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「でもそんなある日、私は聞いてしまったの」ハピアンフェルは話をつづけた。「アポピス類たちが『妖精にユエホワを探させて、さらってこよう』と話しているのを」
「まあ」祖母も、
「なんだって」父も、
「ユエホワを?」私も、おどろいた。
「人をさらうなんて、私はどうしてもいやだと思った」ハピアンフェルは首を横にふった。「それでその日私は逃げ出して、聖堂の屋根のところにいたの」ハピアンフェルは話した。「あそこにいれば、鬼魔が近づいて来ないから」
「ああ」私たちは納得してうなずいた。確かに、聖堂近くにふらふら近寄ってくるわけのわかんない鬼魔なんて、ユエホワぐらいのもんだ。
「そうしたら、見つけたの」ハピアンフェルはにこりと微笑んで、私を見た。「昔のガーベランティによく似た、お嬢さんを」
「あ」私は目をまるくした。「あたし?」自分を指さす。
「ええ」ハピアンフェルはうなずく。「何かかわいらしいバスケットを持って、楽しそうに聖堂の女の人たちとお話をしてから、森の方へ向かって行った……私は、まさかガーベランティ本人のはずがないとは思ったのだけれど、もしかしたら何かゆかりのある子ではないかと思って、そっと後をつけていったの」
 私はなんどもうなずいた。
 あの日だ。
 母に頼まれて、ドレスの生地をこの祖母の家まで持って来た日。
「そうか、それであのとき『ユエホワってだれ?』って、きいたんだ」思い出しながら言う。
「そうよ」ハピアンフェルはうなずいた。「びっくりしたわ。ユエホワを知っているなんて……この娘さんは、アポピス類なのかと思った」
「ええっ」私は思わず片眉をしかめてしまった。
「まあ」祖母は両手で口をおさえて高らかに笑った。「おほほほほ。可笑しい」
「あはは、まあ確かにアポピス類も人型に姿を変えていることが多いですからね」父は眉を下げて、こまったように笑った。
 私は、自分の体がヘビ型になっているところを想像してみたが、あまりの気味の悪さに一瞬でうち消した。
 と同時に、あることをふいに思い出した。「あっ、そういえばユエホワも言ってた」
「あら、何を?」祖母と、
「へえ、何を?」父が同時にきく。
「たぶんやつらが狙ってるのは俺だから、お前に手をくだすことはないと思う、って」
「まあ……」祖母と、
「それは……」父が同時に考えこみはじめた。「ユエホワは、自分をさらったのがアポピス類だということに気がついていたんだね」
「けれどどうしてなのかしら、アポピス類はどうしてユエホワを」
「赤い目をしているからじゃないかしら」ハピアンフェルが意見を言った。
「赤い目を?」祖母と父が同時にきき返す。
「ええ。それもアポピス類の者たちが話しているのをちらりと聞いたのだけど」ハピアンフェルはうなずく。「同じ赤き目を持つ者として、あのムートゥー類の精鋭にはぜひとも仲間に加わってもらいたい、って」
「まあ」祖母と、
「おお」父がため息をついた。「さすがだな。やはり鬼魔の世界でも彼は優秀な存在として認められているんだ」
「素晴らしいわ」
 私はあえてなにもコメントしなかった。
 まあ、父の言っていることは私もなんとなく、知っているけれど。
 でもそうかといって、あの緑髪をほめる気にはならない。
 ほんの少しだけ、わからないようにため息をつく。
 あの日――ユエホワと私が最初に出会った日、あいつが私の命を絶とうとしたあの光景を、父や祖母が見たら、今どんな気持ちになるだろう?
 そしてあの光景を見たとしても、二人は今と同じようにあの鬼魔をほめたたえるだろうか?
 母は、あの光景を見た。
 見たから、今でもユエホワのことを、本当に心から憎み嫌っている。
 おそらくそれは、誰が何と説得しようと、永久に変わらないと思う。
 そう、信じたい。私は。
 私自身は――ユエホワを、憎み嫌っているのかどうかといえば、なんというか――ビミョウなところというか――ううん――
「でも私は」ハピアンフェルが話をつづけたので、私の考えはたちまち消えた。「あなたに――ポピーメリアにユエホワのことをもっと聞こうとしたそのとき、あの森で鬼魔たちにみつかって捕われてしまったの」ハピアンフェルは自分の両肩を抱いて身ぶるいした。「ひどい人たちだわ」
「そうだったんだ……でもその鬼魔の姿も、あたしには見えなかったけど」私は不思議に思ってたずねた。
「そう」ハピアンフェルはうなずいた。「アポピス類は私たち妖精の、光をあやつる力を使って、姿を見えなくさせることができるようになってしまったの」
「ええっ」私と、
「まあ」祖母と、
「すごいな」父とが同時に驚きの声をあげた。
「だけどそれをするには大勢の妖精たちが集まって、それぞれ死に物狂いで力を使い続けなければならなくて」ハピアンフェルはそこまで言うと、ぎゅっとその小さな瞳を苦しげにとじた。「中には命をうしなう者まで出るくらいなの」
 私たちは、絶句した。
 しばらく、ランプの灯火だけが音もなくゆらめいていた。

