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第16話 真灯蛾サリーの連続佐藤さん誘拐事件

ワォオオオーーーーン……。

 群青色の冬の夜空、白く輝く満月がひときわ大きく見えている。今宵はエクストラ・スーパームーン。飼い犬の遠吠えが響く閑静な住宅街が続く恋文町の三丁目を、帰宅途中のOL・佐藤良子(二十八歳)が一人歩いていた。駅前オフィスに職場があったため、ストで電車が停まっていても出勤できたのだが、一日中労働争議の騒音と格闘するはめとなった。駅前コンビニで一個七十円のおでんセールで五個、それにおにぎりを二個買うと、後数分で自宅マンションに到着する道を歩いている。
 次の瞬間、満月に異変が起こった。まるでフタのように満月が開くと、中から長い黒髪を垂らした真灯蛾サリー女王の上半身がにょっきりと現れる。まるで恋文町の夜空が、張りぼてで出来たドームの天井だと錯覚する光景に、OLは自分の眼を疑った。それもつかの間、女王の両手に握られた釣竿からたらされた針が、OLのベルトを引っ掛ける。
「キャアアアアーッ!」
 サリー女王はリールでOLを吊り上げると、バターンと満月の扉を閉めた。

「なんだっ、今の叫び声は」
 時夫がにょっきり立ち上がった。
「今、外に出ないほうがいいよ」
 ありすが静止する。もう安全な場所はこのありすの店「半町半街」しかない。
「きっと誰かが誘拐されたのよ。『最中』と書いてもなか。今、恋文町は何が起こってもおかしくない非常識な時空になっている。今作戦考えてるから、それまで出ちゃダメ」
 ありすは「もなか」ではなく板チョコを食べている。
「しかし」
 時夫は外が気になって仕方なく、部屋の中をうろうろする。
「やめなって。ありすの言うとおりだよ。あなたこの町の素人なんだから」
 ウーもありすに同調した。
 落ち着かない時夫と眠そうなウーのために、ありすは栗まんじゅうを出した。
「栗まんじゅうか……無限に増殖したらどーしよう」
「増殖しないから安心しな、ウー」
 当のありすは板チョコを離さない。
「私が知ってるうさぎ穴は、ウーのお店だけだった。薔薇喫茶の入り口専用うさぎ穴は、もう女王が埋めてしまっている。図書館のも埋まってるし。とにかく早急にこの町のうさぎ穴を調べないと」
 その後も十分、二十分間隔で叫び声が続いた。時夫は気が気じゃなかった。今夜もまた、佐藤さん狩りが行われているのだ。それも、女王自らがど派手に誘拐しているらしかった。サリーは、自分と雪絵を狙っている。
「白彩が敵陣だって分かってんだから、直接攻めればいいだろ」
 思いつくまま適当に言ってみる。
「女王の仕掛けた特殊な魔学のせいで、あたし、前から白彩にいけないの」
「え、どうしてだ?」
「あそこには私の科術の力を消すものが存在している。幸い、この町であそこだけだけど。だから、そんな簡単にいけない」
 つまり周囲から攻めるしかないのだそうだ。
「ねえ、ここの店長さんも地下に誘拐されたんじゃないかな」
 ウーが元気なく言った。
「それはない。うちの師匠、佐藤姓じゃないし。断言できる。とにかくこれ以上の佐藤さん誘拐事件を阻止しないといけない」
 時夫は天井の電灯を見上げた。
「この灯りも、電柱人が送電してるのか……」
「やめなさいよ」
「女王はやたら『電柱』、『電柱』と連呼してたけど……、なぜ誘拐した人たちを人柱……この街の電柱にしたがるんだ?」
「アンティーク人間や本人間の類の究極が、電柱人。真灯蛾サリーは、地上へ出たいという野心を持っている。それで、地上のインフラを整備し直して、静かな侵略を進めている。あれが、その証拠なのよ。あたしたちにとっては無機質でしかないけど、アイツにとっては地上の文明の象徴であり、代表的な芸術作品に見えるらしいわね」
「庵野秀明みたいだ……」
 エヴァの監督は、電柱マニアとして知られる。
「ある意味では見せしめよ。地上の恋文町の住人たちに対するね」
 これから部屋の灯りを点けるたび、彼らのことを思い出してしまう。
「彼らは、一生あのままか?」
「……いいえ。女王の魔学の力が解ければ、誘拐された人たちを救い出せる。のろいを解くには、サリーを倒すしかないのよ」
 真灯蛾サリー女王は日に日に力を増している。しかし、こちらは劣勢のままだ。四人のうち、一人は人間ではない。それは、サリー女王にとって必要不可欠なスィーツドールである。
 時夫は眠っている雪絵の横で、スマフォを操作していた。あれきりみさえからのメールは途絶えていた。もしかすると恋文町は電波の届かない圏外になっているのかもしれなかった。メールを送信しても返信はない。つながっているのかつながっていないのか、不確かだった。こちらからメール送信するのも無駄な努力という気がする。
 本棚にCDがずらりと並んでいる。
(ほう……オジン・オズボーンなんか聴くのか。往年のロッカーだ)
「あの、ちょっと聞いていいか。前に言ってた、『意味論』って何なんだ? そもそも」
「それはね、世の中の物事は全て記号であると定義したときに、それらの記号には全て意味があるとする。その意味とは、共通のルールみたいなもの。ところが『意味』、つまりその共通のルールが物理的な力を持っていたとしたらどうなるか。伏木市と有栖市が合併した途端、この町が『不思議の国のアリス』の世界になってしまうのよ」
「全然わけが分からん」
「う~ん。象徴とでもいったらいいかな。古神道の言霊とか、真言宗の真言とか。昔から、不吉な事は言挙げするなって言われているでしょ。夜中に、口笛吹くなとかさ」
 ありすによると、アーシュラ・K・ル=グウィンのファンタジー「ゲド戦記」は、意味論について書かれた聖典なのだという。
「その力って、そもそも一体誰の力なんだ。君か? それともサリーか」
 時夫には意味論の力の源泉が理解できなかった。
「違う。誰のものでもない。人間社会の背後にある、もっと根源的なもの。カール・G・ユングの集合的無意識とか、大乗仏教の唯識の阿頼耶識とか呼ばれているもの。そういった言葉で呼ばれる、あたしたちの社会の根底にあるものなの。あたしの力はその影響下にある」
「それでもさ、意味論なんて聞いたこともない」
「その内、金時君も大学の一般教養とかで勉強するかもね。『不思議の国のアリス』ももともと意味論について書いた本だったし。ルイス・C・キャロルは、オックスフォード大学の数学者でありながら、哲学や倫理学、言語学まで精通していた。ま、君も一度アリスを読み返すべきよね」
「本当かよ。君はなんでこんな事に首突っ込んでんだ? 君だってまだ高校生だろ」
 そんな深いものとして、時夫は「不思議の国のアリス」など読んだ事はなかった。確か子供の頃ディズニーのアニメを観て、その他には絵本を読んだ程度だった。だが、きっとありすのいう「意味論」とは、大学で勉強するような哲学上の「意味論」とは違うに決まっている。それくらい、高校一年生の時夫でも予想がついた。

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