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(二)

 三人を生贄にした。そして、二人を救った。
 けれど、どれだけの犠牲を伴おうとも、それをできうる限り最小限に止めることを求められていた。
 天秤では吊り合わないその行為を、人々は正義だと讃えるのだ。
 誰が求めているのだろう。
 誰が幾千、幾万の命を踏み台にしてでも生き残ることを、求めているのだろう。
 私が勇者となって、もう五年になる。歳は十七。けれど、毎日やることは何も変わらない。人の命を使って、魔物を殺す。それだけだ。
 何人の血を飲んだだろう。何人の命を使っただろう。
 いつからかその命を数えることを止めてしまった。
 私は、正しいことをしたのか。
 私は、求められているのか。
 砂漠の真ん中。
 私が立つのは無数の砂粒の上、夜空に浮かぶ星々もまた無数。無限に近いそれらに私は囲まれて、そして潰されそうになる。
「レフ」
 耐え切れなくなって、彼の名を呼んだ。
「大丈夫、アルマ。アルマは正しいよ」
 そう言うと、彼は私をそっと抱き寄せた。
 温かかった。安心できた。
 引き裂くような苦悩も、彼に抱き締められている間だけは、忘れていられた。
 私も彼の背中に腕を回す。すると更に密着して、吐息が耳に掛かった。
 夜になると、自らの正しさが信じられなくなって、彼の言葉に縋った。
 初めてこうしてもらった時から始まり、今では最早毎日のこと。
 私より少し小さいくらいだったレフの身長はかなり伸びて、この一年半の間に私を抜いた。
「アルマは正しい」
 迷いを断ち切るにはその囁きだけで充分だった。
 それだけで私は明日も戦える。
 正義と悪の真ん中を、白と黒の真ん中を。何の躊躇いもなく歩いて行ける。
 レフの首元に顔を押し付けて、腕に少し力を込めた。
「……ありがとう」
 小さな声でそう告げる。彼に聞こえたかどうかは分からない。
 そして、私は一息つくと腕を降ろして、彼から離れた。
「アルマ、必要な時はちゃんと僕の命を」
 闇の透けるレフの瞳は、しっかりと私を捉えている。会った時から変わらない約束だった。
 ゆっくりと頷く。
 私はいつか、彼の命で誰かを救う。
 それだけはちゃんと、分かっている。
「はあ」
 ため息染みた呼気が漏れた。
 砂漠の夜は意外に冷える。昼の暑さなど忘れたようだった。
 ローブに首を屈める。
 私が軽く足を動かすと、細かすぎる砂粒の中に少し埋もれた。
 レフはいつの間にか天幕に潜り込み、寝息を立てている。
 私は聖剣を抱えて、座り込んだ。
 そして、静かな砂漠の夜の中で、ただ、夜明けを待っている。
 それから、星月の位置以外は何も変わることなく、数時間が経過した。
 東の地平線が朝焼けに染まり始める時、レフも目覚めた。共に軽く食事を済ませると、広げた天幕などを片付ける。そして、太陽が地平線から半分ほど顔を出したとき、私たちは出発した。
 私たちは今、国からの命によって、国の西南に広がるヘグサゴ砂漠にいる。
 普段はここを収める貴族直轄の兵が哨戒しているけれど、その兵らはネクスタへ派遣されている。
 ネクスタが中規模の侵攻を受けたのだ。
 此度もなんとか撃退したものの、幾度にも渡る魔物の侵攻で街も人も疲弊しきったネクスタは最早、自らの力だけで復興することは叶わなくなっている。
 勿論、ネクスタの防衛には私も出向いた。何とか保ってはいるが、徐々に弱っていくネクスタという街は死に際の老人のようだ。けれど、そんなネクスタでも陥落したら、大変な事態になる。
 ヘグサゴ砂漠は普段から魔物の侵攻が少ない土地で、魔物と戦闘になることはないだろう。もし魔物と行き会っても、その報告だけでいいと国から言われていた。
 確かにこの辺りは魔物の侵攻が少ないらしい。侵攻が苛烈さを増す最近、魔物の領域の近くを歩いていれば、週に二回はその姿を見た。しかし、ヘグサゴ砂漠に来てもう二週間近くになるけれど、まだ一度も見かけてはいない。
