。
「リッキは腕の立つ剣士ではあるが、ここまでの道中、一人だけでは越えられぬこともあったはずだ。俺がまたリッキと会えたのは、フィオの力があったからこそだ。感謝する」
「い、いえ、そ、そんな、私なんか」
「そうなんですよ。そもそも最初にフィオが助けてくれなければ、僕は魔獣に負けていたかもしれなかったですし」
「リッキ! あれは私が勝手に戦ったのであって」
「でも本当のことじゃないか」
「ということは、フィオはリッキと同じ、いやそれ以上の剣の腕を持っているということかな?」
「そこは、同じくらいってことにしておいてほしいな。僕だって、そこそこ強いつもりだし」
 フォスミロスが出したフィオの評価に、注文をつける。
「確かに。リッキもコーヤに似て強いからな」
 フォスミロスは軽く笑って、ザサンノ酒のグラスを傾けた。
 フィオもまるでお酒でも飲んだかのように、なぜか顔を真っ赤にしていた。
「あ、そうだ」
 フォスミロスに伝えることになっていた、あのことを思い出した。
「リュンタルに来た次の日に、ズーリョでジピートン家のニティに会ったんですが」
「む、ニティに、そうか。何か、その……俺のことを、悪く言ってはいなかったか」
 笑っていたフォスミロスは、一転して気まずそうな顔になった。
「全然そんなことはないですって! むしろ逆です。あの時はまだ子供だったので、とても失礼なことをしてしまって申し訳なかったと言っていました」
 フォスミロスの硬かった表情が緩んだ。
「そうか、ニティがそんなことを……。あの出来事はよい教訓だった。人は(おご)ってはならぬのだと、あの素直な子供に戒められた。決してニティ自身が悪く思うことではないというのに」
「父さまが子供に? 一体、何があったのですか?」
「う、うむ、それは、追い追い話すことにしよう。それよりリノラナ、ヴェンクーの旅の話を聞きたかったのではないか?」
「そうでした! 兄さま、旅の話を聞かせてください!」
 フォスミロスとしては、あまり内容を知られたくない話のようだ。あとで誰かに訊かれたとしても、僕も言わないことにしよう。

 それからはリノラナのリクエストに答え、ヴェンクーの旅の話、特に食べ物の話になった。僕も食べたことがあるものもあれば、全く聞いたことがないものもあった。リノラナはいちいち大きくうなずき、どんな味なのか質問攻めにしたり、早く次の料理を教えてほしいとせがんだりした。フォスミロスは知っている料理が多いのか、静かに聞いているだけだったけど、たまに知らない料理があって、その時は興味深そうに聞いていた。リノラナのように興奮気味に話すことはなく、軽く質問する程度だった。ミオザとフィオ、そして僕は、ほとんど聞き役だった。
「ミオザ、何か、食べたい料理はあったか? もしあれば作らせよう」
 ミオザは食が細い。それに、ケガをして歩けない体でもある。少しでもおいしいものを多く食べて元気になってもらいたいという気持ちが、フォスミロスから窺える。
「そうね……」
「父さま! わたしは」
「リノラナ。おまえはどうせ、全部食べたいなどと言い出すのだろう」
「どうしてわかったのですか!」
 それは僕にもわかる。リノラナはヴェンクーが話すことすべてに興味津々だったし。

『リュンタル・ワールド』にも、こんなにたくさん料理があるのだろうか。あまり気にしたことがなかった。本物のリュンタルで実際に食べに行くのは難しいけど、『リュンタル・ワールド』にもあるのなら、簡単に食べることができる。なかったら、お父さんに作ってもらおう。
 その前に、スバンシュを倒さなければならないけど。
 いつになるかはわからないけど、フォスミロスが協力してくれるんだ。絶対にスバンシュを倒して、元の世界に帰れるに決まっている。

   ◇ ◇ ◇

 食事が終わって、フォスミロスが用意してくれた部屋でくつろいでいる。服も部屋着を用意してくれた。旅も終わったし、今夜はゆっくり眠れそうだ。
 だけど今、僕の隣にはフィオがいる。
 フィオもゆったりとした部屋着に着替えている。もちろんフィオにも部屋が用意されたんだけど、着替えた後に僕の部屋に来たのだ。フィオがいるのに寝る訳にはいかない。二人並んで、ソファに座っている。
「フォスミロス様はとても奥様を愛しておられるのだな。優しさを感じずにはいられなかった」
 車椅子と食卓の椅子との移動は、フォスミロスが一人でミオザの体を抱えてやっていた。それに食事中は何度も体調を気遣っていた。食べたい料理を尋ねた時だけでなく、フォスミロスは終始ミオザのことを気にしていた。
 ちなみに、ミオザのケガは薬草を使った普通の薬で治療している。過去の出来事が原因で、魔法やポーションが効きにくい体質になってしまったらしい。
「それに、私なんかのことを褒めてくださるとは! フォスミロス様に褒めていただいただなんて、一生の自慢だ。同時に身の引き締まる思いだ。お言葉に恥じぬよう、より一層剣の腕を磨かなければという思いを強くした」
 そばにあったクッションを、ぎゅっと抱きしめる。
「リッキ、私は思い違いをしていた。フォスミロス様があんなにも穏やかで優しい方だとは思っていなかった。語られている戦いぶりと同じく、もっと激しい方なのかと」
「うん、フォスミロスは優しいよ。フィオの言う通り、戦いは激しいけどね」
 二年前に魔獣が大量に湧き出した時、フォスミロスは騎士団を率いて討伐に出た。ただ、ヴェンクーとリノラナには留守番を命じていた。危ない目に遭わせたくなかったからだ。でも二人は言いつけを守らず、戦場に来てしまった。その時フォスミロスは怒って追い返すことなどせず、一緒に戦うことを許した。優しいからこそ、フォスミロスは二人にそんな態度を取ったんだ。
 幼いニティに怖がられてしまってからは服装に気をつけるようになったのも、フォスミロスの優しさだ。フォスミロスはきっと、昔から優しいんだ。
「リッキはフォスミロス様が戦っているのを見たことがあるのか?」
「あるよ。それはもう凄まじい戦いぶりだったよ」
「羨ましいな。私も見てみたい」
「もしスバンシュがここに襲ってきたら、一緒に戦ってくれるよ。それなら探す手間も省けるし、簡単でいいんだけどね……」
「実際には、そうはならぬか……」
 スバンシュは全く手を出してこない。
 でも、僕がピレックルに来たことはきっと鳥が伝えているだろうし、今後は違う動きがあってもおかしくないかもしれない。
「それと……もう一つ、話したいことがある」
 いつになく真剣な表情で、僕の顔をじっと見つめる。
「私の、これからのことだ」
「……これから?」
「そうだ。これからはフォスミロス様がスバンシュを探し出し、問題を解決してくださるだろう。それならば私は必要ない。もう、君と一緒にいる理由がない」
 僕の顔をじっと見ていた目を伏せる。
「不思議なもので、リッキと会うまでは一人で旅をしていたというのに、これからまた一人で旅をするのだと思うと、なんだか足が重い。つまり、その……一緒にいる理由などないのに、私は君と別れたくなくなってしまったのだ。だから、もし君がいいと言ってくれるなら――」
「えっと、フィオはスバンシュを倒すまで一緒にいてくれるんじゃないの?」
 フィオはまた僕の顔を見た。
「い、いいのか? 私はまだ、リッキと一緒にいても」
「フィオさえよければ、僕はずっと、そのつもりでいたけど」
「そうか……はは、なんだ、そうだったのか。なんだ。私が勝手に気にしていただけだったのか」
 フィオは抱きしめていたクッションに顔を埋めた。
「僕はいつか元の世界に帰るけど、それがいつになるのか、今はまだわからない。その時までは、フィオには一緒にいてほしいんだ」
「……ありがとう。でもやっぱり、いつかは別れてしまうのだな」
 クッションから顔をずらして、フィオが答える。
「うん、そうだね。それはしょうがないよ」
「大丈夫だ。私もそれは、理解している」
「とりあえずさ、明日はゆっくり過ごすつもりでいるよ。フォスミロスがスバンシュのことを調べてくれるっていっても、すぐにはわからないだろうし」
 のんびりとした明日を想像したからだろうか。急に眠くなってきた。大きく伸びをして、ついでにあくびもする。
 それを見たフィオが、ソファから立った。
「すまなかったな、邪魔をして。今日はもう寝ることにしよう」
「うん、おやすみ」
 部屋を出ていくフィオに手を振り、ベッドに横になった。

