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悪霊

――――悪霊


 月曜日の昼休み、堤君に付き合って、俺は阿部君との三人で学食にいた。学食に来たのは半年経ってようやくだった。俺は毎日父さんのお弁当だったから。
「デートしたんだって?」
 カレーを持って俺の前に座った堤君が言った。ああそうそうと隣の阿部君も乗っかる。
「スギちゃんが言い回ってたぞ。タッチーがやりやがったって。なあ、やったってつまりそういうこと?」
 阿部君は咥え箸。
「違うって。まさか。それにデートなんかじゃないんだ」
「じゃあ何よ」
「なんか成仏デートって言ってたじゃん? 俺、成仏、昇天、いい気分、でなんかやらしいことなのかと想像を膨らませてたんだけど」
「だから違うって」
 こちらが恥ずかしくなる。江藤さんも俺とどうこうなんて言われてきっと不愉快になるだろう。でも本当にくみを成仏させにいっただけだ。でも、霊を信じてると言っても見えない人には伝わらないかもしれない。なんと言おう……答えあぐねていると、堤君が愚痴った。
「でも立野もズルイよな。ずっと黙ってたと思ったらいきなり江藤よ? なあ?」
「うーん。な、エッちゃんかわいいもんなぁ。無防備な感じとかさ」
「でもさ、阿部君たちも彼女いないの? 軽音部ってなんかチャラっとしたイメージがあるんだけどな、俺は」
「ないない!」
 堤君はタバスコをカレーにかける。本来の味を壊すくらい。
「立野のイメージと全然違うよ? おれ達もそれ期待して軽音入ったよ? 春センパイに「夏合宿はパコパコ合戦だ」とか言われて心躍らせたよ? でもないない!」
「だってオレ達の中学時代これだよ?」
「アベちん、それは見せんなって」
 堤君の邪魔を払いのけ、阿部君がケータイ画面を俺に見せた。どこのガリ勉だよという感じの男子が二人。高校から心機一転を狙ったわけだ。なるほど、でもこういう向上心ってすごいよな。尊敬する。それから二人は同じ学校だったのか。
「いやいや、立野黙っちゃったよ。オレら春の顔合わせん時絶望したの知ってる?」
「あー、そうそう……。クラスに目付きのヤベーやついるって。パシリにされるーって」
「それ俺のことか?」
「他に誰がいんだよ」
 二人が笑った。俺も笑っしまった。
 新学期は緊張していたから仕方ない。それにあの時はクラスメイトに心を許さないと冷たく意気込んでいた。舵のきかない無邪気さの船に乗ってたまるかと。その意気込みはついこないだ戸惑いに変わったけど。
 放課後、俺と同じ帰宅部の杉谷さんと帰った。一人で帰っていたところを、後ろから頭を叩かれたのだ。こんなことされたら、今も昔も無視できない。
「よおっ!」
「いてーな。なんだよ。なんかしたか俺」
「こっちがききたいわ」
 噂話をする女子の顔で杉谷さんは笑った。
「アンタやったわね。エッちゃんアンタに心かたむいてるわよ」
「江藤さんが……?」
 口が軽そうなので下手なことを言わないように注意しよう。今の言葉だけでスキップして帰っちゃいそうな気分だが。
「今日ね、アタシに何度もきいてきたのよ。タッチーに悪いことしちゃったかなって」
「悪いこと? なんだそれ」
「ね? してないんでしょエッちゃん。でもあの子がつまらないこと気にしてるらしいの。女の子の幽霊を成仏させられなかったんでしょ? 自分で何も考えてなくてタッチーに呆れられちゃったんじゃないかとかうじうじずっと言ってんのよ」
 杉谷さんは早口だった。急いでるとかじゃなくて、これが常らしい。
「相談されたのか」
「そうよ」
 江藤さんは先日のことを杉谷さんに話したのか。まるまる? そりゃタッチーのせいだわー、ありえないわー、だとか杉谷さんがダメだしするところが頭に浮かんでぞっとした。
