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第二章 森と街の世界

 今日から十一月。
 ついに来た。
『リュンタル・ワールド』と『フォレスト・オブ・メモリーズ』が統合される日だ。

 両方とも、統合に向けておとといからメンテ中だ。
 再開はたぶん、午後になってからだ。具体的な時間は発表されていない。発表されていると、その瞬間にアクセスが殺到してしまって混乱が起きる可能性があるからだろう。
 どうせログインするのは学校から帰ってからだ。何時に再開しようが、僕にはあまり関係ない。

 昼休みになった。
「沢野君、ちょっといい?」
 西畑が僕を呼んだ。
「えっ、でも、これから給食だし」
「ちょっとだけだから、ほんとにちょっと」
「うん……じゃあ、ちょっとだよ? ……玻瑠南、先に食べてていいから」

 この学校では、給食として弁当が配られる。そして、教室だけではなく、ランチルーム、そして中庭や屋上などに移動して食べてもいいという、だいぶゆるめの校則になっている。
 でも夏休みが終わってからは、僕はどこにも移動せず、教室で玻瑠南と二人で弁当を食べるようになった。二ヶ月が経ち、周囲もすっかりこの光景に慣れてしまっているみたいだ。

 席を立って西畑について行こうとすると、玻瑠南も立ち上がった。
「食べ終わってからじゃダメなの?」
 玻瑠南は僕にではなく、西畑を見下ろしてそう言った。
 眼光が鋭い。“食べ終わってからにしろ”という意味の、お願いではなくは命令のような言い方だ。
「いや、でも、ちょっとだって言ってるし」
「どうせ高い所の物を取るとかなんでしょ? だったら私が行ってもいいんだけど」
「大丈夫だって! すぐ戻ってくるから!」
 僕は懸命に玻瑠南をなだめた。
 西畑が僕を呼んだのは、きっとそんな理由じゃない。玻瑠南にはどうしてもここにいてもらわなきゃ。
「と、とにかくすぐ戻ってくるから」
 僕は西畑を押し出すように教室から出て行った。

 行き先は……やっぱり理科室だ。
 そしてやっぱりこれまでと同じように、西畑は一番後ろの机の上に座った。
「覚えてるよね? 今日、FoMで私に会ってくれるって」
「もちろん覚えてるって」
「よかった! あれからずっと何も言わなかったから、もしかしたら忘れてるんじゃないかと思ってた」
「そんなことないって。で、用事は何?」
 確認のためだけ、ってことはないはずだ。
「うん、今日、初めて会った時に困らないようにと思って、これ」
 西畑はスマートフォンを僕に向けた。
「私、FoMではフレアって名前だから」
 スマートフォンは西畑のFoMでのプロフィール画面を映している。
 『リュンタル・ワールド』とはちょっとレイアウトが違う、FoMのプロフィール画面。そこに映っているフレアの顔の画像には、『リュンタル・ワールド』ではあり得ない特徴があった。
「ネコ耳、なんだな」
「あ、やっぱりそこ? リュンタルって人間(ヒューマン)しかいないものね」
 赤茶けたボブカットの髪とか、眼鏡をかけていないとか、なぜかちょっとだけ大人っぽい雰囲気を感じるとか、目の前の西畑とは違う部分は他にもあるけど、やっぱりどうしてもネコ耳に目が行ってしまう。
「でも、ネコ耳なんてFoMでは全然珍しくないのよ? 他にもリュンタルにはないものがいっぱいあるわ。絶対に楽しんでもらえるはずよ! あー早く沢野君をFoMに連れて行ってあげたいわ! ……あ、沢野君のアバターは? どんな感じなの?」
「僕はそのままだよ。何もいじってないから」
 スマートフォンを取り出し、プロフィール画面を開く。さらに、アイコンの画像からアバター全身の姿を開いた。
 髪と瞳が濃い青である以外何も変わらない僕の姿が、画面に映っている。
「なんか……リアルの沢野君がそのまま仮想世界にいるって感じ? リッキって名前もほとんどそのままだし」
 西畑はスマートフォンの中のリッキと、目の前の僕を見比べている。
「あんまり深く考えずに決めちゃったからね」
「せっかくの仮想世界なんだから、もっと考えればよかったのに……でも、私はむしろリッキが沢野君とそっくりで嬉しいかな」
「そう? なんで?」
「だって! ……ううん、なんでもない。リュンタルだと人間しかいないから、あまり工夫できないんだよね、きっと」
 そんなこともないんだけどな。智保や玻瑠南だって――。
「今のうちにフレンド登録しておこうよ。連絡取り合えるほうが会う時に便利だし」
「ああ、そうだね。そうしよっか」
 フレンド申請画面にしたスマートフォンをお互いにかざし、近づけた。一瞬だけ甲高い電子音が鳴り、フレンド登録は完了した。
「ごめんね! 時間取っちゃって。お腹空いたよね! 一緒に戻ろう?」
 西畑はスマートフォンをポケットにしまうと机から飛び降り、僕の手を取った。僕は西畑に引っ張られるように理科室を出た。

   ◇ ◇ ◇

 僕と玻瑠南の昼食は静かだ。いつも無言だ。
『リュンタル・ワールド』をやっていることは、二人とも内緒だ。僕はまだしも、玻瑠南にとってはもし仮想世界でロリっ娘アイドルをやっているなんてことがバレたら一大事だ。
 そして……二人の共通の話題は、『リュンタル・ワールド』以外にはない。
 自然と、何も話さず淡々と弁当を食べることになる。
 席替えの時に堂々の交際宣言をした玻瑠南だけど、元々は静かで誰とも話さないのが普通だった。僕だってあまり騒ぐ性格ではない。だから、ただ黙々と弁当を食べていても不審がられることは特にない。そもそも普段の休み時間にだって、二人で会話をすることなんてほとんどないし。

 ただ、今日の玻瑠南は、いつもとちょっと違った。
 教室に戻ってくると、玻瑠南は落ち着かない様子でスマートフォンを手にしていた。弁当にはほとんど手を付けていない。
「待っててくれたの? じゃあ食べよっか」
 そう言って僕が食べ始めても、玻瑠南は弁当よりもスマートフォンのほうが大事みたいだ。
「どうしたの? 食べようよ」
「うん、そ、そうね」
 玻瑠南はスマートフォンを置いて、弁当を食べ始めた。
 どうして玻瑠南はそんなにスマートフォンを手放そうとしなかったのか。理由は考えるまでもない。
 僕は囁いた。
「やっぱり、気になる?」
 玻瑠南はご飯を口に入れたまま、無言で頷いた。そして置いたばかりのスマートフォンを手に取り、操作を始めた。
 数秒後に、僕のスマートフォンが電子音を鳴らした。