          ◇◆◇

 ミイノモイオレンジの甘い香りが温かい湯気となって、息を吸いこむと全身がとってもリラックスする。
 私は祖母の家の、陶器でできたおしゃれな花柄の湯船で、お風呂を使わせてもらっていた。
 お湯に浮かべたミイノモイオレンジの花びらが、金色に近いオレンジ色にかがやいていて、それを見ているだけでも心が安らぐ。
 ハピアンフェルのつらい話は、アポピス類が姿を消せるようになったというところまでで終わりとなった。
 祖母が、みんな疲れているだろうからまたにしましょうと決めたのだ。
 たしかにハピアンフェルは、もう声を出すのさえもつらそうに、小さな肩をふるわせて必死で悲しみに耐えていた。
 アポピス類――その名は、じつをいうと私は今日はじめて知った。
 鬼魔にも本当にたくさんの種類、種族がいて、まだまだ私の知らないものもたくさんあるはずだ。
 ヘビ型鬼魔、と父はいっていた。
 だけど人の姿になっていることが多い、と。
 あの、森でユエホワをさらっていこうとしたマント人間たちが、きっとそうなのだろう。
 人間の言葉も話していた。
 そして、何か呪文も。
 聞いたことのない、呪文だった。
 体の自由を奪う呪文と、魔法を打ち消す呪文。
 父は、知っているのだろうか。
 祖母は?
 いろいろ考えていると、なんだか頭がくらくらしてきた。
 のぼせたかも知れないと思ってあわててお湯から出ようとしたら、あやうくもう少しで足をすべらせてしりもちをつくところだった。
 お風呂からでると、祖母が冷たいレモネードを渡してくれて、ごくごくといっきに飲んだ――ああ、幸せ!
「髪を拭いてあげるわ。いらっしゃい」祖母は手まねきして私をクッションの上に座らせ、サラミモアコットンのタオルで私の髪を少しずつ取ってはていねいに拭いてくれた。
 サラミモアコットンの繊維は、水分を無限に吸い込む。
 だからどんなに拭いてもすぐにさらりとかわいてしまうのだ。
 なので洗濯をするときには普通、ミイノモイオレンジの皮油につけて汚れを吸い込ませたあと、流水の中にさらして汚れごと油分を流し出すようにする。
 けれど祖母のように魔力に長けている場合は、キャビッチを使って汚れの成分だけをとりのぞく魔法を使えばあっという間にきれいになる。
 髪をさわられていると気持ちよくて、すわったまま眠ってしまいそうになる。
 けれどそのときなぜか急に、はんぶん夢を見ていたその夢の中にアポピス類たちが出てきて私ははっと顔をあげたのだった。

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