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(一)

 森の合間を縫って吹く春の微風に乗ってきたのは、血と鉄と煙の臭いだった。
 風上の方を見れば、山向こうの空に細く赤い煙が立ち上っているのが見える。それは魔物に襲われていることを報せる狼煙だ。この狼煙を見て人々は救援に来る、あるいはそこから遠ざかる。無論、私は前者だ。
 東の街、カルトルの近くに来てから一カ月と少し、私の見た限りでももう五度も襲撃されている。噂通り東方は魔物の侵攻が激しいらしい。
「レフ」
「この先に約六キロメートル。山頂に砦のような村があります」
 私の呼び掛けに対して、レフは迷いなく近くの村の情報を述べた。私はそれに「分かった」と返事をする。
 レフと共に旅をするようになってから早四カ月。私が魔物の襲撃を感知すると、このやり取りをするのが普通になっている。というより、このような会話以外あまりしない。
 彼は狩人の見習いとして数年を過ごしただけはあり、この国の地理に詳しかった。今回は狼煙が上がっているので分かりやすいが、ただ命の消える感覚だけがする場合などはレフの知識はとても役に立つ。
 レフの山歩きは常人よりは遥かに速い。しかし、勇者である私の本気の走りとは比べるまでもない。だから、私は先行して、彼は後から追いつく。少しでも身軽であった方が早く駆けられるのは確かなので、私は手に持った手荷物が入った頭陀袋をレフに手渡す。彼はそれを受け取ると、顔を私に向けた。真剣な目つきだ。
「アルマ様、必要であれば、僕の命を」
 戦いに赴く前、必ず私に彼はこう言う。私はそれにいつも通りに首を横に振り、言った。
「大丈夫」
「分かりました。ではお気をつけて」
 私は頷いて、駆けだした。
 彼の命を直ぐに使おうという気は起きなかった。もっと使いどころがある筈だ。
 あの日に感じた父とレフの重なりは、今は勘違いだったのではないかと思う。共に日々を過ごせば過ごすほど、彼と父は離れていく。だが、なんとなくそれに、父の気持ちを知らないで済んだことに、安堵感を感じている。何故かは、分からない。
 大分寒さが緩んだ春。若草色の新芽が萌えて、白い花を咲かせている木さえあった。そんな木々の合間を縫って駆ける。
 峠を越えると、正面の山の頂きに村があった。
 丸太を地面に埋めて作られた高い壁のような柵や高い物見櫓のような物が建っている。確かにその中から赤い狼煙が立ち上っている。レフの情報通り、砦の様だった。東方は魔物に対する防衛意識が高く、小さな集落でもこのようにしているらしい。
 攻め込まれてからどの程度経ったのかは知らないが、未だに命が消えていくあの感覚はしていなかった。砦の様な作りにしているだけの効果はあるのだろう。
 私は足を緩めることはせずにそのまま駆ける。近付くに連れて様子の仔細が分かった。
 三体程度のゴブリンが村の柵に取り付いて、侵入を試みている。それに対して村人が柵の上から岩などを落として対抗してる。その村人を、後方から数体のゴブリンが弓で、狙っている。
 私は躊躇わないで、争いの真ん中に飛び出た。そしてそのまま、柵を駆け上がる。
 風切り音。反射的に身を捩ると、柵に矢が深く突き立っていた。その矢を足場にして、飛ぶ。矢は折れたが、村の中に入ることができた。
 ゴブリンに応戦していた十人ばかりの男衆は手を止めて武器を持ち、身構える。
「勇者アルマ、赤い狼煙を捉えて救援に来た次第です。この村の長と話がしたい」
 私がそう声を張ると、男衆はまた応戦のために手を動かし始めた。そして、一人の男が拳大の石を柵から投げながら、私に言った。