   ◇ ◇ ◇

 初めて本物のリュンタルで迎えた朝も、こんなよく晴れた朝だった。ちょうど二年前のことだけど、はっきりと覚えている。
 洗面所で顔を洗い、髪を整える。これも二年前と同じだ。
 外に出て、屋敷の周辺を歩く。花壇にはさまざまな色の花が咲いている。これもやはり、二年前と同じだ。
 清々しい空気を目一杯吸い込み、深呼吸をする。これは、二年前とは違う感覚だ。二年前は、仮想世界とは違う本物のリュンタルの朝の空気を、とても新鮮に感じていた。でも今は違う。本物のリュンタルの空気には、もうすっかり慣れてしまった。
 カン、カン、と、音が響いている。何の音だろうか。
 音の鳴るほうへ歩く。やがて二人の姿が見えてきて、音の正体がわかった。
「おはようございます!」
「おはよう、リッキ。早く目が覚めてしまったので散歩していたら、付き合うことになってしまってな」
 額にうっすらと汗を浮かべたリノラナとフィオが、僕に挨拶した。あの音は、二人が持つ木刀が交わる音だったのだ。
「おはよう。朝から気合入ってるね」
「はい! 剣を振ることは毎朝の日課ですので! 二年前にこの場所でリッキと手合わせしたことは、今でもはっきりと覚えています。もしよろしければ、また手合わせして頂けませんか」
 あの時は本当は乗り気じゃなかったんだけど、立樹ではなくリッキとして体を動かせるのか、痛みは感じるのかといった現状を確認するために、一戦してみたのだった。
「でも、フィオと一緒に稽古してるじゃないか」
「ですが、わたしはリッキと」
「私では不足だと言いたいのか」
 僕とリノラナの間に、フィオが割って入る。
「いえ、そのようなことはありませんが、やはりわたしはリッキと」
「リノラナ、君は私に負けるのが嫌なのだな。だから私と戦いたくないのだ」
「……その言葉、聞き捨てなりません」
 二人は間を取り、木刀を構えた。同時に踏み込む。そしてまた、カン、カンと音を響かせた。
 だいぶ激しく打ち合っている。
「ケガしないようにね」
 と注意してその場を後にしたけど、ちゃんと耳に入っただろうか。
 柔らかい白ヘワジェの木で作られた木刀だけど、当たり方によってはケガをしてしまう。僕は実際、リノラナに木刀で打たれてアザを作ってしまった。その時は、すぐにシェレラが回復してくれたからよかったけど。
 やっぱり、回復役のシェレラがいるといないとでは大違いだよな……。
 旅の間に困ったのは、魔法使いがいないということだった。いつもはアイリーやシェレラと一緒だったから、魔法があるのは当たり前だった。攻撃はアイリーがいなくても剣でできるからいいけど、回復はシェレラがいなくて困った。ポーションはあっても、戦闘をしながら自分で回復するのは難しい。でもシェレラがいれば攻撃に集中できる。それにシェレラは指示も出してくれる。旅の途中では、シェレラがいればもっと簡単に勝てたのに、という戦闘も多かった。
 そろそろ朝食の時間だろうか。
 僕は屋敷の中に戻った。

 朝食もやっぱり、ヴェンクーとリノラナの食欲は旺盛だった。
 そしてフィオも、負けてはいない。
「朝から汗を流すというのは気分がいいな。食が進む」
「私は毎朝剣を振っています! フィオも毎朝一緒に鍛えましょう!」
「うむ。君とならいい稽古ができそうだ」
「食事の後はどうしますか? 私は騎士団で訓練をしていますが、フィオも来てみませんか」
「騎士団か……。しかし、私は旅の剣士であり、組織の中で戦うことはできぬ」
「では一対一での訓練なら」
「それならば構わぬ。喜んで行こう」
 フィオとリノラナはすっかり仲が良くなったようだ。スバンシュがどこにいるのかわかるまでの間、フィオにやることができてよかった。ただ時間を潰して待たせるだけだったら、なんだか申し訳なかったし。
「リッキはどうしますか! リッキもぜひ騎士団に来てください!」
「僕はいいよ。ちょっとのんびりしたいから」
「そうですか。では気が向いたらいつでも来てください!」
「うん、そうするよ」
 と、返事はしたものの、気が向くことはないだろう。リノラナやフィオと違って、僕は仮想世界のモンスターを倒さなければレベルアップできない。いくら本物のリュンタルで鍛えようが、強くはなれないのだから。

   ◇ ◇ ◇

 のんびりする、とは言ったものの、具体的には何も決めていない。ずっと屋敷の中にいてもしょうがない。つられてちょっと食べすぎちゃったし、腹ごなしにちょっと外に出てみようか。
 そういえば、ヴェンクーは今日はどうするんだろう? リノラナと違って騎士団での訓練はしないはずだし、かといって家の中でじっとしているはずもないし、たぶん外で遊んでいると思うんだけど。
 メイドさんに尋ねると、ヴェンクーは竜舎にいると教えてくれた。さっそく行ってみると、ヴェンクーはジザと一緒にいた。鼻面をなでているけど、ドラゴンはああすると気持ちいいのだろうか。
「ヴェンクー」
 近寄って、声を掛ける。
「ヴェンクーは、今日は何かやることあるのか?」
「街を歩いてみる」
「街を? どこか、行きたいところがあるのか?」
「そうじゃない。ただ歩く」
「えっと……暇つぶし?」
「暇つぶしじゃないって」
 ジザの鼻面をなでるのをやめ、こちらを向く。
「旅の間、いろんな街へ行って思ったんだ。オレ、ピレックルの街をこんなふうに歩いたことがあったっけな、って。歩いている人たちや、働いている店の人たちを見たり、建物とか看板とか、売っているものを眺めたりさ」
 ジザがヴェンクーに顔を寄せる。「わかったわかった」と、ヴェンクーがまたジザの鼻面をなで始めた。
「旅先で行った街はどれも違っていていつも楽しかったし、次に行く街はどんな人がいるんだろう、どんな物があるんだろうって、とてもワクワクしながら行ってたんだ。でも、自分が住んでいたピレックルの街のことを、オレはあんまり知らないな、ってことも一緒に思ったんだ。だから今日は、ピレックルの街を旅するんだ」
 ジザの鼻面をなでながら、照れくさそうに笑う。
「リッキはどうするんだ? もしヒマなら、一緒に行かないか?」
「うん、行くよ」
 今日やることが見つかった。即座に返事をする。
『リュンタル・ワールド』のピレックルはよく知っているけど、本物のピレックルの街はあまり知らない。
 僕にとっても、楽しい一日になりそうだ。

