果てなき天井
上へ上へと続く階段の壁際に並ぶ白い照明は、貴重な電力をふんだんに使って、影の輪郭がはっきりと表れるほどにミハエのことを照らしていた。
「随分と明るいんですね」
ミハエはくぐもった声を、前を歩く先輩隊員に向ける。
「ここに入るのも、初めてだったか?」
「はい」
ミハエがそう言いながら頷くと、先輩隊員は肩越しに振り向く。そして首から上をすっぽりと覆うマスクのレンズをコツコツと指で叩き、
「この階段が無駄に長くて明るいのは、地上に出る前に目を慣らすためなのさ。地下の照明と地上の明るさは、質が違う。ここの照明の光は、地上の光に限りなく近づけたものなんだよ。いきなり何の準備もないまま地上に出ちまうと、まともに目を開くこともできないからな」
「そんなにもすごいんですか、地上は」
「あぁ……びっくりするだろうさ。びっくりしすぎて、思わず泣いちまうかもな」
先輩隊員はからかうように笑う。冗談で言っているのか、本当にそれほどの感動がこの階段の先にあるのか。生まれてから一度も地上に上がったことのないミハエには分からない。ただ、一つだけはっきりとしているのは、自分がもう十五歳の大人であるということであり、そんな簡単に泣くことなんてないということだった。
「泣きませんよ。俺はもう、十五の成人なんだから」
「かかっ、十五なんてまだまだ子供さ。知ってるか? まだ人類が地上で普通に暮らしていた頃は、成人といえば二十とか十八だったらしいぜ。人口が随分と減っちまって、今じゃ成人の年齢基準がかなり下がっちまったけどな」
「……先輩はいくつでしたっけ?」
成人したとはいえ、着込んでいる防護服も子供サイズで、周囲からの対応もいきなり変わってくれたりはしないだろう。それくらいはミハエも理解している。それでも、やはり子ども扱いされるのは、彼にとって好むところではなく、問い返すその声音も刺々しくなってしまう。
「俺は、二十三だよ」
「けっこう、若いですよね。先輩も」
「てめ、嫌みかこの野郎っ まぁ、確かに二十三なんてまだまだ若造だがよ……っと、そろそろだぜ、坊や」
そう言われて、ミハエは先輩隊員の示す視線の先へと、自分の視線も向かわせる。
階段の終点にあったのは、全て鉄でできた重厚な扉だった。一切の光を断絶し、地上と地下とを長くの間に渡って隔ててきたその扉には、どこか圧倒されるような雰囲気がある。
ミハエは思わず、先輩からのいじりを突っぱねることすら忘れて、質量感のある空気を呑み込んだ。
「……ま、お前は坊やは坊やでも、博士のとこの神童か。その年で地上に出る許可を取ってこれるなんて、実はとんでもないことなんだぜ?」
「な、何ですか急に……」
先輩の手が、ミハエの肩にぽんと置かれる。ミハエは、そこで自分の肩に力が入ってしまう程緊張していることに気が付く。これは先輩なりの、気遣いだということだ。
「何はともあれ、お前は最年少でこの扉の前にまで辿り着いた――ようこそ、地上へ」
先輩が扉を開く。重厚な扉は、今までに感じたことのない空気を吐き出しながら、軋みをあげる。
「――――」
最初に訪れたのは、目を覆う眩い光。ミハエは思わず腕で、マスクのレンズをふさぐ。全身マスクと防護服で覆っているというのに、地下にはないどこか清々しさのある空気の流れを肌で感じた。
先程の階段で光に慣れていたおかげか、視界はすぐに目の前に広がる光景を捉えることができた。
「……どうだ、これが本当の世界の姿ってやつさ」
「ここが……」
地上のことについては、物心ついた時から、色々な本やたくさんの人達の話で触れてきた。そして今、これまでは想像でしか存在しなかった光景が、すぐ目の前に、現実としてそこに在る。
初めて見た地上の光景は、ミハエが想像していたものとは少しだけ違った。どの文献や伝聞にも、地上とは大地と空が繋がる程に、どこまでも地平が続くといわれていた。だというのに、ミハエの目の前に広がるのは、風化し、もはやただの巨大なコンクリートの残骸と成り果てている建造物の群れと、地面を覆うアスファルトを突き破り、茂って、上へと伝い伸びていく植物ばかり。しかし、想像通りの光景もあった。
