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第1話 薔薇喫茶のうさぎ

荒唐無刑文化罪シリーズ

序ノ口 伏木有栖市概要

 伏木市と有栖市が合併して、伏木有栖市が誕生した。伏木有栖市は、千葉県の大平洋側に位置する東京近郊の、人口約五十万人のベットタウンである。当初、合併に際しては両市の間で、市名に関し、「伏木有栖市」にするか、「有栖伏木市」にするかで揉めに揉めた。有栖市が伏木市を先に持って来る事に強固に反対したのは、伏木市が先だと「ふしぎありす市」になり、あまりに有名ファンタジー文学そのままだからというのが主な理由だ。しかしその後紆余曲折を経て、結局、伏木有栖市に収まったのはまさに奇跡であり、不思議である。結果として市民たちが普段、「伏木有栖市」と書かずに「不思議有栖市」、あるいは不思議アリス市と表記しているのは無理のない事かもしれない。なにせ当の公務員でさえ、公式文書以外は「不思議有栖市」と書いている始末なのだから。こうして新市名が無事誕生したのだが、この市に連続して不思議な、不可解な事件が起こるようになったのも、この市名になってからの事だ。むしろ-----、何も起こらない方が不思議な位の名称である。

恋文ビルヂング

 流し台のヤカンがシュンシュンと音を立てている。ガラス戸が時折、北風でカタカタ揺れている。「I♡東京」のステッカーが張られた机。金沢時夫は実家のある東京町田へいつ帰ろうかと早朝のアパートで考えていた。冬休みの第一日目。朝から喉の調子が悪い。風邪の引き始めの症状と考えて間違いない。おそらく昨日学校で発声練習をしすぎたせいで喉を痛めてしまった。身体もだるかった。湯が沸いて、やかんがピーッと鳴る瞬間まで、時夫は布団に入ったまま動かないつもりだ。
 空が白く曇っている。さっきからひゅーっという音が外から聞こえてくる。電線を切る風の音だろうか。空を見ていると、伊都川みさえの事を思い出す。
 金沢時夫は春から伏木有栖市恋文町に住んで八ヶ月になる。有栖高校に通う一年生で、入学とともに一人暮らし生活を送っていた。この古アパート「恋文ビルヂング」の102号室は、六畳部屋とダイニングキッチンという間取り。もともとは東京で生まれ育った時夫だが、何故故郷を離れて有栖高校に通う事にしたのかといえば、中学時代片思いだった同級生が亡くなったことが原因だった。みさえは一年前の地震の際に死んだ。初恋の子だった。テニス部のエースで、小麦色の肌でいつもテニスコートを走り回っていた。あんな彼女が死んだなんて、とても信じられない。その事件は、時夫にとって人生で始めての大きな出来事だった。それで時夫は故郷を離れた生活をしたいと両親に頼んだのである。
 東京から離れた地方都市・有栖市の有栖高校に通うため、アパートを借りた。時夫は今でも、みさえが死んだのは自分のせいだと思っている。そんな時、時夫の住んでいる有栖市が、伏木有栖市になったのである。
 もっと別の事を考えよう。

 アメリカのグランドキャニオン、イギリスの古城、ギリシャの白い町並み……。
 タイの寺院。タヒチ。それにエジプトのピラミッドの中へも入りたい。
 そしてマチュピチュに上り、アマゾンで怪魚ピラルクを釣ってみたい。
 さらにはチベットの地下にあるという、伝説のシャンバラ。