「勇者様、すまねえが案内に割く人がいねえ。村長はあの櫓の下にある建物にいる」
 私は首肯して、男が指さした方向へと向かった。
 物見櫓の下の辺りに着く。男の言った通り周りよりも少し大きい建物があり、その入り口前で老爺と中年の女性と話し込んでいた。恐らく老爺が村長だろう。
「貴方がこの村の長の方ですか」
「そうだが……」
 私が声を掛けると、話を止めて村長は私の方へと目を向けた。髪や眉は白くかなりの年齢だと分かったが、その割には強健な印象だった。凛とした瞳が私を見据えた後、その顔は驚きへと変わった。
「その切っ先から柄まで黒い剣……。まさか、勇者様でありますか?」
「勇者アルマです。助太刀に参りました」
「やはり……。今は貴方のような少女が勇者様なのですな……。村長のブンセイです。若い頃に勇者様に助けられたことがありましてな。その剣、見覚えがあります」
 この村もか、と私は思った。先代の勇者に、私の父に助けられたという村にはここ以外にもいくつか当たった経験があった。心が少し、ざわつく。
「何にしろ、あまり外で話す内容ではなくなりそうですな。とりあえず、中へ」
 村長に促され、私は建物の中に入った。村長は女性に一言二言、指示を出すと後について中へ入って来た。
 建物の中では、円卓を囲んだ十五人程度が額を寄せて話し合っていた。声からは、恐怖や焦り、怒気が感じられる。中年から高齢の男が殆どだった。おそらく力のある者は応戦に出ているのだろう。
「皆の者、静まれ」
 村長が声を上げると、声はぴたりと止んだ。
「勇者様がお見えになられた」
 それを聞いて、何人かは小さく安堵の息を漏らしている。
「年寄は知っているだろうが、勇者様が力を振るうには魔物と同じ数だけの贄が必要だ」
 その言葉に安堵の息を漏らしていた者は、眉根に皺を寄せた。その中でも一際若い男が言った。
「ブンセイ殿、それは村人の中から生贄を出せ、ということでしょうか」
「その通りだ、ハンリツ」
 その言葉に村長は深く頷き、言った。
 ハンリツと呼ばれたその青年をよく見てみれば、右腕が肩から無かった。だから応戦には出ず、ここにいるのだろう。しかし、聡明そうなその顔から察するに、この場にいるのはそれだけが理由ではないらしかった。
 その言葉に別の男が声を上げる。
「このまま勇者殿の力を借りずに戦うというのは……」
 その言葉を遮り、青年、ハンリツは言った。
「あと一時間もしない内に村から投げるものが無くなる。そうすればゴブリンの侵入を許す。このまま嬲られているよりは多くの者が助かるだろう。我々だけでは、魔物には勝てない」
 その言葉に、空気が重くなったのを感じた。そして、村長のブンセイが言葉を続ける。
「ゴブリンの数は七体。時間は余り無い。決めよう」
 暫くの静寂の後、最高齢と思われる老爺が口を開いた。
「順当に考えて、まずは儂じゃろうな。病で先も長くない。……これで、一人じゃ」
 誰も声を上げない。沈黙が肯定を示していた。ハンリツは目を閉じて、唇を噛んでいる。
 それが呼び水となったのか、次々と自らの老いや病を理由に手を上げた。それらに対して誰も反論することは無かった。
「……これで六人か」
 ブンセイはそう言うと、深く目を閉じて静かに続けた。
「最後は……、七人目は私がなろう」
 その言葉に流石に場がどよめいた。人々が口々に反対の声を上げる。
「ブンセイ殿、それは駄目だ。貴方は村の長だ。貴方がなるのなら、私がなろう」
 ハンリツが立ち上がり、若干の怒気を含んだ声でそう言った。すると場はまた水を打ったように静まり返った。