ミハエは〝空〟を仰ぐ。青く、澄み切った天井は、手を伸ばしても、目を凝らしても、果てがない。想像していたままの、果てのない天井。地上はこの空がどこまでも覆い、繋がっているという。油断していると、本当に涙を流してしまいそうだ。
もしかすると、今この時、彼女――リィラも同じ空を見上げているかもしれない。
「――ここが、地上。ここが、魔女の世界」
身が打ち震えるほどの解放感に満たされたミハエは、やがて現実にそう零す。今すぐにでも、地下の匂いが染みついた無骨なマスクや防護服を脱ぎ去ってしまいたかった。そうすれば、リィラと同じ空の下、彼女と同じものを感じることができると思ったから。
「おいおい、この辺りには魔女様なんていないぜ」
しかしマスクを掴んだ手は、ミハエの中にある理性と、後ろから掛けられた先輩の声によって、止められる。
「分かっていますよ。魔女たちは都市部よりも、魔素の多い緑豊かな地に里を設けている、でしょう?」
「そうそう、その通り。つぅか、魔女にも随分と詳しそうだな、神童≪ミハエ≫様は」
「地上に出るためには、絶対に学んでおく必要なことですからね」
ミハエが辺りを忙しなく見渡しながら言うと、先輩は肩を竦ませながら、
「そりゃそうだな……まぁ、魔素が少ないっつっても、人間には十分危険なレベルだからな。くれぐれも、マスクと防護服は脱ぐなよ」
先輩の一歩出遅れた警告に、ミハエは額に汗を浮かべた。
「そ、そんなことする人なんていないでしょう」
「いやいや、実際いたらしいぜ? 地上に出て、『俺は自由だー!』って叫びながらマスクを外した奴が。気持ちは……分からなくもねぇがよ」
「は、はは……いたんですね、そんな人が」
ミハエは苦笑いしながら、咄嗟に両手を後ろに回した。
「地上に出ようなんて考える奴は、多かれ少なかれ、地下都市の暮らしに狭苦しさを感じてるような奴ばっかだからよ……魔素なんてものがなけりゃ、そんなバカもいなかったろうがな」
魔素。それこそが、人類を地下へと追いやり、マスクや防護服で徹底的に身体を守らなければ、空を拝むことさえできなくした元凶だ。
「……でも、魔素を必要としている存在だってあります。そして俺達は、その存在に助けられている」
「ははっ、間違いねぇ。魔素は俺達人間にとっちゃ忌むべきものだが、それを活力にしている魔女の〝魔法〟がなけりゃ、俺達の暮らしはもっと窮屈になってただろうからな」
燃料や、資源など、天然ではもうほとんど産出することのない島国で生きているミハエ達にとって、魔女の行使する魔法は必要なものだった。
「それも、きっともう少しの辛抱ですよ。失われた先史科学文明を蘇らせることが出来れば、きっと人類だって、こんな格好しなくても地上に出ることができます」
人類のためだけじゃない。ミハエには自分自身のためにも。そうしなければならない理由がある。
「おっ、流石天才は言うことが違うねぇ。期待してるぜ」
「ええ、期待して待っていてください」
ミハエは、先輩の瞳をしっかり見つめながら、胸を張って答えた。すると先輩は少しびっくりしたように目を見開く。いつもミハエをからかう先輩が、こんな表情をするのは珍しい。ミハエはしっかりと先輩のその表情を記憶に刻み込む。
「それじゃ、神童≪ミハエ≫様のお役に立てるよう、俺がガラクタ集めのイロハを教えてやるよ――こっちだ、ついてこい」
「はい、よろしくお願いします」
歩き出した先輩の背中を、ミハエは追いかける。マスクと防護服の関係で、移動距離には制限があるものの、今自分がリィラと同じ地を歩いていることに、ミハエは感動を止めることができない。
ミハエは再び空を見上げる――ただ一人の、魔女のことを想いながら。