 何度も来たはずの、噴水の広場。
 でも、この噴水の広場に来たのは初めてだ。
 広場の中央にある噴水も、その側にある建国王の像も、いつも見ていたものと同じようで、実は違う。
 建国王の像の台を、手のひらで触ってみる。ひんやりとした硬い石の感触も、同じなんだけどなんとなく違って感じる。
「何やってるんだ?」
 先を行くヴェンクーが振り返って不思議がった。
「い、いや、なんでもない」
 軽く笑ってごまかし、ヴェンクーに追いついて並ぶ。
 噴水の広場から伸びる大通りではなく、少し奥に入った道を、二人で歩く。
「リッキ、カソウセカイのピレックルも、こんな感じなのか?」
 ヴェンクーが『リュンタル・ワールド』に来た時は噴水の広場から大通りを通って街の外へ出たから、この辺りがどうなっているのか、ヴェンクーは知らない。
「似てるけど、ちょっと違うかな」
 実際に歩いてみると、『リュンタル・ワールド』のピレックルと本物のリュンタルのピレックルは同じようで違う、というのがわかる。当然だけどここにはオフィシャルショップがない。代わりに飲食店だったり、服や雑貨を売っている店がある。その他にも新しい店がいくつもある。お父さんが旅した二十年以上前にはなかった店だ。
 道を歩いている人も違う。『リュンタル・ワールド』では冒険者がたくさんいるけど、ここではピレックルで生活している普通の人がほとんどだ。たまに旅人らしき人を見かけるけど、ピレックルは観光地ではないから、遊びにではなく、商売で来ているのかもしれない――。
「そうだ! ヴェンクー、ユスフィエはどうしているんだ? 旅の途中で会ったのか?」
 ユスフィエは遠い西の国シュドゥインの女の子で、ヴェンクーの婚約者だ。隊商の一員として、隊長でもある父や他の商人たちと一緒にリュンタル中を旅している。
「会ってないけど」
「会ってないのかよ! あれから二年も経っているんだぞ? いくらお互い旅をしているからって、一回も会わないのかよ。ジザがいれば会いに行けるだろ」
「会って何になるんだよ。オレはオレの旅をするし、ユスフィエは商売のために旅をする。それでいいじゃないか」
「だからって」
 婚約者と二年も会わなくて平気だなんて、ちょっと考えられない。
「ヴェンクーはよくても、ユスフィエは会いたがっているかもしれないじゃないか」
「ユスフィエはちゃんと仕事をがんばっているさ。オレが行ったってジャマになるだけだ」
「でも、ちょっとぐらい」
「いつかは一緒に暮らすんだ。そうしたらもう、ユスフィエは隊商の一員にはなれない。今だけなんだ」
 淡々とユスフィエの話をするヴェンクーに、寂しさを少し感じた。
 本当は、会いたいんだ。
 でもそれを、ユスフィエのために、我慢しているんだ。
 僕にもいつか、好きな人と会いたくて仕方がなくなる、そんな時が来るのかな……。
 …………あれ?
 ヴェンクーがいない。
 振り向くと、ある店の前でヴェンクーが立ち止まっていた。
 慌てて戻る。
 そこは金細工の店だった。
 狭い店の頭上にはひもが張ってあり、部屋に吊るして飾る大きな金細工がぶら下げられ、空間を埋めている。棚には小さなアクセサリーが隙間なく並べられていて、壁にも金細工が掛けてある。店内のどこを見ても金だらけだ。
「……………………」
 ヴェンクーは黙って金細工を、特に棚のアクセサリーを見つめている。
 どうしたんだろう? ヴェンクーはファッションとは無関係な性格のはずだけど。
「リッキ、わかるか?」
 アクセサリーを見ていた顔を上げ、僕に訊く。
「わかるか、って、何が」
「ユスフィエに贈りたいんだ。でもオレ、どういうのがいいのかわからなくて」
 そういうことだったのか。でも、
「ごめん、僕にもわからない」
「リッキは女の人にこういうのを贈ったことがないのか? 例えば、シェレラとかに」
「シェレラはアクセサリーを作る側の人だから、僕から贈ったことはないよ」
 以前、フレアにプレゼントを贈ろうとして、どんなものがいいかそれとなくシェレラから聞き出そうとしたことはあった。でも、シェレラにプレゼントを贈るなんて考えたこともなかった。
「シェレラは職人だったのか? 魔法使いじゃないのか?」
「こっちのピレックルに来た時はそうじゃなかったけど、あの後でアクセサリー作りも始めたんだよ。シェレラに作ってもらうには、予約して待たなければならないくらい人気なんだ」
「へーっ、そうなのか。シェレラってすごいんだな」
「うん、シェレラはすごいよ。アクセサリー作りの他にもね。これまでに何度助けてもらったかわからないくらい」
 僕がシェレラよりいいのは戦闘の攻撃力ぐらいだ。それ以外は何をやってもシェレラのほうが上だろう。
「いいのか? それなのに、シェレラに何も贈らなくて」
「シェレラに? うーん、なんかピンとこないなー。でもスバンシュを倒して帰ることが決まったら、考えてみるよ」
 いつ元の世界に帰れるか決まってないのに、考えてもしょうがない。
「ところで、ヴェンクーはユスフィエに会う気になったのか? プレゼントを買うってことは、ユスフィエに会うつもりなんだろ?」
「シュドゥインの隊商は毎年同じ時期に同じ場所を回るから、そろそろピレックルに来るはずなんだ」
「そっか、じゃあ、その時に会えばいいんだな」
「でも、シュドゥインの隊商は一つじゃない。いくつもの隊商がリュンタル中を回っている。隊員の構成もいつも同じとは限らないし、ユスフィエがいるかどうかはわからない」
「そうなんだ……」
 そこでふと、ある考えに至った。
「でも、来ていないかもしれないけど、来ているかもしれないんだろ? ユスフィエならきっと来るよ。ヴェンクーだって、ユスフィエに会うために帰ってきたんだろ?」
「…………そうじゃない。リッキを連れてくるためだ」
「でもさ、昨日あの辺りを飛んでいたってことは、ピレックルに向けて飛んでいたんじゃないのか?」
「それは、なんとなくと言うか、た、旅の行き先なんて、最初から理由はない。たまたまだ」
 慌てて早口で答えて、顔を背けてしまった。わかりやすいウソだ。
 あらためて棚のアクセサリーを見てみる。どれもピカピカに光っていて目移りする。そして、どれがいいのかは、やっぱりわからない。
「ヴェンクー、プレゼントは物じゃない。気持ちだよ」
 苦し紛れの言葉を放つ。
「気持ち……」
 顔を背けていたヴェンクーが、またこちらを向く。
「僕だって、シェレラにプレゼントを贈ったことはないけど、感謝はしてるよ」
「リッキは、シェレラになんて言ったんだ?」
「え?」
「感謝の気持ちを言ったんだろ?」
「えっと……、ありがとう、とか」
「……それだけか?」
「…………うん」
「いいのか? それで」
「い、いいだろ、別に」
 僕とシェレラの関係は、ただの隣の家の幼なじみだ。婚約者であるヴェンクーとユスフィエの関係とは違う。「ありがとう」で十分だ。
「それより、今日はピレックルの街を旅するんだろ? もっといろんな物を見よう。もっといい物が見つかるかもしれないだろ?」
 金細工の店を離れ、先へ歩き出す。振り向いて促すと、ヴェンクーもようやく動き出した。

 商店街の裏手には、工房が並ぶ区域がある。『リュンタル・ワールド』ではクエスト用のNPCがいたり、シェレラのようにプレイヤーが使っていたりするけど、本物のピレックルでは本物の職人たちが仕事をしている。
「この辺りは鍛冶屋が多いんだな」
「ああ。ピレックルは大昔、この地に住み着いていた魔族を剣で倒して建てた国だからな。その伝統が、今でも続いているんだ」
 二年前に魔獣が湧いて出た時も、騎士団のおかげで魔獣を倒すことができた。僕たちやフォスミロスだけでは、倒すことはできなかったはずだ。
「入ってみるか?」
「え、いいのか?」
「よく知ってる鍛冶屋がいるんだ」
 ヴェンクーは二軒先の鍛冶屋の窓を覗くと、ドアをノックもせずに開けた。
 僕も続いて入っていく。
「おう、ヴェンクーじゃないか。帰って来とったんか」
 工房の中では、ハゲ頭に白いヒゲのおじいさんが汗を拭いていた。
「昨日帰ってきたんだ」
「そうだったんか。……後ろの背の高い兄ちゃんは、さてはリッキだな?」
「あ、はい。でも、どうして知ってるんですか?」
 とは言ったものの、だいたい察しはついている。この人はお父さんに会ったことがあるんだ。
「俺はコーヤの剣を打ったことがあるからな。あんたの名前は聞いとったし、見てすぐわかったわ」
「そうなんですか」
 ということは、お父さんが『リュンタル・ワールド』で使っている剣も、この人が作った剣が元になっているのだろうか。
「カウーゴ、ちょっと見てくれ」
 ヴェンクーが愛用のナイフを差し出す。戦闘用に作られた、やや大きめのナイフだ。
 受け取った鍛冶職人のおじいさんが、ナイフを抜いてじっと見つめる。僕の目には、特に問題があるようには見えない。
「丁寧に使っとるな。使い込まれとるが、それほど傷んどらん」
 ヴェンクーが笑みをこぼす。
「しかし、全体をよく見れば細かい傷みがあるな。よし、手入れをしといてやろう」
「ありがとう。旅の間は自分でやってたけど、カウーゴが見てくれるのが一番いいからな」
 ヴェンクーはこのカウーゴという鍛冶職人をかなり信頼しているようだ。実際、僕にはよくわからなかった傷も、カウーゴにはちゃんと見えているようだ。
「リッキはどんな剣を使っとるんだ。……今日は持って来とらんのか」
「ありますよ」
 空間で指を動かし、剣を出現させる。
「な、なんだ?」
 一瞬驚いたカウーゴだったけど、すぐ僕の剣の見定めを始めた。
「ふむ……良い品ではあるが、普通の剣だな。(いわ)れのある代物ではない。そうだろう?」
「はい。普通の武器屋で買いました」
 クエストで手に入れた剣もあるけど、今使っているこの剣はオフィシャルショップで買った剣だ。オフィシャルショップの剣の中ではかなり高額の部類に入る。カウーゴの目利きは正しい。
「どうだリッキ、俺に剣を打たせてみんか」
「えっ」
「歳は老いたがな、腕も老いた覚えはない。リッキがこれまで握ったどの剣よりも良い剣を打ってみせるぞ」
 ヴェンクーが信頼を寄せている、そしてお父さんの剣も作った人が、僕に剣を作ってくれる――。
「いいんですか? 僕なんかに」
「金の心配ならいらん。俺が勝手に打つんだ。どうだ?」
「お願いします。むしろ僕からお願いします。お金も払います」
「金はいらんと言っとるだろうが」
「でも……」
「リッキ、カウーゴがいいって言ってるんだ」
 ヴェンクーが僕の手を掴む。
「オレ、他にも行きたいところがあるから。また後で来る」
 そのまま手を引かれて、工房を後にした。

