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見えない

見えない。



 土曜日。父さんは掃除機をかけていた。母さんはそわそわしている。
「イッくんのお友達が来る……来る、あららどうしましょ」
 どうしましょなんて言っておきながら、母さんはどこか明るかった。
「お父さん、ファンデーション塗って。おめかしを、お茶菓子を、お線香を」
「お母さん、こいつの友達は幽霊じゃないんだからお線香は…………いらないよな?」
「いらねえよ! そこまで孤独じゃないわ!」
 父さんも冗談……を言っている。
 昨夜、友達を呼びたいと言ったら父さんは目を丸くした。母さんは箸を止めた。俺は訪れた沈黙から逃げようとあえて食を進めた。
『いいわよ』
 母さんがそう言った時には呼吸が止まった。
『いいの……?』
『うん。いいの』
 母さんは口の中のものを飲み込む。俺は父さんを見てもう一度きいてしまった。
『まぁ……お母さんが言うならいいんじゃないか……?』
 信じられなかった。母さんが引きこもって丸3年。友達どころか郵便屋さんでさえうちの玄関に踏み込んだ者はいない。それがこんなにもあっさりと。
『腹が減ってはイクサは出来ぬ!』
 そう言って母さんはいつもの三倍速で朱塗りの箸をすすめた。もりもりと食べた。それからずっと不安だった。母さんがいつ「やっぱり……」と言い出すか。食後のゲームの最中か、浴室に逃げる時か、はたまた夜中に緊張で夕食をトイレに吐いた後か。俺は部屋に下がったボーレイちゃんを眺めながら、ずっと待機していた。そして朝だった。
「そろそろ? そろそろかな? そろそろなの?」
「そわそわしないでくれ。こっちまで緊張する。昼食ったら行くつってたから、まぁそろそろだ」
 ケータイが鳴った。堤君からメールだ。
『やっぱナントカスーパー分かんないからちょっと出てきてくんない?』
 心の準備をしたいがために、二人をうちの近くまで呼んだのだが、やはり目印の店をしめしてどうこう道を説明しても分からなかったらしい。スーパーの名前すら覚えていない。
「ちょっと迎えに行ってくるよ」
「分かった。気をつけてね……!」
 俺はダウンを羽織って家を出た。二人はスーパーの近くにいた。
「おっす」
「……おう」
「立野なんで緊張してんだよ」
 笑われてしまった。
「心の準備はいいか立野?」
「お前らもな。次会った日肩が重いなんて言われても知らんからな」
 脈拍が上がっているのが分かる。それだけ緊張していた。
「ここ」
「おー、戸建てかあ。いいなぁ」
 家に着く。深呼吸してドアを開ける。二人を招き入れた。
「いらっしゃいまし。どうぞおいでなすって」
 玄関開けたところに母さんが立っていた。いや、なんで土間で待ってんだよ。しかしそれはさておき。
「あっ! どうも、こんちわっス!」
「はじめまして! おれに……阿部です!」
「いや、阿部はオレだから。おじゃまします!」
 二人は不意打ちを食らったようだった。いきなり美人が立っていたから。
 母さんは綺麗だった。父さんに軽い化粧をしてもらい、肌も唇も色が良い。目の傷はファンデと垂らした前髪で上手く隠れている。
「ウフフ。面白いお友達だこと。ささ、上がってくりょお」
 母さんは中に上がり、二人分のスリッパを用意する。俺と自分は裸足らしい。ぺたぺたと、足音を残して奥に消えた。二人が俺に詰め寄る。
「おい立野! どういうことだよ! なんであんな儚げ美人が家に?!」
「あれは幽霊か? そういうのなのか? それからいま日本語勉強中なのか?」
 俺も驚いている。まぁ入れよと余裕ぶって、二人を上がらせた。
 ダイニングに入ると次は父さんだ。まるで桜塚の男装スターのようにスラリと登場。
「やあ。いらっしゃい」
 甘酸っぱい香りを漂わせるアップルパイを切っていた最中だったらしく、手に持った小包丁がキラリ。呆気にとられた阿部君達にどう声をかけていいか分からなかったのか、輝く白い歯で謎の微笑。そして台所へ消えた。意外と緊張しているらしい。母さんの動向にだろうか。
「お姉さん?」
「姉さんの恋人だよ」
「同棲してんだ」
 阿部君達はぼーっとしていた。何を思い描いていたか知らないが。
「まぁ座ってくれよ」
 どうしたらいいのか分からず、とりあえずリビングのソファに二人を座らせた。微笑みをたたえた母さんが棚の横で、観葉植物みたいに立っている。父さんは台所でお茶を持っていくタイミングを今か今かと包丁片手にうかがっている。
「はは、うち何もないだろ?」
「いやー、そんなことねえよ? おれ結構好きだなぁ。なあ?」
「おう。あれだよな。オレも好き。ははっ……。」
 気まずい。なんて空気だ。霊でも入り込んでんじゃないのか?
「アップルパイはいかがかな。紅茶をあるんだ。実はソムリエの資格もあるんだ。お母さん、ちょっと手伝ってくれるかな」
 父さんがパイを持ってくる。微動だにしない母さんを気遣ってか、手伝いの役目を与えて棚の横から動かした。でもなんでソムリエなんて嘘ついた……。見栄か? 分からなくもないけど。
「毎年焼くんだよ。美味いから食べてみな」
「すげーいい匂いしてたのこれかぁ」
「いただきまーす」
 食べることで沈黙が埋まる。やがて紅茶も運ばれてきた。母さんが空いてるソファに座った。父さんはダイニングの食卓にいる。
 堤君がテレビボードの下を見て、おもむろに口を開いた。
「もしかしてあれさ、キッチンファイター?」
「え? あれ、ほんとうだ」
 阿部君も気付いたらしい。テレビボードの中に無造作に置いてあったキッチンファイター3のケース。陰になってるのによく分かったものだ。
「そうだよ。中古屋で買ったんだ」
「だよな? えっ、立野もあれやんの? まじ、すっげーマイナーなやつよ?」
「おれら散々やったよなぁ! 1からの追っかけだもん。へー、立野もねえ。ちょっとやろうぜ! 立野の腕を見せてくれよ」
 やることもないので大人しく了承した。これなら母さんも出来るか……?