「で、なんでそれだけで心がかたむいてると?」
「だってあの子、中学んときに……あー細かいこと説明すんのめんどいから省くけど、雑巾しぼってたバケツの水を頭から人にかけちゃったことがあんのよ。それでも「まぁゆるしてくれるよねえ、えへへー」ってする子なのよ? それがあれなの。アンタのことが気になってる以外にないわね」
 ほー。
「なるほどな」
 ほー、ほー、ほーー。へーえ、江藤さんがね、俺のことね、えへへーだよそりゃ。
「うまくやりなさいよ? アタシが応援するのはエッちゃんの方だけど、アンタも少しは応援してあげる。でも気をつけなね。あの子気分屋だから、明日にでもタッチーのこと忘れてるかも。いきなり無視されるかも」
「そりゃ……こわい」
 思わず地面を見つめる。無視は辛いな。
「で? アンタはエッちゃんのこと好きなの? 今日アタシはそこをききたかったわけよ。友達たぶらかされちゃたまらないから」
 キツイ質問だった。杉谷さんが求める答えはイエスかノーかの二つだけだろう。でも半透明の気持ちというのも、またはノーに足を引っ張られたイエスだとか、明瞭としない感情というものはある。俺は笑ってしまった。
「好き? ほんと? 好きなのね? 好きなんだ!」
 俺の笑みが照れに見えたらしい。杉谷さんは拷問で聞き出したような答えを得て満足したようだ。困った。こういうのを嘘というのだろうか。喉に鉛でも詰まったようだ。ツバさえ飲み込めない後悔が俺を苦しめた。
「分かった分かった。エッちゃんには黙っててあげる。頑張ってね。じゃあアタシ友達と遊んでくるから」
 杉谷さんは来た道を戻っていった。エッちゃんには黙ってても友達には言うのだろうか。そうやって、俺の逃げ場はなくなっていく。江藤さんとの十分な間合いすらとれない境地に立たされてしまうかもしれない。
 西日の家路、冷たい溜め息が漏れた。



 火水と日が過ぎて木曜日の朝。いつもより遅めに家を出た。と言っても他の生徒と比べたらまだ若干早いが。クラスに溶け込んでいく毎日で、なんだか俺が早くに登校する意味は消えてしまったようだ。飴玉はやるつもりだけど、これからはこれくらいでいいだろう。
 近頃どんどん寒くなっていく。コートはそろそろかと思案する。
 JRの横須賀駅の踏切を渡ったところで、江藤さんと鉢合わせになった。あっと華やいだ彼女の表情に、俺の頬もほころぶ。
「早いんだな、今朝は」
「うん」
 とだけ答えた江藤さんと肩を並べて歩く。沈黙を経て、江藤さんが口を開く。
「くみちゃんさ、まだいる?」
「いる……な。俺の目からじゃ透け透けだよ。幽霊って感じだ」
「ふふ、だって幽霊だもん。ねえ?」
 おんぶした乳飲み子を振り返るみたいに江藤さんは後ろを見た。母親のようだ。
「なにか言ったか?」
「微笑んだ気がした。あのね、なんかだんだんと体が軽くなってきたから、もしかしたら知らない間にくみちゃん消えちゃったのかなって思ってたの」
「そうか」
「あ、そうそう。言い忘れてたんだけどさ……くみちゃんね、遊び足りないんだって」
 前を向いたまま江藤さんは言った。
「遊び足りない? そう言ったのか?」
「うん。だからね、わたしおうちで1人なのにおままごととかしてたんだよ」
 どことなく彼女の声はかたかった。今のは笑うとこだったろうか。
「ははっ、はたから見たら変なやつだな」
「うん。お父さんに見つかって怒られたよ」
 俺だって高校生の娘が部屋で1人おままごとなんてしていたら正気か疑う。
「まぁ……魔法少女ごっこはさすがにね」
 ふうっと息を吐く江藤さん。寒いのか、肩が強張っている。寒いんだよな、まさか俺と一緒で緊張してるとか? ばか、調子のんな俺。
