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第75回「おとぼけケイトリン」

 夜が明けた。シェルドンとの会見では得られるものが非常に多かった。彼もまた世界の大きな荒波の中でもがいているに過ぎない。魔王アルビオンに抗おうというエンリケとディーも苦しみ抜いた末に決断を余儀なくされているのだ。
 すでにシェルドンは自宅に帰り、プラムと僕は仮眠を取った。もちろんと言うべきか、プラムは今日も僕より先に目覚めていた。大した子だ。

「辛いか」

 プラムが言った。

「かつての仲間が黒幕だというのは」
「あいつは優秀なやつだった。そういうこともあるだろうさ。それに、本人がここにいるわけでもないからな」

 僕たちは行動方針の修正を迫られた。シェルドンがもたらした情報は、それほどにインパクトが大きかったのだ。
 アイリアル市の反乱を助けているのが、僕のかつての仲間であるロジャーだった。彼はいつの間にか「東南海貿易会社」、通称「東南貿易」というものを設立し、世界各地の反動勢力に密かに融資をしているという。もちろん慈善事業でないのは確かだ。

 このアイリアルにも東南貿易の支店がある。そこで頭を張っているのがケイトリン・モンテイロという名前の少女だという。通称「おとぼけケイトリン」。十歳ほどの若い見た目とは裏腹に、すでに三十年以上を生きているらしい。これは彼女が人間と長命種のハーフであることが大きく作用しているとのことだった。
 アイリアル支店は、軍隊が封鎖している区域の中にある。シェルドンは僕たちに通行証を渡してくれたが、果たしてどれだけ効果的に作用するだろうか。

「行くか」

 僕が誘うと、プラムは立ち上がった。

「ああ」

 そう答えて、彼女は読みかけの「鳴動する宇宙」を本棚に戻した。残念ながら、シェルドンの来訪もあって、半分も読み切れていないようだった。
 僕はその様子を眺めていたが、ふいに「野望の古代史」という本の背表紙が目についた。魔族の歴史学者デセールが編んだこの本は、人類と同じように魔族もまたそれぞれの野望を持って戦いの歴史を繰り返してきたことを証明している。
 ロジャーも恐るべき策謀をもって、アイリアルの混乱を助けているのか。もしかすると、シャノンやメルも噛んでいるのか。
 こんな思いだけがぐるぐると回って、確信の皿の上に着地しない。

 いや、いいのだ。今は行動すべき時だ。
 僕はプラムを伴い、宿を出た。弱くはなっていたが、雨は降り続いていた。幸いなことに、風は止んでいた。嵐はすでに小康状態になったと考えていいだろう。
 シェルドンに教えてもらった通りの道筋をたどり、東南貿易に向かうつもりだった。資金の供給源を断ち切ることで、エンリケとディーの継戦能力を奪い、彼らを屈服させるつもりだった。

 路面は弱い雨で濡れており、道行く者は足早だった。フードを被って少しうつむき加減に歩いていく様は、今まさにこの街が置かれている状況を表しているかのようだ。放っておけば、魔王の怒りという大嵐が街並みも培ってきた歴史もすべて破壊してしまうだろう。
 そして、それを実行するのは僕かもしれないのだ。

 情景が僕に本の一節を思い出させた。それはアクスヴィル聖王国の詩人、ダイナー・トムリンソンの代表的詩集である「慈雨」に収載されているものだ。
 雨音が母の胎内を想起させるという思想は、この世界でも健在であるらしい。またこの本は人類領域のみならず、魔族領域でもよく読まれているという話だった。文化は国境を超え、世界に波及するのだ。戦争を終わらせる最後の一手は、徹底的な破壊ではなく一冊の本なのかもしれない。
 いや、これは僕がそうあってほしいという願望に過ぎないか。現実には圧倒的な戦力だけが戦争の勝敗を決定するのだ。本はむしろ屈したものの頭をさらに叩くのに使われる。ある種の文化の敗北だ。だが、それは決して賢いやり方でないと思う。生きとし生けるものは皆、もっと理知的なやり方で勝敗をつけられるはずだ。