 ゲームを用意する。母さんもやる? とコントローラーを渡すと母さんは無言で受け取った。
「あ、お母さんもやるんですね」
「ええ。この子に付き合わされてねえ」
 母さんは阿部君達を見て言った。「キッチンファイター、スリー!」という音声を聞いて、テレビも見ずに指を動かす。メインメニューを開き、対戦モードを選択、二人対戦を選択、キャラエディット。その染み込んだ指の動きに、阿部君達は生唾を飲み込む。この人、手練れだ。そんな感じで。
 それからしばらくゲームをした。母さん操る肉汁小娘シャオロンパオの圧倒的な強さに二人は脱帽していた。
「おみそれしました……」
「完敗です……」
 母さんにも少し笑顔が生まれた。儚げ美人の微笑で言う。
「おととい来やがれ」
 ゲームの後は俺の部屋に二人を入れた。三人で思わず溜め息をついた。
「なーんか緊張したわおれ」
「オレも。幽霊いたとか?」
「すまんな。二人とも客に慣れてないんだよ」
 肩の力を抜いて、学校のことなどを話した。堤君が明かりから垂れたボーレイちゃんに気付いてからは江藤さんの話に移って、二人の冴えない中学時代の話で笑った。
 暗くなる前に二人は帰った。また来ると言っていた。



 休みが明けて月曜日。少し気分が重いのは、ブルーマンデーだからしょうがないとかではなく、江藤さんから今日は休むとメールが来たから。風邪を引いて、休み中寝込んでいたらしい。
 あの場所に飴玉を置いた。二人の日課が出来たも思っていたのに。
 心配だ。浮かない顔で校門をくぐると守衛さんは「おや?」という顔をした。俺から挨拶してみると、おなじみの朗らかな声で返してくれた。
 靴を履き替えるために下駄箱を開けた時、デジャヴが起こった。というより実際に二度目の光景だ。
「杉谷さん、今度はなんだ?」
 果たし状だった。中庭に来いとある。何かの冗談だろうか。俺は上履きで中庭に行った。西に架かる渡り廊下の下、杉谷さんはいた。俺に気付くと大股で近付いてくる。
「おす。おは――――」
 バッチーンと大きな音が響いた。俺の頬が打たれた音だった。意味が分からない。じんじんと熱い痛みを手で押さえ、俺は杉谷さんを見た。
「立野」
 ドスの利いた声だ。
「アンタ、エッちゃんに何したんだよ……!」
「……なんのことだよ」
「とぼけんなボケ。昨日エッちゃんち行ったら様子が変なんだよ。くみって誰だよ? 何度も後ろ振り返っては誰かに声かけてんだ。顔色も悪いし、なんか上の空だし、何かに憑かれたみたいになってんの! 幽霊うんぬんなんて、アンタしかいないでしょ?! 最近あの子の心を動かしたのはアンタなんだからさ!」
 杉谷さんは俺の胸をどつく。状況の整理に俺は追われて、言葉を発せなかった。
「クソ野郎!」
 彼女は俺を突き飛ばして、大股で歩いていった。
「アタシがなんとかするから! アンタは黙って授業受けてろ!」
 落ち着け。とにかく江藤さんの身に何かあったんだ。風邪だってだけメールは来たけど、他にもっと何か。
「待てよ! 俺もいく!」
 俺は杉谷さんを追った。
「アンタは来んな!」
「そうはいかない! 俺だって江藤さんが心配なんだよ!」
 競うように駅に向かった。生徒の波がだんだんと太くなってくる。無邪気に笑うその流れに逆らって、俺達は口もきかずにズンズン歩いていった。
「おーい! 立野ぉ!」
「スギちゃーん!」
 阿部君と堤君だった。笑顔で手を振るが、俺達の怒気と眼光に、黙って道をゆずった。悪いがかまっている暇はない。
 生徒達の流れが二つに分かれた。京急とJRの横須賀駅からの合流点だ。俺達は右の支流を逆上っていく。江藤さんの家に向かうから。
 駅から上り線に乗る。ボックス席で対抗するように向かい同士で座った。
 江藤さんの住む町に着いた。走った。三分で江藤さんちの前に到着した。小さな一軒家だ。俺はケータイを取り出し、電話をかけた。杉谷さんはそんな俺を尻目に我が物顔で玄関に向かう
「エッちゃーん! アタシ! 入るよ?!」
 杉谷さんはドアノブを回したようだが開かないらしい。俺は江藤さんの部屋だときいていた二階の一室の窓を見た。二枚のスライドガラスにはカーテンが閉まっている。
『……はい。わたしです。タッチー……?』
「あっ! 江藤さん? 俺だけど……」
 江藤さんが出てくれたことに俺は安堵した。二階のカーテンが端がほんの少し揺れて、江藤さんが片目を覗かせた。俺は手を振った。
「江藤さん、平気? なんか杉谷さんが様子が変だって言ってて心配で」
「平気だよ。ただくみちゃんの子守をしなくちゃいけなくて。待って、いま声きかせるから」
 くみだって? くみは本当に江藤さんの背にいるのか?
「ちょっと立野! エッちゃんなの? 変わりなさいよ!」
 杉谷さんが俺からケータイを奪い取って、受話口を耳に当てた。
「ねえ、エッちゃん――――」
 一瞬顔が歪んで、彼女は悲鳴を上げた。俺は何故か二階を見上げた。江藤さんはそこにいる。片目だけ覗かせて…………あれは本当に江藤さんか? そう疑った時、カーテンか真ん中から開いて、江藤さんが見えた。端から見ていたのは誰だ?
