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1話「人類の希望」

 薄いその扉には、『トリノラボラトリー』と書かれたプレートが打ち込まれていた。

「博士、頼まれてた部品持ってきたぞ!」

 ミハエにとって、この部屋には常日頃から足を運んでいる場所であるため、別にこうして部屋に入るためにいちいち確認を取る必要はないのだが、初めてこの部屋を訪れた日からの習慣となってしまっている。
 扉の向こう側は静かなもので、ミハエの呼びかけに応答する声はなかった。むしろ応答する方が珍しいので、今更気にしたりはしない。ミハエにとっても、これはあくまで自身の中の習慣に従っただけのことで、返事を期待しているわけでもないのだから。

「……アイラもいないのか。全く、別の人が訪ねてきたらどうするんだよ」

 ミハエはこの研究室に通うもう一人の同僚のことを思い浮かべながら、博士に対する呆れた感情を吐息にする。ガラクタを詰め込んだ木箱を抱えていたので、ミハエは研究室の扉を開くために、それを一旦床に置こうとする。しかし、そのすんでのところで、扉は開かれた。

「お疲れ様、ミハエ」

「って、いたのかよ、アイラ。返事くらいはした方がいいんじゃないか」

「別にいいでしょー。疲れてるから、あんまり声張りたくないのよ」

 気力なくミハエを出迎えたのは、同期であり、そして幼馴染でもある鳥野アイラ。今日の彼女は、上には伸縮性に優れた赤い服を羽織り、下は上と同色の短パンという、仕事をするにはあまりにもラフな恰好だった。いや、彼女はいつも大抵そうだ。

「博士は、どうしてるんだ?」

「おじいちゃんはいつも通り、発明に没頭中よ」

 やっぱりか、と思いつつ、ミハエはアイラの皮肉交じりなその言葉に苦笑を浮かべる。

「アイラは?」

「私もいつも通り、おじいちゃんが全然整頓してくれない書類と戦っているわ」

「はは……ご愁傷様」

 アイラは辟易とした表情で、自身の祖父のいい加減さに溜息を吐く。そう、鳥野アイラはこのトリノラボラトリーの主任であるトリノ博士の孫である。

 トリノラボラトリーは、工業区画の辺境にある小さな研究室だ。ミハエは教育機関を卒業後、研究室の主任であるトリノ博士に直々にスカウトされ、この研究室の所属となった。学生時の成績上位者であるミハエが、小さな研究室の所属になるということは通常ありえないことなのだが、ことトリノラボラトリーにおいては、その範疇の外側にあった。
 なにせ見た目や規模こそ小さい研究室ではあるものの、その実績はおそらくこの地下都市にあるどの研究機関よりも突出している。中でもとりわけ有名なのは、失われた地下都市の機能の一部を復活させたことだろう。

 かつて、人類がまだ空の下で国を発展させていた頃、地下に超巨大なドーム型のシェルターを建設する計画があった。先史科学文明が残した資料の断片によると、それは〝ジオフロント〟と呼ばれるシェルター型の地下都市で、最終的には国の中枢機能も備えらる程の規模を予定していたようだ。
 しかしこのジオフロント計画が完遂されることはなかった。地上に人類にとっては毒となる魔素が発生し、それに伴い文明の滅亡が始まったからだ。文明の滅亡について明確に記録された資料は残されていない。戦争が起こったのか、それとも超自然災害に巻き込まれてしまったのか。ともあれ結果として、地上は魔素で溢れ、地上には魔女の一族だけが残り、生き残った人類は建設途中だった地下都市へと逃れた。

 未完成とはいえ、地下都市には先史科学技術の粋が集まっている。トリノ博士は、先導してその先史科学技術の一旦を読み解き、眠っていたシステムの一部を呼び起こしてみせたのだ。これにより、地下都市は飛躍的に発展を遂げ、もはや博士がシステムを呼び起こす以前の世代を第一世代と呼称するほどに、人々の生活レベルも劇的に向上したのだ。
 そんな偉人級の博士の下で研究ができること、それ自体は誇るべきものだろう。しかしその反面、ミハエは心の片隅の方で僅かに後悔している部分もあった。その理由はトリノ博士の人格にある。博士はとにかく変人奇人という言葉をぴったり隙間なく体現したかのような人物なのだ。

「博士ー」

「呼んだって、どうせ聴こえやしないわよ」

「……ま、そうだよな」

 横目に見てくるアイラの言葉に同意しつつ、元より呼びかけが通じるなんて期待していないミハエは、部屋の奥へと向けて足を運ぶ。研究室は、アイラの日頃の整理整頓のおかげで何とか足の踏み場は確保されているものの、たくさんの物で溢れていた。特に入り口すぐ目の前にある木製の大きなテーブルには、上にも下にも実験器具や、分解されたガラクタの部品達が乱雑に置かれている。壁際に所狭しと並ぶガラス張りの棚の中も、同じような物でぎっしりだ。これでは、アイラも整理整頓のしようがないだろう。