 魔物と行き会う心配は確かにないが、代わりに水不足が問題だった。
 砂漠の川はよく位置を変えるため、 レフが持つ地理の知識も無意味だった。
 一昨日からより深刻化したこの問題をレフと話し合った結果、ハリルという男の元へ行くことになった。
 ハリルはこの砂漠にたった一人で住んでいる男らしい。
 レフの師、アウレルの友人で、レフ自身も何度か顔は合わせていると聞いた。レフ曰く、喋り好きの面白い人だとのことだ。
 砂丘を一つ越え、二つ越える。
「あそこだよ」
 砂除けのマントを口元から少しずらして、そうレフは言った。
 指差した方は廃墟の様だった。
 土壁作りの家が十軒ほど建ち並んではいたが、砂漠の強い風の影響か壁が崩れかかった物さえあった。
「レフ……。私にはとてもじゃないけど、あそこに人が住んでいるようには見えない」
「よく見て。左から三つめ」
 レフの言う通りに左から三つ目の家を見るも、私には他より少しばかり傷みが少ないだけにしかみえない。
 それは近付いてもやはり廃墟にしか見えなかった。けれど、黙ってレフに続く。
 レフがこれまで土地の話で間違えたことはなく、信頼している。しかし、今回は流石に間違っていると思う。
 首をかしげる私を他所に、レフは海岸に打ち上がった木板をそのまま建て付けたような扉を叩いた。
「ハリルさん、僕です。アウレルのところの。ハリルさん」
 レフが叩く度に扉は軋んで、今にも外れ落ちてしまいそうだった。
 しかし、中からの反応はない。
「出掛けてるのかな……」
 レフはそんなことを呟きながらもう三度、扉を叩いた。
「扉を叩くのやめろ、アウレルんとこの小坊主。ただでさえボロいんだ。扉でも外れちまったらどうする。風通しが今以上に良くなっちまうだろ?」
 背後から掛けられたその声に振り向いてみれば、日に焼けた長身の男が立っていた。風通しの良さそうな服を着流し、頭にはターバンを巻いたその男は、まさに砂漠の民だった。
 ガタリ。そんな音が後ろから聞こえる。
「あ……」
 虚しくも外れた扉板が砂埃を巻き上げていた。
 振り向いて、目に入ったそれに思わずそう言葉が漏れる。
「あーあー、おめえ……」
 少し気まずい沈黙の後、「中に入れ」とハリルに促されて私とレフは中へ入った。
 埃っぽい部屋には粗末なベッドとテーブル、そして椅子。無造作に置かれた生活雑品、片付いているわけでも散らかっているわけでもない。けれど、あの廃墟のような見た目にしては案外普通の室内だった。
「あーあ、こりゃあもう戸板にガタが来てやがったな」
 戸板を見ていたハリルがそう呟くと、レフが「すみません」と頭を下げた。
「いんや、まあ、仕方ねえし、薪も少なくなってた。ちょうどよかったぞ、小坊主」
 そう言ってハリルはニシシと笑った。
 決して綺麗とは言えない肌に、白い歯が映える。
「それでそっちのお嬢ちゃんは初顔だな、名前は」
 座れと手振りをしながら、私にそう聞いた。
 ハリルとレフが椅子に着いたのを確認して、私も腰を降ろす。
「勇者、アルマです。初めまして」
「勇者……、それでその剣ね。俺はハリル、こんなとこにかれこれ二十年くらい住んでる。時々来る商人くらいしか話し相手がいねえからな、んまあー、暇だ。いつでも来てくれれば歓迎するかんな、よろしくな。んで、なんで勇者サマがアウレルのとこの小坊主と一緒に。いやなに、全然構わないんだけどな、ただなんでこんな小坊主と勇者が一緒なのかが気になってな」
 ……確かにレフの言っていた通り、よく喋る人だった。
 しかし、よく喋るということ以上に私が驚いたのは、私を勇者と知ってなお変わらない態度だ。
 勇者となってからこれまで会ってきた人は、全員私に対して遜ってきていた。レフは共に過ごしている内にいつの間にかそうではなくなったが、それでも最初は例に漏れずであった。