「二人ともー、どうしたの?」
 窓から色の悪い顔を出して、江藤さんは寒さに身震いしていた。
「エッちゃん! 今の声なんなのよ!」
 杉谷さんが下から叫んだ。江藤さんはマイペースに首を傾げた。
「何って? あれがくみちゃんだよ。昨日話したよね?」
「な……なぁ江藤さん。大丈夫かよ? お前についてんのってまじでくみなのか?」
 江藤さんがそうだと言っても、俺はだんだんと信じられなくなってきた。断末魔を上げたあの時、やはりくみは死んだのではないか。
「くみちゃんだよ。タッチーまでどうしたの? 見えるでしょ? かわいいくみちゃんが」
「エッちゃん……! ホントしっかりしてよ! 今までこんなことなかったじゃん」
「どうしたのスギちゃん。大丈夫。今日ちゃんと休むから、明日から学校いくよ?」
 江藤さんは手をやわらかく振って、ふらっと部屋の奥へ消えた。こんな寒いのに、窓も閉めないで。
「そんな…………」
 杉谷さんは陰鬱にこうべを垂れた。ここではどうしようもなかった気がする。俺達は江藤さんちを後にした。とぼとぼと歩いていって、なんとなくあの喫茶店、peony lanternに足が向いた。
 BGMの鳴らない店内に客は誰もいなかった。マスターが奥から顔を出す。
「いつもの?」
 俺達は力なく頷いた。江藤さんと二人で座ったテーブルにつく。
「お前を殺す」
 杉谷さんが言った。言い返す気力もなかったが、その意味は違った。
「そう言ったわ。さっき電話で。くみちゃん? アタシは、違うと思うけどね」
 さっき散々睨み合った目には覇気が無かった。
「見えるのか?」
「見えないけど信じてる人。エッちゃんのこととかもあるし……――」
「ん。今日はコナ。酸味が強いやつね」
 マスターがコーヒーを持ってきた。独特の、甘いのかよく分からない匂いがした。
「ねえ、マスター。今日はアタシ達だけ?」
 杉谷さんがマスターにきいた。マスターは奥の席を指差す。前に1人と連れが座っていた席だ。
「奥に1人。あの人はもうここの地縛霊みたいになってるね。あ……出てっちゃった。珍しいな」
 マスターはカウンターに戻っていった。そうか……マスターも見える人だったのか。
「あのね、当然最初はそんなもの信じてなかったけど、マスターに霊的なこといろいろ言い当てられたり、エッちゃんのこととかいろいろ……、で信じるようになったの」
「一切信じてないかと思ってた」
「シンガイ」
 杉谷さんはコーヒーに口をつけた。無糖だった。俺も飲んでみる。酸味が強いか。これがコーヒーの酸味……俺は酸味が嫌いだったんだ。
「アタシね、エッちゃんのお父さんに言われてたのよ。エッちゃんのお母さんのことはきいたのよね? 狂っちゃったって話」
「ああ」
「エッちゃん見て、真っ先にそのことが浮かんだわ。わけはともかく、エッちゃんはお母さんと同じ道をたどりつつある。お父さんにはね、いつかそうなった時のためにフミコを守ってやってくれって。アタシ頭にきてたのよ。実は」
 思っていたよりずっと、杉谷さんは江藤さんと仲が深いらしい。
「エッちゃんを守るのはお父さんの役目でしょ。嫌って言ってるんじゃないの。でも、エッちゃんのお母さんも守れないで、なに人任せにしてるんだって。もっとガンバンなさいよ。男でしょって」
 普段とはかけはなれたアンニュイな杉谷さんがそこにいた。
「だけどね、家族が狂ってしまった時、同じ屋根の下にいる人はとても怖いんだろうなって思っちゃった。……さっき、殺すって言われた時ね」
 俺は母さんと父さんのことを思い出した。父さんは母さんを守った。それは並大抵ではなかったのか。
「今朝は当たってごめんね。手に負えない感じがして、自分でももどかしかったの。だってエッちゃんが見てるのは悪霊なんでしょ。怖かったんだ、実際にあの時」
 無言でコーヒーを飲む杉谷さん。俺は苛立ちとも言いにくい感情を抱いた。
「俺は江藤さんを守るよ」
「出来るの? アンタ、普段は悪霊見えないんでしょ? 太刀打ちなんて」
「なんとかする。絶対」
 俺は勢いよく立ち上がった。嫌味なやつみたいにテーブルに千円を置く。
「ごちそうさま」
「おお」
 マスターが返事をすると同時に、カップが落ちた。マスターのだった。
「はは、運動不足かな。ずっとここにいるからさ……。スギちゃんも……そろそろ行ったらどうだ? 俺悪いけどこれから品物取りに行かなきゃならないんだ」
 どこか様子がおかしかった。杉谷さんもそれを悟ったらしく、席を立った。結局、二人で店を出た。
「じゃあアタシ、サボるから」
「ああ」
「どうにかするって、アンタどうするの?」
 正直今は思いつかなかった。
「考えてみる」
 俺達はそこで別れた。



 学校には戻らなかった。家に帰った。
 リビングで母さんは寝ていた。この間の阿部君達が訪問した日、案外楽しかったと夜は話していたが、日曜日はずっと寝ていた。今も蓄積した疲れを消化するように陽だまりで眠っている。俺は母さんを起こさぬよう、そっと二階の自室へ行った。
 ベッドに制服のまま横になる。垂れ下がった逆さ吊りのボーレイちゃんと目が合う。
「どーうしたらいいのかねぇ」
 わざと口に出した。悪霊は俺の目に見えない。加えて今の俺はただ幽霊さえ見えないのだ。それが江藤さんと心を交わした証拠なのだが…………、見えなくて困ったことなど初めてだ。