「江藤さんがステッキとか振ってるとこ想像しても、不思議と違和感ないけどな」
 冗談を言ったつもりだった。さすがにばかにしすぎだろうかとちらりと江藤さんを見た。
「あはは」
 奇妙だった。朝日に透けるくみも、彼女の背で顔を隠している。
「あ、なんか怒った……?」
「その話はもういいよ。もっと面白い話して」
 江藤さんは冷たく言い放って、ケータイを開いた。メールか何かを打ち出す。衝撃だった。こんな江藤さん初めてだ。杉谷さんが言ったように気分屋だから? 俺の冗談がつまらなかった。え? うそ、ごめん、えー……。
「なんかケータイ鳴ってない? 立野君出たら?」
 鬱々と感情が沈んでいく。片寄った弁当の米のように心がなさけない方向へ。
「わ、わるいわるい。学校に行く時は欠かさずマナーモードにしてんだけどな……」
 最悪だ。理由はともかく怒らせてしまった。俺はケータイを取り出す。メールが来ていた。すぐ隣の江藤さんからだ。雑念を無視した。俺は努めてただメールが来たから確認するていを装った。
『タッチーの後ろに幽霊がいる』
 ぴりぴりと神経が凍えた。
 続けてもう一通。
『ついてきてれ知らん顔して、エンギしてたらし、らして』
 めちゃくちゃな内容だ。でも分かる。
 ついてきてる。知らん顔して。演技して――――。
 悪霊が見えているとバレたら、ターゲットにされる可能性がある。江藤さんは寒ったんじゃない。江怯えていたのだ。どうしたら? 塩? あほ、効果に保証もないし、それに、下手なことは出来ない。江藤さんには俺が見ることが出来ない悪霊が見えるのだ。江藤さんが言う幽霊とは、悪霊のことだ。それが俺の後ろにいる。
「迷惑メールだったよ」
 なにか言え。
「さ、寒いな、どんどんさ」
 江藤さんを見た。引きつった笑みを返してくる。くみが震えている。
 なにか言え、なんとか言うんだ。
「そろそろ靴替えなきゃなぁ」
「そうだね」
 そうじゃない。もっと大事なことを。
「さっきから思ってたけど」
「うん」
「今日のエッちゃんはいつもに増してかわいいな」
「え?」
 江藤さんが立ち止まった。俺は彼女の手を引いてそのまま歩き続ける。
「こんな日はさ、だりぃから学校サボろうぜ?」
「…………えっと」
「好きなんだ。エッちゃんは……俺とは行きたくない?」
 本日ようやく、江藤さんはちゃんと笑った気がする。
「行きたい」
 片寄っていた心がほぐされていく。
「じゃあ行こう! あのバスは? 乗れっかな?」
 すぐそこのバス停にバスが停まるところだった。乗れるが、悪霊はどうだという意味だ。江藤さんは後ろに意識を集中したらしく、目の焦点がズレた。
「ダメ。汐入駅に行こう。あっ、わたし電車の方が好きなんだ」
「へー! 気が合うね、俺も電車大好き!」
 悪霊に憑かれるよりかはいい。
 大きな交差点がちょうど青。と思ったら点滅が始まる。いいじゃん、俺達は急ぐから走る。自然だ。悪霊は追ってきているのだろうか。分からないが、走るしかない。渡りきる前に信号は赤に変わる。横須賀人は運転が荒い。クラクションを鳴らす車が、俺達のすぐ後ろを走り去った。
「あっぶねえ!」
「もー、なんなのよあの車!」
 文句言っても自然だ。どう? と小声できくと、江藤さんは首を振った。
「ダメみたい。渡ってきてる」
「行こう、電車来ちゃうぜ」
 駅まで走った。京急線の汐入駅はすぐそこだ。改札を抜け、階段を駆け上がる。運良く電車が来たところだった。飛び乗る。早く扉が閉まれと祈る。
「どこいく?」
「桜木町」
 扉が閉まった。二人して車窓を見つめてしまう。ホームが流れていく。俺達は先頭車両に乗ったので、窓の景色はすぐ町の様子を映した。
「なんで桜木町なの?」
「まさよしが歌ってるから」
