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 視線を海面から下げ、光のカーテンと手つかずの海底を眺める。見たことのない小魚や海草に興味が尽きない……食べたら美味いのだろうか。

 日常生活では考えられない静かな海中散策。呼吸の心配をせずに海を楽しめる体……か。初めて良かった、と思えた。

 遠浅の海底を歩いて進むエラに目を向ける。
 エラはヘルメット内で呼吸している。空気の交換方法は分からない。背部から泡が出ているので、魚の《《エラ》》のように水中の酸素を取り込んでいるのだろう……ギャグではない。
 穏やかな海なので、水流に流されることも無く歩いている。俺は凧《たこ》のように引かれながら漂《ただよ》う。
 黒球《ひも》をヘルメットに貼りつけているので、おそらく問題ないだろう。

 水中では黒球に指示できなかった。声の代わりに、少量の泡とともに判別できない音が出るだけ。そのため何かあった時は黒球《ひも》を引く算段だ。

「ん?」

 黒球《ひも》が《《引かれた》》。
 エラが前方を指差しながら、こちらを見ている。
 余裕《ひっし》の犬かきで近寄ると、海藻に小魚が絡《から》まっていた。
 
「珍しいこともあるんだな……。」
「魚を突いて、引きちぎるよ。」

 エラの発言に頷いておく。水中で、俺の《《くぐもった》》声は聞きとれない。
 それにしても魚と海藻は、共生していないのだろうか。ゆっくりと狙いをつけるエラを見ながら思う。さすがのエラも動けない魚は捕まえた。

 光合成を行う新光層と、光の届く有光層。
 散在している海藻を見ると、|この辺り《10メートル》の水深で生息しているようだ。緩やかな海底は、徐々に深くなっていく。

――――――――――

 海岸線から100メートルほど離れ、水深も約20メートルになった。
 薄暗い。不安とともにエラの呼吸が荒くなっている。一度、ヘルメット内に顏を突っ込み、戻るかを提案した。
 漁で危険な種を見たことが無い、らしく。
 辺りが見えなくなるまで散策するつもりのようだ。昼飯の時間は取らないのだろうか……。少し休憩を挟《はさ》み、疲労を回復しておく。

 ヘルメットを中心に、エラが座れる程度の円柱形の膜を作り、空気を充填する。
 水族館の観覧通路のような空間を、エラは気に入ったようだ。俺は持続的に魔力を取られるがな。

「すごいね。海の中で休憩なんて初めてだよ。この辺の砂は少し白い? ちょっと持ち帰ろうかな。」
「まぁ、5分くらい休憩しとけ。」

――――――――――

 水の流れが出てきた。
 散策を再開した俺たちの前に、深海への入口である崖――海溝が見えてきた。
 辺りに魚は見当たらない。海草も無い緩やかな傾斜の地面が続く。

 海溝へ流れ込む海流を気にしながら覗き込むと、ただ底の知れない闇が広がっていた。小石が、闇に落ちていく。

「暗いし、何か怖いね……。」

 俺たちは竦《すく》む足を動かし、帰ることにする。言い様の無い不安に苛《さいな》まれたから。エラも反対をせずに踵《きびす》を返した。


 俺たちが海溝に背を向けた時、黒球が高音とともに俺を包み込んだ。
 エラが立ち止まり、海溝へと視線を移す。
 
「あ、あ……。」

 水流が《《止まった》》? 何だ……地面が揺れてる? 地面の揺れで俺を包むだろうか。
 
 エラは何かに気づいたようで、急いで海溝から離れようとしている。
 俺は黒球に矢印を出すように言ったが、至近距離にもかかわらず出さなかった。

 俺の口から出た泡が《《頭上に溜まる》》。
 エラに引かれながら、何度か口を開閉し、泡を溜め続ける。
 1センチほどの空気層に口を押し付け、指示を出す。

「膜の中を空気で満たせ! ゴボッ、ついでに矢印!」

 ジェットバスのように膜から生じた泡が急激に内部へ溜まっていく。前が見えん!

 数秒で膜内の空気が充填され、俺の視界も確保された。エラは……2メートルほど下に見え、その向こうには闇が広がっていた。流されたらしい。
 ヘルメット毎《ごと》エラを引き上げ、足が浮いてしまっている。風船見たく空気を抜くか、それとも海面まで浮上するか。

「わぁー、おぼっ、おぼれるー!」

 考え事をしている時間は無さそうだ。眼下には海溝が広がっている。崖が目線の高さにまで上がって……いや、俺たちが沈んでいる?