 母さんはどうしたのだろう? ちゃんときいたことはなかったが、たぶん見えなくなってから憑かれたことはない。父さんが避雷針になったのか、それともたまたまか。
 真剣にきいてみるか。それは母さんの傷口をえぐる危険性もある。でも、俺の大事な人が取り返しのつかないことになってもおかしくない状況だ。友達をつれてくるのを許したのだ。好きな人のことを話せば、何か教えてくれるかもしれない。
 俺は一階に下りた。ダイニングに入ろうとしたとこで、母さんとすれ違った。
「あ、イッくん。先におトイレいってくるね。ふぅっ」
「息かけんな。トイレくらい黙っていけ」
 なんだよ先にって。なんか違和感あるな。
 食卓に湯気の立つマグカップがあった。母さんのだ。たまに作ってやるように、ココアに牛乳を注いでレンジで温めてある。母さんは自分では作らない。
 テレビがついた。ブラウン管独特のモスキート音がした。俺はリビングにいき、テレビ画面を覗き込んだ。
 うちだ。リビングで母さんが寝ている。それをダイニングの奥の高い位置から……ちょうど壁時計のあたりだろうか、そこから映している。ダイニングの扉から俺がちょこっと顔を覗かせる。引っ込む。これ……さっきの映像だ。
 俺は後ろを振り向いた。誰もいない。テレビを見る。母さんが起き上がった。部屋に俺が入ってくる。何か話しているようだ。俺は台所に消え、そしてマグカップを持ってやってくる。母さんがはしゃいでいる。俺はレンジにカップを入れて、出して、食卓に置く。一度こちらを見た。にやりと笑って、部屋を出ていく。母さんが後を追う。
「イッくんサボり癖がついたんじゃない?」
 母さんが戻っていた。マグカップに口をつける。
「待てッ!」
 叫んだ。母さんは突然の俺の大声に驚いて、ココアを少しこぼした。
「なに……? どうしたの?」
「飲むな。なんかヤバい……。なぁ、俺とさっき会ったか?」
「会ったかって、ココア作ってくれたじゃないの」
 母さんはティッシュでテーブルを拭く。俺は鳥肌を立てた。
「それは俺じゃない。たぶん霊だ」
「まっさかぁ」
 取り合わない母さん。俺はテレビに目をやった。消えていた。
「わたし幽霊見えないもん」
 たしかにそうだ。今日は明るいし、何かに思い悩んでいる様子もない。
「父さんのこと好きか? 俺のことは?」
「好きだよ。だい好き」
 じゃあ……良い霊だったのか? ココアを入れてくれただけの?
「でもそのココアは飲むな。俺が入れ直すから」
 心配だ。もったいないが俺はそれを流しに持っていった。さっと中身を流そうとすると、シンクに小さなゴキブリがいた。ゲッと思い、ココアをぶっかけた。ゴキブリは脚をバタつかせて、やがて死んだ。
「こうかはばつぐんだ」
 カップを洗う俺の目にふと排水口洗浄剤のボトルが映った。小さい時、遊びで洗浄剤をムカデにかけたことがある。ムカデはさっきのゴキブリのように悶えて死んだ。
 混ぜられていた? ココアに? 俺はリビングを振り返った。母さんがテレビボードからゲームを取り出している。テレビは消えていたが、俺のモスキート音はまだ止んでいなかった。
 不穏だった。
 夜、父さんは帰ってくるなり言った。
「なんか変なニオイしないか?」
 出迎えにいった俺はあたりを見て、母さんは自分の服の匂いを嗅いだ。
「そう?」
「うん。なんか腐ったような、湿った匂いがする」
 夕食の用意が始まる。俺は母さんがそばにいない隙を見計らい、父さんに今日あったことを話した。父さんの顔色が変わった。
「本当に?」
 首肯すると父さんはより深刻な顔をした。
 夕食はどことなく重たい空気だった。母さんはおいしそうに料理を頬張る。父さんはあまり喋らなかった。俺は江藤さんのことを考えていた。
 


 火曜日。
 江藤さんは来なかった。今朝はあの場所に飴玉は置いてあった。てっきり俺は登校しているのかと嬉しくなったが、教室に入ってがっかりした。
「タッチー、エッちゃんからなんか連絡あった?」
 杉谷さんがきいた。俺は首を振る。メールをしても返ってこないのだ。
「アタシさ、お経を学んでみようと思ってるの。もう始めてるんだけどね。今朝もエッちゃんちに行ったけど出てくれなかった。お父さんは早くに出ちゃうから会えなかったわ」
「そうか」
 出てきてくれない……ずっと部屋にこもっているのだろうか。
「放課後、行ってみるか」
「うん」
 その日の放課後、俺は杉谷さんと江藤さんちへ向かった。歩いていると、なんと道の先に江藤さん本人を見つけた。角を曲がる。俺達は慌てて走り出した。
「江藤さん!」
 道を曲がったところで江藤さんに追いついた。振り返った彼女の顔はげっそりとしていた。
「タッチー。スギちゃんも。どうしたの? 学校終わったの?」
「どうしたのじゃないわよ! アンタがどうしたの? なんで学校来ないのよ……」
「……大きな声出さないで」
 江藤さんは顔をしかめた。自分の背を振り向き、ぴょんぴょんと跳ねる。
「あー、よしよし。だいじょうぶだよー」
 まるで背中にしょった子をなだめるのように。
「エッちゃん…………」
「ねえタッチー。最近学校にいけなくてごめんね? わたし子守で忙しくて」
「くみのことか?」
「そうそう。もう遊び足りないってずっと言ってるんだよ? ねー?」