「ああ。明け方は過ぎたけどな。まぁ、あんなとこにいるはずもないだろう。平気?」
 江藤さんは乱れた息を整えながら答える。
「わたしはね。たぶんアレも。気配が遠ざかる。良かったぁ」
 上り線だが車内は空いていた。ボックス席に斜向かいで座った。俺が後ろ向きに、窓際。江藤さんは前向きに通路側。
「わたし、学校サボるなんて初めてだ」
「うん。俺も」
「ごめんね。わたしのせいで……タッチー皆勤賞を狙ってるってもっぱらの噂だけど」
 申し訳なさそうに身を縮めて、江藤さんは上目遣い。どきっとして俺は窓の外に視線を逃した。トンネルに入って、窓ガラスが真っ黒に塗り潰される。闇の中で江藤さんが振り返り、俺を見た。目が合う。
「いいよ、別に」
 さっと景色が広がって、江藤さんが消えた。
「タッチー、さっきの言葉……演技?」
 また闇が広がる。江藤さんが現れる。横須賀あたりはトンネルがとても多い。
「…………んー。ん?」
「ぜんぶ演技?」
 江藤さんの実像と窓ガラスの虚像からの挟み撃ち。俺は窓枠に頬杖ついて、口元を隠す。
「……かわいいと思うよ」
 ありがとうと小さな声が聞こえた。
「あともう一つの方は……?」
 好きなんだ――――。たしかにあの時言った。田宮先生の呪縛を解けば、はっきり言ってもいいセリフなのに。
「あの時言った嘘は、電車が大好きってとこだけだよ」
 江藤さんが押し黙った。告白はもっと堂々としたかった。
 ガクンと車内が揺れた。減速したらしい。吊り革が揺れた。そのうちの一つで田宮先生が首を吊っている。どこまで俺につきまとうのだろう。目の前に広がる窓ガラスの暗闇は、俺の後ろめたい未来を映しているようだ。
「タッチー!」
 江藤さんが俺の腕を引いた。彼女を振り返る。違和感があった。明らかにおかしい。通路を挟んだ向こうの窓には町の景色が映っている。俺は江藤さんと席を立った。
 俺が見つめていた窓ガラスは黒のまま。その闇の中に車内の様子を映していた。俺達がそこに座っている。俺は窓枠に頬杖ついて、口元を隠して……、斜向かいの女と何か話している。その女は江藤さんではない。顔は影になって見えないし、似てはいるのだが、服も居住まいも違う。
「誰だよこいつ……」
 江藤さんは返事も出来ずに立ち尽くしている。
 闇が縮まった。窓に張り付いた人の形になって、四つん這いで屋根へと移動する。電車が停止した。ドアが開いた。
 言葉もなく二人で立ち尽くしている。ホームでベルが鳴る。
『泉岳寺行き、ドアが閉まります』
「下りるぞ!」
 江藤さんの手を引いて電車を飛び降りた。脇目もふらずに階段を駆け下りる。他に利用者はいない。驚くほどだ。化け物が出るから出るなと警告されたようだ。
「江藤さん! あいつは?!」
「分からないよぉッ!」
 江藤さんは泣いていた。改札口に来る。
「パスが無い! 見つからない!」
 血眼で鞄を漁る江藤さん。俺は俺のパスを渡して、先に彼女を通した。俺はというとハードル跳びの要領でバーを飛び越えて突破。時間が無い。
「こらぁ! お前何やってる!」
 窓口から駅員が顔を出す。
「学園の生徒だな!」
「ヤバい! とにかく逃げろ!」
「待ちなさい! 学校に言いつけるぞ!」
 駅員さんが中から出てきて俺達を追ってきた。それどころじゃないんだ。悪霊が追ってくるのだから。
「助けてぇ……!」
「いいから走れ!」
 階段を駆け下りる。下は静かだった。もともと閑静な駅らしい。
「止まりなさい!」
 階段の上から怒声がきこえた。俺達が仰ぎ見ると同時に、駅員さんは足を捻った。長い階段を転げ落ちてくる。江藤さんが悲鳴を上げた。それが止んだ時、駅員さんも止まった。階段の下、俺達の目の前でぐねぐねになった体を横たえる。
「えっ……死んだの……?」