「ハンリツよ……。お前には娘がおったな。妻を亡くしたお前の、たった一人の家族だ」
「それは、……そうですが、しかし、村長を失うというのは村にとって……」
 ハンリツの勢いが僅かに失われる。
「村長だからという理由で俺が駄目であるなら、ハンリツ、一つ提案しよう」
 そして、ブンセイは目を真っ直ぐにハンリツへと向けて、言った。
「俺は、このブンセイは、今を以って村長を辞める。後継は、ハンリツ。お前だ。……反対するものはいるか」
 突然の出来事だったが、その場にいる全員が首を振った。ハンリツが村長になるのに賛成ということだ。
「なら決まりだ。掟に従い、この時より村の長はハンリツだ」
「いや、しかし……」
 ハンリツは拳を強く握る。葛藤しているのがよく分かった。何度も強く目を瞬かせた後、自らの腿を強く殴り彼は言った。
「つ、慎んで……、お受けいたします」
「うむ。では、決定だ」
 そう言うとブンセイは贄となった者たちに隣の小屋に移るように声を掛けた。
「勇者殿、儀式は隣の小屋で行いましょう。お願いします」
 私は首肯する。そして、ブンセイは未だに立ち尽くすハンリツに言った。
「ハンリツ。村のこと、任せたぞ。お前ならできる」
 そして、ブンセイは私に「行きましょう」と言い、二人で隣の小屋へと移動した。
 小屋の中に入ると、六人が並んでいた。ブンセイはその末尾に着いた。
 そして、最初に手を上げた老爺が私の前に来ると、小さな包丁で以って右手の人差し指を切った。
 指先から色の悪い血がじんわりと滲む。ハリのない肌にべたりと広がった。右腕を持ち上げて、指を私の口元へとやった。指先は僅かに震えている。年のせいか、何なのか。
 私は老爺の手首を両手で支えて、そして指先を口に運んだ。舌先で感じるのは、良く知った鉄の味。指先だけを口で覆う。乾いた肌に私の唾液が染み込む。私は傷口に舌先を押し付けて、さらに溢れてきた血を、こくりと喉を鳴らして飲み込んだ。そして、一拍置いて、私は口を開き、老爺の指を口から出した。
「勇者様、頼みます」
 私を真っ直ぐに見て放ったその老爺の言葉。私は自身に言われているのではないような感覚を覚え、自分の腿をつねった。痛みが走って、私は口を開いた。
「分かった。任せてほしい」
 そう言うと、胸の奥の方に重いものが沈んでいった。出そうになるため息を飲み込むと、老爺は隣の男に小さな包丁を手渡した。
 すると、その男も受け取ったそれで指先を切った。
 そうして、同じように六人の血と覚悟を私は飲み込んだ。
 最後にその包丁はブンセイへと手渡される。
 ブンセイは左手でそれを躊躇いなく受け取って、右手に持ち直した。ごつごつとした手だ。左手を開いた状態で、自身の眼前まで持ち上げると、ゆっくりとその人差し指を切った。ブンセイは刃先が指先の肉を断つところを、瞬き一つなく見ている。傷口から血が流れて、指を伝い、彼の浅黒い肌に比べたら白い手の平を赤が汚した。彼は人差し指以外の指を握りこむと、目を強く閉じた。そして、無言で突き出す。
 私はその無骨な手をなるべく優しく包んで、指先を口へと含んだ。他の者より遥かに太いその指。傷口に舌先で触れて、流れた血の筋に沿って、指全体を舐めた。ブンセイの血の味は他の人よりも僅かに鉄臭いような気がした。
 そして口を閉じたまま指を引き抜くと、私の口から引いた唾液の糸が、ブンセイの指先と繋がっている。口を開けば、応じるようにその糸は切れて、私は小さく吐息を漏らした。
 ブンセイは閉じていた目を開く。
「勇者様、よろしくお願いします」
 私の背負う聖剣をその瞳に映して、考えたことは、過去のことか、それとも未来のことか。