 完全に江藤さんは背中に子供がいるつもりだ。本当にくみがいるのだろうか? 俺には見えない。江藤さんも見えないはずだが、感じているのかもしれない。否定できない。いないと断言出来ない。見えないと否定できない。見えても否定できない。
「なぁ、あそこに飴玉があったけど」
「あれ? ああ、あのね。お父さんがわたしが家にいると怒るの。子守は大事な仕事でしょ? 子供も守る、大切な家族を守る、当然なのに怒るんだよ? だからカモフラージュとして一旦外に出たの」
 江藤さんは冗談を話すように笑った。俺と杉谷さんはもどかしさに痺れる拳を握る。
「大変だけど楽しいよ?」
 そのセリフは残酷だった。江藤さんはどう見てもダメージを受けているのに、心ではそう思っていない。もし江藤さんから「くみ」を引き剥がしたなら、江藤さんは心にもダメージを追う。そもそも手段さえもたない俺に、重たい無力感のようなものが直撃した。
 俺と杉谷さんは昨日と同じように喫茶店に向かっていた。店が見えたところで、マスターが表に出てきた。なんだかソワソワとしていた。
「マスター、出かけるの?」
「そうだよ。悪いな。また来てくれ」
 言いながらマスターはドアの横に立てていた黒板を片付ける。中へ入っていってしまった。なんだかおかしい。でも出かけるというなら仕方ない。
 俺達は店の前で別れた。西日のせいか、肩を落とした杉谷さんは影にまとわりつかれているようだった。


 夕食後、母さんが腹を下した。
「落ちてるもんでも食ったんじゃねえのか?」
「犬じゃないんだからそんなことしません!」
 俺の茶々に母さんは頬を膨らませる。父さんは指をあごに思案顔。
「おかしいな。傷んだものとかはちゃんと除けるから……ほんとどうしたんだろ」
「イッくんのサラダかも。あ……また来た。ワールドカップへいってきます」
 W.C.ね。はいはい。母さんはトイレにいった。
「ねえイッくん」
 それを見計らったように父さんは口を開いた。俺はテレビから目を離した。ポーズ画面のままキッチンファイターは止まっている。
「もしかしてさ、何か厄介なことになってない?」
 ドキッとした。じめっとした冷や汗が服の下で滲んだ。江藤さんの顔が浮かぶ。
「なってる」
 正直に言った。でも核心からはそれていた。
「幽霊が見えなくなった」
 父さんはゆっくりとソファに座りなおした。そうか……と衣擦れに混じって溜め息がきこえた。俺はゲームのポーズを解除した。
「それはいいことだよね」
 でもいいことではないと分かった口調だった。ボカスカと俺は無防備のキャラクターを殴る。
「うん」
 弱攻撃、強攻撃、ぶっとび、ハメ技……ボカスカ。
「力になれることがあったら言ってね」
「あ……! ちょっと悪い……俺もトイレ!」
 演技でなく突如襲った腹痛に俺はコントローラーを投げ出した。トイレへ急ぐ。グアッ! と俺のキャラクターが苦痛の声を上げた。殴られた……? らしい。バグか? それよりトイレだ。
「母さん! 出て! 俺出る!」
「んー……なんでー? 二階の使ってよー」
「二階の便座が冷てえじゃん」
 二階にはウォシュレットがついていない。あのヒヤッとする感じが、俺は昔から嫌いでトイレは一階のしか使わない。俺は扉をノックしまくった。
「マジヤバイ、マジヤバイから!」
「もーー……!」
 水を流す音がして、母さんが出てきた。俺は母さんを押しのけて中へ入った。鍵を回して、便器に腰を下ろす。腹は下っていた。
「落ちてるものでも食べたんじゃないのー?」
 言われてしまった。
「第1波が終わったらはやく出てよ」
「おう」
 あー……、きったねえ仲だなぁ。笑いが出てしまう。
 コンコン――――。扉がノックされた。
「今出るよ」
 狭いトイレで換気扇だけが、「ボー」っと鳴っている。
 コンコン――――。またノックされた。
「はいはい」
 すっきりはしなかったが俺は一旦出ることにした。水を流し、ノブに手をやったところで止まった。鍵が回っていた。閉めたはずなのに開いている。鍵は中からしか開閉できない。俺は慌てて外へ出た。母さんはいなかった。
 コンコン――――。扉がノックされた。母さんじゃない。誰かが俺と一緒に中にいたのだ。
 俺はリビングへ走った。
「おい! 誰かトイレ今ノックしたか?!」
 俺の異様な剣幕に2人は目を丸くした。
「してないよ? そういえばわたしが入ってるとき電気つけたり消したりした?」
「してねえよ」
 母さんは無抵抗なキャラクターをボカスカしながらきょとんとした。
 ケーオー! 俺はリングに倒れた。
 その後、俺が風呂に入っている時、電気がチカチカと明滅した。夜、俺はなかなか寝付けず、闇の中で浅い眠りと覚醒を繰り返した。部屋は真っ暗なのに、江藤さんからもらったボーレイちゃんの影ははっきり見えた。
 江藤さんはちゃんと眠っているだろうか。江藤さんの背にいるというくみが、宵っ張りじゃなきゃいい。
 ぼーっとしていると部屋の扉の向こうで床板が鳴った。すっかり警戒していた俺は体を起こそうしたが、どうしてかぴくりとも動かせなかった。金縛り……初めて経験だった。
 足音だ。ゆっくりと動き、俺の部屋の前で止まった。誰かがノブに手を伸ばすのがくっきりとイメージできた。感覚は鋭かった。かちゃりと音がして、扉が開いた。影が入ってくる。そして近づいてくる。
 ヤバい! 動け、動け!