 体の震えが止まらない。待て、駅員さんの体も震えてる。小刻みに、だんだんと震えはエスカレートし、ガクガクと手足をぶらつかせながら、信じられないことに彼は立ち上がった。後ろに折れていた首が起き上がり、血まみれの顔が笑う。
「マッてヨおォォオ!」
 手が伸びてくる。身を縮める江藤さん。くみが見えた。身代わりになるように江藤さんの体からにゅうっと伸びた。そして駅員さんの手が触れると同時に、その体は裂けた。何もきこえない。ただグネリとひん曲がった顔が俺を見た。
 俺は何かに突き動かされるようにして自らのポケットに手を突っ込み、掴んだ物を上へと放った。ばっと小袋が破けて、中の塩が飛び散る。くみはそれを浴びて、今度こそ消えた。透けるとかじゃない。霧消したのだ。
「へへ、ヘヘッ」
 駅員さんだった何かの引きつった笑い。一歩踏み出した振動で、首が真後ろに倒れた。
 目眩がする。江藤さんを逃さなくてはいけない。でも体が上手く動かない。何か足音がする。大勢だ。大勢の足音が階段を降りてくる。やがて正体が明らかになる。数え切れない幽霊達の群れだった。途方に暮れた。
「江藤さん、逃げよう……!」
 江藤さんは倒れていた。助け起こそうとかがんだ時、俺は目の前が真っ暗になった。


 目覚めると江藤さんの顔が目の前にあった。悔しいというか、悲しいというか、そんな顔。俺は自転車で轢きかけた子供を思い出し、突拍子もないことを言った。
「飴たべる?」
 ポケットに入っていた飴玉を江藤さんに渡した。黙って受け取って、江藤さんは飴玉を口に入れる。少し笑ってくれた。微笑み返して俺は硬い地面から半身を起こした。
「今日はあの子に飴あげてないな」
 遠巻きに何人もの幽霊が俺達二人を眺めていた。おかしな人混みだ。
「こいつらが助けてくれたのか」
「そうらしいよ」
「見えんの?」
「ううん。でもそんな気がするの。タッチーの見る霊は悪い人ばかりじゃないんだね」
 悪い人ばかりじゃない……か。
「タッチー、小さい子供は黒飴は好きじゃないと思うよ?」
「うん。でも今朝はそれしかなかったんだ。ごめん」
「あとなんかしょっぱいんだけど……」
「俺が塩まいた。かかっちゃったよな。ごめん」
 言い終わる前に、俺は江藤さんに抱きしめられた。
 幽霊たちが一瞬にして消え去った。世界にたった二人だけだと錯覚してしまうほどの静かな時が流れる。痛いほどの好きと、いっそ消えてしまいたいなの切なさが胸にこみあげる。
「……ごめんね」
「平気だよ」
 苦しかった。でもそれで良いと思う。江藤さんの無邪気さなら何も問題がない気がした。強くなれた気がした。ナントカは盲目ってやつだろうか。
 隣の駅まで歩いていった。人気のない日向をゆっくりと。
「お母さんがね、いなくなった時からだと思う。悪霊が見えるようになったのは」
 江藤さんは大切なことを話してくれた。
「詳しくはお父さん教えてくれなかったんだけど、わたしのお母さんは気が狂っちゃったんだって。事実だけ話すと、わたしを産んでる最中に自分で目をえぐろうとして、失明して、それからはずっとおんぶしていた子供に話しかけていたんだって」
「おんぶしていた子供って、江藤さんじゃない他の?」
 つまりは見えない何か。
「うん。お母さんも見える人だったみたい。出産後はずっと『育児』をし続けたの。わたしはお母さんに会ったことないけど、小学生の時に知らない女性と夢で会って、それから見えるようになったの。あの時、お母さんは死んだんだなって思った。お父さんもそれからしばらく忙しそうにしてたし」
 俺は相槌を打つだけで精一杯だった。なんて言っていいか分からない。だから返事の代わりになればと、俺も話し出した。田宮先生のことだ。