「リッキ、カウーゴは誇りある職人だ。だから」
「わかってる。僕が悪かった」
 カウーゴのほうから金はいらないと言ってきたのだから、僕は金の話をするべきじゃなかった。カウーゴの誇りを傷つけてしまうことになる。感謝の言葉だけ言えばよかったんだ。
 それにしても、ヴェンクーから諭される日が来るなんてな……。出会った頃は全然想像できなかったことだ。
「で、次はどこに行くんだ?」
「そうだなー……」

 結局、目的もないままただぶらぶらと歩いた。商店街に戻って立ち並ぶ店を眺めたり、たまたま見つけた店で食事をしたり、小さな公園を見つけて休んだり、そしてまたぶらぶら歩いたり。
 ただそれだけなのに、楽しい。
 知っているはずなのに、知らない街。ヴェンクーも楽しかっただろうけど、僕は僕にしかない不思議な感覚で楽しむことができた。
 いつの間にか、西の空が夕焼けに染まってしまっていた。
「もう帰らなきゃ」
「そうだな。でも帰る前に、ナイフを取りに行こう」
 最後に、もう一度カウーゴの工房に行った。
「おう、できとるぞ」
 メンテナンスが済んだナイフを、ヴェンクーが受け取る。鞘を抜くと、新品同様の銀色に輝く刃が現れた。何度も握り直し、感触を確かめている。
 赤い両目が、空間の一点を見つめた。そして踊るようにナイフを一振りし、そして突き、また振る。体を捻り、またナイフを突き、振る。それに合わせて、銀色の光が複雑な曲線と直線を描く。
 もともとすごいのはわかっている。でも二年ぶりに見たヴェンクーのナイフさばきには、凄みと洗練さがさらに加わり、そして鋭くなっているのを感じる。
 動きを止め、ナイフを鞘に収めた。
「ありがとう。真新しいナイフみたいなのに、ちゃんと手になじむ」
「そりゃ、いくら見た目は新しくても、ヴェンクーと一緒に経験を積んどるからな。その辺のナイフと一緒にはできん」
 すごいのはヴェンクーだけじゃない。カウーゴもだ。僕の目には問題なく見えていたナイフだったけど、カウーゴのメンテナンスが済んだ後のナイフは明らかに違っていた。
「リッキの剣はまだだ。あとでまた来てくれ」
「はい、わかりました」
 一から剣を作るのは簡単なことではない。でも、カウーゴならきっと素晴らしい剣を作ってくれることだろう。期待せずにはいられない。
 工房を後にして帰るまでの間、僕はずっと新しい剣のことを想像していた。おかげでヴェンクーが隣にいるのに僕だけ道を間違えてしまい、変な目で見られてしまったけど。

   ◇ ◇ ◇

 夕食もまた、嵐のような激しさだった。
 騎士団で剣の稽古をしていたリノラナとフィオがよく食べるのはわかる。でも僕と一緒に街を歩いていただけのヴェンクーが、どうしてそんなに食べられるんだ?
「兄さま! 今日は何をしていたのですか?」
 リノラナは食事の時、誰よりもヴェンクーに話しかける。
「別に何もしていない」
「そうなのですか? ではリッキは何をしていたのですか?」
 どうしてヴェンクーはあんな返事をしたんだ? ものすごく答えづらい。
「えっと……ヴェンクーと一緒に街に……」
「兄さま! 何もしてなくないではないですか!」
「リッキと一緒にいたけど、別に何もしていない」
「リッキ! 兄さまと何をしていたのですか? 教えてください!」
「ええっと……」
 とりあえず、ユスフィエへのプレゼントの話は、黙っておいたほうがいいだろう。
「カウーゴって人のところに行って……」
「そうでしたか! カウーゴ殿にお会いになったのですか!」
「うん、それで、僕のために剣を作ってくれることになって」
「ほう、カウーゴが」「本当ですか!? なんてすばらしい!」
 ずっと静かに話を聞いていたフォスミロスの反応と、リノラナの驚きの声が重なった。フォスミロスも話に乗ってくるくらいなんだから、カウーゴは本当にすごい鍛冶職人なんだな。
「さすがリッキですね。わたしも早くカウーゴ殿の剣を握ってみたいものです」
「えっ、リノラナは持ってないの?」
 当然持っているものだとばかり思っていたけど……。
「わたしごときではまだまだです。カウーゴ殿は、剣を見れば使い手の技量も見ることができるのです。わたしの剣捌きはまだまだ荒いようで、カウーゴ殿には認めてもらえないのです」
 リノラナは結構強いはずなんだけど、それでもだめなのか。それなのに僕が剣を作ってもらえるなんて……。自信にはなるけど、いいのかな。それで。
「フィオもカウーゴ殿のところに行ってみてはどうですか? フィオなら剣を打ってもらえるかもしれません!」
「いや、私は今の剣がいい。話を聞く限り、そのカウーゴという人もかなりの腕のようだが、私の故郷にも腕利きの鍛冶屋はいる。剣はかけがえのない友でもあり、そう簡単に変えられるものではない」
「なるほど、それもそうです」
 リノラナはスープを一口飲み、フィリゴ芋の煮物をフォークで突き刺して口に運んだ。ヴェンクーのことから話が逸れたまま終わってしまったけど、気にしていないようだ。もう忘れてしまったのかもしれない。
 一番大事な話を、僕はしなければならない。
「フォスミロス、スバンシュのことはわかりましたか?」
「いや、今日はまだわかっていない。だが、必ず良い知らせを報告できるだろう。待っていてほしい」
 やっぱり、そう簡単には見つからないか。
 でも、ここに来るまでずっと旅をしてきたんだし、一日や二日長くなっても問題ない。今はフォスミロスを信頼して、待つほかない。
 僕もフィリゴ芋の煮物を食べた。甘辛くておいしい。これはたしか『リュンタル・ワールド』にもあったはずだ。帰ったら、これと同じ味かどうか、食べて確かめてみよう。