「うん。任せてほしい」
 何も分からない私は、これまで皆に言ってきたのと同じようにそう言うしか仕方がなかった。
 それでもブンセイは安心したように微笑んで、言うのだ。
「ありがとう……、ございます」
 使命、宿命、運命。
 私は背負う聖剣に、理不尽な重みを感じた。それでも、私よりも私に命を使われる人々は恐らく、もっと。
 何とも言えない静寂が包む小屋を私は後にして、外へと出る。晴天がこの理不尽が日常であるとそう告げている。
「家でも壊して持ってこい。奴らに入られちゃあ、俺らは終わりだ」
「でも、そうしたら、明日からどうする」
「うるせえ、今日くたばったら明日は無ぇだろ」
 男たちのそんな怒鳴り合いを横に、私は聖剣を抜いた。すらりと音が響いて、男たちは口を閉ざした。
 そうだ。明日のことなんて分からない。ただ私は、今日を守ることを求められている。私に必定の末路を、ただその日を、少しでも遠くに追いやるだけ。
 鼻からゆっくり息を吐いて、聖剣の重みを確かめる。
 地面に落ちた鞘がカランカランと音を立てて、次第にその動きが小刻みになり、遂には静止する。
 そして私は、駆け出した。
 この村を取り囲む柵を乗り越えようとしているゴブリンを視認する。
 一人の青年が丸太でそのゴブリンを落とそうとするも軽々と避けられた。
 ゴブリンが彼を襲おうと振りかぶった瞬間、私は跳んだ。そして、勢いを乗せて聖剣を頭蓋に突き刺す。一。
 引き抜き、青年を一瞥。返り血を浴びて、目には恐怖。しかし、怪我は無さそうだった。
 私は柵を飛び越える。落ちざまに柵に取り付いて登っていたゴブリンの首筋を切り裂く。二。
 醜い断末魔と共に地面に降りると、三体のゴブリンに取り囲まれていた。後ろは柵。逃げ場はない。
 一体が手に持った粗末な短剣を薙いだ。私はそれを伏せて避けると、ゴブリンの屍を拾って投げつけた。怯んだ隙に、屍ごと一閃する。三。
 聖剣を振り抜いた隙を突いた攻撃を身を捩って躱し、そのまま背を向け、柵を三歩駆け上がって蹴った。空中で翻り、ゴブリンの背後へと着地。真一文字に斬った。四。
 直後に一体が短剣を振り下ろしてくる。私はそれを聖剣の柄で受け止めて、流した。そして、僅かに態勢を崩したゴブリンの肩に真っ直ぐに振った。五。
 瞬間、息つく暇もなく、風切り音。私の命を狙ったその二本の矢。聖剣を二度薙いで破壊する。発射元の方を向いて、眼を細めた。弓を携えた二体のゴブリンを山の中腹辺りに確認する。
 私は極度な前傾姿勢を取り、地面を思い切り蹴りつけ、駆け走った。ゴブリンらはさらに矢を番えて、引き絞り、撃ち放った。一本は私の頭上を掠めて、金髪を数本攫う。もう一本は確実に私の眉間を捉えていた。体一つ分右に避けて、そして大きく跳んだ。私の跳躍力と重力の均衡点。そこで射掛けられた矢を聖剣で真っ二つにへし折った。そして、聖剣を逆手に持ち替えると、再び放たれた矢を回転して避ける。着地と同時にゴブリンを斬り裂いた。六。
 その様子を見た7体目が弓を放り投げて背を向け、逃げようとするが、私はそれを許さない。私は腕を振って、聖剣を投擲。黒いそれがゴブリンの心臓を貫き、最後の断末魔が蒼穹に響いた。七。
 私は一息つくと、いつもの足取りでゴブリンへと近づき、聖剣を引き抜いた。空振って付いた血を落とし、翻して、村の方を見る。
 消された赤い狼煙の残滓が風に流されて、空中に細く流れていた。
 村の近くにまで戻ると、丸太の柵の上から村人の一人から声を掛けられた。どうやら向こうへ回れということらしい。村人が指さした方向に行くと、大きく開いた門があった。この村の正門のようだ。門の向こうには私が救った百人近くの人々がいた。
