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Prologue.帝国の女騎士

 帝国でパトリツィア・グートシュタインの名を知らぬ者はいないと言われる。
 それが誇張かどうかはともかく、城内においては間違いの無いことであった。口さがない者は地味で目立たない王子を指して「王子の名前よりもパトリツィアの名前の方が知られている」とまで陰口をたたく始末だ。
 そのパトリツィアが結婚し、あまつさえ騎士を引退するという情報が流れたとき、一様に城内の人々は「そんな馬鹿な」という反応だった。

 彼女が最初に有名になったのは、初登城の時だった。
 十六歳とは思えぬほど整ったプロポーションと豪奢な金髪に彩られた美貌もさることながら、騎士訓練校でその年のトップ成績を修めたのが、彼女だったからだ。
 座学もさることながら、何よりも槍でも剣でも男性騎士数名を相手にしてもまるで問題無い程の腕前があり、当初は女性だから甘く採点されたと考えていた男たちも、実情が広まるにつれて口を閉ざしていった。

 実力に裏打ちされた優秀な成績を引っ提げて、晴れて帝国最初の女性正騎士となった彼女は、数十の作戦行動に参加し、最高位の金騎士にまで上り詰めた。
 そして、彼女が十八歳のときだ。金ランク騎士となって最初の戦闘が、パトリツィアの名前を帝国だけでなく他国にまで響かせることとなった。
 帝国史において『ラットールの戦い』と称され、以降も燦然とまばゆいばかりの光を放って記録されているできごとだ。

 ラットール平原は広い草原の名称であり、そこにはパトリツィアが率いる帝国一万の将兵が並んでいた。対して、矢が届かないぎりぎりの場所に展開している隣国の兵たちが三万。騎馬兵や弓兵の構成割合はさほど変わらないが、数も士気も差が大きい。
 三倍する敵を前に、帝国側の大将として参戦していたパトリツィアは決断を迫られていた。退却は敵の追撃を呼ぶ。かなりの兵を損耗するのは間違いない。しかし、真正面からぶつかれば間違いなく敗北する戦力差だった。

 誰もが絶望的な気分で戦陣を構築している中、パトリツィアは主たる指揮官たちを集め、軍議を行うと通達し、すぐに自陣中央の天幕に将たちが集まる。
 いずれも歴戦の騎士達で、パトリツィアと同格は居ないまでも、銀ランクの騎士が半数以上含まれる。個としても指揮官としても優秀とされる者たちだ。
 軍議が始まるや否や、その誰もが撤退を進言し、どれだけ損害を小さくできるかに考えが向いていた。

「誰が逃げると言いましたか? 私は最初から敵を殲滅するつもりでここにいます」
 喧々囂々、退避の方法について語り合っていた男たちを前に、パトリツィアは戦いを選択する。
「む、無茶苦茶ですよ!」
 悲鳴のような声が軍議の場となっている天幕に響いたが、パトリツィアは一顧だにしない。

 口々に無謀であると語る男たちの視線が、所詮は女であると彼女を見下した色になっているが、彼ら自身には、その自覚がないだろう。
 唯一、その中で彼女に向けて期待の目を向けている男性がいた。銀ランクの騎士であり、子爵家の後継ぎであるベネディクト・アルブレヒツヴェルガーだ。
「静かにしたまえ。まずは大将閣下のお話を伺うのが当然だろう? その指示に従うため、末端の兵たちに命令が伝わるように我々中級の指揮官がいるのだから」

 のちに夫となる彼の存在をはっきりと認識したのは、これが最初だったとパトリツィアは後で思い出すのだが、この時はただ、荒れた場を鎮めてくれたことを感謝し、頷くにとどめている。
「では、作戦を説明する」
 様々な感情を乗せた視線を向けてくる一同を見回し、パトリツィアは赤い口紅を引いた唇で笑みを見せた。