 Amica: メンテがながくなると、おまつりのスケジュールがくるっちゃうから。

 そうか。僕はただ単に、いつメンテが終わって再開されるのか、いつまたゲームを遊べるようになるのかが気になっているのかと思っていた。でも玻瑠南にとってはそれだけじゃない。お気楽な立場の僕とは違って、イベントに参加するってのは心配事が増えることでもあるんだ。もしかしたら、愛里も同じようにスマートフォンを手に落ち着かずにいるのかもしれない。
 僕はまた、小声で囁く。
「でもさ、気にしたってしょうがないだろ。少なくとも放課後までは、ただ待つしかないって」
 玻瑠南は口の中のご飯を飲み込んだ。
「それはそうだけど、でも気になるし」
「とにかくさ、今はお昼を食べようよ」
「うん……」
 玻瑠南はまたご飯を口に運んだ。
 僕も同じように、ご飯を口に運んだ。

   ◇ ◇ ◇

 今日の授業が終わった。
 それと同時に、隣で玻瑠南がスマートフォンを手にした。数秒間操作すると突然立ち上がり、何も言わずに走って教室を出て行ってしまった。
 理由ははっきりしている。確認するまでもないとは思ったけど、僕もスマートフォンを手に取って、一応確認してみた。やはり、メンテが終わっていたのだ。
 教室の前のほうを見ると、後ろ姿でわかりにくいけど西畑もスマートフォンを操作していた。西畑はスマートフォンをポケットに入れると立ち上がって振り返り、ちらりと僕を見た。そして早足で教室を出て行った。
 僕も急いで帰ることにした。

   ◇ ◇ ◇

 ただの白い空間に、基本アイテムだけを揃えたショップがぽつんぽつんと置かれている。
 フリーエリアと呼ばれる、今回の統合に合わせて作られた、どちらのゲームのマップにも属さない場所だ。
 白い床には一定間隔で黒い線が縦横に走っていて、それによって区切られた正方形に番地が与えられている。その番地を頼りにフレアと待ち合わせをしていて、今僕はそこに向かって歩いているところだ。
「リッキ! ここよ! ここ!」
 声がしたほうを見ると、手を頭上に伸ばし大きく振っている人がいた。
 あれが……フレア?
 近づいてみると、たしかに顔は間違いなくフレアだ。でも……。
「なんか、思ってたのと違うんだけど……」
「そう? いいじゃない、仮想世界なんだし。むしろリッキがそのまますぎるんじゃない?」
 ネコ耳。眼鏡はかけていない。赤茶けたボブカットの髪。
 ここまでは、事前に知っていた。ただ、
「背、高いんだな」
「う、うるさいわね。いいじゃない。仮想世界なんだし」
 フレアはさっきと同じことをまた言った。
 現実の西畑の身長は、たぶん一五〇センチくらいだ。でもフレアの身長はそれと比べるとだいぶ高い。シェレラよりももう少し高いくらいだろうか。ということは、一六五センチくらい?
 服装は、上半身は胸の部分を帯状に覆うオレンジ色のチューブトップ、下半身も同じオレンジ色のホットパンツ、足元はブーツサンダル。スレンダーな体型をさらけ出し、さらに身長の高さを引き立てている。昼休みに見たスマートフォンの画像は顔しかなかったから、まさかその下の体がこんなふうになっているとは知らなかった。あの時感じたちょっと大人っぽい雰囲気はこれだったのか。確かに声も若干大人びているかもしれない。少なくとも、僕が知っている学級委員長の西畑のイメージとは全然違う。
「じゃ、さっそく行こっか。FoMがどんなところか、私が連れていってあげる」
 フレアは僕の手を取り、歩き出した。僕も一緒に歩き出す。やがて、フリーエリアを覆う壁が見えてきた。壁には地図が描かれている。初めて見る、FoMの地図だ。逆に床にはよく見慣れた円が描かれている。『(ゲート)』だ。
 僕とフレアは『門』に入った。白い光が『門』から立ち上り、僕とフレアを覆った。