 その中には、いつの間にか着いていたレフの姿もあった。人の輪から数歩下がったところで、私のことを見ている。
 私は聖剣を地面に突き立て、腹から声を出した。
「勇者アルマ。ゴブリンを七体、討ちました」
 その言葉で村人たちの表情に喜色が浮かんだ。感謝の言葉が方々から掛けられて、拍手の音が鳴り渡る。
 今日も私は成し遂げた。
 勇者としての責任を果たして、人々の期待に応えて、求めに従った。その安堵感で緊張が解けて、身体から若干力が抜ける。
 この瞬間は、この瞬間だけは、私も素直に嬉しかった。
 十に届かない程度の童女に飛び付かれ、私は態勢を崩し、尻餅をついた。童女が私に笑い掛ける。それにつられて、私も少し微笑んだ。
 風切り音。
 肉を貫く音。
 私の胸元にぽたりぽたりと赤い雫が落ちる。
「あ……」
 私は小さくそう漏らした。
 眼前の童女の胸に突き立っている、矢。
 首を後ろに向ける。赤い目と視線が合った。8体目だ。
 私の上に乗った童女を退け、立ち上がった。聖剣を引き抜き、ゴブリンの方へと向く。二射目の矢を引き番え始めている。
 童女のか細い息が聞こえる。長くはないだろう。逡巡する。しかし、結論は決まっていた。
「ごめんなさい」
 誰にも聞こえない声でそう呟くと、私は聖剣の切っ先を横たわる童女の華奢な胸に刺した。
 人を斬ったのは初めてだ。魔物を斬る時よりも抵抗があるのは、儀式をしていないせいなのか。
 しゃがみ、童女の目を見開いたまま瞼を閉じた。
 ゴブリンを両の目で捉える。息を大きく吸い込んで、止める。そして、その状態から両足で地面を蹴った。一足飛びで近づき、聖剣を振り被る。短く気合を発して、叩き斬った。八。
 剣についた童女のともゴブリンのとも分からない血を見て、私は目を目を閉じ、息を吐き出した。
 振り返ると、人々の視線が私と童女の骸に向けられていた。
 私はそれに対して何の反応をすれば良いのか全く分からず、ただ誰とも視線を合わさないようにぼんやりと見るより仕方がない。
 群衆の中から、一人の男が童女の遺骸に飛びつき、その胸に強く抱きしめて、叫んだ。
「勇者様、何故っ。何で……。いや、分かるさ、分かっています。……けれど、しかし。分からない。何故、何故なのですか。
何故、私の娘なのですか。今、命を落としたのは、何故私の娘でなくてはならなかったのですか」
 涙交じりの咆哮が、私の耳を劈く。
 隻腕のその男、ハンリツだった。
 ブンセイは「お前のたった一人の家族で、娘にとってもお前がたった一人の家族だ」と彼に言っていた。
 恐らく、娘を独りにしない為に、ブンセイの死を受け入れたのだ。しかし、それを私は奪った。私がこの手で。
 ハンリツは娘の亡骸を膝に抱えながら、何度も何度も地面を殴りつけた。「何で、どうして」そのつぶやきだけが聞こえる。
 拳から血が流れ、肉が抉れ、骨が少し見え始めた時より、ハンリツの殴打は次第に弱くなり、遂には蹲るようになって、止まった。
 啜り泣く声が聞こえて、そのままの姿勢でハ ンリツは言った。
「勇者様……。この村を救って頂き、ありがとうございます。勇者様には最良の選択をして頂きました。お陰で今、我々は命があります」
 ハンリツが再び、娘だったそれを強く抱く。
「けれど私は許せない。分かっています。全て、勇者様のせいじゃない。けれど、でも……、あなたのせいにしないと、私は。私は、どうすれば良いのですか……」
 顔を上げた彼の怒りに変えられない悲しみでぐしゃぐしゃになった表情。
 確かに私の責任ではなかった。