   ◇ ◇ ◇

 今朝もまた、カン、カンと乾いた音が響いている。リノラナとフィオの朝稽古だ。
 行ってしまうとまたリノラナに付き合わされそうになってしまうので、その場所を避けて歩く。
 竜舎に来た。大きなドラゴンが何頭もいる場所だから、とにかく広い。でも、僕が行く場所は一ヶ所、ジザがいる所だけだ。
 昨日ヴェンクーと会った場所に行ってみると……あれ? ジザがいない?
 どうしたのだろう。
 知っていそうな人は、と考えてみる。やっぱりあそこに行くしかない。
「リノラナ、ジザがいないみたいなんだけど、どうしたんだ?」
 朝稽古の場所に行き、訊いてみた。
 フィオと木刀を合わせていたリノラナが、手を止める。
「ジザならさっき、兄さまと一緒にどこかへ飛んで行きました」
「えっ、こんな朝早くに?」
「昨日はずっと竜舎にいたので、飛びたがっていたのでしょう。ジザぐらいの年頃なら、やはり毎日飛びたがるものですので。たぶん、少し飛べば戻ってくるはずです」
「そうなんだ。知らなかったよ」
 ドラゴンも人間同様、子供はじっとしていられないということなのだろうか。
「ところでリッキ、もしよろしければ、手合わせなど――」
「教えてくれてありがとう」
 朝稽古に巻き込まれないように、早々に立ち去った。少し歩くと、後ろからまたカン、カンと木刀が交わる音が聞こえてきた。

 朝食の最中に、ヴェンクーが帰ってきた。
 黙って席につき、パンをかじり、スープを飲む。そしてゆっくりと大きな青菜を手に取り、ゆっくりと挽肉を乗せて包んだ。それをゆっくりと一口ずつ、よく噛みしめながら食べている。
 おかしい。
 ヴェンクーの食事はいつも戦闘モードで、リノラナと争うように猛烈な勢いで食べている。
 それがなんで、こんなにおとなしいんだ?
 いや、おとなしいというより、どことなくうわの空のような感じがする。
 もしかして、ジザと出かけている間に、何かあったのだろうか。
「兄さま、どうしたのですか? もっと食べではどうですか?」
「……………………」
 ヴェンクーは答えない。
「兄さま? どうして食べないのですか?」
「…………………………………………」
「兄さま!」
「な、なんだリノラナ、急に」
 耐えきれずに大声を出したリノラナに、ようやくヴェンクーが反応する。
「急にではありません! さっきから話しかけているではありませんか」
「そ、そうか」
 かじりかけだったパンを、ゆっくりとかじる。そして飲みかけだったスープをゆっくりと飲む。その次は……何も食べない。ただぼーっとしている。
「兄さま! 答えてください!」
「…………何をだ?」
「ですから!」
「あとにしてくれ」
 ヴェンクーは席を立ち、どこかへ行ってしまった。
 沈黙が食卓を囲む。
「父さま! 兄さまは一体、どうしたのでしょうか?」
「……わからん。旅から帰ってきて、何か思うところがあるのかもしれん」
 フォスミロスも首をひねっている。
「そうでしたか! 父さまも旅から帰ってきた時はそうだったのですか?」
「いや、俺は旅の途中でちょくちょく帰ってきていたからな。二年間出っぱなしだったヴェンクーとは違う」
「それもそうですね!」
 ただ不思議そうにしているフォスミロスと違って、ミオザは心配そうだ。
「リノラナ、なるべくそっとしておいてあげて?」
「母さま、兄さまは大丈夫なのでしょうか? わたしは兄さまの助けになりたいです」
「ヴェンクーはそっとしておいてほしいと思っているのよ。何もしないことをヴェンクーは望んでいるわ」
「そうですか……よくわかりませんが、わかりました」
 リノラナは難しいことを考えるのが苦手だから、ヴェンクーの微妙な心理状態はどうがんばってもわからないだろう。
 とはいえ、僕もわからないから、人のことは言えないんだけど……。
「フィオは今日も騎士団の訓練に来ますか?」
「ああ、実にいい鍛錬になる。今日もぜひ行きたい」
「ではまた手合わせ願います!」
「いいだろう。今日こそ勝ってみせるぞ」
「いいえ、わたしこそ今日は勝ってみせます!」
 まだ勝負がついていないということは、フィオとリノラナはちょうどいい力関係のようだ。年の差は二つあるけど、それは特に気にするところではないだろう。
「リッキはどうしますか? もしよければ」
「僕はいいよ。今日は一人で街へ行くから」
「そうですか。では気が向いたら来てください」
「うん、そうするよ」
 昨日したような会話を、今日もまたしてしまった。これ、帰るまでずっと続くんだろうか。

 昨日は大通りから奥に入った道に行ったけど、今日は普通に大通りを歩いてみることにした。噴水の広場の南側は王城で、大通りは北に伸びている。見慣れた噴水と、その横に立つ建国王の像を背に、北へと歩く。
 見慣れた街並みのようで、やっぱり微妙に違う。『リュンタル・ワールド』と同じ店が多いけど、建物は同じままで中身が違う店になっている場合もある。食べ歩きできる物を売っている店もあるけど、まだ朝食を食べたばかりだし、素通りして歩く。
 昨日もそうだったけど、本物のリュンタルには仮想世界のような冒険者はいない。いるのは街で暮らす普通の人たちと、たまに見かける旅人だ。昨日と違うのは、大通りなので馬車や荷車などがよく通っていることだ。これも仮想世界にはない特徴だ。仮想世界では『門』を通れば簡単に移動できるし、荷物はウィンドウにしまえばいい。
 また遠くから馬車が……いや、あれは馬車じゃないな。馬と人だけだ。車を引いていない。結構、数が多いようだ。馬に荷物を乗せて手綱を持って歩いている人もいれば、馬に乗っている人もいる……。
 ……あれは!
 思わず走る。前にいた人とぶつかりそうになって、謝りながら走る。
 近づくにつれ、独特な幾何学模様の民族衣装を着たその集団が何者なのか、はっきりとわかってきた。
 僕は大声で叫んだ。
「ユスフィエ!」
 手を高く上げて振り、僕がここにいることを知らせる。
 ユスフィエも馬上から手を振った。やっぱりピレックルに来たんだ!
 こちらに向かって進んでいる隊商がだんだん近づいてきて、僕の前で止まった。
 あれ? なんだかちょっと違和感を感じる……。ユスフィエの髪型のせいか? 二年前に会った時より、だいぶ髪が長い。
 ユスフィエが馬から降りた。
「リッキ、どうしてここにいるの?」
 髪型だけじゃない、違和感の正体に気づいた。
 ユスフィエの身長が伸びている。馬から降りてそれがはっきりとわかった。二年前はヴェンクーよりさらに一、二センチ低いくらいだったのに、今は普通の十六歳の身長だ。アミカの身長が伸びて驚いていた人は多かったけど、今の僕が感じているのも、きっとそれに近い。
「えっと、ちょっと事情があってね……」
 ユスフィエの背の高さに戸惑いながら答える。
「ヴェンクーは? ヴェンクーもいるんでしょ?」
「ヴェンクーは家にいるよ。でも、どうして旅から帰ってきたって知ってるの?」
「だって今朝、ドラゴンが飛んでいるのを見たもの。あれはジザなんでしょ? ヴェンクーは私たちのこと、気づかなかったみたいだけど」
 それか!
 朝食の時にヴェンクーの様子がおかしかったのは、空から隊商を見つけたからだ。でも自分からは会いに行かないと決めているから、その時は地上に下りずにそのまま帰ってきたんだ。
 知らないふりをして黙っているなんて、ヴェンクーは何というか……かわいいな。
 早く二人を会わせたくてしょうがなくなってきた。
「じゃあさ、ヴェンクーに会いに行こうよ。今から行ける?」
「うん! すぐに会いたい! お父さん、行ってきていい?」
「ああ、行ってきなさい」
 隊商の隊長であるユスフィエのお父さんが、馬上から答える。
 馬を隊長に預けたユスフィエが走り出した。
「リッキ、早く!」
 振り向いて足踏みをしながら、僕を待つ。
 ヴェンクーがユスフィエに会いたかっただけじゃない。ユスフィエだってヴェンクーに会いたいんだ。
「うん! 行こう!」
 僕はユスフィエと一緒に、街行く人々を避けながら走り出した。