   ◇ ◇ ◇

「ここ、ツウェロクって街。普段私ここにいるから」
 フレアと並んで、街の中の広い道を歩く。
「どう? この街は。リュンタルと比べて」
「うん……あまり変わらないかな」
 石造りの建物が並ぶ、中世ヨーロッパのような雰囲気の街並みだ。道も石畳だ。こういう街は『リュンタル・ワールド』にもよくある。お父さんは統合にはとても怒っていたけど、これなら一緒のゲームになったっていいんじゃないだろうかと思えてくる。
 でも、やっぱり、人は違う。
 フレアのネコ耳だけでなく、犬やウサギなど、いろいろな獣耳の人がごく普通にいる。耳だけでなく、角や尻尾が生えている人もいる。着ている服も『リュンタル・ワールド』と比べると派手だったり露出が多かったり、いかにも非現実的なファンタジー世界のゲームといった感じが強い。
 それにしても……なんか視線を感じる。まだリュンタルの人間が珍しいからなのだろうか。でも見た目だけでリュンタルの人間だってわかるのかな? FoMからリュンタルに来た場合は、フレアのネコ耳のように見た目でわかることが多いだろうけど……。
「よーお嬢! お嬢じゃねーか」
 前のほうで、こっちを向いて手を振っている人がいる。
「うわー……」
 フレアは顔をしかめた。
 どうやら知り合いらしいけど……、あまり、いい関係ではないのだろうか。
 向こうからその男が駆け寄ってきた。フレアのようなネコ耳ではない。僕と同じ、普通の人間のようだ。
「スケジュール入れんなっつってたから、今日はお嬢はいねえのかと思ってたのに。……なるほどね。あっちの世界にお知り合いがいたって訳か」
「ちょっと黙っててくれる?」
「お、お嬢、って?」
 この男の身長は僕より少し低いくらい。髪はうっすら緑がかっているけどほとんど白と言っていいくらいで、ところどころに青や紫、オレンジ、ピンクといった色が入っている。瞳は金色。タレ目に長いまつ毛。耳、首、手首などいたるところにアクセサリーをつけていて、腰にも本来のベルト以外に、ただ巻いているだけのベルトが何本も垂れ下がっている。見た目だけでなく言葉遣いも含めて、ずいぶんと軽そうな男だ。あまり西畑が関わるようなタイプの男には見えないけど、西畑は西畑、フレアはフレアと考えれば、フレアにどんな交友関係があろうがおかしくはない。
 そんなことより、フレアは“お嬢”って呼ばれているのか。そっちのほうが意外だ。
「な、なんでもないから。行こっ」
「どうしたよお嬢、冷てえのはいつものこととはいえ、今日は特に……」
「ザーム! いいかげんにしなよ!」
「わ、わかった、わかったよ」
 ザームと呼ばれたこの男は、フレアに怒鳴られて一瞬たじろいだように見えたけど、すぐに元に戻って今度は僕に顔を向けて話しかけてきた。
「ひょっとして……キミ、アレ? お嬢の彼氏?」
「え? えっ? ち、違」
「そうよ! 私の彼氏! リアルの彼氏! 悪い? 何か文句あるの?」
「えっ? ……ええっ!? いや、ち」
 違うと言いたかったけれど、強気に一歩前に出て言い切ったフレアの勢いに飲まれて、僕は逆に一歩下がってしまった。
「へー……、お嬢にリアルの彼氏がいたとはねー……」
 ザームの視線が、僕を見定めるように上から下へと動く。
「大変だろ? お嬢と付き合うって。俺はけっこう怖いもの知らずのつもりでいるけど、さすがにリアルでお嬢の彼氏ってのは務まりそうもねえ……ぐふっ」
 突然、ザームの顔が歪んだ。
「ザーム? 追放してあげてもいいのよ?」
 フレアの拳が、ザームのみぞおちに食い込んでいる。
 そのフレアの右手の手首を、顔を歪めたザームが掴んだ。
 まさか……ここで戦闘? FoMってこんな街の中でも戦闘できるの?
 ……と思った瞬間、ザームがニヤリと笑った。白い八重歯がキラリと光る。
「ったく、勘弁してくれよお嬢」
 ザームが手を離し、フレアも拳を引いた。
 苦しそうにしていたのは一瞬だけで、少しおどけたようなザームが戻ってきていた。
 現実世界なら悶絶しそうなパンチだったけど、ここは仮想世界だ。痛みはない。さっきの苦しそうな表情も、痛みではなく衝撃に対して、現実の脳が混乱して引き出した反応だったはずだ。
「今日は私に絡まないで。ちょっと森にでも行っててくれない? 今日と言わず、一ヶ月でも、一生でも」
 フレアはそう吐き捨てると、僕の手を引いて早足で歩き出した。
「い、いいの? あのザームって人」
「いいからいいから。あいつ、戦闘以外はただのバカだから」
 フレアは早足をさらに早めた。

   ◇ ◇ ◇

 急いで歩くフレアについて行って三分くらい経ったところで、
「あれっ? お兄さん! お兄さんじゃないの! こんな場所で会うなんて奇遇だね」
 どこかで聞いたことがある声が聞こえてきた。
 声がした方向、大通りの反対側を見ると、どこかで見たことがある男がこっちを向いて立っている。
 ええっと……誰だっけ?
 男が道を横切ってこっちに来た。
「いやー、何かいいアイテムでもあったら仕入れてみようかと思って来てみたんだよ。珍しがられるのも最初だけだろうし、高値で売るなら今のうちでしょ」
 思い出した。アイリーの知り合いの、ピレックルで露店をやっている人だ。
「ところで、お兄さんはどうしてこっちに? ……って、聞くまでもないか」
 露店の男はフレアの顔をちらりと見た。
 フレアはその視線を避けるように僕の顔を見た。
「リッキの知り合い? お兄さんって?」
「この人、妹の知り合いだよ。妹は友達がやたら多くってさ、そのせいで僕はお兄さんって呼ばれることが多くって」
「妹さんもリュンタルやってるんだ? 学校で何度か見かけたことはあるけど」
「うん、僕なんかよりずっと夢中になってやっているよ」
「あれ、でもお兄さん」
 露店の男が会話に割って入った。
 僕は別にこの男に用はない。そもそも名前すら知らない。だというのになぜか向こうはこっちに絡みたがってくる。僕は何も言葉を返していないのに、構わず話しかけてくる。
「いつもの、ほら、黒髪ロングの」
「フ、フレア、行こうか」
 何でこの男はここでそんなこと言うんだ!
 僕はフレアの手を引いて強引に走り出した。
 ごまかせただろうか。ごまかせられていればいいんだけど。