 重たい恐怖感が俺を包む。耳元で声がした。
「イッくん。起きてる? よね」
 父さんの声だった。俺の体は弛緩して、自由が戻ってきた。
「父さん? どうしたの? なんで」
「うん。驚かせた? ごめんね。話しておきたいことがあってさ」
 俺は枕元のケータイを開いた。ディスプレイの光が、ベッドの脇にかがんだ父さんの輪郭を曖昧に浮かばせる。父さんの影は俺を優しく撫でながら静かに言葉をならべていった。
「お母さんが過去のことをどう整理しているか、実は僕はよく知らないんだ。大学時代、お母さんは悪霊に取り憑かれていたんだ。つきまとわれていたと言った方がイメージに合う。僕は母さんを助けたかった。大切な人だったからね」
 どうやって? 俺はきいた。
「悪霊と交渉したんだ。僕が幽霊を見たのは人生でその時だけ。恐ろしかったよ。例えば猛獣にも巣を作るのとか、毒をもつもの、待ち伏せするもの、いろいろいるけど、その悪霊は自分を完成させたがっていた。体を欲していたんだ。だから僕は僕の体をあげた。これで母さんには二度と近寄るなと」
 父さんは自分のお腹に手をやった。
「お母さんと一緒にいるなら一番必要ないと思った体をあげた。最良だと思った。でも後悔したよ。悪霊が僕からとった体を使って殖えていくんじゃないかって。今でもうなされる。苦しみが増えていくんじゃないかって」
 ちょっとだけ、部屋が暗くてよかったと思った。あると分かっていても、実際に悲しみを見せられるのは辛い。目元を光らせた父さんは、またそっと俺を撫でた。立ち上がる。
「ごめんね。イッくんはよく考えて、好きな人を救ってね」
 なんで知ってんだよ……、俺は苦笑いした。
「お母さんがね、こっそり教えてくれたんだ。イッくんが恋をしてるって。ね、本当に、力になれることは強力するから。僕はイッくんのこともとても大切なんだ」
 ひたいに温かく柔らかいものが一瞬だけ触れた。ふうっとかかった吐息が、俺を深い眠りへいざなった。



 水曜日。杉谷さんまで学校に来なかった。
 騒がしい学食での昼休み。俺はこの日初めてここのものを口にした。今朝は父さんが寝坊して、弁当はなかった。こんなことは今まで一度もなかった。眠れなかったらしい。
「お前ら最近どうしたのよ」
「悪霊にでも憑かれたか?」
 阿部君達の軽口も無視できなくなってきた。二人は俺の動揺を見て顔を見合わせる。
「えっ? マジなの? そういうのってマジにあんの?」
 堤君はカレーにタバスコをかける。
「さぁ、気のせいだろ。幽霊なんて」
 俺はここ特製のクスノキラーメンをすする。塩のスープはうまい。ただ麺は安物なのか、グズグズの腰抜けだ。
 食堂を出てあてもなく校内を散歩していると、俺のケータイが鳴った。
「杉谷さんだ。……もしもし?」
 江藤さん関係だろうと思った。それ以外ない。
 杉谷さんの声は掠れていた。
「タッチー……。エッちゃんのところに行って」
「なんで、なんかあったか? 今家か?」
「違う。図書館にいたのよ。でも今は外。タッチー、悪霊がアタシのところに来た」
「ほんとかよ!」
 なになに、と阿部君達が寄ってくる。無視して会話を続ける。
「どういうことだ?」
「とにかく来たの。覚えたての……いろんなお経を試したけどダメだった……。まだそばにいるのが分かる。ねえ、アタシがこいつを引き止めておくから、アンタは今のうちにエッちゃんのところに行って! きっと今あの子は一人だから!」
 涙声だった。
「平気か……?」
「……うん。たぶん。ねえ……、お経なんか通じなかった。笑われた……恐いよ――――」
 そこで電話は唐突に切れた。嫌な汗が額ににじんだ。
「江藤さんとこ行ってくる」
「どうした? 今のスギちゃんだよな?」
「行けって言われた。すまん、ちょっと行ってくる」
「おい! 立野!」
「夕飯までには戻ってくるのよー!」
 二人を置いて教室に戻った。鞄を取って、すぐに出る。階段を下りようとした踊り場で、俺は田中先生と鉢合わせた。
「おっ? 立野。エスケープか?」
 いつもちょっとだけおどけたようなように話す。が、この時はなんとなく、おどけの中に小さな呆れを含ませていたような気がした。
「ちょっと急用が……」
「近頃、江藤が休んでるな。今朝は杉谷もいなかったけど」
 遠回しな追及だった。どうも俺は先生というものに強く出られない。こんな時に田宮先生を思い出してしまった。
「先生は担任教師じゃないし、とやかくは言えないけどねえ……。うーん、いや……行きな。間違いをおかさないようにね」
 先生は俺を置いて行ってしまった。胸が締め付けられる。しかし俺は自分で無邪気の流れをいくことを選んだ。田宮先生を振り切るため、江藤さんのとこへいく。
 駅まで走った。乗った電車には誰もいなかった。
 江藤さんちに着く。カーテンが全て閉まっている。誰かが背を向けてうずくまっているような感じがした。
 インターホンを鳴らした。江藤さんは出てきた。
「やっと帰ってきた」
 帰ってきた?
「はやく入ったら?」
 陰の差した顔はどことなく怒っているようだった。不安と共に俺は江藤さんちへ入る。中は薄暗かった。
「……くみはいるのか?」
 きいてみた。江藤さんは答える代わりに、ガチャリと玄関扉の鍵を締めた。
「二階」
 そう言われたので、俺は正面にあった階段を上っていった。そこと示された扉を開けて中へ。江藤さんの部屋だろう。乙女チックではないが、色合いに女子らしい可愛らしさと毒々しさがあった。
「遊んでたのか」
 床にはぬいぐるみが散乱していた。杉谷さんに獲ってもらった数々なのだろう。
「タッチー……、どうしてあなたは子供をほったらかして遊び歩いてるの?」
 江藤さんはかがんでぬいぐるみを一つ拾った。ボーレイちゃんだった。
「子供って……。なぁ、あの日俺達を追った悪霊がいるだろ? 江藤さんはそいつに憑かれてるんだよ。しっかりしてくれ」
「ふーん。タッチーは悪霊は見えないんでしょ? なんでわたしに憑いてるって分かるの? わたしに憑いてるのは悪霊じゃなくて単なる子供の霊! 無邪気な……かわいいかわいいわたしとタッチーの子供!」
「それは……」
「わたしは悪霊が見えるのよ?! でもわたしには誰も憑いていない! だって、見えないんだから!」
 ボーレイちゃんが床に投げ捨てられる。
 ピリピリとしてきた。部屋の空気が圧縮されていくように息苦しくなる。冷たい、寒い、怖い。
 杉谷さんの方に悪霊はまだいるのだろうか。こっちに戻ったのだろうか。江藤さんは本当に悪霊は見えていないのだろうか。背筋が凍ってきた。身震いが止まらない。本当、本当に悪霊はそこにいないのだろうか?
