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1.嫁騎士、再び

「……まさか、またこの礼服を着ることになるとは思わなかったわね」
 誰にも聞かれない声量で呟きながら、パトリツィア・グートシュタイン・アルブレヒツヴェルガーは皇帝の前に進み出て、跪いた。
 謁見の間に設えられた緋毛氈の上で、左右から好奇と畏敬の視線を受けているものの、彼女にとっては慣れたものだ。久しぶりではあるが、違和感はない。

「パトリツィア・アルブレヒツヴェルガー。立つが良い。救国の英雄ともいうべきそなたが、」
「はっ」
 皇帝に応え、スラリと立ち上がったパトリツィアの姿には立ち並ぶ男性だけでなく女性ですら感嘆の声を洩らす。

「子を産んだと聞いたが……」
「いやはや、まだ二十二歳ということで、若い頃よりも色気が出ておりますな」
 などと、中年の文官たちなどは口々にパトリツィアの美貌について語り合う。
 エロオヤジめ、と口には出さないまでも話をしている連中の顔をちらりと視界の端に捕えて憶えておくことにする。

「前例のないことではあるが……」
 皇帝が口を開くと、パトリツィアはその言葉に集中する。以前より多少老けた感はあるが未だ矍鑠としているこの皇帝には恩がある。
 結婚し引退するというパトリツィアの希望を快く赦し、反対する軍部を抑えてくれたこともあるが、それ以前に女性の騎士という存在を許したのもこの人物だった。

「前例などというものは、ただ『誰もやっていない』だけに過ぎぬことも多い。だが、余としても武官から申し出があった不安も理解している。よって、騎士への復帰は認めるが、金騎士としてでは無く、一つ格を落とした銀騎士として叙任する」
 異論はないな、と問われてパトリツィアは「ございません」と即答した。
 女だてらに男たちを指揮し、戦功をあげてきた彼女に対する嫌がらせであろうことは理解している。

 ふと見ると、武官たちの何割かが不服そうな顔をしているのが見えた。
「なるほど。そういうことね」
 パトリツィアは降格そのものは致し方ないとして受け入れるつもりだったが、どうやら武官連中はもっと下級からやり直させるつもりだったらしい。
 一度引退したとはいえ、彼女の味方はまだ宮中に居るらしい。あるいは皇帝自身がそうしたのかも知れない。

「少し気が楽になったわね」
 と、パトリツィアは口の中で誰にも聞かれないように呟く。
 とはいえ、銀騎士となると年金は減る。軍の指揮官クラスである金騎士と部隊指揮あるいは指揮官補佐クラスの銀騎士では手当も含めると金額にして十倍以上の差があるのだ。
 それでは彼女の『目標』を達成するには時間が掛かってしまう。
「どうにかして戦功をあげて昇進しないと。それに、他にもやることがあるし」

 皇帝が立ち上がり、近侍から剣を受け取ったのを見て、パトリツィアは再び跪いた。
 儀礼用に豪奢な装飾を施された剣が、そっとパトリツィアの細い肩に触れる。磨き上げられた曇り一つない刃に光が反射し、彼女の透明感を失っていない白い肌をより美しく際立たせた。
 城内で時折見ることができる叙勲の儀式ではあるが、この場にいた誰もが、彼女ほど蚊帳がいて見える騎士を見たことが無い。

「皇帝陛下の御為、そして帝国の永遠なる栄光のため、私は再び敵を屠る為の剣となりましょう」
「パトリツィア・グートシュタイン・アルブレヒツヴェルガーを帝国銀騎士に叙する。……また、そなたの力を帝国のために使って欲しい」
「よろこんで、陛下」

 拍手が巻き起こるが、人数の割には音は静かだった。
 その事を皇帝はどう考えているか、顔を伏せたまま後ろにさがったパトリツィアには表情を見ることができなかったが、鳴り響く拍手の中、小さくため息が聞こえたような気がした。
「陛下の身辺も、あまり安定しているというわけでは無いようね」

 謁見の間を出たパトリツィアは、用意されていた控えの間にて礼装の飾りを外すと、椅子に腰を下ろした。
 高価な鏡が設置されたこの部屋は、普段ならば国外からの貴賓や公爵など高位の貴族の為に使われるものだと彼女は知っている。高名な元騎士とはいえ子爵家の妻に過ぎない自分がこんな部屋を割り当てられた理由は、恐らく警備上の問題があったのだろう。

「誰かが気を遣ってくれたのね。そして逆に言えば、それだけ私の存在を嫌がっている相手がいるということよね。殺したいくらいに」
 この控えの間には隠し部屋があり、常に皇帝の近衛が待機し護衛にあたっている。何か大きな音なり異常を感知すれば、精鋭の騎士達が雪崩れ込んでくるだろう。
 出入りする侍女たちも信用がある高位貴族の息女たちばかりだ。