 露店の男の姿が見えなくなった頃。
 僕とフレアは、白い豪華な建物の前に立っていた。大通りはここを突き当たりにして、左右に細い道になって分かれている。
 いかにも王侯貴族が住んでいそうな感じだ。『リュンタル・ワールド』にも、実際に中に入ることはできないけど、こういう建物はある。
 でも、フレアはこの建物の中に入って行った。僕も続いて入る。
 中も豪華だ。壁には絵画が掛けられ、窓やドアの周りには細かい彫刻が施されている。柱にも彫刻が施されていて、見上げると天井は花や鳥などの緻密な絵で覆い尽くされていた。
「あ、フレア、おかえり。誰? その人。新入り?」
 僕たちと同じ年頃っぽい、ウサギの耳をした女の子が声をかけてきた。
「大事なお客さんだから。失礼のないようにね」
 フレアは立ち止まることなく答え、先へ進んでいく。階段を登り、さらに先へ進み、やがて現れた大きな扉を開いた。
 会議室だろうか。広い部屋の中央に大きなテーブルと、それを囲む椅子。床にはふかふかの絨毯が敷かれていて、さっきまでの石の床と違って全く足音が鳴らない。
 フレアはこの部屋の奥にあるドアを開けた。
「ここ、私の部屋だから。入って」
 ドアノブに手を掛けたまま、僕に中に入るよう促す。いくら仮想世界とはいえ、女の人の部屋に入るなんて緊張するな……。
 部屋の中央にはテーブルと椅子。さっきの会議室のような大きなものではなく、現実の僕の家のリビングにあるくらいの大きさだ。壁には本棚がずらりと並んでいる。本だけではなく、まるで理科室にあるような実験器具らしきものが収められている棚もある。部屋の奥の壁際には個人用の机と椅子。その隣にはベッド。そして……キッチン? 水や火を使う設備らしきものが一角にある。さらに僕が入ってきたのとは別のドアがある。まだ奥の部屋があるのだろうか。
 これがフレアの部屋なのか。いくらこの建物が大きいとはいえ、個人の部屋でこの広さだなんて。ピレックルにある最高級の宿の部屋を思い出す。
「お茶淹れるね。適当に座って」
 僕は中央にあるテーブルの椅子に座った。適当にって言われたけど、つい癖でいつも家で座っている位置を選んでしまった。
 フレアは空間を指でなぞり、ティーカップとソーサーを取り出した。青や赤の線で細かい模様が描かれていて、一目で高級品だとわかる。フレアは続けてポットを取り出し、熱い紅茶を注いだ。湯気が鼻をくすぐる。いい香りだ。
 フレア個人の部屋なのにこういうテーブルがあるってことは、よく人を招いているからなのかもしれない。紅茶を入れる手つきも慣れた感じだ。
 紅茶を一口飲み、改めて部屋全体を見回す。
「それにしても、こんな立派な部屋があるなんてすごいな。僕なんかリュンタルではこんな部屋どころか、そもそも部屋を持っていないっていうのに」
「FoMでも個人の部屋がない人は普通にいるわ。でも私はギルマスだから。ここはギルマス用の部屋なの」
「ギルマス? フレアが?」
「そ。ここはツウェロクではナンバーワンのギルド『(ほし)(つばさ)』の本部。私がそのギルマス。言い換えればこの街のトップみたいなものよ」
「そうだったのか……。全然知らなかったよ。フレアってすごいんだな」
「……意外と薄い反応ね。もっと驚いてもいいのよ?」
 僕が感情や口調を変えることなく感想を言ったのが、フレアには不満だったようだ。
「いやあ……リュンタルって個人やパーティで活動するのが普通で、ギルドってないからさ。なんか実感湧かなくって」
 中央ギルド、という名前の施設はある。でもそこは総合案内所のような役割を果たす場所のことで、FoMにあるギルドのようなシステムは『リュンタル・ワールド』にはない。
「まあ、ギルドのことはひとまずいいわ」
 フレアは僕と向かい合って座った。空間をなぞってティーカップとソーサーを取り出し、ポットの紅茶を注ぐ。
「……で」
 僕が二口目の紅茶を口に入れるのと、フレアが自分用の紅茶を注ぎながら言ったのは、ほぼ同時だった。
「牧田さんはいつからリュンタルやってるの? 夏休みから?」
「ぶっ! ……げほっ、ご、ごほっ」
 熱い紅茶が無理やり喉を通過した。ここが仮想世界でよかった。現実世界なら絶対に喉が酷いことになっていたはずだ。
「さっきのリュンタルの男が言っていた“黒髪ロングの”ってのがそうなんでしょ? まあ、最初からそんなところだろうとは思っていたけどね。だって全然学校で話をしてないでしょ? ということは、仮想世界で繋がっているとしか思えないもの」
 やっぱりごまかせていなかった。しっかり聞こえていたんだ。それに、読みが鋭い。
「いいの? 今日は牧田さん放っておいて」
「いや、その……放っておいてっていうか、今日はフレアが誘ってくれたからだろ」
「ってことはつまり」
 フレアは紅茶を一口飲んだ。
 僕とフレアの話し声しか聞こえない空間に、ティーカップを置くカチャリという音がかすかに響く。
「牧田さんより私を選んでくれた、ってことでいいのかしら」
「選んだとかじゃなくて、フレアが誘ってくれたから今日はこっちに来ただけだから。フレアが案内してくれればFoMがどんなところなのか知るのにもちょうどいいし」
「そうなんだ。私はずっと一緒にいてほしいんだけど」
「ずっとは無理だって。フレアはFoMでギルマスやってるんだろ? 僕は今日はここにいるけど、普段はリュンタルにいるだろうし」
「……そう。せっかく二つの世界が一緒になったっていうのに、私たちは一緒にいられないのね」
 フレアはティーカップに指をかけた。そのまま、やや俯いてティーカップを見つめている。
 やがて、カップを持ち上げることなく指を離した。
 フレアは顔を上げた。
「……ねえ、沢野君って、牧田さんのどこが好きなの? 背が高いから? それともひょっとして、何か弱みでも握られているの?」
「本名で呼ぶなって。 今の僕はリッキだから」
「私じゃダメなの? 沢野君は私のことどう思っているの?」
「だから本名で呼ぶなって。それに、ダメっていうか、そんなの考えたことも」
「このフレアのアバターなら沢野君とも釣り合えると思うのよ。背の高さだけじゃない。FoMではそれなりに力も持っているし。私と一緒にいれば絶対に楽しい時間を過ごせるって約束できるわ。だから」
「フレア、ちょっと落ち着いて」
「答えて」
「…………そうだな、お茶だけじゃなくて、お菓子があればいいんだけど。できれば、あまり甘くないほうがいいかな」
 こういう時は少し時間を置いて、何か別のことでもやって、それから戻って考えたほうがいい。そのほうが冷静になって考えることができる。
 でも、本音はそうではない。僕はひとまず逃げただけなんだ。
「……気が利かなくてごめんね」
 フレアは空間からクッキーを取り出した。
「ありがとう……うん、おいしいよこのクッキー」
「本当? それ、私が作ったのよ」
「そうなの? フレアって料理が上手いんだな。そういえば奥にキッチンみたいなのもあるし、フレアって料理が好きなの?」
「いや、その、料理っていうか、その……」
 フレアは少し視線を逸らした。
 どうしたのだろう? 何かまずいことでも言ったかな?
「その……私はアイテム職人で素材集めも手広くやっているし、料理なんか材料とレシピさえあればあとは自動で……って、そんなことより!」
 フレアはまた僕のほうを向いた。テーブルに手をつき、身を乗り出す。
「私のギルドに入らない?」
「え!?」
 ギルドに入る……ってのは、つまり、どういうこと?
「リッキにはいつも私のそばにいてほしいのよ。私はリッキと二人でこの仮想世界を楽しみたいの。そのためには、ギルドに入ってもらったほうが何かと都合がいいでしょ」
 フレアは席を立った。向かい合った位置から僕の隣へと移動し、椅子を引いた。そして座った……と思ったら、僕の肩に手を乗せ、抱きつくように寄りかかってきた。チューブトップにホットパンツという露出度の高い体を、僕に絡ませていく。
「もちろん、こんな紅茶とクッキーだけで入ってもらおうなんて思っていないわ。ギルドの重要なポストも用意してあげる。ザームなんて追放してしまうから。そうすればサブマスの座が空くし。どう? 私とリッキで、このツウェロクを支配していかない?」
 あのザームって男、サブマスだったのか。ただの軽い男に見えて、意外とちゃんとしてるんだな。
「追放って……ダメだろ。そんなこと」
「どうして? リッキはサブマスになりたくないの?」
 フレアはさらに体を密着させ、腕を僕の体に絡ませていく。
「フレア、僕はギルドには所属しない」
 僕はきっぱりと言った。
 フレアの動きが、ぴたりと止まった。
「リュンタルにはギルドってシステムがないからよくわからないけどさ、ギルマスってそういうものじゃないだろ? ザームだってサブマスになるくらいなんだから、それだけ大きな貢献をしているんじゃないの? ギルマスならちゃんとギルドのことを考えなきゃ。個人的な感情でメンバーを追放なんかしちゃダメだ。そんなことをやるような人とは、僕は仲良くなれない」
 フレアの体が、僕から離れた。
 きちんと椅子に座り直したフレアに、僕は話し続ける。
「それに……僕は玻瑠南に“好きだ”と言ったことはない」
「えっ……そうなの? じゃあ本当に弱みを握られているの? ちょっと冗談のつもりで言ったのに」
 冗談って……。
「そうじゃなくって、僕は“好き”っていう気持ちがどういうものなのか、よくわからなくってさ。仲のいい友達ってのとは別の感情なんだろうけど、僕の心がその感情を抱いたことはまだないんだ。玻瑠南の気持ちに応えたいとは思っているけど、本当にそれができているのかどうか、自分でもわからないんだ」
 そこまで言って、僕は天井を仰いだ。
「あー、ごめん。どうしてこんなこと言っちゃったかな。少なくとも、こうやって僕を誘ってくれたクラスメイトの女子に言うことじゃないよな。ごめんな、こんな変なこと聞かせちゃって。呆れただろ? 僕は背が高くなっていくばっかりで、中身はまだまだ成長していないんだ」
 僕は初めてアミカに好きだって言われた時、好きっていう気持ちがわからないと答えた。そんな僕に、アミカは「まだまだお子さまだね」って言って返した。いくらなんでもお子様はないだろと思った。でも未だに好きって気持ちがわからない僕は、きっとお子様のままなんだ。
「ぷっ」
 フレアの口元が歪んだ。
「あははははは。ははは」
 バンバンとテーブルを叩きながら、フレアは大声で笑った。
 ティーカップが揺れ、ガチャガチャと音を立てる。僕は慌ててティーカップを手に取った。フレアのティーカップからは紅茶が少し零れ、ソーサーに落ちている。
「はは、なーんだ。そうだったんだ」
 笑いすぎて、フレアの目から涙が零れそうになっている。
 僕は紅茶を一口飲み、フレアがテーブルを叩き終わったのを確認してからカップを置き、クッキーを手に取った。
「私、沢野君が背が高い女の子が好みで、それで沢野君のほうから声をかけて牧田さんと付き合ってるんだと思ってた。なんでこんな勘違いしちゃったんだろう。私が背が高い男子が好きだからかな」
 どうして西畑がこんなに僕に積極的なんだろうって思っていたけど、やっぱり身長か。
「焦ることなかったんだ。今からでも全然間に合うんだ。そういうことでしょ?」
 フレアはまた、僕に体を密着させ、腕を絡ませてきた。
「もしかしたら、リッキが初めて好きになる人が、私なのかもしれない。そういうことだってあるのよね?」
「えっと、フレア、クッキーが食べづらいんだけど、離れ」
「そうだ!」
 離れてほしい、と言い終わる前に、フレアは僕から離れた。
「ねえ! これから森に行かない?」
「森?」
「そう。私とリッキの二人で。ギルドのことなんてもう言わない。ギルマスとしてじゃなくて、一人の女の子として、フレアとして、私のことを見てほしいの。私のいいところ、いっぱい見せてあげるかんだから!」