「通行証」

 兵士が求めるのに応じて、シェルドンから預かった証明書を見せた。それだけで、封鎖区域に入ることができた。

「東南貿易を潰せば、ここでの問題は解決するのか」

 プラムが横に並んできた。彼女の問いかけもうなずけるものがあった。その点は僕にも読みきれない部分があったからだ。

「どうかな。たとえ扇動されたにしても、エンリケとディーが反乱活動に加担している事実は覆らないし、彼らが権力を手放さないことには解決にならない。実際に会ってみることになるだろう」
「シェルドンのように物分りがいいことを望むが」
「厳しい要求だろうな。それに、三人を屈服させたとしても、集まった兵士たちを納得させなくちゃならない。アイリアルという街全体が親魔王派に転ばないと、どうにもならないのさ」
「やることは山ほどある」
「ああ、サリヴァに教えてもらった通り、課題は山積している。時間は掛けられない。それに、この程度の案件に時間を掛けているようでは、アルビオンの心象も悪いだろう」
「あまり力を見せすぎると、王と神の間に軋轢が生まれないか」

 どうだろうな。アルビオンと僕の進む道は同じようで違う。いずれ衝突してしまうかもしれない。
 その時、プラム・レイムンドという少女はどんな選択をするだろうか。
 僕は気が弱いから、彼女に突然刺されるような未来を想像すると、心が辛くなってくる。だが、それもまた一つの可能性なのだ。否定しきれるわけではない。

「信頼関係は、まず与えるところから始まる。アルビオンのため、また僕のため、最大限の努力をするよ」

 この言葉は、まさしく真実だった。いずれにしても、僕はこの街のいびつな状況を解決しなければならないのだ。それが次の状況を出現させることにもなる。
 ただ、気になるのは東南海貿易会社のことだ。ロジャー。かつての僕の仲間。彼がこのような組織を立ち上げ、魔族の都市まで反乱を扇動しているとは思わなかった。旅をするパーティーの中で、「最も世間ずれしている」のが彼だったとはいえ、こんな形で名前を聞くことになろうとは。

 封鎖区域の中にはほとんど人通りがなかったが、代わりに軍需物資を載せた馬車や兵士たちの姿が散見された。露骨な行動だ。アルビオンの動員令が出ていない以上、これは明らかに越権行為である。アイリアル市はもはや戦火に包まれることを確信し、地獄へ向けて猛進しているようにさえ見える。

 雨がようやく上がってきたころ、僕らは東南貿易の建物の前に到着した。木製の扉の奥からは、活発な声が聞こえてくる。会社は営業を続けているようだ。
 僕は扉を開け、中へ入った。
 机が並び、当世風のきらびやかな制服に身を包んだ社員たちが、せわしなく働いていた。その中の女性社員が僕たちに気づいて、受付カウンターの向こう側までやってきた。

「何か用ですか」
「この会社を潰しに来た」

 僕は極めて乱暴に聞こえる声音で、彼女に向けて宣言した。
 たちまち応対をした社員がため息をついて、くるりと部屋の奥へ振り返った。

「支店長ー。よそさんの殴り込みでーす」
「あいよー」

 奥の机で「進歩会報」と書いてある新聞を読んでいた少女が、飴色の鞭を手に立ち上がった。いやいや、少女というよりはもはや幼女と呼ぶべきかもしれない。彼女がケイトリン・モンテイロだろう。おとぼけケイトリンなどという軽妙なあだ名を持つくらいだ。油断は禁物である。
 ケイトリンは軽々と跳び上がり、カウンターの上に着地してあぐらをかいた。女性社員は彼女にすべてを任せたのか、仕事に戻ってしまう。

「殴り込みらしいね」
「ああ、殴り込みだ。この街での企みを全部が全部終わらせてしまうために来た」
「ん、同業者じゃないのか。テレーズ、違うじゃん。この人、私らの『本業』に興味があるみたいだよ」
「あれ、そうなんですか」

 さっき僕らの対応をした角つきの女子社員が、「すいませーん」と笑いかけてきた。

「見た目がいいもんだから、てっきり同業者かなって」
「だってよ、お兄さん。うちの美人看板のテレーズにあれだけ言わせるなんて、憎いねえ」

 ケイトリンは僕を指さしてきた。失礼なやつだ。

「お褒めに預かり光栄だよ。だが、君からはお褒めの言葉よりも、真実を伺いたいな。ロジャーとの関係。東南貿易という会社の意味。何もかも教えてもらおう」
「なんだ、何も知らないで殴り込みなの。どんだけ蛮族なの」
「無料で教えてくれるっていうんなら、お茶でも出してもらおうかな。僕も彼女も喉が乾いた」
「いいよ。毒入りで良ければご馳走しよう」

 愉快なやつだ。友達であれば。
 不愉快なやつだ。敵なので。

「アイリアルにおける反乱の扇動をやめてもらおう」
「何かなぁ。ケイちゃんわかんない」
「君は僕より年上と見たが」
「心が若ければ、いつだって十歳児でいられるんだよ」
「僕は永遠の十七歳を知っている」
「それは残念。もっと早くに老化を止めるべきだったね」