 そうして欲しいなんて思ったことは一度もないが、それでも全員私に、いや勇者という存在に対して一歩離れた所から接してきていたように思える。
 良し悪しは分からないが、不思議と嫌な気持ではなかった。
 ただ会話の速度が速すぎて、付いていけるかだけが不安だった。
「まあ、その出会いの話やらなんやらの話は追々聞くとして」
 そう言うと、喋り始めてからおそらく初めてハリルは息を吸った。
「アウレルはどうしてるんだ」
 ハリルのその言葉で、空気が乾いていくのを感じた。
 沈黙。
 そして、レフが息を吸う。
「……アウレルは」
 レフの拳に力が入るのが見えた。
 彼の少し伸びた爪が手の平を刺して、血が滲んでいる。
「アウレルは……、死にました」
 レフはそれだけ言うと、唇を噛んだ。視線は地へと落ちる。
 ハリルの顔からは表情が徐々に消えていって、そして少し長い瞬きをした。
「……そうか」
 長い沈黙の後にハリルは一言、そう呟いた。
 レフはこれまでの経緯をぽつぽつと語り始めた。
 サダリアの街がワイバーンに襲われて、レフがアウレルを見捨てたこと。私と共にワイバーン討伐に向かったこと。そこで死ねなかったこと。サダリアの人々の末路のこと。そして、いつか贄になるために私といること。
「だから……。だから僕は、死にたいんです」
 レフが顔を上げる。
 脱力して開かれた手の平には、爪の跡が四つ。
「そうしないと、アウレルに顔向けできない」
 空へと溶けるような自然さでレフはそう言った。
 真っ直ぐにハリルへ向けたその瞳は、ただ虚ろ。
「レフ」
 黙って聞いていたハリルが、白いものが混じっている無精髭を撫でながらその名を呼ぶ。
「俺はな、レフ。アウレルとの付き合いは大分長い。腐れ縁っていうのもあるし、何より気が合った。……まあ、とりあえず長いんだ」
 さっきの捲し立てるような喋り方では無く、ゆっくりと、聞かせるためにハリルは言う。
「あいつはあんまり喋らなかったよ、けどな、それでもあいつが考えていたことは、俺にはなんとなく分かる」
 窓から入った西日が、壁を赤く染めている。
「レフ。アウレルは最期、お前になんて声を掛けた? お前が死ぬことを望んでいたか?」
 ハリルがそうレフに尋ねた。
 日の傾きが増すにつれて赤色が徐々に壁を這い上り、そして遂には消えた。
「分かっている筈だ」
 一滴、二滴。
 レフの瞳からこぼれた涙がテーブルに当たり、撥ねる音が鼓膜を揺らす。
 レフの肩は震え始めて、時折鼻を啜る。
 傷跡のある手の平で何度か涙を拭くも、彼の抱いている感情が更に大きくなっていくのが分かった。
 最後には、レフはしゃくりを上げて泣き始めた。
 なんとなく私はここにいてはいけない気がして、そっと離れ、そして外へ出た。
 ちらりと後ろを見ると、ハリルが立ってレフの背中を優しく撫でている。
 砂丘を一つ越えると、レフの嗚咽は聞こえなくなった。
 その場所で、私は腰を降ろす。
 話から察するに、アウレルはレフに生きて欲しかったのだろうと思う。
 これまでレフから聞いた話だけでしか私はアウレルという男を知らない。しかし、それだけでもレフのことを大事に思っていたのだと分かる。
 右手で聖剣の鞘を触った。
 父は、私をそう思っていたのだろう。自然とそんなことを思った。
 指先に触れる聖剣は、暗く、深く、そして重い。
 やはり砂漠の夜は随分と冷えて、私はローブを深く被って膝を抱えた。
 地平線の向こうから風が吹いてきているのが、砂の動きから分かった。砂の海の波は段々と私の方へと近づいてきて、そして通り抜ける。
 周りには誰もいない。
 私は、独りだ。
 砂の波は幾度も押し寄せて、通り抜けていく。
 私が孤独であると浮き彫りにしていく。
 犠牲となって死んでいった人々が脳裏に浮かんでは消えていった。
 数えることを止めても、一人一人の目が、私を見ている。最後の声が、私の中で反響する。