 しかしそれは、私が私の責任ではないと言って逃げられることではないのも事実だった。
 ハンリツの娘を殺したのは、勇者たるこの私だ。
「勇者様、すみません。あなたの顔を、もう見たくない……」
「分かりました」
 私は短くそう返して、村に背を向け、歩き始めた。
 私は救った。
 私は失わなかった。
 私は間違ってはいなかったのだと、そう自分に言い聞かせて、一歩一歩と遠ざかって行った。
 ハンリツの慟哭を背中に受け止めながらも、足を止めはしなかった。道の真ん中から少し外れた所を私はつい急く足を宥めながら、それでも少し早歩きになりながら行く。
 私は正しいことをした。間違っていなかった。後悔はない。最良の選択をしたのだ。
 しかし、一刻も早くここから走って逃げ出したかった。今も聞こえる泣き声。刃先を心に押し当てたまま累積していくその重圧。確かな痛みを伴って私の胸をゆっくりと着実に引き裂く。
 私じゃないのに。
 童女を、ハンリツの娘を斬った感覚が、手に残っている。
 歩調はどんどんと速くなり、息は荒く変わっていく。童女の生気を失ったあの瞳が今も私を見ている。
 私なのだ。
 私は正しいことをした。けれど。
 未だに聞こえるそれに耐えられなくなって走り出そうとした瞬間、私の前に聖剣の鞘が差し出された。
「アルマ様。どうぞ」
 私に追いついたレフがそれを手で持って言う。
「ありがとう」
 荒い呼吸のせいで歪になった口調ながらも、私はそう返した。
 たったそれだけのやり取りで私は波立っていた心が穏やかになっていくのを感じた。
 勇者たる自分の狼狽した姿を誰かに見られたくない。そんな気持ちからだろう。
 鞘を受け取って聖剣を納め、そしていつも通り背中に背負う。一呼吸するとレフが口を開いた。
「この道をずっと行くと湖畔に出ます。今晩はその辺りで泊まりましょう」
 レフは私の前に立って先導する。いつも通り、会話は無いまま道を行く。私に気を使っているわけでもなく、かといって蔑ろにされているわけでもない。そんないつも通りの沈黙が、今の私には心地よかった。
 空全体が赤くなり始める頃、レフが言っていた湖が見えた。水面が風で波立ち、夕日を乱反射している。
「この辺りにしましょう」
 そう言うとレフは手荷物を下ろした。野宿する場所選びは彼の言うことに間違いはない。頷き、私も荷物を降ろした。
「じゃあ、私は」
 レフにそう声を掛けると、私はその場から少し離れた。薪を探すためだ。レフと過ごし始めて約四カ月、野宿をする際の役割分担も自然と決まっていた。私が薪を探している間に、レフは寝食の準備を整えてくれる。というか、私はそこら辺はからっきしであった。
 からっきしといってもこの四カ月で私も少しは学んだ。以前の様に生木を焚き火に放り込み、煙でむせかえることもない。拾うのはしっかりと乾いているものだ。
 レフと過ごしていると人の営みを思い出させられた。何の頓着も要らないこの身体になってから、徐々に忘れていったものだ。
 そして、思うのだ。
 私はただの人間ではない。勇者であるのだと。
 一息つく。充分な量の薪を手に入れた私は、それをしっかりと抱えてレフの元へと戻った。
 レフは寝食の仕度を済ませていた。私は薪を渡すと、腰を降ろした。レフは風よけのために少し掘った所にそれを組み始める。この薪の組み方にも効率のいい方法があるらしいが私にはさっぱり分からない。それを組み終えると、集めておいた枯れ草に、火打石で以って着火し、薪の真ん中へと据えた。しばらくすると、薪は静かに赤く燃え始めた。
 それを確認すると、レフは私の横に座った。
 すっかり日も落ちて、辺りはもう真っ暗だった。