 時夫は、布団の中で海外旅行の夢想にふける。旅番組が好きで、いつか世界中を回って冒険がしたかった。幾つもの国を思い描くものの、まだどこも行った事はない。世界の謎を探ったり、誰も足を踏み入れた事のない秘境へ挑戦する。そんなところを行く冒険家になってみたい。だが、二十一世紀ともなると世界の謎はあらかた解明されて、時夫が冒険で何かを発見する余地など残されてないのかもしれない。
 湯が沸いた。前に風邪を引いたときにたまたま買った粉末の生姜湯を飲んでみる。喉が焼けるように熱い。確実に喉をやられている。だが、風邪薬がなかった。その他の置き薬もない。
 十時までうつらうつらしていた。全く、冬休みの初日なのに寝ているなんて。風邪が本格的に悪化しない内に早く治したい。病院へ行くべきだったが、とりあえず薬だけでも買いに行かなくては。とはいえ駅前のドラッグストアまで行くのも面倒くさい。そもそも一体、どうしてこの町で、俺は一人暮らしなんかしてるんだ。この町で。この恋文町で。
 高校へはいつも電車で通っていた。そういえば恋文町に越して来てから、この町の事は何も知らなかった。休日も大抵、電車で一時間半くらい掛けて都内へ遊びに行くのが常だ。恋文町に来たのも、過去の辛い出来事を忘れる為で、この町に特別な興味があったからではない。恋文町は役所の記録では一万二千世帯。延々と住宅街が続く町。東京育ちで都会っ子の時夫にとっては、ここは、何の変哲もないありふれた地方都市で、退屈きわまりない。名前だって時夫(トキオ)だし、本当は東京に帰りたい。
 そんな事、今さら考えたって仕方ない。何も知らない町だから、近いところに小さな薬局でもあるかもしれない。こんな日くらいは近所を歩いてみるか。近所の冒険か。この際、この町の事を知るつもりで薬局を探すのも悪くないだろう。着替えて外へ出かけることにした。
 雨が降りそうだったが、外へ出て五分ほどして傘を持っていくのを忘れた事に気が付いた。まぁ……いいや。意識が朦朧として面倒くさい。雨が降ったらコンビニか百円ショップで傘を買うしかない。

