第2話 近所の国のありす
店を出たころ、急に悪寒がしてきた。風邪が悪化する気配だった。やっぱりスープ程度では風邪を退散できてはいない。雨脚が速くなる。傘を借りて良かった。早急に用事を済ませたかった。時夫には、もう駅前のドラッグストアへ行く余裕はなかった。一瞬アパートに戻るべきかとも思ったが、念のため、うさぎから貰った地図の店に行ってみることにした。
うさぎに渡されたメモを頼りに住宅街の路地を歩いていくと、さっきの喫茶店からさらに五分ほどの距離に、目的地である古い日本家屋風の建物があった。裏路地の妖しげな所に「半町半街」という書かれた筆字の謎な看板が下がっている。一見して店とは思えず、通り過ぎてしまいそうだ。その上入りにくい事、この上ない外見だ。近いことは近いが、もしもさっきの店のウェイトレスうさぎに紹介されなければ、絶対と断言してもいいほど入らない。だが傘を借りた恩もあるし、体調も悪い。流行っているとは思えない漢方薬局だけど、一応営業中の看板が下がっている。
時夫は引き戸を開けようとして、閉まっていることに気づいた。よく見ると、小さなメモが貼ってある。「裏へ回ってください」後ろの勝手口みたいなところから入ると、暗い店内には、高価そうな東西のアンティークが沢山並んでいる。漢方の他にも、アンティークも扱っている店らしい。さっきの薔薇喫茶の英国家具もここで揃えたのかもしれない。真っ黒な葉を放射状に広げた多肉植物が置かれ、壁の高い所に蔵王のペナントが張られている。この店の中もやはり客がおらず、今度は店員の姿さえも見えない。
時夫は出ていこうと思ったが、外は雨が酷く降りしきり、風邪が酷くなりそうな気配だったので、三度声を掛ける。せっかくさっき石川うさぎに地図も描いてもらった事だし。やがて、するすると奥の障子が開いた。ほっとしたのもつかの間。時夫は薔薇喫茶で感じた緊張を追体験することになった。奥の和室の畳の上に布団が敷かれており、そこにアンティークの西洋人形のように整った顔立ちの、金髪の少女が布団から上半身を起こしてこっちを見ている。この店のあやしい雰囲気にぴったりの少女だ。歳はやはりうさぎと同じ歳、十七才くらいだろうか。
少女はゆっくりと起き上がった。髪を金髪に染めているだけではなかった。ゴスロリ調の黒いドレスを着ている。これは……さっきのコスプレ喫茶に続いて、ゴスロリ薬局なのか！ ひょっとするとだが恋文町は、原宿か、あるいは秋葉原に続くおたくの聖地かもしれない。みたいな事を考えながら、今日のように超訳ありでなければこんな店、俺は絶対入らんぞと身を堅くする。こんなところに誰が来るのか知らないが、果して儲かっているのだろうか？
少女は、操り人形がカタカタ動くような動作で頭を下げた。どうやら、気分が悪いらしい。眠そうな顔をして、暗い目つきでおちょぼ口を開いた。
「いらっしゃい。ちょっと風邪を引いちゃって聞こえなかったみたい」
ゴワゴワの声で金髪ドールは喋った。
「ドェックッション！！」
「……大丈夫？」
「ごめんなサァイ」
あぁ何て事だ？ 店員が風邪を引いてやがる。石川うさぎによると、ここには風邪にばっちり効く漢方薬があるはずだったではないか。時夫の、店への信用が一気に崩れかけるのは必死だったが、とりあえず質問する。
「もしかして、お店の方ですか？」
彼女はゆっくり布団から這い出し、障子をパタンと閉めると、板の間に正座して、三つ指揃えてぺこりと頭を下げた。その全動作がまるっきり、人形っぽい。
「店主は今ちょっと留守してまして、コホコホコホ……。私が店長代理の古城ありすです。コホ……何か、お探しですか？」
時夫は一瞬言葉を失った。……ア、アリスって言ったか？ 今度はアリスが出てきたぞ。「うさぎ」の次は「アリス」かよ！ そうか！ なるほど「伏木有栖市」な訳だ。うさぎが俺を案内してありすに出会わせた。おいおい。いよいよ、「赤の女王」が登場するのも時間の問題だな。やっぱりこの市は不思議かもしれない。これは本格的に、「不思議の国のアリス」の世界に迷い込み、強制的にその登場人物にさせられているのかもしれない。この、何の変哲のない町の、アパートの近所に、こんな奇妙な世界が眠っていたなんて、ついぞ気付かなかった。なんて、そんなのんきな事を考える精神的ゆとりもあまりない。体が辛い。彼女も辛そうだ。青白い顔をした二人がこんな雨の日に店頭で何をやってるんだか。
幾らなんでもここは日本。ビクトリア朝のエゲレス……イギリスでも何でもない。分かってるさ。無個性な住宅街が延々立ち並ぶ、何の変哲もない地方都市で、たまたま「不思議の国のアリス」に嵌った変な女の子たちに出くわしただけの事だろう。さっきの薔薇喫茶に英国家具が並んでいたのは事実だが。