   ◇ ◇ ◇

「FoMって、街の外に出ることを“森に行く”って言うのよ。リュンタルでは違うだろうけど、FoMって街の外は森しかないから。森の中に洞窟があったり遺跡があったり、精霊に守られた大樹のうろが特殊な空間に繋がっていたりするの」
「そうなんだ。だいぶ違うね」
『リュンタル・ワールド』にも森はあるけど、平原だってあるし海や湖、砂漠もある。岩がゴロゴロ転がっているだけの殺風景極まりない場所だってあるし、雲海を見下ろせるような高い山だってある。森しかないなんて、ちょっと想像できない。
 FoMの世界についての簡単な説明を聞きながら歩いているうちに、街の出口に着いた。
 そこはもう、森への入口だった。街を囲う高い壁はまるで、襲い来る森を必死に防いでいるかのようだ。街の石畳の道が、土の道となって森の奥へと続いている。その先はカーブを描いていて見えず、ひどく不安な気持ちにさせられる。
「じゃ、行こっか」
 フレアは僕の手を引いて走り出した。慌ててついて行く。何も走らなくたっていいじゃないか。不安な気持ちがさらに高まる。
 広かった道幅がだんだん細くなっていく。初めての世界。何が起こるんだろう。不安に不安が重なっていく。
「フレア、そんなに急がないで。ゆっくり、ゆっくり行こうよ」
「えっ?」
 はっと何かに気づいたようで、フレアは足を緩め、手を離した。
「そう? 速かった?」
「ずっと走りっぱなしじゃないか。普通に歩いて行こうよ」
「ごめんごめん、私いつもこのくらいのスピードだから、つい」
「そうなの? いつも走ってるの?」
「だって効率がいいじゃない。時間かかんなくて。どうせ疲れないんだし」
「それはそうかもしれないけどさ……」
「リッキは雰囲気とかリアリティとかも楽しむタイプ? FoMって攻略重視だから、とっとと目的の場所に行って戦ったりアイテム取ったりしてとっとと帰ってくる、ってのが普通だけど。……あ、ここ、左に曲がって」
「……やっぱり、FoMとリュンタルは違うね」
 左の道に曲がりながら、フィールドの違いだけではない違いを感じていた。
 僕はソロプレイをやっていた頃は効率を求めてばかりいたけど、それでも冒険中は歩いていた。当時の僕ですらいつも走るなんていうプレイスタイルはやろうとは思わなかったのだから、今の僕ならなおさらそんなことは思わない。
「僕の妹なんか、今日から統合を記念したお祭りをやっているよ。イベントが好きでさ、よく自分が中心になってイベントを開くんだよ。楽しけりゃいいってスタイルで、攻略なんか全然考えてないから。こないだも自分の歌の振付覚えるのに必死だったし」
「歌? リュンタルってそんなのもあるんだ! 知らなかった!」
「妹の場合はちょっと特別だけど、戦闘をしないで普通に街で生活するように楽しんでいる人は、別に珍しくないよ」
「そっかー。リュンタルってFoMとはずいぶん違うのね。ちょっと行ってみたいな」
「だったら明日来ればいいよ。今日は僕がFoMに来たんだから、明日はフレアがリュンタルに来ればいいじゃないか」
「本当? リッキが案内してくれるの? その、妹さんにも会ってみたいし」
「いいよ、案内するよ。それに妹は友達を作るのが好きだから、きっと喜ぶはずだし」
「じゃあ決まりね。明日はリュンタルに行くから。……ここ、右に曲がるよ。そしたらすぐモンスターが出てくるから」
 最後の「出てくるから」を言い終わらないうちにフレアは分かれ道を右に曲がった。その瞬間、小さな茂みの中から二メートルくらいあるリスのようなモンスターが道に飛び出してきた。こんな大きさのモンスターが小さな茂みの中に隠れていられるはずがない。お父さんがよく「ゲームだから」ってことを言うけど、これもきっとFoMなりの「ゲームだから」なのだろう。
 僕は右腰に下げた剣を抜いた。
 しかし、勝負はついていた。
 僕が剣を抜いている間に、フレアは一瞬でリスのモンスターに突っ込み、仕留めていた。HPがゼロになったリスのモンスターの輪郭を光の線が象り、消滅した。
 速い。
 僕は剣を握ったまま、呆然と立っていた。
 いつの間にか短剣を手にしていたフレアが、振り向いた。
「まだこの辺はザコすぎてバトルにならないから。気にしないでどんどん進もっ」
 フレアは何事もなかったかのように先へ進む。慌てて剣を収め、ついて行った。