 馬鹿騒ぎしていた中学時代の先生を俺達が自殺に追い込んでしまい、俺はそれ以降先生の幻影に悩まされているということ。
「無邪気さが必ずしも無垢とは限らない」
 無邪気という向こう見ずなベクトルで、無垢とは程遠い結果に陥ってしまうこともある。俺はそれを思い知って、高校では笑うことさえ躊躇してしまう。クラスメイトと笑っていたら、自分はまた取り返しのつかないことをしてしまうのではないだろうか。それが不安だと。
「江藤さんと話して、クラスに打ち解けていって、楽しいなと思ったりすると、よく目の端っこで田宮先生がぶらついているんだ」
 呪縛のようなものがあるのだと、俺は話した。
 江藤さんは神妙な面持ちできいてくれた。
「だからタッチーは、いつもどこかよそよそしいところがあったんだ。心をちゃんと開いてくれない感じがあったよ」
「そうか」
「うん。わたしとろいから、なんか鬱陶しいとかって思われてるのかなって」
  そんなことないよ。そう否定してみたが、皆が話しかけるたびに胸がつかえていたのはたしかだ。
「ねえ、田宮先生ってさっき窓に映ってた人?」
「窓に? 窓に映ってたのは俺と知らない女性だったけど」
「え? わたしは、わたしと男の人を見たよ」
 言い分が食い違った。
「もしかして、あいつは俺達にそれぞれ違う闇を見せたのか」
「いやな霊だね」
「悪霊だからな」
 二人で少し笑った。それからしばらく無言になった。言わなければいけないことがある。
 あの瞬間が蘇る。無音の断末魔、くみは二度も死んだ。
「くみだけどさ」
「うん。怖かったろうね。今はわたしの背中で眠ってる感じがする」
「えっ?」
 間違いなくくみはあの時消えた。いや、俺の目からなのか? 塩を浴びた霊など見たことない。消えたようでまだいるのかもしれない。くみが江藤さんの背で眠っているのを想像すると、あの生意気なガキも可愛らしく思えた。
「最近軽くなったかなって思ってたけど、今日は疲れたのかな? わたしも疲れた。……ねえ、タッチー?」
 江藤さんが俺を見る。
「わたしも好きだよ」
 彼女は俺の手をとった。今日は何度も繋いだ手なのに、なぜか触れたこともないような感触だった。俺はまぶしい目眩を覚える。くみは、俺の目から消えたんだ。俺は恋に落ちたんだ。
 駅に着く。トラウマになった電車で横浜まで出て、JRに乗り換えた。車窓から桜木町を見た。いつか来ようと約束した。江藤さんを家まで送って、俺は電車で帰った。車内は静かだった。まるで俺しかいないように。



 その日の夕食後、リビングで母さんとゲームをしていた。
 結局今日は丸一日学校をサボって、帰ったのは昼頃。母さんがリビングの陽だまりで寝ていたのをいいことに、俺は自分の部屋で一人静かに過ごした。あとでそれが母さんに発覚して、今夜はとことん遊ぶことになっていたのだ。
「アチョ、アタッ、アチョ~!」
 母さんは肉汁小娘シャオロンパオの真価を見出したらしい。燃えたドラゴンの如く猛攻撃で、俺の操る鉄板仮面ヒゲもんじゃが画面外に吹き飛ぶ。
「あちゃ~……」
 俺は弱々しい怪鳥音を出す。父さんが隣で笑っている。
「お母さん強くなったなぁ」
「フッ。お話にならないわ」
「最近やりこんでんだろ……」
「次、お父さんの番!」
「ほう……早死にしたいらしいな。給食小僧・鼻から牛乳君の恐ろしさを教えてやる」
 母さんに歯が立たなくなってきた。キッチンファイターはもう止め時だろうか。また中古ソフトを漁りにいこう。
「あちゃあっ!」
「負けた……」
「早っ!」
 母さんの怪鳥音で父さんがやられる。父さんは肩を回しながら、立ち上がった。
「お風呂洗ってくるよ。……ところで、お父さんに誰かついてきてないか? なーんか肩が重いんだけどさぁ……」
 ドキっとした。
「うーん。いや、誰もいねえけど……?」