「黒球、壁に突き刺して耐えろ!」

 俺の叫びに被せるように、甲高い音とともに赤矢印が浮かび上がった。このタイミングか……。
 崖に杭を打ち込むように相棒は突き刺さる。エラは水流に晒されながらも耐えていた。瞼が重い……今、気絶するわけには、いかない。
 エラをヘルメット内に回収し、壁に張り付く。手の震えは仕方がないだろう。
 矢印の先――眼下を警戒しながらエラに話しかける。

「エラ、よく聞け。敵だ。」
「はぁ、はぁ……何?」
「選べ。自力で登るか、じっとしてるか。」
「無理だよぉ……。」
「はぁ、じっとしてろ。崖にしがみついてろ―――」

 泣いてるのかよ、とエラに目線を向ける俺は、黒球の動きを見ていなかった。

 黒球が半球状の膜を赤矢印の方向に展開し、眼下からの攻撃を逸らす。
 しかし、逸らされた《《巨体》》は崖を大きく抉《えぐ》り、俺たちを吹き飛ばした。

「きゃぁ! あぐっ……。」
「うおっ!」

 俺は暗がりの中で、しかと見た。全長20メートルを超える《《足》》を。蛸のように柔らかいようだが、吸盤がない。黒球がしたように壁に足を突き刺し、移動しているようだ。あの巨体で音を立てないのかよ……。
 って、のんびり見ている場合ではない。さっきよりも沈み、より暗くなっている。
 心なしか《《眠気が覚めている》》事に気付くのは、もう少し後である。

「エラは……いた! 黒球、守れ!」

 エラは気を失っているのか、ゆっくりと下降していた。腹の周りが赤黒く染まっている。
 怪我――考えたくないが、水中での治療は困難だ。ましてや襲撃され、海溝へ落ちている最中だ。
 黒球がエラを包み、俺の膜の中へ。途端に広がる鉄さびの臭《にお》いは、眉間《みけん》に皺《しわ》が寄るほどだった。

 攻撃か? 岩にでも当たったか? 血って《《こんなに》》黒かったか?

「お、おい……エラ。起きろよ。」

 いつ攻撃をされるか分からない、という状況で、俺はエラを見て動揺していた。膜の内側に血が溜まっていく―――

 ―――まるで、息をしていないかのようだ。

「おい黒球、止血だ。《《何を使っても良い》》、治すんだ、治してくれ!」

 それからの数分は、夢でも見ているかのようだった。
 
 黒球はエラの止血をした。俺の尻尾を分解して。痛みは無い。
 黒球は黄緑色に発光した。迫ってきた巨大な足を分解して。まだ、足りない。
 黒球は巨体を捕捉《ほそく》しているようだ。矢印が《《消える》》。なぜだろう、俺にも居場所が分かる。食わせろって?

「……食べて良いぞ。」

 何となく、黒球の言って欲しそうな言葉が口を衝《つ》いて出た。
 久々の食事なのだろう、巨体を平らげてしまう。黒球の一方的な捕食を、どこか上《うわ》の空で見ていた。
 ……本当に相棒《こいつ》は分からんな。

 黒球の捕食が終わると同時に、体を動かせるようになった……気がするが、瞼《まぶた》が落ちていく。

 俺とエラは深海の闇に落ちていった。

――――――――――

「とりあえず、どうする?」
「私に聞かれても……とりあえずありがとう? 起きてから、すごく耳が痛い……。」
「気圧を地上と同じに出来るか?」

 俺たちは今もなお沈んでいる。
 崖から離れすぎてしまい方向すら分からず、下降しすぎて辺りは真っ暗だ。
 黒球に膜を黒く染めさせ、内部だけを照らしている。
 分解された尻尾は、10円ハゲのような状態だ……ちょっと恥ずかしい。「見せて」と、せがむエラにはスタンプしておく。

 服から見える怪我の無いキレイな肌が目に留まる。
 膜内の血は、膜を二重構造にすることで隔離した。外に出すと、何が寄ってくるか分からんしな。

 膜内の気圧を戻したところで、エラに少し水圧について教えておく。

「外に出たら重くなっちゃう? ふーん、分かった!」

 まぁ、良いだろう。出たい、と駄々をこねられるよりマシだ。
 それにしても、いつまで沈むのか……。
 俺の魔力は回復中だ。どうも潜れば潜るほど濃くなり、回復量が増えるようだ。
 黒球も積極的に外から吸収し、俺から吸っていないことも要因か。
 もうじき全快する。