「江藤さんを助けたい」
 それだけが口をついた。
「じゃあ信じて。悪霊なんかじゃないって。一緒に遊ぼうよ?」
 俺は何も言えなかった。冷たい沈黙ののち、江藤さんは扉を開けて出て行くように言った。何度も何かを言おうとしたが、俺は何も言えなかった。そのまま、俺は江藤さんちを出た。
 思い足取りで歩いていく。駅へ向かう。いや…………、俺はひらめきのような勘で喫茶店へ向かった。中へ入ると、今まさに外にいこうとしていたマスターとぶつかりそうになった。マスターが口を開く前に俺は言った。
「教えてください! マスターは見えていたんじゃないんですか?」
「な、なんのことだよ」
 マスターは平静を装っていたが、誰の目にも焦燥が映ることだろう。
「悪霊です。月曜日に俺が杉谷さんと来た時……きっとカップを割った時です。あの時に俺か杉谷さんが連れていた霊に気付いたんでしょう? きっと翌日の火曜日もそうです。気配か何かを感じて、今のやろうとしたように店を出て行った。いるんですよね? 俺の後ろに」
 きっとマスターは普通の霊も悪霊も見える人なんだ。
 マスターはかなり困った顔をした。やがて搾り出すように言った。
「…………フミコちゃんが元か?」
「どういうことですか?」
「誤解してるかもしれないから教えるが、君達の周りにいる悪霊は一人じゃない。おれはあの時、君とスギちゃんについていた小さいやつを見つけた。たぶん、親がエッちゃんに憑いてる」
 悪霊は一人じゃない? 俺達に小さいのが、そして親が江藤さんに……。
「見てもらえませんか?」
「おれは祓えないよ」
「江藤さんをです。マスターが一言江藤さんに――――」
「関わりたくないんだ!」
 マスターの怒声に俺は思わず身を引いた。その様子を見て、彼は眉を下げる。
「すまん……。本当にだめなんだ。まずこの店にその「子供」が難なく入れる自体おかしい。いくつもまじないや祈祷を重ねた場所なんだ。無害なやつしか入れない。おれはそういう悪いやつらにはもうこりごりしてるんだ。君でどうにかしてくれないか」
 涙が滲む目でマスターは続ける。
「エッちゃんのお母さんの時、おれとあの子のお父さんはそりゃもうあちこち奔走したよ。彼女を助けたかった。大切だったからな。でもな、おれたちは負けちゃったんだよぉ……!」
 悲痛の叫びだった。思いもよらず古傷をえぐってしまったことに後悔の念が湧く。そして空恐ろしさに指先がしびれる。
 負けた。それは二度と立ち直ることの出来ない傷を負うことなのか。
「帰ってくれ……」
 俺は後じさってしまう。
 江藤さんにマスターが一言「悪霊が憑いている」と言ってくれれば何か変わるのと期待した。でもそれも浅はかだった。江藤さんは背中にいるものを子供と言う。子供が悪霊と言われたら親はどうする? 良いことが起こるはずない。
 悪霊は何を考えているか知らないが、何かしらの利益があるから江藤さんに憑いているのだろう。その目的を探れば打つ手が見つかるかもしれない。
 霊には存在する理由がある。悪霊にだって悪をはたらく目的があるはずだ。それが分かれば太刀打ち出来る。



「……イッくん? おかえりなさい」
 靴を脱いで中に上がると、母さんがダイニングの扉から半身を出した。
「なにかね、変なの」
 母さんの言う通り、家の中は不穏な空気が漂っていた。粟立ち気味の肌に、不快な感触。
「寒いな」
「換気してるの。窓開けて。でも……」
 空気は冷たく淀んでいた。母さんは家の中でコートを着ていた。
 靴箱の上に盛り塩がしてある。それを見ていた俺の目線に母さんは気付いた。
「家中してみたの。もう塩無いのよ。今日の夕飯……味気ないかもね」
 こんな時に夕飯の心配かよ。その呑気さに呆れるけど、江藤さんと話してからずっと高ぶってままだった感情が和らぐ。母さんのこういうとこは好きだ。
 二人でリビングへ。俺は上着を脱がず、母さんもコートを着たままソファに腰を下ろした。白い溜め息が出る。
「今日はね、悩んでたの」
 母さんがあくびをしながら言った。
「イッくんさ、変わってきたでしょ。寄り道したり、友達つれてきたり」
「ああ」
「あたしもバイトくらい探さなきゃなと。いつまでも、ゴクツブシじゃね……。お父さんと遊びまわってたころを思い出して、大変だったときも思い出して……、イッくんはいまそういう時期なんだよねって。あたしが塞ぎ込む番じゃないんだよなって」
 俺の巻いていたマフラーの余りを母さんは自分の首に巻いた。足りないから、俺の分も分ける。ありがとと手をこすり合わせて、母さんは続ける。
「あたしが自分の眼をえぐり出そうとした時、お父さんはとても怒ってね、悲しんで、あちこち走り回ったの」
「きいたよ。ゆうべこっそり」
「そうなの? もう……あたしが話そうと思ったのに」
「悪霊に勝ったのか?」
 母さんは考え込むように腕組みをする。
「さぁ……。でも追っ払ったのはたしかだね。お父さんがさ、えい、やあって。……ふふっ、うん。感謝してるよ。本当に。あたしはあの時はっきりと幽霊が見えなくなったの」
 俺も母さんと似ているよな。
「確認させてくれ。母さんは、好きって気持ちがあると幽霊が見えなくなるのか?」
「うん。そうだよ。こないだみたいにさ、たまに悪感情で心が乱れて、見えちゃうこともないことなかったんだけど、基本的にはそうだよ。イッくんは……」
 母さんが微笑む。俺はそっぽを向いた。恥ずかし過ぎた。
「恋は盲目なの?」
 それとどうしてか苦しいのだ。