「そっか。変だなぁ……」
 見落とした? 俺は本当に霊とおさらばしたのだろうか。
「運動不足じゃない? デスクワークで体が凝ってるとかさ。走ってきたらー?」
 そんなつもりはないだろうけど母さんの助け船が出た。俺は親に黙っていなければならない義務というか、大切なものを守らなければいけない義理で、江藤さんとのことを秘密にしておきたかった。



 悪霊に追われた翌日。金曜日の朝、江藤さんからメールが来た。
『さぁーて、そろそろ横須賀につく頃だなぁ おりなきゃなぁ いかなきゃなぁ』
 何かと思って身構えたが、すぐにあたたかい気持ちで体がほぐれる。返信した。
『一緒にいこうか。駅にいるよ』
『駅には幽霊がいるよー?』
『悪霊じゃないからさ』
 駅に着く。ここは横須賀の中心地からは離れているため人は少ない。海を眺めて待っていると、電車がホームにやってきたのが音で分かった。すぐにマフラーを揺らして江藤さんがかけてきた。
「どうも。お待たせしました」
「おう」
 恥ずかしい感じで目を合わせて、それでも自然と二人で歩き出した。一言目は、「寒いな」なんてセリフだった。
「そうだね。わたしなんてすぐ風邪ひくから気をつけないと」
 はっくし……、言ったそばから江藤さんはくしゃみをした。歩いていた鳩がびくり。かわいいくしゃみだなと思って俺の心がぴくり。
「くしゃみ大きいでしょ?」
「いや、普通じゃないか」
 会話は他愛のない。
「駅前でテイッシュ配ってる人いるけどさ、鼻垂らしてるともらいにくいよね」
「温かい目で見てくれるだろ。鼻かみたいんだなって」
 身のない会話がぽんぽんと出てくる。こういうことは今までなかった。
 話の最中で、あの歪んだガードレールの場所にさしかかった。二人ではっと顔を見合わせる。それぞれポケットから飴玉を取り出して笑った。
「こういうサイダーのが子供は好きなの」
「俺はフルーツ系が好きだったぞ」
 歩みを止めず、さりげない仕草でガードレールの支柱に二人で飴玉を置いた。コツンとした音がして、二人の距離が一歩近づいたような気がした。
 ちょっと間を置いて、後ろで幼い声がした。
「すげーーっ!」
 なんだろと二人して振り向くと、あの場所でランドセルを背負った男の子が飴玉を手にしたところだった。きらきらした目をして、伝説のポケモンでもゲットしたみたいに手をかかげる。
「今日は二個、ゲットだぜ!」
 これには大笑いした。お腹をかかえて、たまにぶつかる肩を叩き合って。
 毎日なくなっていたのは、あの子が食べていたからだったんだ。
「きみが無垢ではないのはそうなのかもしれないけど、わたしはね、無邪気ってとても素敵だと思うよ」
 一頻り笑った後、目元ににじんだ涙を拭って江藤さんは言った。
「さっきの男の子見た? すごいきれいな目。わたしは楽しいことしてると嫌なことは見えなくなる。宿題とか、お金ないなぁとか、もうちょっと痩せなきゃダメかなぁとか、きっと悪い幽霊のことも。無邪気な時にしか得られない、見つけられないことってあるんだよ。わたしはそのこと、タッチーは分かってるんじゃないかなって思うけど……」
 江藤さんは前髪をいじって、ちらっと俺に上目遣い。
 逃げてはいけなかった。
「分かってたのかもな。でも分からないふりをしてたのかもしれない。江藤さんの無邪気に触れて、本当はあっけなく好きになってたよ」
 顔が熱い。赤くなってる江藤さんもきっと熱くなってる。彼女は意を決したように一人頷き、俺の顔を覗き込んだ。
「ねえ、わたしたちラブラブ?!」
「うえッ?」
「わたしといて、今一緒にいて、田宮先生が見える?」
 迫力におされる。片足が海まで続く水路にびちゃっと落ちた。冷たい……俺は静かに答えた。