 それから約一時間後に始まった戦闘で、最初に動いたのはパトリツィア率いる僅か二百名の騎兵だった。
 それぞれが腕に自信があり、馬上槍の扱いに長けた者たちであったが、三万の敵に対してこれほどの寡兵で挑むのは当然初めてである。
 だが、騎士とはいえ女性であるパトリツィアが先陣を切ると言うのに、腰が引けたところを見せるわけにはいかない。そんな意味で士気は高い。

 部隊の中には、先ほど彼女を援護したベネディクトもいる。
「貴方は子爵家の後継者なのだから、後方にいるべきでは?」
「冗談でしょう。同格の子爵家令嬢を前に立たせて、後ろで物見をしているような人間にはなりたくありませんよ。それに僕の家は帝国の外れ。名前だけ立派な貧乏子爵家ですし」
 一つ年下の彼の言葉に、パトリツィアは微笑む。
 それを見て、ベネディクトも笑った。

 彼と違い、戦場でさらなる危険を冒す役を忌避した者も当然いた。
 その多くはベネディクト同様に貴族家の後継ぎであり、単に功績を作るために騎士団に所属しているというだけの者たちだ。
 中には伯爵家の後継者もいて、彼らは一様に女性の指揮下にいること自体に不満を憶えており、パトリツィアも彼らを頼る気はさらさらない。

 だが、彼女は考えていた。
 目の前にいるベネディクトは、ひょっとしたら頼れる人物では無いだろうか、と。
「貴女のことを信頼しています。さあ、勝ちましょう」
「ええ。当然です」
 ベネディクトの言葉に表情を引き締めたパトリツィアの右手が、馬上槍を振るって前へと突き出した。
「出陣!」
「応!」

 パトリツィアが行ったのは、敵中への突入作戦と言うよりは、陽動や工作に近いものだ。
 少数で草原の端を大きく迂回するように敵の背後に回り混む。矢が飛んでくるが、敵の弓兵集団に対して、高速かつ距離も角度もどんどん変わるように移動することで、命中する矢はほとんど無い。
 敵は弓兵以外動かず、大軍は悠然と待ち構えていた。どこの兵とぶつかっても、数の差で押しつぶせるという計算なのだろう。

 通常であれば、それは正解だったかも知れない。
 だが、パトリツィアはまともに正面からはぶつからなかった。大きく迂回した騎兵たちは縦列となり、大軍の横をかすめるようにして相手の背後へと回り込んだ。
 そして、最後尾にいる者たちを背後から撫でるように斬っていく。
 ここで初めて、敵兵たちに動揺が走り、整然としていた軍隊はそれぞれの部隊ごとに慌ただしく動き始める。

 だが、遅かった。
 判断も遅ければ、その動きも遅い。特に長槍を構えていた歩兵たちは重い槍を担ぎ上げ、どちらへ向けて構え直せば良いのかの指示を待たねばならず、味方の頭に槍を落としてしまったり、うっかり怪我をさせる事故が頻発する。
 その間も、パトリツィア達は馬を走らせている。

「止めを刺す必要は無い! 優しく撫でてやれ!」
 馬上槍の鋭い切っ先で引っかけられただけでも、最後尾に居る兵士達はたまったものではない。
 首を斬られて即死する者も大勢いたが、怪我をして動けなくなったり、傷を受けた恐怖で味方の中へと逃げ込んでいく。これがさらに敵軍の混乱を大きなものへと変えていった。

「第二段階!」
 全軍の最後尾一列を“撫でて”いったパトリツィアは、指示を出しながらさらに敵軍後方でぐるりと旋回する。
 この時点で敵からの攻撃はほとんど無い。弓兵は味方に当たることを恐れて撃てず、指揮官たちは隊列の調整で手いっぱいになっていた。

「ここまでうまく事が運ぶと、ちょっと不安になるわね」
 パトリツィア達は、自分の後方に用意していた油壺の栓を抜いた。
「敗走ほど難しいものはないわよ? 少しいじわるをするけれど、逃がしてあげるから頑張りなさい」
 彼女たちが通った後には、油の道が出来た。そして、隊列最後尾の騎士が用意していた火種を放り捨て、仲間たちと共に自軍へと馬を走らせる。