「風邪薬ありますか？」
「ええ、あります。ではまずこっちに記入してください」
名前と生年月日を紙に書くように指示される。漢方薬局が初めてだった時夫は、こういうものなのかと指示に従った。
「お待ち下さいーー」
「ところで君、失礼だけど、風邪引いているんじゃ」
時夫は思い切って訊いた。ありすは目をしばしばさせた。
「は、はい。朝から動けなくて。お客さんが来てくれたんで、ようやく起きたところなんです」
ありすは恥ずかしそうに視線をそらしながら答える。
「君は薬を飲まないのか？」
「……あーっ。そうだよね。そうですよね。うちの薬を飲めばいいんだ。やばい、師匠に怒られる。あ、ごめんなさい。つい。助かりました。わたしも今から飲みます」
時夫が本日一人目の客らしかったが、それは薔薇喫茶も同様かもしれない。
「いや、いいんだよ。君、高校生？」
高校生でこの店の店主か。一体何者だろう。なんか憎めない子だ。
「はい」
ありすは、和風の大きな薬入れの一つを開けて、薬を取り出した。
「本当に効くのかな？」
ありすは弱った笑顔で頷いた。
「今朝から頭がボーッとしちゃって。それでついうっかり風邪薬飲むの忘れちゃって。あたしも飲みます」
ありすは恥ずかしそうに微笑んだ。和風の大きな薬入れの一つを開けて、無気味な何かをゴリゴリと崩して調合している。
ありすは可憐な唇を開けて、粉薬をサラサラと飲んだ。ありすの顔は、現金なくらい、たちまち顔色が変わって元気になっていた。これは、抜群の効果があるというのは本当なのかもしれない。しかし、そんなに早く効く薬なんてあるのか。だとすると、一体どんな成分なんだ？
「どうです？ わたしはもう元気です。あなたもすぐ飲んだらいいです」
鼻声は相変わらずだ。ありすはにっこりして自分で口をつけたコップをすっと差し出した。時夫は立っているのも辛くて、鈍った思考で成分は何かとか、関節キスになるとかいう事を留意せず、受け取ったコップの水でその場でひと袋飲んだ。
「あ……。そのメモ、もしかして薔薇喫茶に行ったんです？」
ありすが小首をかしげて訊いた。
「うん、ウェイトレスの子からこの店の事聞いたんだ」
間近で見ると、どうみても時夫と変わらない年頃だ。漢方師としては見習いだろう。
「ふふ、ちょっとまずかったですね。わたしが風邪を引いていたんじゃ説得力なかったかな。変なところ見られちゃった。ウーには、今度会ったらあたしが風邪だったって事、黙っててくれます？」
ありすは手を合わせて微笑んだ。刹那、考え込む。ウーって、石川うさぎのことか。
「知り合いですか」
「はい、そうです」
やはり似た者同士か。恋文町のコスプレ仲間かもしれない。
「いいけど」
「サンキュー。あぁ良かった。お代はいいよ。お礼に差し上げます」
「いや、それは」
「あそうだ。一つアドバイスしてあげる。あたし、占いもするんだけど、君って何かと首を突っ込むタイプみたい。そうじゃない？ この町で何か変なことがあっても首を突っ込まない方が無難よ。日常に潜む非日常。一見平凡な町に潜む不思議。白いうさぎを見かけても決して追いかけちゃダメ。ま、何か困った事があったらまた来て！ 今日の事忘れないよ。サービスしますから。あたし、こう見えても、結構腕のいい漢方師なんですよ」
それはどうだか知らないが。東洋医学は陰陽五行説で成り立っており、そこに九星占術を加えて占ったというが、漢方師はみんな占いをするものなのか。さっき書かされた名前と生年月日で占ったのは確実だ。
「ありがとう」
ありすはずいぶん血色よく生気に満ちた顔になっていた。気づけば時夫も、大分楽になっている。こんなに効果があるなら、ありす自身もっと早く飲めばよかったのだ。時夫は予備の薬を貰うと、店を出た。雨が止んでいた。すでに風邪の気配は消えていた。
「また来てね」
うさぎといい、ありすといい。いきなり、かなりかわいい少女に二人も出会った事で、時夫は気分がよくなっていた。それにしても不思議な少女たちだった。名前以外は何の変哲のないはずのこの町の、それもアパートがある近所に、こんなに面白い事が転がっていたなんて、ついぞ気付かなかった。いや、たまには近所を冒険するのも悪くないものだ。ここは今日の風邪に感謝すべきか。
しかしこの平凡な町に、これ以上の不思議が眠っているはずもなかった。日本全国どこにでもあるありふれた町・不思議有栖市の不思議さは、おそらく今日で大概知り尽くしてしまったに違いなかった。確かにアパートの近所にある小さな森は、謎といえば謎だ。そこは伊東邸の私有地のため入れないけれど、外から見た限りでは何の変哲もない森だ。つまり近所の冒険はここで終わり。そう思うと、ちょっとがっかりする。