「見えないよ。田宮先生は忘れないけど、見えない」
 江藤さんは紅潮した頬でにんまり。えへんと胸をはる。
「わたしの勝ち」
 負けたと思った。笑いのある、気持ちの良い敗北。
「タッチー、今日は学校でうんと笑ってね」
 俺は頷いて、水路から足をあげた。
 海まで続く水路のある歩道。途中学園があって、三笠公園があって、それから海。
 風が吹いて、地面を走った枯葉が水路に落ちた。流れていく。きっと俺はこの枯葉だった。自分が乗った無邪気の流れの行き着く先が地獄の釜だと思い込んでいた。でも、魚になって向きを変えることも、止まることも、俺には出来たんだ。
「足びっちゃびちゃですよ、江藤さん」
「タッチーが勝手に落ちたのですよ」
 ああだこうだと言いながら歩いていると学校に着いた。校門をくぐった時、守衛さんが何やらうんうん納得していた。ラブラブ……なのだろうか? 少なくとも俺は、周りが見えていない。
 教室に着くと、また俺達は同性の友人の方へと別れた。
「たっ、ちっ、つてとーッ!」
「いてっ!」
 阿部君と堤君が俺を見るなり体当たりしてきた。
「おいお前、昨日は江藤とドーコ行ってたんだよぉ」
「二人揃ってズル休みかましてくれてねぇ」
 がくがくと肩を揺さぶられる。ガッと肩を掴み返し、俺は笑った。
「ちょっと悪霊と追いかけっこだ」
 二人はなぜか顔を引きつらせた。なんだ?
「お前、いつもそのツラで江藤と笑い合ってんのか……?」
「まるで人を平気で殺すような奴みたいな笑いだぞ」
 なっ……! なんてこと言うやつらだ。たしかに人より目つきが悪いが、そんなこと言われるなんて……いや、こういう感じでいくか。
「ああ、お前らをぶっ殺して幽霊にしてやろう」
「いや立野お前な……。初めて冗談言ってくれたのは嬉しいが……」
「初ジョークがそれだとたぶん誰も笑わねえぞ?」
「笑えーッ!」
 クワッと口角を上げて二人に迫ってみた。おどけて、だ。
「だからコエぇって!」
 三人で笑い合った。楽しいと感じた。俺は周りを見回してみた。先生はいない。江藤さんと目が合った。笑っている俺達を見て、親指を立てた。ああ――――。
 きっともう、先生は学校いない。俺が見えていないだけなのかもしれないが、それでいい。あの飴玉の男の子も、くみも、見えなくなった今、彼らがいるのはどこかの場所じゃない。忘れまいとするそれぞれの心の中にいる。幽霊はそれぞれ、思う人のもとにいる。
「立野の親ってヤクザとかじゃないよな?」
「ちょっと見てみたいな。こりゃ押しかけるしかねえな」
「しかねえな」
 阿部君達はがつっと拳を突き合わせた。俺は慌てた。
「おいおい……! うちは無理だ。来んな、絶対来んな」
「お? こりゃなんかあるな」
「エロ本の棚か、二次元フィギュアか。大丈夫。おれらはどっちも大好きだ」
 うちに来る気満々だ。困った。でもどうしてか、困惑の隙間に楽しさがある。
「親に確認させてくれ。明日、どうかきいてみるから。よかっとら、まぁ、一時間くらい来いよ」
「泊まる気でいる。幽霊が出ないならな」
「覚悟しとけ。言い訳するなら今のうちだぞ?」
 こうなると、彼らに断ることが申し訳ないようにも思えてきた。母さん、なんて言うだろう。トイレにこもるとか言うかもしれない。
「一応言っとっけど、なんか取り憑かれても知らねえそ? 身を清めてこい。塩を装備しろ。あと、授業中は静かにしろ」
「はい? 授業中?」
「そうだ。お前らうるさくてかなわねえんだよ。次もし俺の勉学の邪魔をしたら二度とギター弾けないような指にしてやる」
「なっ、なんかよく分からんけど分かったよ……」
「エロ本隠しても無駄だぞ。おれの嗅覚をあなどるなかれ」
 そればっか……。まぁお前ごときに見つけられるとこに隠してないがな。

しおり