 それからもフレアは現れるモンスターを瞬殺していった。とにかく速い。魔法は使わない。僕のような長剣も使わない。一瞬で懐に飛び込み、短剣の一撃だけで仕留めていく。この辺りのモンスターには慣れていて、出現するタイミングやモンスターの種類、特性なども熟知しているのだろうけど、それにしても手際がいい。
 やがて、道は開けた場所に出た。ここだけ不自然に四角い広場になっていて、直線的に並んで生えている木が壁となって四方を囲んでいる。
「ここよ」
 広場の奥のほうに、小さな石造りの祠が立っていた。
「あの祠から、モンスターが出てくるから。近付かないで、ここで待ってて」
 なんか……雰囲気がないな。
 何もかもをフレアが先に立って淡々と処理して、ここもフレアがよく知っているボスキャラが出現する。フレアにFoMの世界を案内してもらうことにはなっていたけど、さすがにこれではつまらない。
「フレア、このモンスターは僕に戦わせてくれ」
 まだモンスターが出現する前に、僕は言った。
「うん、さすがにこいつは私一人だと手間がかかりそうだし」
 “倒せない”ではなく、“手間がかかる”なのか。二人で戦うのはあくまでも効率重視のためであり、本来は一人でも倒せる、という自信が表れた言い方だ。
 祠にヒビが入った。
 ヒビの本数は次第に多くなり、少しずつ崩れていく。視界の上部にはクエスト発生を知らせるウィンドウが開いた。祠はやがてガラガラと音を立てながら、完全に石の瓦礫となってしまった。
 モンスターは……どうしたんだ?
 よく見ると、瓦礫の山がもぞもぞと動いている。僕は剣の柄に手をかけた。瓦礫の山はさらにガタガタと強く動き出し、中から何かが瓦礫を弾き飛ばしながら突き出てきた。
 腕だ。
 形は人間の腕に似ていて、金色の毛に覆われている。人型のモンスターなのだろうか? 大きさは……この距離から考えると、だいぶ大きい。
 モンスターが姿を現した。金色の毛に覆われた、ゴリラのようなモンスターだ。身長は五メートルくらいだろうか。こんな小さな祠なんだからもっと小さなモンスターに出てきてほしかったけど、地中に埋められていたモンスターを封印するために真上に小さな祠を建てたのだろう、と自分なりの解釈で無理やり納得させた。
「ピッパムに気をつけて!」
 フレアが指示を出した。でもピッパムって何? このゴリラの名前?
 ゴリラのモンスターは金色の毛に覆われた太い腕を振り回した。さっきまで何も持っていなかったはずの手が、赤い何かを投げた。りんごのような赤い何かが、僕の顔に向かって飛んで来る。僕は寸前でしゃがんで避けた。
 後方で轟音がした。通り過ぎていった赤い何かが地面にぶつかり、爆発したのだ。
「ピッパムってあれのこと?」
 僕は後方をちらりと見て言った。
「リュンタルってピッパムないの? おいしいのに」
 りんごのように見えたけど、やっぱり食べ物のようだ。リュンタルにあるクムズムにも似ているけど、味も似ているのだろうか?
 でも今は味のことはどうでもいい。食べ物がなぜ爆発するのか訊いているヒマもない。巨大ゴリラはまた腕を振り回した。何も握っていなかった手からピッパムが放たれる。図体は大きいくせに、投げる動作は素早い。次々とピッパムを投げつけてくる。こういうモンスターは近くに飛び込んで接近戦にすればいいんだけど、ピッパムを避けながらではなかなか近づけない。
 僕だけでなく、フレアも近づけない。
「もしかしてこいつ強くなってる? メンテで修正入った?」
 フレアが焦っている。想定外の事態のようだ。
 また巨大ゴリラが僕にピッパムを投げた。そのタイミングを見計らって、フレアが何かを投げた。青い羽毛のようなそれが一直線に飛んでいき、巨大ゴリラのおなかの辺りに刺さった。
「あいつ体がでかいから、あまり効かないのよね」
 フレアは次々と青い羽毛を投げつけた。羽毛の先端は針になっていて、巨大ゴリラの体に容赦なく突き刺さっていく。
 巨大ゴリラの動きが鈍くなり、ピッパムを投げてから次を投げるまでの間隔が長くなった。
「効果短いから! 今のうちに!」
 僕はフレアと共に前へ駆け出した。
 近づいてくる僕たちを見て、巨大ゴリラは全身の毛を逆立てた。
 動きが鈍くなったとはいえ、決して動けなくなった訳じゃない。何も持っていなかった手に、今度は長い棒が握られている。棒を振り回すと、僕の体は風圧で飛びそうになった。必死で踏みとどまり、また前へと進む。
 ようやく剣が届く距離まで近づいた。僕は巨大ゴリラの足を斬りつけた。金色の毛が赤い血に染まる。巨大ゴリラは棒の先で僕を突こうとした。飛び退いて回避すると、巨大ゴリラはまた棒を振り回し始めた。棒を避けつつタイミングを見計らってまた進み、赤く染まる足をまた斬りつけた。
 フレアは今度は赤い羽毛の針を投げた。針は巨大ゴリラの逆立った金色の毛の中に埋まるように突き刺さった。
「それは?」
「毒針。一定時間ごとにHPを減らす効果。さっきの青いのは動きを遅くする効果。普通の人間サイズなら十分効くんだけど、こいつへの効果は微々たるものね。もしかしたらメンテで耐性が強化されたのかも」
 巨大ゴリラが歩き出した。青い羽根の効果が切れたのか、足取りは軽い。それなのに一歩ごとに地響きが生まれ、僕の体も振動する。フレアは青い羽根の針を投げた。巨大ゴリラは棒を振り回し、針を薙ぎ払った。
「簡単に倒せると思ったのに!」
 近づいて来て棒を振り回す巨大ゴリラから逃げながら、フレアが不満を叫ぶ。
「でも、こうじゃなきゃ、面白くないだろ?」
 テストプレイで得た知識を元に、決まった作業をこなすようにソロプレイしていた頃の自分を思い出す。
 仲間とともに、未知の冒険へと繰り出していくようになった今の自分と比べてみる。
 考えるまでもない。答えはすでに出ている。
 今のほうが、断然楽しい!
「フレア、二手に分かれよう」
 僕は位置を変え、巨大ゴリラをフレアと挟むように移動した。巨大ゴリラはどちらに攻撃したらいいのか判断できず、歩きながら闇雲に棒を振り回している。
 フレアはアイテムを取り出した。短い筒のようなそのアイテムを、フレアは口にくわえた。
 笛だろうか? それとも吹き矢?
 いや、違った。
 フレアがくわえた筒の先から、シャボン玉がたくさん飛び出してきた。シャボン玉は微かに虹色に輝きながら、ゆっくりと昇っていく。
 戦闘の最中だというのに、フレアは何をやっているんだ?
 僕は巨大ゴリラの棒の攻撃をかい潜りながら、足を斬り続けた。本当はもっと上、できれば頭を攻撃したい。こういう大きなモンスターは、高い部分ほど弱点になっているものだ。でも、届かないことには仕方がない。足を攻撃するしかない。
 巨大ゴリラは標的を僕に定めた。動きまわることをやめ、ひたすら僕に棒を振り下ろしている。僕は棒をかい潜り、足を攻撃し続ける。足しか攻撃できなくても、だいぶHPを減らすことができた。表示がオレンジになっている。もう少しだ。このまま攻撃し続ければ、倒すことができるだろう……。
――油断したつもりは、なかった。
 巨大ゴリラは足を振り上げ、僕を蹴った。ちゃんと躱したつもりだったけどわずかにかすってしまい、それだけで僕は仰向けに転んでしまった。棒の攻撃のことばかりを考え、足で攻撃してくるなんて考えていなかった。HPがオレンジになったタイミングで行動パターンが変わるなんて、ありがちなことだというのに。
 後悔しても遅かった。巨大ゴリラの足が再び僕に迫る。僕は倒れたまま転がって避けた。嫌な感触。避け切ることができず、左足の先を踏みつけられてしまった。痛みがない世界であることに感謝する。
 巨大ゴリラが棒を振り上げた。僕は左足を踏みつけられたまま、動くことができない。この攻撃を食らえば、もう終わりだ。
 