 皇帝陛下の身辺を守る近衛騎士達と何かとお世話をする侍女たちは、家柄や腕前だけでなく、思想や友人関係まで精査された一握りのエリートたちである。それぞれ軍や一般の侍女たちとはまったく別の組織として動いている。
 パトリツィアも以前の現役時には近衛への移籍話があったが、大した領地も持っていない子爵の娘では些か爵位が低いと判断されてしまったことがあるほどに厳格だった。

 近衛騎士は薔薇を象った印章を鎧のどこかに付けており、侍女たちは蒼薔薇をエプロンドレスの胸に飾る。彼女たちはその印を誇りにし、城で働く者たちも彼女たちをそのまま“蒼薔薇”と呼び、決して軽くは扱わない。
 蒼薔薇を経験した貴族令嬢は高位貴族の妻として人気が高く、場合によっては戦果を挙げた騎士よりも重宝される、貴族女性としては最高に名誉ある職でもある。

「それなのに、どうして平民出身のあなたがここに?」
「うふふ、お疲れ様でした。お姉さま」
 満面の笑みを浮かべて冷たく冷やした紅茶を差し出した侍女に向けて、パトリツィアは呆れと驚きを混ぜた息を洩らした。
 紅茶を受け取ったパトリツィアは、彼女の好み通りに少しだけはちみつを入れた爽やかな甘みを舌に感じて、訝しむ表情を緩める。

「お姉さまが引退されたあと、大変だったんですよぉ?」
 そう言いながらちゃっかり自分の分まで紅茶を用意していた侍女は、パトリツィアと向かい合うように座ってカップを傾けた。
「おっさんたちがやりたい放題。お蔭でわたしも引退しそびれちゃいました」
 パトリツィアの不在は大きかったようで、皇帝と軍部のつながりが弱まったところを有力貴族たちが武官の刷新を行ったらしい。

「お姉さまの旦那様が頑張っておられたんですけれど、影響は近衛や使用人にまで出始めてしまったんです。それで呼び戻されちゃいました」
 侍女の名はカチヤと言った。パトリツィアが言った通りに平民出身だが、パトリツィアと共に平然と戦場に出向き、腕も立つので専属の侍従として働いていた。
 パトリツィア引退後、しばらくは休暇と称してぶらぶらしていたらしいが、皇帝の命により呼び戻されたらしい。

「そこまでとはね……」
 皇帝がカチヤを頼ったのは、パトリツィアを通して彼女のことを知っていたからだろう。
「……夫は、あなたのことは?」
「知らないと思いますよ? ラットール平原の時も、わたしは目に入って無かったですし、呼び戻されたときもアルブレヒツヴェルガー子爵を通してってわけじゃありませんでしたし」

 それよりも、とカチヤはパトリツィアの右手を取り、両手に包み込む。目に涙を浮かべた表情は、彼女の幼く見える容姿も相まってかなり悲痛に見える。
「お姉さまがいない宮廷は寂しかったですよぉ」
「私だって、私の人生があるもの。子供も生まれたし、たまに領地に戻る夫を迎えるのを楽しみに日々を穏やかに過ごす人生を手に入れたの。あなたも好きに生きればいいじゃない」

「そうは言いますけれど、わたし程度の稼ぎじゃ悠々自適は難しいですよぅ」
「結婚すれば?」
「あっ! その台詞は勝ち組の驕りですよ、お姉さま! 子爵のようにお姉さまという妻を大事に大事に扱って、浮気もせず、領地に戻るのを楽しみに日々任務に勤しむ男性なんて、早々存在しないのです……何を幸せそうな顔をしているんですか」

 羅列された褒め言葉に思わずほころんだ顔に手を添えて真面目な表情を取り戻したパトリツィアは、現状を思い出して思わず重苦しい息を吐いた。
「その幸せが壊されようとしているのよ。だから私はここに帰ってきたの。カチヤ、また手伝ってくれるかしら? ……と言いたいところだけれど、皇帝陛下の命令でここにいるのよね」

「まあ、お仕事は色々ありますけれどね」
 カチヤの仕事は単なる使用人では無い。
 貴族の息がかかった侍女や近衛が入ってこないかを確認し、もし見つけたら脅すなり失敗をさせるなりして内々に“処理”してしまう。
 それでも辞めさせることが不可能な時は、実力行使も辞さない。

「お姉さまと一緒の時はそういう裏の仕事も少なかったですし、あちこち見に行けて楽しかったんですけれどね」
 城の中で人を疑い続ける仕事は、身体よりも心が疲れる、とカチヤはカップを脇にずらしてティーテーブルに突っ伏した。
「うーん、うーん……そう言えば私、どうして復帰されたのか詳しく知らないんですよねぇ」