 いくつも積まれた箱や、物の山の間を通る細い床を通りながら、ミハエは部屋の一番奥にある博士のデスクに視線を向ける。ところがそこに主任の姿はない。あるのはデスクいっぱいに散りばめられた無数の書類だけだ。ミハエは博士がこのデスクに座っているところを今まで見たことがない。研究室の主任として処理しなければならない書類関連は、全て孫のアイラに丸投げしているため、デスクの椅子に座っているのはいつもアイラだった。
 ミハエはまだまだ終わりそうにない書類達を見て、アイラに同情しつつも、デスクのすぐ隣に目を向ける。そこにあるのは、部屋の左隅を黒いカーテンで囲うように隔てることで形成された、手作りの暗室である。

 博士は一日のほとんどの時間を、この暗室の中で過ごしている。都市のシステムの復旧という壮大な偉業を成し遂げたというのに、その当人は極度の狭所好きなのだ。だからこそ、ただでさえ小さな研究室の片隅に囲いを設けて、その中に引きこもってしまっている。

「博士、入るぞ」

 もう返事が来ないことは分かりきっているので、ミハエは木箱を床に置くと、間を置かずにカーテンを開いた。

「……ここは、こうで、ここをこうじゃな」

「頼まれてたガラクタ、持ってきたぞ!」

 暗室の中、乏しい灯りと、被ったヘルメットに付けられたヘッドライトのみで、博士は何か大きな機体の内部を弄っていた。油で汚れた白衣と、目元を覆う無骨なゴーグル。ヘルメットからはみ出る白い髪と、露出した肌に刻まれた皺が深い年月を物語っているが、漂わす雰囲気は全く逆の性質だった。ゴーグル越しでも分かるくらいに目を輝かせながら機械を弄る姿は、まるで好奇心旺盛な子供だ。

「……うぅむ」

「博士ってば!」

 ミハエはさらに博士に一歩近づき、声を張り上げる。

「――ん?」

 すると、流石にミハエの声が届いたのか、博士は手を止めて顔を上げた。そして、まるで夢から覚めた時のような茫然とした視線をミハエへと向ける。

「おお、ミハエじゃないか! いつの間にそこにいたじゃ」

「……さっきから呼んでただろ」

 少しの間があって、博士はようやくミハエに意識の焦点を合わせる。

「む、その箱の中にあるのは、もしや……」

 ところがすぐにミハエに向いていた視線は下がり、抱える木箱の中身へと首を伸ばす。

「ええ、博士が欲しがっていた部品ですよ」

「おお! やはりそうじゃったか! どれどれ、早う見せてくれっ」

「ちょ、ちょっと落ち着いてください!」

 ミハエは今にも飛び込んできそうな雰囲気の博士を宥め、木箱を側に置いた。

「ほほう……これはなかなか」

 箱の中の部品を手に取り、あっという間に自分の世界に入り込んだ博士に呆れつつ、ミハエは視線を横に動かす。博士が弄っていた大きな機械。その第一印象は、機械の四足生物だろうか。付いているのは足ではなく、四つの車輪ではあるが。地下都市における交通手段は、主に都市全土を網目状に張り巡らされた線路の上を走る〝電操車〟である。滅んだ文明の一端であり、博士が蘇らせた地下都市システムの一つだ。それと、地上で発見された残骸を分析し、再生させた〝回転車〟だ。これは動力を必要としない乗り物で、車輪と繋がれたペダルを漕ぐことによって推進力を得る乗り物だ。
 しかしミハエの目の前にあるそれは、電操車とも回転車とも違う。いや、どちらかというとその二つの中間点にあるような乗り物だ。

「博士、これは……?」

「んん、気になるか? 気になるのかっ?」

 ミハエが思わず訊ねると、博士は手に取っていた部品を手放して、ずいっと顔を近づける。ミハエは自分が持ってきた部品が雑に扱われて一瞬顔しかめさせるが、すぐに詰め寄ってきた博士の爛々とした様子に圧倒されてしまう。

「え、ええ……まぁ。乗り物、なんですよね」

「そうじゃ。これは電動式四輪駆動車。通称、バイクャーという」

「電動式っていうのは、もしかして……」

 ミハエの脳裏に浮かぶのは、博士が成し遂げた偉業のうちの一つだった。

「ほほう、気が付いたか。流石はわしが見込んだ男じゃ。その通り、これは電操車の機構の一部を採用し、さらにわしが独自に改良したものなんじゃ」

 博士は顎に蓄えた立派な白髭をさすりながら、バイクャーなる乗り物の説明をし始める。都市内を走る電操車は、線路と呼ばれるレールの上を走る乗り物だが、動力となる電気は外部から供給している。バイクャーは、機体の中に電力を蓄える機構を搭載しており、レールや外部から電気を常に供給しなくても走ることができるということだ。