「すみません」
 玄関で掃除していたメイドさんに声を掛ける。
「はい、なんでしょ…………! ユスフィエさ」
「「シーーーッ」」
 大声を出しそうになったメイドさんを制止する。
「ヴェンクーはどこにいますか」
 ひそひそ声で尋ねる。
 メイドさんも察してくれて、小声で静かに答える。
「ヴェンクー様なら、お食事後からずっとお部屋にいらっしゃいます」
 僕とユスフィエは無言でうなずいて、屋敷の中に入った。
 足音を消して、廊下を歩く。
「なんでメイドさんはユスフィエを知っていたの?」
 囁いてユスフィエに訊く。
「去年もこの時期に来ていたから。その時は挨拶だけだったけど」
 ユスフィエも囁き声で返す。
 隊商のメンバーは誰が来るかわからないようなことをヴェンクーは言っていたけど、ユスフィエは去年もちゃんと来ていたんだ。
 長い廊下を歩き、ようやくヴェンクーの部屋の前まで来た。
 ユスフィエと目を合わせ、お互いにうなずく。

 ――――コンコン

「ヴェンクー、いるか?」
 返事はない。
 仕方がないので、ドアノブを回す。少しだけドアを開け、隙間から部屋の中を覗いた。
 沢野家の僕の部屋とは比べ物にならないくらい広い部屋で、ヴェンクーはこちらに背を向け、机に向かって座っている。何か読んだり書いたりはしてなく、両肘をつき、開いた窓の向こうをただぼんやりと見上げていた。僕がノックしたことも、ヴェンクーを呼んだことも、そしてドアを開けたことも、気づいていないかのようだ。全くこちらを向く気配がない。
 決行だ。
 もう少し、ドアを開ける。
 隙間から部屋に入り込んだユスフィエが、足音と息を殺して一歩一歩前に進む。
 ヴェンクーは気づかない。
 ユスフィエはさらに進む。そして、
「ヴェンクー!」
「うわああああああああああぁぁあぁああぁぁああああぁっっっ!!!!」
 背後から飛びついて抱きしめたユスフィエに、ヴェンクーはこの世のものとは思えないような絶叫で返した。きっと顔もとんでもない表情を見せているんだろうけど、ここからは見えないのが残念だ。
 ドッキリ大成功だ。
「やっと会えた! ヴェンクー! やっと会えた!」
「ユ、ユスフィエ!?」
「ヴェンクー、こっち向いて? 私に顔を見せて?」
 体を抱きしめていた腕を解かれ、ヴェンクーが椅子から立つ。
 振り向いて、ユスフィエの顔を見上げた。
「ユスフィエ……なん、だよな。」
「当たり前でしょ? 忘れたの? 私の顔を」
「い……いや、そう、じゃ、ないけど、その……」
 ヴェンクーもユスフィエの背が伸びたのに戸惑っているようだ。さすがに空から見下ろしただけではわからなかったのだろう。
「うん、あれからちょっと、背が伸びたの。ヴェンクーは変わってないね」
「あ、ああ」
「私、小さいヴェンクーが大好き!」
 今度は正面から、ヴェンクーを抱きしめる。
「ユスフィエ……」
「……ごめん、小さいヴェンクーが好きなんじゃなかった。小さくても頑張っているヴェンクーが好きなんだった。背の高さは関係ないよね」
「……ありがとう」
 抱かれるがままだったヴェンクーの両腕が、ユスフィエの背中に回る。
「でもさ、オレ、本当はちょっとうらやましいんだ。ユスフィエの背が伸びて」
「あはは、そうなんだ」
 ヴェンクーは体の小ささを受け入れたはずだけど、やっぱり大きくなりたいという気持ちが残っているんだ。ユスフィエにだけは、本音が言えるんだ。
 抱きしめていた二人の腕が解かれる。
「他の隊商の人たちはどうしたんだ?」
「今は取引先のところへ行ってる。私だけ抜けてきたの。早くヴェンクーに会いたくて」
「そうだったのか。オレも会いたかった。ずっと会いたかった」
 なんか……僕、ここにいないほうがいいかな。二人っきりのほうがよさそうな雰囲気だ。
「リッキ」
 ドアの側で突っ立っていた僕を、ヴェンクーが呼んだ。静かに立ち去ろうとしていたのに、動けない。
「……………………」
「な、なんだよ」
 何も言わないのでは、何もわからない。ただ僕を睨みつけている。ひょっとして、ドッキリを仕掛けたことを怒っているのだろうか。
「……………………どうして」
「…………どうして?」
「どうして、リッキが先にユスフィエに会っちゃったんだよ! オレが一番に会いたかったのに!」
 そこ!?
「だってしょうがないだろ! 外を歩いていたら、たまたま会ったんだから。だったらヴェンクーだって会いに行けばよかったじゃないか。そもそも」
 そもそもヴェンクーはユスフィエが来ているって知ってたんだろ、と、言いそうになって、慌てて口を閉じる。
「そもそも……何?」
 ユスフィエが僕に問いかける。
「いや、その、なんでもない」
 今度はヴェンクーのほうを向き、答えを求める。
「な、なんでもない。なんでもないってリッキが言ってる。だからなんでもない」
 ヴェンクーの歯切れの悪さにも、ユスフィエは不思議がっている。
「そ、そうだ。フォスミロスとか、他のみんなにも会っておいたほうがいいんじゃないかな」
「そうだな。それがいい。そうしよう」
 戸惑っているユスフィエの手をヴェンクーが引き、僕たちは部屋を出た。

「父さま! 母さま! ユスフィエが来ました!」
 二人はミオザの部屋にいた。ミオザは足をケガしていて車椅子だから、フォスミロスが付き添っているのだ。メイドさんに任せたりしないのがフォスミロスらしい。
「おお、ユスフィエ、元気そうで何よりだ」
「ユスフィエ、久しぶりね。ちょっと背が伸びたかしら」
「母さまはユスフィエと会ったことがあるのですか?」
 ヴェンクーは二人の顔を交互に見ている。
「私、去年もここに来たから」
「ええ、一年ぶりね」
「なんだ、そうだったのか。知らなかったよ」
 ヴェンクーは照れ隠しの笑いを浮かべた。
「うん、去年も今年も、どうしてもピレックルに行きたい、他の行路は嫌だって言って、許してもらったの。おかげでヴェンクーに会うことができたわ。本当に来てよかった」
「せっかく会ったのだ。外へ遊びに行ってきなさい」
「はい、父さま」
 フォスミロスにそう言われて、僕たちは部屋を出た。