 私は彼らの期待に応えてきた。間違いのない選択を採ってきたのだ。
 生気のない童女の眼が、見ている。
 「けれど、私は許せない」怒りと悲しみの混じったその声は、未だに私の胸に深く突き刺さったまま。
 正しいことだけを積み重ねた果てに、私は何処へ辿り着くのか。
 漠然と想像できるその場所へ進むことが、私は怖かった。
「アルマ」
 後ろから名前を呼ばれた。いつの間にか声変わりして少し低くなったその声ももう聞き慣れていて、顔を見る前から彼の名を呼ぶ。
「レフ」
 彼の顔を見た。泣いたせいか、その目は少し腫ぼったい。
 レフは私の右に腰を下ろした。
「ハリルさん、水分けてくれるってさ」
「そか、良かった」
「あと四日で国から依頼されていた日数は終わるけど、その日までの分は大丈夫そうだよ」
「後で、お礼言わなくちゃね」
「依頼終わったら何処に行く?」
「東南の、ヘプタ海の近くかな、最近侵攻が激しいらしいし」
 私は、ほっとしていた。
 彼はまだ私と旅をするつもりらしいのだと。でも、それは同時に彼の命を使うということだった。
 砂を掴む。細かすぎる砂漠の砂はさらさらと手から零れていく。
「砂漠の夜空は綺麗だね」
 レフにそう言われて、私は空を見上げた。彼方まで続く空に、無数の星。その星に潰されそうで、私は少し怖かった。
 そっと私の右手にレフの左手が載せられる。温かい手だった。
「うん、綺麗だね」
 私はそう返す。レフの左手は、私の右手を軽く握ってくれた。
「アルマ、僕はこの世界が嫌いだ」
 レフはそう言ってしばらく夜空を眺めて、それからそっと切り出した。
「こんな世界は滅びてしまえばいいと、魔物に侵されて亡くなってしまえばいいと、心の奥底でずっとそう思ってた。……勇者たる君に言うことじゃないかもしれないね。でも、聞いて欲しいんだ」
 彼の告白を私は否定も肯定もせず、ただ受け止めた。
 レフは続けて話す。
「そして、僕はそれ以上に、この世界を嫌っている僕自身が大嫌いだ」
 そう語る彼の横顔は、月光に照らされている。
「でもね、アウレルと共にしばらく過ごして少しだけ、変われる気がしたんだ。世界が今までより少しだけ綺麗に見えて、心もどこか軽く感じた。アウレルを殺してしまう前に、そう感じていた瞬間があった。ハリルさんと話して、そんなことを思い出したよ」
  淡い光は彼の白い肌によく馴染んでいて、とても美しく、そして儚く見えた。
「世界を好きになりたいよ。アウレルが諭してくれた通りに。何より、僕は僕自身を好きになるために。……だからアルマ」
 そう言って彼はこちらを向いた。
 彼の黒曜石のような瞳には星空が映りこんでいて、それはとても輝いて見えた。
「だからアルマ、これからも君の旅路に」
 私も彼の方に身体を向ける。
 言葉を返すのにしばらくの時間が掛かった。
 それは、生贄としてではない彼を受け入れてこの先の旅路を行くということだからだ。勿論、彼もいざとなれば命を差し出す覚悟はあるだろう。しかし、そのことは今までと違って第一義ではない。
 それは一体どういう意味なのか。これまでとは違うのか。私の頭に思考が巡る。
「うん、よろしく」
 思い悩む頭とは反して、自然と口はそう返していた。
 私は彼に何を求めているのか。私にとって彼は何なのか。
 けれど、無理にそんなことを考えなくても、答えは分かっていた。
「ねえ、レフ」
 私は勇者として正しいのかな。間違っていないのかな。
 私はこのまま進んでいっていいのかな。
 そんな言葉が漏れ出る前に、彼は優しく私を抱いた。
 目を瞑って、彼を受け入れる。身じろぎ一つしない。
 人肌の温もりが、心地よかった。
 これで私は明日も行ける。
 そう確信できた。
 無限に近い砂粒の上で、私たちは、二人だった。

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