薔薇喫茶のうさぎ

 最初のT字路に差し掛かる。左へ曲がれば二十メートル先に小さな森があり、横を通り過ぎてそのまま進むと駅へ真っ直ぐ行く道だ。駅前商店街の「恋文銀座」へ行けば、チェーン店の薬局がある。しかし時夫はT路地を右へと曲がり、住宅街へ進む道を選んだ。住宅街を歩いても、延々家しかないかもしれないが。曲がって間もなく遠くの路地から、ピアノの音が響いてきた。イージーリスニング系のジャズか何かかと思って音の方へ近づいていくと、曲はポール・モーリアの「恋は水色」だった。
 やがてピアノの音の正体が見えてきた。薔薇の蔦に囲まれた小さな喫茶店が突き当たりの角にあった。アパートからわずか徒歩十分ほど。こんなところに、喫茶店があった事には、もちろん今日まで気づかなかった。いつもT字路を、左側にしか曲がらないからだ。
 喫茶店は、冬だというのに薔薇がいきいきと咲いている。こんな真冬に、ここだけ小さな薔薇が無数に満開なのである。年中、小さく可憐な花が咲く種類の薔薇かもしれない。そのタイミングで、曇天から小雨がパラパラと降り出した。普段時夫は喫茶店などほとんど入らなかったが、とっさの事で店に入った。ドアをあけると、ガランガランと鐘の音が鳴った。まだ薬を買っていないし食欲もなかった。店内は昭和風の喫茶店だが窓の一部は美しい緑色のステンドグラスが嵌っていた。テーブルにエミール・ガレのランプが置かれている。その他、ヴィッチナ・バスガイドで買ったようなオサレな雑貨があちこちに置かれている。
 ちょうど店はランチタイムらしい。しかし、店内に客はいない。シックな英国家具が並んでいる。店には、時夫と同じくらいの年齢の少女がピアノを弾いていた。時夫はぎょっとした。くるりとこちらを向いたその少女が、ピンク髪のツインテールに大きな白い耳をつけ、ピンクのレオタードのバニーガールの格好をしていたからである。足元にはローラースケートを履いている。カリフォルニアのリゾート地に居そうな格好だが、ただの喫茶店にしては、アンバランスだ。それで客が居ないのかもしれない。ここは、コスプレ喫茶だったのだろうか。入った事を軽く後悔しながら、他は少女以外何の変哲もない喫茶店の窓際の席に座った。
 バニーはチラッと時夫を見て微笑んだが、ピアノを弾き続けていた。彼女はアルバイト店員らしいが、客席からは店長の姿は見えない。この空間に二人っきりだ。なんだこの緊張感は。
 時夫が声を掛けると、バニーはピアノを止め、立ち上がって、時夫の席に近づいて来た。よく見ると胸に「石川うさぎ」と書かれたワッペンがしてある。うさぎ? 本名なのかどうか分からなかった。時夫はランチメニュー表を眺め、ハンバーグセットを注文して後悔した。風邪を引いてるのに、俺は、なんでこんなもんを頼んじまったんだ。うさぎのことが気になりすぎて自分の体調を考えることまで頭が回らなかったせいだ。
 料理が出来上がるまでの間、バニーのウェイトレス「石川うさぎ」はずっとピアノを弾いていた。やがて出てきたハンバーグセットにはマッシュルームスープがついてきた。ちょっと変わった形の茸だ。こんな重い料理を注文した後悔は、スープを口に含んだ瞬間に胡散霧消した。理由は分からないが、おいしく感じられる。……確か自分は、風邪を引いていたはずだ。無理に口にすれば吐いてしまう恐れがあったにも関わらず、もう皿の上には何も残っていない。うまくてリーズナブル。それにバニー。ふぅ……。近所にこんな店があったなんて。食事を終えると、時夫は外を見た。ステンドグラスの窓に雨の雫が滴る、その向こうに外の小さな薔薇が沢山見えている。
「きっとしばらく降るよ。でも、十五分くらいしたら雲間が出てくると思う。それまで、もうちょっとここにいれば?」
 バニー少女は、時夫が傘を持たずに店に入って来たのを見ていたらしい。もう少し食べてもいいかも。手持ち無沙汰なのでパンケーキを注文した。ここの料理は大丈夫かもしれない。今度はバニーが自分で厨房に立っている。どうやらおせっかいバニーの得意料理らしかった。そして少女が作ったパンケーキは案の定旨かった。それから彼女は再びピアノに戻った。
「ねぇ聞いてくれる? こないだ客に『ウィンナーコーヒー』頼まれたのよ。そんで店長が居なかったから、ウィンナー刻んでコーヒーの横に添えた訳。そしたらお客さん黙って飲んで帰ったんだけど、後で気づいたら『ウィンナーコーヒー』って、コーヒーの上にホイップクリーム乗っける奴だったんだよ。知ってた?」
 ……それでよく喫茶店の店員が務まるな。
「でも、同じことだと思うんだけどなぁ」
 ぜんぜん違う。
「君、学生だよね。たとえばお金ないときに、えび天が食べたいなぁと思ったら、カッパエビせんをごはんの上にのっけてしんなりしてきたら醤油かけて食べたらうまいよ」
 とうさぎはピアノを弾きながら得意になってくだらいことをしゃべっている。
「えっ。でもさすがにえび天とカッパエビせんじゃ、違うと思う」
「ううん、たとえ本物じゃなくても、近い行為を行うことで『えび天』の意味が生じて、実際にえび天を食べたのと同じことになるのよ」
「……」
「たとえば鮭が食べたいんだけど、無いからインスタントの鮭茶漬けで我慢するとして、それは本物の鮭の破片を使ってるんだけど、本人の中では鮭の切り身を一本食べたのと同じような満足感が沸いたという事実が残ったとすれば……」
 よくしゃべるなぁ……しゃべリンピックで優勝できるよ。他に客は来なかった。 
「ねぇ、風邪引いてるんでしょ。早く治してね」
 相変わらずピアノを止めずに石川うさぎは微笑んだ。
「これから風邪薬を買おうと思ってるんだけど、近くにあるかな」
 反対側の恋文銀座まで行って、ドラッグストアに行くつもりだった。
「薬分けてあげようと思ったけど、たまたま切れちゃったみたいで。あんまり役に立たなくてごめんね。でも近くにいい漢方薬局があるからいけばいいと思うよ。『半町半街』というお店、知ってる?」
 うさぎはおせっかいで親切、しかもかわいいと来ている。
「いや。あんまこの町知らなくて」
 漢方薬の風邪薬というと、「葛根湯」が有名だ。しかしそれすらも、時夫は使ったことがない。
「ふ~ん。他所から来たの?」
「いや、この近くに住んでるんだけど」
「引っ越したばかり?」
「そういう訳でもないんだけど」
 この恋文町で時夫が知っていることといえば、駅前のコンビニとレンタル屋、それにファミレスと自分のアパートくらいしかない。つまりこの四ケ所を巡回して終わるので、それ以外のところは歩いた事すらない。うさぎがいうように「恋文町に来たばかり」ではないが、街を知らない事に関しては、引っ越した頃とあまり変っていない。
「あそこ、風邪にいい漢方があるんだ。すぐ効くんだから。さっきのスープにもちょっと漢方入ってたんだけど、それで品切れ。あたしも良く行く知り合いのお店なの。あとであたしも行かなくちゃ」
 うさぎは、ナプキンにさらさらと地図を書いた。時夫は頷きながら、漢方薬は使ったことがないためにためらいがあるにはある。でも、さっきのマッシュルームスープは効いたので信用していいかもしれない。
「おかしい。雨止みそうにないよね。この空。晴れると思ったのに。じゃあうちの傘を貸してあげるね。返すのはいつでもいいから。また立ち寄った時に持って来てくれればね」
 石川うさぎはウィンクした。

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