「――とまぁ、大雑把に言うとこんなところじゃ」

「……でも、少し大きすぎじゃないですか? 地上ならともかく、狭い地下都市で運用するには、とても扱える場面が限られてきそうですけど」

 一通り説明を聞き終えたミハエは、まず第一印象で感じた疑問を口にする。説明だけ聴けばとても便利なものだが、なにせ機体そのものが大きすぎる。地下都市の道幅は基本的に狭いので、バイクャーが問題なく走ることができる場所は少ないだろう。

「そうじゃなぁ。やはり、ありあわせの部品じゃ限界があるのう。蓄電器も、今は容量が小さい。さらなる改良が必要じゃ。課題は山積みじゃのう」

 言葉とは裏腹に、博士は随分と楽しそうだった。分厚い壁が目の前に立ちはだかると、嬉々として壁を削り出すような人なのだ。ミハエも、その気持ちが分からないわけではないが、博士のそれは相当なものだ。
 昔からガラクタ遊びに没頭しすぎて、周りの奇異な目に晒され続けてきたミハエでさえ、博士はとりわけ異質だった。

 だが、そんな人だからこそ、多くのことを成し遂げてきた。博士の実績は、何も都市のシステムに関するものだけではない。今回のバイクャーについてはまだまだ未完成ではあるものの、博士はそれ以外にも多くの物を作り上げてきた。その中でも代表としてしられているのは〝チンレンジ〟という食品を温めることのできる装置だ。

 失われた文明には、チンレンジと同じ仕組みの機械は当然のように存在していたらしい。しかし博士はそれを、失われた文明の資料からヒントを得るわけでもなく、独自で開発しきったのだ。物を温める、言葉にすればとても単純な現象ではあるものの、その中に含まれている原理を全てひも解くとなると、とても複雑で難解だ。ミハエは博士の下で研究する都合上、チンレンジに用いられているマイクロ波についても教わったことがあるが、その内容は地下都市では〝禁忌〟として扱われるレベルのものだった。つまり、この研究室の外で口にすることはそのまま罪となるということだ。

 博士を含む第一世代の偉人達が都市のシステムをいくつかを起動させたことで、地下都市の文明力はすさまじい速度で高くなってきている。しかし文明の急激な成長――もとい復旧は、様々な軋轢を生みかねない。特に扱いようによって人に害を与えるような技術などは、そのまま内戦の引き金にだってなりうる。ただでさえ行き場のない人類が、これ以上居場所を失わない為にも、様々な情報や技術は厳密にランク付けされ、相応に管理されている。もし個人の都合で勝手に情報や技術を公開すれば、酷い場合、一生を牢の中で過ごすことになることだってある。

 それほどまでに危険な情報《もの》を、当たり前のように享受できる環境が、今ミハエが立っている場所だった。もちろん、限られたものでしかないが、それでも十分に日常とは乖離した、非日常的空間。

 ミハエには、この場所で成し遂げなければならないことがある。

「――どうじゃ、ミハエも中身弄ってみるか?」

 再び木箱の中身を品定めをしながら、博士はミハエに訊ねる。それはミハエにとって、強烈な誘惑だった。ただ、そこに足を踏み入れてしまえば、もう自分の好奇心が満たされるまでは引き返せないということは明白だった。

「……いえ、今日は遠慮しときます。俺もやらなきゃいけないことがあるんで」

「ふむ、そうか……そういば、三日ほど前にこの部屋に何か置いていたの」

「はい、今日はその結果が出るので」

「ほう、それは気になるの。後で報告書にまとめて持ってきてくれるか」

「分かりました」

 ミハエがそう返事すると、博士は満足気に頷いた後、自分の作業へと戻っていった。ミハエはそれを横目で見つつ、暗室の奥の方へと進んでいく。

 トリノ博士の研究室に来て、ミハエは人類が抱える秘密のほんの一端に触れてきた。そうして分かったのは、人類にはあまりにも秘め事が多すぎるということだ。
 しかしそれが悪いことだなんて思わない。無用な争いを避けるためだと知れば、きっと誰もが納得するだろう。それに、人類規模で考えると大げさだが、人間一人一人に当てはめれば、秘め事なんて特別なことじゃない。

 ミハエにも、誰にも言えない秘密がある。きっとアイラにも、天才的なトリノ博士でさえ、想像することさえできないだろう。

 ミハエは棚の奥にしまってあった、二つの植木鉢を取り出した。

「これが、きっと……」

 いつか、人類が空を取り戻すための一歩になるに違いない。
 いや、ミハエにとって人類なんてどうでもよかった。思い浮かべるのは、たった一人の愛おしい魔女。

 彼女と一緒に、どこまでも続く空の下を歩くために、ミハエは深淵へと挑む。

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