 おととい再会してから、こんなにうれしそうなヴェンクーは見たことがなかった。
 しっかりとユスフィエと手をつなぎ、ちゃんと前を見ているのか不安になるくらいユスフィエの顔を見ている。
 屋敷を出て、騎士団の訓練場に来た。
 たくさんの騎士たちが訓練をしている。兵舎の壁に近い辺りでは、一対一で剣を交えて訓練している人がいる。広い場所では、陣形の訓練だろうか、指揮官の号令の下で規則正しく移動している集団が、ザッ、ザッと大きな足音を鳴らしている。集団の騎士たちは全員銀色の全身鎧を来ていて、誰が誰だかよくわからない。
「リノラナーっ!」
 ヴェンクーが呼ぶと、その陣形の訓練をしている中から一人が抜け出してきた。走って近づいてきて、兜を脱ぐ。ところどころに緑色が入った銀色の長髪が現れた。
「兄さまが呼ぶ声が聞こえたので、急いで来ました」
 あんなに足音が響いていたのに、よく聞こえたな。
 それにしても、全体訓練の途中でいきなり抜け出してきて、大丈夫なのだろうか。
「兄さまが訓練場に来てくれるなんて、とてもうれしいです。ついに訓練に参加する気持ちになったのですか?」
「そうじゃない。ユスフィエが来たから、呼びに来ただけだ」
「…………ユスフィエ! ユスフィエではありませんか!」
 どうやらリノラナにはヴェンクーしか見えていなかったようだ。僕がいることは……たぶん、わかっていると思う。わかっていてほしい。
「久しぶりね、リノラナ」
「はい! 去年は訓練中でユスフィエが来たことに気づかなかったので、会えてうれしいです」
 そうだったんだ……。訓練に熱心なのはいいことだけど、誰か呼んであげればよかったのに。
「だいぶ背が伸びましたね! 兄さまは全然変わっていないのに」
 リノラナの兄思いは相当なものだ。でも、いいも悪いも発言がストレートだから、それがヴェンクーを怒らせてしまうことがある。昔のヴェンクーだったら、背が伸びないことを言われたらすぐに逆上していただろう。でも、今のヴェンクーなら大丈夫なはずだ。
「リノラナだって全然背が伸びていないじゃないか」
「わたしはもともと伸びていたのです。兄さまはこれから伸びると言っていましたが、全然伸びていないではありませんか」
「伸びなくてもいいから、伸びていないだけだ」
 喧嘩にはならないと思っていたけど、なんだか怪しい雰囲気になってきたな。
「リノラナ、私は小さくても頑張っているヴェンクーが好き。小さくてもいいのよ」
 ユスフィエが会話に割って入る。今は背が伸びたとはいえ、ユスフィエは小さい人の気持ちがよくわかる。
「わたしももちろん兄さまが好きです! 今の兄さまも好きですし、将来背が伸びた兄さまを想像するのも好きです!」
 なんか変な妄想が出てきた!
 それに、婚約者と妹が“好き”で張り合うってどうなの? たぶん、違う種類の“好き”だとは思うけど。
「どうしたのだ? みんなで集まって」
 兵舎の壁のほうから、フィオが汗を拭いながら歩いてきた。
「リッキ、そちらの方は? 見慣れない服を着ているが」
「ユスフィエだよ。この服はシュドゥインの……えっと、これからみんなで街へ行かないか? その時にゆっくり話そう」
 遊びに行くためにフィオとリノラナを呼びに来たのが、訓練場に来た理由だ。ここでおしゃべりを続けることはない。
 二人が着替えてくるのを待って、僕たちは街に出た。

「こ、こ、婚約者!?」
 手をつないで歩く二人を見ながら、フィオが何度も目をぱちくりさせている。
「そうよ。二年前に約束したの。将来一緒に暮らそうって」
「ああ。今のオレがいるのはユスフィエのおかげだし、これからもユスフィエがいない将来なんて考えられないんだ」
「そ、そうなのか。何と言うか、その……」
 フィオは顔を赤くして、二人から目を逸らせた。見たくないのではなく、見ていられなかったのだ。
 目を逸らせた流れで、今度は僕の顔を見た。
「ひょっとして、リ、リッキにも、そ、そういう人がいるのか?」
「僕? 僕はいないよ」
「そうか。それはよかった」
 フィオはほっとため息をついた。
「どうしてよかったのですか?」
 リノラナがフィオの発言に食いつく。
「それではまるで、兄さまがよくないことをしたみたいではないですか」
「い、いや、そうではない。婚約者がいるということは、とても素晴らしいことだ。私はまだまだ修行の身だが、いつかはそういう時が来るのだろう。羨ましい限りだ。そ、そうだろ、リッキ」
「え? う、うん、そうだね」
 とりあえず答えてはみたものの、僕は“好き”って感情がどんなものなのかよくわからないし、将来の結婚相手のことなんて全く考えたことがない。リノラナに言われてとっさに取り繕ったフィオも、きっと考えたことがなかったんだ。
 それにしてもどうしてフィオは「よかった」なんて言ったんだろう。何が「よかった」んだ?

 大通りを歩くのは今日二回目だ。朝食のすぐ後だった一回目とは違って、今は立ち並ぶ食べ物の店に惹かれてしまう。
 何か、食べたいな……。
 あ、そうだ!
 行く先に見えてきた店を指差す。
「フィオ、あそこ、こないだ言ってたピスルグの店だよ」
 一人だけ抜け出て、先に店の前に行く。フィオも残りの三人を置いて、僕について来た。
 店の傍らには、薄い袋状の生地が積み上げられている。そして目の前のケースには、肉、魚、野菜などで作られたさまざまな具材が、二十種類ほど並べられている。
「ここから好きなものを選んで、入れてもらうんだ」
「ほう……で、どれを選べばよいのだ?」
「なんでもいいよ。たとえば、そうだな……すいません、このクークーの肉と卵、あとカーハナをください」
 実際に注文してみせた。クークーはニワトリのような鳥で、カーハナはトマトのようだけど、ドロドロの部分が少なくもっと身が締まっている野菜だ。
 小さく刻まれている具材を、店員のおばさんが手際よく袋状の生地に詰めていく。最後に赤い香辛料を一振りした。
「はい、どうぞ」
 お金を渡し、完成したピスルグを受け取る。
 一口かじる。三種の具材と、やや硬めの生地を口の中でよく噛んで混ぜ合わせる。それぞれの味と香辛料の辛さが組み合わさって、とてもおいしい。
「フィオも頼んでみなよ」
「うむ。そうだな……これだけ種類があると迷うな……」
 あとから来た三人が合流する。
「リノラナ! リノラナはどれが好きなんだ?」
「わたしはノスルアザラシの肉が好きです!」
「オレもノスルアザラシだな」
「兄さまと同じものが好きだなんて、とてもうれしいです!」
「そうか……じゃあ私も、ノスルアザラシで」
「…………一種類だけかい?」
「ああ、それで構わない」
 少し戸惑いを見せたおばさんが、生地にノスルアザラシの肉だけを詰めていく。香辛料を振り、フィオに渡した。
「ふむ、うわひな!」
 うまいな、と言ったのだろう。一口かじったものがまだ口の中に残っているのに、フィオは感想を言わずにはいられなかったようだ。
「さすがリノラナが勧めてくれただけのことはある」
「そう言ってもらえるとうれしいです!」
「オレもノスルアザラシって言ったんだけどな」
 ちょっといじけたヴェンクーが、ユスフィエの顔をちらっと見た。ユスフィエもどうしていいかわからず、ただ困った顔を見せている。
「辛いだろ? 隣でジュースも買おうよ」
 ピスルグは辛いので、ジュースの店とセットになっているのが定番だ。ジュースを買うよう、フィオに促す。しかし、
「そうか? べつに辛くはないが」
 ……ミメンギで初めてピスルグを食べた時もそうだったけど、やっぱりフィオは味覚が普通とは違うのか?
 仕方がないので、僕だけジュースを買う。その間に他の三人もピスルグを買い、そしてジュースも買った。
 ピスルグを食べながら、また大通りを歩く。
「ヴェンクーはいつピレックルに帰ってきたの?」
 ザサンノジュースをストローで飲みながら、ユスフィエが尋ねる。
「それは……おととい、だけど」
「ほんとに? 帰ってきたばかりじゃない! ひょっとして、私がピレックルに来る時に合わせて帰って来てくれたの?」
「いや、そうじゃなくて……リッキが父さまに用事があって、それで一緒に帰ってきたんだ」
 ヴェンクーが僕のほうを向いた。つられてユスフィエの視線も僕に動く。
「リッキが? フォスミロスに?」
「うん、そうなんだ。実は――」