「ああ。見えないんだ。だから、大切な人に憑いたやつが見えない。困ってる。どうしたらいいか分からないんだ」
 今もこの家には、江藤さんに憑いた悪霊の片割れがいる可能性があるというのに、俺はその姿さえ捉えることさえ出来ずにいる。歯がゆくてたまらない。
「父さんはどうしたのかな」
「ちゃんときかせてくれなかったの。悪霊は自由に人の目に映ったり消えたり出来るんじゃないかって言ってたけど……でもお母さんは、強い心の力だと思うの。思いの力ね。あたしが盲目になったのとは逆に、お父さんはその時に見ることが出来たんだんじゃないかな」
 思いの力。俺はどれほど江藤さんを思っているだろう。触れ合った時間は少なかった。経験が乏しいゆえに、俺が気持ちの面でも盲目になっていることもあり得る。でもそれは間違いでもおかしなことでもないと思う。江藤さんが好きだという気持ちを信じれる今はかけがえない。
 やるしかない。
「試してみる」
 俺はマフラーをほどいて、母さんに巻いた。
「どうするの?」
「自分の気持ちを信じてみる」
 俺は二階の自室に向かった。ぎしぎしと今日はやけに階段がきしむ。自室は薄暗かった。まだ4時だが、窓の外の光は弱い。
 逆さ吊りのボーレイちゃんをつかんで明かりから垂れる紐を引っ張る。明かりがついて、白い壁の部屋に俺一人。外も中も寒いというのに、窓ガラスはじっとりと結露していた。
 こんな時が来ると思わなかったな。
「いるんだよな」
 江藤さんへの気持ちを消すことが出来れば悪霊は見える。しかしそうすれば江藤さんを助ける理由は消える。それに俺は江藤さんを嫌うことも、もはや無視することも出来ない。
 俺はポケットに手を入れた。塩を詰めた小袋を握りしめる。役になんか立たないかもしれないけどな。杉谷さんが言うには、お経も効かなかったようだ。
 緊張感に満ちていく。目がチカチカして、四方の壁が迫ってくるようだ。
 階段が軋む音がした。警戒しつつも、どこか軽やかな足音。背後の扉が開く気配がした。俺は目を閉じて神経を集中させる。爪を隠せない何かが壁を這う……、後ろ、右後方、天井にいき、俺の上に――――。
「タッチー…………」
 それは江藤さんの声だった。こざかしい。かまわず俺は塩を上方へぶちまけた。同時に目を開ける。明かりが目に入って、塩が自分にふりかかる。子供が笑った気がした。慌てて辺りを見ても誰もいない。見えない。
 さっと手を引っ掻かれた感触があり、俺は手を見た。何か黒ずんだものが甲に乗っている。恐る恐る目に近ずけて見た瞬間、ふうっと俺の顔に吐息が吹きかけられた。異様な臭いに顔をしかめる。部屋を誰かが走り回る。見えない。
「遊んでんのか?」
 返事はない。押し殺したクスクス笑いがきこえた。
 ケータイが鳴った。ポケットから取り出す。視界の端でサブディスプレイを確認すると、相手は江藤さんだった。慎重に受話口を耳に当てる。
「もしもし、タッチー」
「おお」
 俺は喉がカラカラだった。江藤さんの声も弱々しく掠れていた。
「ごめんね。時間がないからだまってきいて。今わたしにずっと憑いてた悪霊がそっちに行ったの」
 なぜそんなことが分かる? 感覚?
「わたしね、お母さんがどうして狂っちゃったのか分かったよ。お母さんはね、必死に悪い霊と闘ってたの。わたしがしていたことと同じ。その手段がね、本当は見えない子供。被害が及ばないようにお母さんはわたしを遠ざけて、必死に悪霊を無視してたんだよ」
 江藤さんは自分自身に憑いた悪霊をずっと見ていたのか。それを無視するためにくみを自分の目に映したのだ。本当は見えないくみを相手にして。
「江藤さん、俺が必ず助けるから」
 腕の一本や二本売ってでも助ける気だ。
「……ねえ、きこえてる?」
 江藤さんがきいてきた。嗚咽がきこえた。
「きこえるよ」
「ちがう! あなたのそばでずっと、ずーっと悪霊が――――。わたしが――を――――るから」
 ノイズが江藤さんの声を邪魔する。
「江藤さん!? 江藤さんッ!」
 ノイズばかりが俺の耳に流れ込んでくる。
 俺はケータイを手にしたまま窓を見た。そうさせられた気がする。俺が見る目の前で、曇ったガラスに線が引かれていった。忍び笑いがする。
「こっ、交渉しろ……!」
 線は細い。描いているのは子供のようだ。細い指で窓に落書きしていく。垂れ落ちる水滴。身じろぎ一つ出来ない。ただ窓を睨みつける。黒い窓に怯える自分が映っている。
「俺の体を全部やってもいい……! 江藤さんを解放しろ!」
 お前なんかに江藤さんは渡さない。見えろ、見えろ、見えろ見えろ見えろ!
 激しく江藤さんを思った。窓ガラスの絵がゆっくりと出来上がっていく。心が乱れる。
「交渉しろォ!」
 止まないノイズの中から声が浮き出た。
『シナイ』
 落書きが完成した。それは拙い絵だ。誰かが長いロープで首を吊っている。
 俺はすとんと腰を抜かして、床に尻餅をついた。目の前にボーレイちゃんがあった。天井の明かりから逆さ吊りにしたはずなのに、そいつは首を絞めてあった。
 寒さで歯の根が合わない。恐怖が心をむしばむ。
 俺はボーレイちゃんに向かって叫んだ。
「じゃあなんで俺達につきまとうんだ!」
 視界の後ろから二本の黒い腕がボーレイちゃんに伸びた。
 子供の声がした。
「意味なんて無いよ」
 それは底抜けに無邪気で、そして残酷だった。
 明かりが落とされる。真っ暗闇。俺は何も見えなくなった。

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