 ――パァーンッ!

 乾いた破裂音が響いた。巨大ゴリラの動きが止まる。
 破裂音は何度も鳴り続け、それに巨大ゴリラが苦しく吠える低い声が混じる。巨大ゴリラはよろめき、踏みつけられていた左足が開放された。あり得ない方向に曲がり潰れた左足を見ながら、僕は腕の力で後ずさった。
 何が起きたんだ?
 巨大ゴリラの体からは、大量の血が流れ落ちている。
 また、パーン、パーンと破裂する音が鳴った。
 破裂音は上で鳴っている。潰れた左足から上へと、視線を移す。
 シャボン玉だ。
 空中を舞い上がったシャボン玉が、巨大ゴリラの頭の辺りで破裂していた。破裂の衝撃は凄まじく、巨大ゴリラの頭や顔、胸や背中は部分的に吹き飛んでいる。フレアが飛ばしていたのは、シャボン玉の形をした爆弾だったんだ。
 シャボン玉はまだまだたくさん空中を舞っている。巨大ゴリラが苦し紛れに腕を振り回すと、腕に当たったシャボン玉が破裂し、腕の肉を吹き飛ばした。残ったシャボン玉が巨大ゴリラの頭を目指す。巨大ゴリラは逃げようとした。
 しかし、それは僕が許さなかった。僕は立ち上がり、巨大ゴリラの足を斬りつけた。巨大ゴリラがシャボン玉の攻撃を受けている間に、僕はポーションを飲んでHPを回復させていた。潰れた左足もすっかり元通りになり、踏み潰される前と変わらない状態になっている。
 後から来たシャボン玉が巨大ゴリラの頭に到達した。ひとつが破裂すると破裂が連鎖し、巨大ゴリラの頭は繰り返し衝撃に晒され、肉片となった。シャボン玉が全てなくなった時、巨大ゴリラのHPもゼロになった。巨大ゴリラを象る巨大な光の輪郭が生まれ、その姿は消えた。