――――――――――

しばらくして鈍い音とともに下降が止まる。何かに当たったようだ。海溝の底だろうか。黒球に危険な存在を探させたが、いないようだ。

「膜に外の様子を投影できるか?」
「ふわぁ……♪」

 深海。
 太陽光が届かないため、環境や生態系が大きく異なる。

 黒球により、高水圧や暗黒という環境に適応した不思議な生物たちが映し出された。エラの感嘆が聞こえてくる。
 本来、照らされなければ見る事すらできない深海生物たちを、俺たちは《《特等席》》で見ることが出来た。
 ウミヘビやリュウグウノツカイのような細長い生物が頭上高くを上昇していく。
 アトラクラゲのように円盤型のクラゲで、青白い半球部分は……攻撃、威嚇するときに鮮やかな色で発光するのだろうか。このクラゲの長い触手がゆらゆらと漂っている。
 巻貝に羽の生えたシーバタフライのような生物が岩場に消えていった。方向を知る術《すべ》があるのだろうか。
 ほんと、見ていて飽きないなぁ。食いたくはない。

 エラが俺を撫でながら言う。

「こんな場所があるなんて知らなかったよ、ありがとね。」
「俺も初めて見た。」
「トルーデにも見せてあげたかった、かな。」
「写真でも撮らないとな、人は《《まず来れない》》場所だろう。」
「シャシン?」
「見たままを絵にすること、だと思っとけ。」
「へぇ……キツネさん、絵も分かるんだ。本当に魔獣なの?」

 影像を作り記録すること、と言っても分からないだろう、と分かりやすく言ったのだが……|バカ《エラ》に、馬鹿にされた気分だ。

「ヘルメット……どっか行っちまったな。」
「元はと言えば、私がどんどん深い所に進んだのが悪いんだから、気にしなくて良いよ。あんな大きな《《魚》》がいるなんて知らなかったし。」

 エラは気落ちしていないようだ。
 周囲が見えるようになったが、どちらに進めば良いのだろう。じっとしている訳には、いかないが……。
 とはいえ、深海に人が住んでいるわけがない。食料も飲料水も安心して眠る場所も無い。
 
 魔力が回復した今、垂直に泳いでしまえば早いだろう。幸い周囲から吸収できる魔力が多い。うまくやれば消費なしに浮上できるだろう。

 エラの吐き出した空気が膜から排出され上方へ流れていく。俺たちを浮上させるための気体を充填し、膜を膨らませてみよう。

「魔力を周りから吸収しつつ浮上だ。」

 エラが背伸びできる程度の半球形になったところで、浮上し始めた。おぉ、浮くもんだな。少し遅い気もするが、急激な上昇は頭が痛くなるんだったか? 

 順調かに思えたのも束の間、どこからともなく深海魚が集まってくる。
 どうしたのだろう、エサでもあるのか? と周囲を見るが……どう見ても《《こっち》》に向かってくる。魚類が作る球形群―――ベイトボールと言える大群が。

 そして、次から次へと膜へ体当たりを始めた。ご丁寧にも回り込み、《《上方》》からだ。おかげで浮上できなくなった。
 
 あっ、こいつら膜を食いちぎってやがる! 漏れ出た血に群がり、目が赤く光らせた。深海魚の大群に危機感を募《つの》らせる。

「な、なんとかしろー!」
「ひぃ! すごい数……。」

 膜への激突音を聞きながら、黒球が何とか……膜の維持で精一杯らしい。

―――――――――

 魔力吸収、膜形成、防御に気体交換……よく考えたら黒球は、同時にいくつも仕事をこなしているんだな……はぁ。

 大群について考える。膜に食いつかれるとはな……。

「何で集まってくるんだ……魔力は、その辺に腐るほどあるのに。」
「まだ胸がバクバクしてるよ……。」
 
 浮上し始めて1分ほどで、深海魚たちが追いかけてきた。
 膜に次々に食らいつき、勢いを削《そ》いでくる。
 勢いだけではない、あいつら魔力を食い、血を好む……。
 あっという間に魔力が減っていくと、今度は深海へ押し戻そうとしてきた。視界を埋め尽くす大群に防戦一方になって……。

 はぁ、深海へ帰還っと……。
 黒球は浮上と迎撃をできないこと、そして海底では魚が群がってこない事を知った。嬉しくない発見だ。

 とりあえず、倒した魚でも食ってから考えよう……火使って良いのかね?

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