「そんな大変な目に遭っていたなんて……」
 ずっと大通りを歩いていたのでは面白くない。僕が話している間に、途中で曲がって東のほうへ向かって歩いていた。昨日ヴェンクーと行ったのとは反対側だ。ピスルグはすっかり食べ終わってしまっている。ジュースも飲み終わって、全員手ぶらだ。
「でも、フィオがいたから、大丈夫だったよ」
「リッキ、もうそういう話はよしてくれ。なんだか恥ずかしい」
「いいじゃないか。べつに言ったって。僕は本当にフィオに感謝してるんだ」
「私に感謝しているなら、私の言うことを聞いて、もう言わないでくれ。私はもう言われたくない」
 僕は何度でも言っていいと思っているけど、フィオにそこまで言われてしまうと、もうこれ以上言うのは嫌がらせになってしまう。
「うん、わかったよ。……でも、心の中では忘れないよ。絶対に」
「だからそういうのもわざわざ口に出さなくていい」
 フィオは顔を真っ赤にして怒っている。
「ごめん、もう言わないから」
 フィオの機嫌を損ねてしまった。発言には気をつけなきゃ。
 また道を曲がって、今度は南へ、つまり王城がある方向へ向かっている。
「そういえばさ、この先の辺りに劇場があるだろ?」
「あるけど……リッキ、劇を見るのが好きなのか?」
「そうじゃないけど」
 ヴェンクーがまるで僕の意外な一面を見たかのような驚きの表情をしていたので、否定しておく。
「仮想世界の劇場で、アイリーがよく歌ってるんだよ」
「え、アイリーが?」
 今度はさっきとは違う、本当に驚いた表情を見せる。
「結構人気があるんだよ。アイリーは」
「そうなのか。全然知らなかったな……」
「アイリーは元気そうね! ねえ、シェレラは? シェレラはどうしてるの?」
「シェレラはアクセサリーを作っているって」
 僕ではなく、ヴェンクーがユスフィエの疑問に答えた。
「どうしてヴェンクーが知っているの?」
「昨日リッキから聞いたんだ」
「そうなんだ。アクセサリーかあ……でもどうしてリッキとアクセサリーの話なんかしてたの?」
「ち、違う違う! 違うんだユスフィエ。アクセサリーの話なんかしていない!」
 ヴェンクーの悪い癖が! ヴェンクーは嘘をつくのが本当に下手だ。そんなに不自然に否定したら、昨日アクセサリーの話をしていたってのがわかりすぎるじゃないか。
「昨日もシェレラはどうしてるのかって話をしたんだよ。だよな、ヴェンクー」
 仕方がないので、助け舟を出した。
「そ、そうなんだユスフィエ」
「ふーん…………」
 勘が働くかどうかというのは、商人の大切な能力だ。ごまかしきれているようには思えないけど、大丈夫だろうか。
「ヴェンクー、訊きたいことがあるんだけど」
 なんだか意味ありげな雰囲気を漂わせて、ユスフィエが言う。
「どうしておととい、リッキと会うことができたの?」
「それはさっきリッキが説明しただろ。洞窟に魔獣がいて――」
「そうじゃなくて、どうしてヴェンクーはそこを飛んでいたの?」
「そ、それは……たまたまだ」
「ふーん…………」
 だめだ。完全にバレている。ユスフィエはちょっとニヤニヤしている。何もかもわかっていて、あえて質問して答えさせている。
「兄さまは、もう旅には出ないのですか?」
 今度はリノラナが訊いてきた。
「ああ、もう行かない。旅はもう十分にしたからな」
「ということは、やはり旅をやめて帰るために飛んでいたのではないのですか?」
「い……いや、そんなことはない。たまたまだ」
 リノラナにも疑問に思われてしまった。たまたまだと言い張り続けているけど、さすがにもう無理がある。
 僕は腰をかがめて、ヴェンクーの耳元で囁いた。
「わかってるだろ、もうバレてるって。はっきり言っちゃえよ」
「…………………………………………リノラナ」
 なぜか僕やユスフィエではなく、リノラナの名前を呼んだ。
「なんですか兄さま?」
「リッキとフィオを連れて、先に帰ってくれ」
「どうしてですか?」
「いいから帰れ」
「兄さま、どうして」
「リノラナ、帰ろうか」
 食い下がるリノラナに、僕から帰ろうと促す。
 リノラナは性格がまっすぐすぎて、細かいことに気が回らないことがある。
 ヴェンクーは今、ユスフィエと二人きりでなければできない何かを、しようとしているんだ。
 不本意ながらも同意したリノラナ、そしてフィオと三人で、先に帰ることにした。

 僕たちが屋敷に帰ってからしばらくして、隊商の隊長が挨拶に来た。応接間でフォスミロスとミオザが、それに僕とフィオ、リノラナも隊長を迎える。
「朝にはピレックルに着いていたのですが、商売の都合でご挨拶が夕方になってしまったこと、お許し頂きたい」
「なに、気にすることではない。ユスフィエならヴェンクーと二人で街へ行っている。そろそろ帰ってきてもいいはずなのだが……お、帰ってきたか」
 ドアが開き、ヴェンクーとユスフィエが姿を見せた。
 あんな話があった後だから、ユスフィエにアクセサリーを買ってあげたのかと思ったけど……、見たところ、特にさっきまでとの違いはない。
「隊長、お話しがあるのですが」
「なんだい、やけにかしこまって」
 普段は全然そんなことはないけど、大事な場面ではヴェンクーはきちんとした言葉遣いをする。まだ出会ったばかりの、僕のお父さんが『白銀のコーヤ』だとわかった時もそうだったし、フォスミロスから旅に行っていいと認められた時もそうだった。
「実は………………、その……………………」
 自分から話しかけておきながら、言いよどんでいる。
 隊長が不思議そうにヴェンクーを見ている。
 ユスフィエが肘でヴェンクーをつっつく。
 ヴェンクーの表情が、引き締まった。
「ユスフィエを、このままピレックルに置いていっていただけませんか」
 和やかだった隊長の表情が険しくなった。
 フォスミロスの眉が、ピクリと動く。
「私からもお願い。ヴェンクーが旅をやめたら私も旅をやめるって、ずっとヴェンクーと一緒にピレックルで暮らすんだって決めてたから、だからいいでしょ? お父さん」
「…………ユスフィエ、本当に、それでいいんだね?」
「うん。絶対に、後悔しないから」
 隊長は顎ひげをなでた。そして、
「いいだろう。私も、この日が来るのを待っていたからな」
 厳しかった表情に、笑顔が戻った。隊長としてではなく、ユスフィエの父親としての笑顔だ。
 ヴェンクーとユスフィエが、顔を見合わせる。
 どちらからともなく腕を伸ばし、強く抱き合った。
 この場にいる全員が、暖かく二人を見守る。
 腕を解いた二人が、また隊長のほうを向いた。
「ありがとうございます。オレ、本当に、幸せです」
「私も! 今だけじゃない。これからもずっと、もっと幸せになるに決まっているわ」
 二人があまりにも幸せそうだから、僕まで幸せな気分になってきた。
 でも、僕にこんな時が来るのかな。僕も、誰かを好きになるのかな……。
「お祝いの(うたげ)をしなければなりませんね。隊長さん、明日はまだピレックルにいるのよね?」
 ミオザもとてもうれしそうだ。
「はい、数日は滞在する予定です」
「じゃあ問題ありませんね。隊商のみなさんにも、もちろん参加していただきますね」
「しかし、そうなるとここでは広さが足りんな。そうだな……」
 いくらこの屋敷が広いとはいえ、隊商のみんなを招いてのパーティーとなると狭い。フォスミロスが悩んでいる
 どうするんだろう……。

   ◇ ◇ ◇

 翌日。
 華やかに着飾ったヴェンクーとユスフィエが、大勢の人たちに囲まれて祝福を受けている。
 場所は、なんと王城!
 話を聞きつけた王が、快く王城の大広間を貸してくれたのだ。
 おかげで隊商の人たちだけでなく、騎士団の人たちまで参加することになった。
 ヴェンクーはカウーゴも呼びたかったらしいけど、僕の剣を作る作業に入ってしまっていたカウーゴは急に招待されても手を止めることができず、不参加となった。不可抗力とはいえ、なんだかちょっと申し訳ない。

 パーティーから二日後、隊商は次の目的地へと旅立っていった。
 ヴェンクーはユスフィエと一緒にミオザに付き添っている。これまではフォスミロスが付き添っていたけど、半ば奪い取るような形で付き添いを買って出たのだ。ミオザの足のケガは少しずつ良くなっているけど、まだ歩けるほどではない。もうしばらくかかりそうだけど、ヴェンクーとユスフィエの旅の話を聞けば、退屈することはないだろう。

 手が空いたフォスミロスが、僕の部屋に来た。
「スバンシュの件だが……手を尽くして情報を得ようとしているのだが、まだこれと言って目ぼしいものはない。調べればすぐにわかると思っていたのだが……」
 スバンシュの性格の悪さと能力の高さからして、そう簡単に尻尾は出さないとは思っていたけど、やっぱり難しいのかな。
「大丈夫ですよ。一ヶ月以上旅してここまで来たんです。ほんの数日わからなかったところで、なんとも思いませんよ」
 弱気になってはいけない。それこそスバンシュの思うつぼだ。
 根気よく待つ。今僕ができることは、それだけだ。

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