 地上ではこの焚火を光源とした半径数メートルだけが視界の確保できる範囲だ。夜空は霞がかっていて、朧月。
 そんなはっきりとしない風景の中、はっきりと残るのはこの感覚。童女を剣先で貫いたこの感覚。
 自分の手を見ながら、握ったり開いたりを繰り返す。
 いつかはするだろうと思っていた。人を斬る、その方法も取らねばならない時が来るだろうと。覚悟していた、つもりだった。
 湖の彼方で魚が跳ねる水音がした。視線を遣ると、水面に浮かぶ頼りない月が揺れている。
 水面は時間と共に波が小さくなっていき、月は元の形を取り戻していく。
「アルマ様、あなたは正しかった」
 水面の月が、天上のそれと同じ形になった時、レフはそう言葉を漏らした。
 私は正しかった。分かっている。
 私があの時あの命を使わなければ、村を守ることは叶わず、多くの犠牲が出ただろう。何かの間違いでゴブリンが退いていたとしても、矢で胸を貫かれた童女の命が助かっていた可能性は薄い。
 私は正しかった。分かっていた。
 理屈の上では。
 勇者となって三年。人の命を使うことへの罪悪感が日々薄くなっているのは、自覚していた。ただそれは命の軽視ではない。勇者の本分を全うしているだけだと。そう自分に言い聞かせてきてきた。私の心のあり様は少しずつ変わってきてしまった。
 そして今日、私は人を殺した。今は自分の罪に怯えている。けれど、それもいつかは慣れきって、なくなってしまうのではないか。三年前のあの日から今日までと同じように、今日からも明日、そして明日から明後日と少しずつ帰れない場所へと進んでいってしまうのではないか。
 怖かった。自分が罪の意識を失っていくのが。人間性をなくしていくのが。
「私、が、……。私、は……」
 滅裂な言葉。自分の指先は細かく震えている。
 勇者など、辞めてしまいたい。
 それを口にしてはいけない。私の中の何かがそう警鐘を鳴らす。
 私が逃げたら、世界はどうなるのだ。これまで生贄にしてきた人々が波となって、私の心を潰す。
 誰かに託してしまえば。
 そう思ったが無理だった。聖剣は私の血族しか使えない。
 私はまだ子どもの産める体ではなかった。そして、聖剣の効力によってこれ以上成長することは無い。私は、最後の勇者だった。
 逃げたい。逃げられない。
 すべて失って、孤独になるまで、求められるがままに、私は戦い続けないといけない。
 嫌だよ。怖いよ。
 ふわっと。
 私は温かいものに包まれた。
「あなたは正しいことをした。僕は知っています、アルマ様」
 レフ。私は彼に抱かれていた。
 私は驚いたが、それが静まる頃には不思議と心は安らいでいた。
 いつ以来だろう。こんな気持ちは。
 彼の体温が服越しにじんわりと伝わってくる。
 私はもっとレフを感じたくなって。彼の体にしがみついた。
 更に感じる温もりで、私は徐々に力が抜けていく。
 しばらくすると、目の奥から熱いものがじんわりと込み上げてきた。
 恥も忘れて、レフの胸の中で嗚咽する。
 ああ、温かい。
 今は、こうしているのが心地よかった。
 私は自分の心のままに、ただ泣いた。
 かなりの時間がそうしていた。月の位置は随分と変わっている。
 泣き終えた私の心は久方ぶりに、軽く、穏やかだ。
 泣いていた間、レフは一言も喋らず、ただひしと私を抱きしめていてくれた。
 軽く彼の服を握る。
 眠りたい。
 体は正常だったが、心がそう訴えていた。
 寝るなんていうのはいつぶりだろう。そんなことを思いながら私はそっと目を閉じる。
「アルマ様、僕の、命を……」
 言葉の続きを気にすることもなく、私の意識は闇に溶けていった。

しおり