 パトリツィアたちが敵軍側から脱出を終えた頃には、完全に戦いの天秤は圧倒的に帝国の有利へと傾いていた。
 帝国軍は予定通りに弓兵から敵軍中段への斉射を数回行った後、一気に歩兵を前に出す。
 本来ならば槍衾がぶつかり合う光景が生まれるのだが、敵軍は後方への対応を考えていた部隊と、移動を行おうとした部隊とが混乱しており、無防備な所を一気に強襲された格好になった。

 後方は逃げまどうが、炎によって道は狭まっていた。
 中央部分にほんの数メートルの空洞が開いているので、そこへ全軍が殺到するのだ。
 当初は反転して攻撃するように命じる声もあったが、事態が進むにつれてその声も聞こえなくなった。撤退に切り替えた指揮官もいるが、声を出していたせいで狙撃された者もいた。

「お、お見事……」
 戦況は一方的なものとなり、帝国の軍は草を刈るようにぐいぐいと敵を押し込んでいく。
「あまり深追いをしないように指示を」
「はっ!」
 この時点で、パトリツィアを低く評価する者はいない。命じられた騎士は、鋭く返事をして命令を伝えるために駆けていった。

「お疲れ様です、閣下」
「まだ終わっていない……けれど、少し水を飲むくらいの時間はありそうね。きゃっ!」
 兜を脱いだベネディクトを見て小さく息を吐き、侍従に手綱を預けて馬を下りようとしたしたパトリツィアは、鐙から足が抜けずに落馬しかけた。
 思わず小さな悲鳴を上げた彼女を、先に下馬していたベネディクトが支える。

「……あ、ありがとう」
「どういたしまして。お疲れでしょう。もう戦いは終わります。ここは勝者として堂々と座ってください。後始末は、僕たちがやりますから」
 気恥ずかしい思いをした、とパトリツィアは兜を脱いで、汗を拭う為に髪をほどき、ハンカチを手にする。

 そこで、ふとベネディクトの腕が傷ついていることに気付き、ハンカチを傷口に押し当てた。
「閣下、これは……その、ありがとうございます」
 突然のことに戸惑いながらも、ベネディクトは赤面しながらハンカチを押さえるパトリツィアの手の上に、自分の手を重ねた。

「私の作戦を信じてくれて、ありがとう」
「信じますとも。少なくとも、僕は貴女の才能や技術や……まあ、貴女そのものを信じていますよ」
 しばらく見つめ合っていた二人だったが、パトリツィアは顔が熱くなるのを感じて、視線を戦場へと向けた。

「終わりね」
「ええ、全ては貴女の功績です」
 パトリツィアが判断した通り、敵兵は潰走と呼ぶべき体たらくで逃げ帰り、後には多くの死体や重症の敵兵が残っているだけだった。
 この戦いで一万二千の兵を倒し、自軍の損害を三百弱で抑えた彼女は、帝国最強の騎士として名を馳せることになった。

 そしてこの二年後、彼女はベネディクトと結婚し、アルブレヒツヴェルガー子爵家夫人として地方の領地へと移り住み、以降は社交界にもほとんど顔を見せなくなった。
 彼女の騎士引退は王ですら引き留めの言葉をかけるほどに残念がられ、王城の執務室を引き払う際には、多くの貴族や職員だけでなく、侍女たちも仕事の手を止めて見送りに来たほどだった。

 パトリツィアの物語はこれで終わり、あとは一人の貴族家の妻として、そして母として余生を過ごすはずだった。
 彼女はそれを望んでいたし、誰もがそうなるだろうことを残念に思いながらも受け入れていた。帝国ではまだ、女性の地位はそれほど高くなく、一定の年齢になれば家に入るものというのが一般的な認識だったからだ。

 しかし、彼女が帝国史に紡ぐ物語はこれで終わりでは無かった。

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