 クエスト完了を知らせるウィンドウが、音楽とともに現れた。
 報酬のシル……じゃない。ベイ? FoMの通貨はベイって言うのか。ベイの数字が、ゼロからどんどん増えていく。
「あー、前よりベイが多い。やっぱり修正あったんだ」
 フレアがこっちに歩いてきた。
「こいつたまに金塊落としていくんだけど、今日は出なかったかー」
 巨大ゴリラがいた場所には、金塊ではなく木箱が遺されていた。
 フレアは木箱を開けた。
「これ、食べる? おいしいよ?」
 木箱の中にはピッパムが詰まっていた。フレアは右手に持ったピッパムをかじりながら、左手に取ったピッパムを僕に差し出した。
「それ、本当に食べれるんだ」
 あんなに激しく爆発するようなものを食べても平気なのだろうか。
「大丈夫だって。強い衝撃を与えなければ、爆発なんてしないから」
 おそるおそるピッパムを受け取り、一口かじった。
「※◎?+△∞☆#! ゴホッ、ゲホッ」
 口の中で何かがはじけ飛んだ!
「あはははははははははははっ!」
 フレアは木箱をバンバン叩いて面白がっている。
「なっ、何これ? 炭酸?」
「そうなのよ。結構キツいでしょ。ピッパムって中に炭酸が詰まっていて、慣れるとこの感触がたまんないんだけど、最初はね」
 僕は見た目が似ているクムズムのようなものだと思っていた。クムズムもピッパムと同じりんごのような見た目だけど、食感は洋梨のようだ。でもピッパムは全然違う。りんごのサクッとした食感に強烈な炭酸が加わった、正反対の食べ物だ。
 もう一口、おそるおそる食べてみた。口の中で、強烈な炭酸がはじけ飛ぶ。
 うん、さっきよりはおいしく感じた。

   ◇ ◇ ◇

「あーあ。あんまりいいところ見せられなかったなー」
 ピッパムをかじりながら、僕たちは来た道をゆっくり歩いて引き返している。
「そんなことないって。僕が死なずに済んだのはフレアのおかげだし。それに全然見たことない戦闘スタイルだったし、一緒に戦えて楽しかったよ」
「私はリッキみたいなオーソドックスな戦闘にはあまり向いてなくって。アイテム作るのは得意なんだけどね。羽根に効果を加えるのだって自分でやったし、あとシャボン液の調合も」
「そうなの? あれ、フレアが作ったの?」
「そうよ。今度リッキにも何かアイテム作ってあげよっか」
「作ってくれるの? ありがとう。……そうだ、これ」
 大事なものをすっかり忘れていた。
 空間を指でなぞり、アイテムを取り出す。
 金の細い鎖に、緑色の宝石が繋がっている。シェレラから教えてもらったショップで買ったアクセサリーだ。
「プレゼントを持ってきたんだ。これ、どうかな。ネックレスなんだけど」
 鎖を広げて、フレアによく見せた。
 フレアはネックレスを見つめたまま、固まってしまっている。あまり気に入ってもらえなかったのだろうか。ショップでアドバイスを聞いたのに、結局自分で選んだのがまずかったかな……。
「つけて、いいかな」
 思い切って言ってみた。
 断られたら、どうしよう。
「……うん、お願い」
 フレアはかろうじて聞こえるくらいの細い声で答えた。
 僕はフレアの首の後ろに手を回し、ネックレスをつけた。
「……ありがとう」
 フレアはまた途切れそうな声で言った。胸元に下がる緑色の宝石を手に取って、じっと見つめている。そして、
「ありがとう! うれしい! どう? 似合ってる?」
 打って変わってフレアは大きい声で僕に尋ねた。
「うん、似合ってるよ」
 オレンジ色のチューブトップで胸を隠しているだけというシンプルな格好のせいもあって、胸元に輝く緑色の宝石が余計に映える。
「もう絶対外さない! 一生つけたままにしておく! 本当にありがとう!」
「あ、ありがとう。そこまで言ってもらえるなんて、僕もうれしいよ」
 フレアは僕の手を握った。僕もその手を握り返す。僕たちは手を繋いだまま、街へと戻った。明日は二人でお祭りに行くという約束を確認して別れ、僕はログアウトした。

   ◇ ◇ ◇

 暗い。
 ……まさか!
 枕元の目覚まし時計を掴む。
 ちょうど八時を過ぎたところだ。
 僕は跳ね起きた。

 晩ご飯作らなきゃ!

 いつもならこんな時間までログインしていることはない。
 もし夜もリュンタルで遊ぶ場合は、一旦ログアウトして夕食を作って、食べ終わってからまたログインしている。
 どうして今日はこんなことになってしまったんだ?
 そうか。今日はリュンタルじゃなくてFoMに行っていたからか。でも時間の流れ方なんて同じだし、そんなことは言い訳にはならない。
「お母さんごめん! すぐ作るから!」
 絶対に怒っているに違いない。
 夕食というより、現実の生活を忘れて遊びすぎていたことに。お母さんはそういう人だ。
 駆け足で階段を降りる。

 おかしい。
 真っ暗だ。
「お母、さん?」
 返事はない。
 光も音も何もない中、手探りでリビングの電気をつけた。
 やはり、お母さんはいない。
 代わりに見つけたのは、テーブルの上の一枚の紙。

『外食に行ってきます』

 …………。
 僕は部屋に戻った。

   ◇ ◇ ◇

「で、どうだったの?」
 その後、お祭りの初日が終わってログアウトした愛里が僕の部屋に来た。理由はもちろん――。
「西畑さんと、ちゃんと上手くやれた?」
 FoMがどんな世界だったか、なんて全然訊こうとはしない。愛里が興味があるのは、僕と西畑との仲だけだ。
「うん。全く問題ないよ」
「本当に?」
「本当だって! そういえば、アイリーに会いたいって言ってたよ。明日リュンタルに来るって」
「本当に?」
 同じ「本当に?」なのに、ずいぶんと表情も口調も違う。
「絶対会う! たぶん明日も忙しいと思うけど、全然構わないから。いつでも会いに来て。ねえねえ、どんな人なの? 教えて?」
「うん、名前はフレアって言ってね――」
 僕はフレアの情報を愛里に教えた。
 これは愛里にだから言えることだ。他の人には、絶対に言ってはいけない。
「うわー早く明日にならないかなー。待ち遠しいなー。あっそうだ、明日のイベント情報をブログに書かなきゃ。お兄ちゃん、フレアにもブログ教えて!」
 愛里は駆け足で隣の部屋に戻って行った。
 愛里は愛里で忙しいんだから、僕のことなんか構わなくったっていいのに。どうしてこんなに絡みたがるんだろうか。不思議でならない。

しおり