 教えてもらえますか、とカチヤが顔を上げると、パトリツィアは少し迷ってから放し時始めた。
「簡単に言えば、“借金”ができたのよ。地方の子爵家にはまず返済が難しいくらいの、莫大な」
 予想外の言葉が出てきて、カチヤは元々丸くてくりっとした目をさらに丸くした。



 パトリツィアの夫であるベネディクトは、結婚して子供が出来たのを機に家督を継いでいたが、両親がまだ元気であり、何より頼れる妻が家にいることもあって帝国の騎士を続けていた。
 子爵としては裕福とは言えない領地という理由もあり、妻子に豊かな暮らしをさせたい一心で献身的に地方の巡察や国境警備など、高位貴族がやりたがらない仕事を率先して引き受けていたのだ。

「たまにしか帰ってこなかったけれど、息子のルッツの顔を見ては『元気になった』なんて言って、またすぐ任務に戻っていたわ」
 銀騎士のうちは城内に執務室は与えられないので、パトリツィアは城の敷地内にある詰所の一室を使えることになっていた。
 小さな部屋に入り、カチヤに手伝わせて荷物を整理しながら話を続けている。

 最初にパトリツィアが机に置いたのは、小さな肖像画だった。
 そこには彼女とベネディクト。そしてふくふくとした柔らかな頬を赤らめた赤ん坊が描かれている。
「息子さんですか? かわいい!」
「義父が趣味で絵を描いていて、私の為に用意してくださったのよ」

 趣味にしては随分とお上手な、とカチヤはじっと肖像を見ていた。
 その後ろでパトリツィアは荷物の中から愛用の剣を抜いて、確かめるように刀身を眺めている。
「もうこれを使うことは無いと思っていたけれど……夫は、出生先で“失敗”したわ」
「失敗、ですか」

 ある日、ベネディクトは敵部隊が侵入するとの情報を得た、と軍の上層部から迎撃指示を受けた。
 国内への侵入ルートは判明しており、兵の人数も充分だった。だが、問題は戦闘開始直後に判明する。
「誤認だったのよ。というより、最初からそうなるように仕向けたんじゃないかしら」

 ベネディクトを隊長とした部隊は、待ち伏せしていた場所で情報通りにやって来た『商隊に扮した敵軍』を攻撃した。ところが、相手は敵軍では無く商隊。それも帝国の侯爵家が依頼した荷物であったから、当然誰かに責任を被せろという話になった。
「それで、部隊の長だった夫が責任を被ることになって、降格はされないまでも地方への異動と莫大な賠償を課されたのよ」

 記録上はベネディクトが自ら賠償を申し出たとなっているが、アルブレヒツヴェルガー子爵家を逆さまに振っても出てこないような金額であり、騎士としての恩給を充てても百年以上かかる返済額となった。
「……なんだか、怪しいですね、それ」
「でしょう? でも、夫が自分で受け入れたとなったうえ、会うこともできなくて」

 ベネディクトは現在、他国との国境に置いて防衛のための一部隊を率いている。かなり危険な任地だが、今は農繁期も重なって敵の攻撃の心配はいらない。
「だから、私が復帰して功績を上げて、お金の工面をしようと思ったのよ。でも、目的はそれだけじゃないわ」
「うわ……」

 怜悧な視線が、パトリツィアの美しい瞳から手中の剣、輝く刀身へ向けて些かの揺れも無く向けられている。
 それを見て、カチヤは背筋に冷たいものが奔ると同時に、思い出した。
「私の夫を貶めた敵を見つけて、報復するわ。その為の情報を掴むために、帝都に戻って来たのよ」

 カチヤは知っている。
 ラットール平原での戦いの後、パトリツィアの名前を広く国外まで知らしめることになった出来事を。
「見つけて、どうするんですか?」
 答えを知っていても、カチヤはどうしても聞かざるを得なかった。

「決まっているわ。全員、殺す」
「やっぱり」
 戦闘が終わったラットール平原、カチヤを連れてパトリツィアは“見回り”に出た。それは戦場でまだ息がある者を探すためであったが、彼女はカチヤ以外の随行を許さなかった。

 そして結果は、「誰も生き残っていなかった」という短い報告のみ。
 パトリツィアは自らの敵となった相手が、たとえ勝敗が決したあとであっても生き残ることを許さなかった。
 丁寧に、しっかりと自分の敵を残さないように、一人一人に止めを刺していったのだ。
「お手伝いしますよ、お姉さま!」

 同じようなことを戦場で繰り返した彼女は、密かに“皆殺しのパトリツィア”と呼ばれるようになっていた。
 その彼女がいよいよ復活したのだと実感し、カチヤは否応なく自分が興奮しているのを抑えきれない。
 カチヤはパトリツィアのそんなところが大好きなのだから。

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