 僕は手の中に剣を現出させ、ケイトリンの鼻先に突きつけた。

「行儀悪くいかせてもらおう。降伏しろ、ケイトリン・モンテイロ」
「聞けないねぇ、名無しのお兄さん」
「ああ、名乗らなかったのは悪かった。君が口を閉ざすものだから。僕はリュウだ」
「ケイトリン・モンテイロ」

 表に出な、とケイトリンが言った。彼女はたちまち躍り上がって出入り口を蹴り開け、外へと飛び出した。

「相手してやるよ、坊や。広いところでね」

 その声を聞き、僕は空いていた左手に強烈な炎の球を生み出し、東南貿易の事務所に向けた。

「相手してもらう必要はない。降伏しろ。でないと、君の社員と書類をすべて焼き尽くす」

 どっちが悪者だかわからないな、と僕は思った。
 しかし、どんな行為も善悪の色はついていないものだ。善悪を決めるのはあくまで観察者であり、傍観者である。
 今、ケイトリンは「げっ」と言いながら、構えていた鞭をだらりと濡れた路面に垂らした。僕の外道な行為を読み切れていなかったようだ。

「支店長。私たち、このままだと死にそうなんですけど」

 有角美人のテレーズが、やや高くなった声を上げた。彼女は僕が本当にやりかねないと感じつつあるようだった。他の社員たちもこちらを見て、防備の用意を始めた。
 だが、僕の手の中に生まれた炎はますます大きくなっていく。このまま解き放てば、奔流があらゆる命を巻き込みながら、この場所を煉獄に変えていくだろう。

「わかった、わかった」

 ケイトリンが叫んだ。
 それと同時に、彼女の鞭が僕の左腕にまとわりつく。僕はすかさず右手の剣を虚数空間へと収納し、まとわりついた鞭を掴んで彼女を強引に事務所の中へと引き戻した。

「何がわかっただ。攻撃してきてから」

 僕は炎の塊を、無様に転がり入ってきたケイトリンに向けて叩きつけようとした。
 うぇっ、と彼女がうめいた。
 猛烈な炎が彼女に当たろうかという瞬間、僕は軌道を変えて鞭を焼き切るのみに留めた。無残な音とともに、鞭は炎で焼き消えた。

「力強すぎないかい」
「ああ、君が可愛いもんだから、思わず僕に引き寄せてしまった」
「神、経済でない物言いはやめろ」

 プラムはこうしてたまに嫉妬的な部分を見せるから面白い。

「仕方ない。話を聞くよ」

 それでも、僕が強い視線をケイトリンに送り続けていたので、彼女もとうとう観念したらしい。
 が、ふいに、ケイトリンが飛び退き、観葉植物の陰にあったらしいスイッチを押した。プラムと僕の足元から床が消えて、穴が口を開けた。
 僕はすかさずプラムを片腕で引き寄せ、穴の壁を蹴って外へと脱出した。

「それ、皆の衆、逃げろ」

 ケイトリンが声を上げ、東南貿易の社員が逃げ出そうとしていた。
 僕は大きく息を吐き、プラムを抱き寄せながらもう片方の手の中で風魔法を発動させた。
 風にもいろいろあるものだ。微風、暴風、貿易風。肉を切り裂く鋭利な風もあれば、何もかもを吹き飛ばす荒れ狂う風もある。僕が呼び出したのは、何もかもを巻き込む局地的な竜巻だった。たちまち事務所内のすべてのものが、そう、事務員だろうが机だろうが丸ごと巻き込んで、猛烈な回転となって暴れまわった。
 これにはケイトリンもたまらず吹っ飛び、他の社員と一緒にぐるぐると大回転。僕だけがプラムを抱いたまま、しっかりと床で踏ん張っていた。もちろん単なる肉体的な能力だけではなく、魔力の嵐から逃れるために中和魔法を発動させていたのだ。

 実際に発動していたのは数秒ほど。
 だが、巻き込まれた者にとっては相当な恐怖となって刻まれただろう。
 竜巻はようやく力を衰えさせ、事務所の中心にうずたかい「被害者の山」を作り上げた。ケイトリンもテレーズも他の社員も、机や観葉植物にガンガンとぶつかって、完全に消耗しきったようだった。

「ようやく仕事の話ができそうだな」

 僕は可能な限り怒りの色を声に乗せ、彼らの周りに光の檻を作り出した。これで容易に逃げることもできないはずだ。

「参った……」

 机にもたれかかる形で上下逆さまにひっくり返っていたケイトリンが、小さくそう漏らした。

しおり