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欲しい

 なにごともなく家に帰った。だれにもばれずにサチ姉を送り届けた。サチ姉が窓を開けて中に入ってゆく様子も見届けた。部屋のだし巻き卵はなくなっていた。タクトが残したメモの下に、大変おいしゅうございました、と達筆がうねっていた。
 タクトは部屋に戻ったタクトはへとへとだった。サチ姉をおぶった状態で長い階段を乗り越えて、家までの道をえっこらよっこらと歩いてきたわけで、サチ姉を家の前で下したときには腕がだらんと下がったまま動かなくなってしまった。太ももが尋常でないぐらいにだるくて、今すぐにも座りたくて、でも座ったら二度と立ち上がれないと思えてしまうほどだった。だからこそタクトは駄々をこねる体を無理やり動かしてシャワーを浴びた。いつもの倍以上の速さでことを済ませて、ベッドに倒れた。重みから解き放たれた脚の感覚がこの上なく心地よくて、すぐにタクトは寝息を立てたのだった。
 あまりにぐっすりだったのか、夢を見る間もなかった。気づけばあたりがほんのりと明るくて、目覚ましにセットしてた携帯電話のアラームが騒いでいた。頭がぼんやりしている中、視界もどこかぼやけていて、携帯電話の画面が色のついたしみのようにしか見えなかった。
 だから、顔を座卓の方へ向けたときに感じた違和感も、はじめは単なる色のムラだった。壁の白い色合いやその他茶色や銀、黒の色合いは見慣れたものだったけれども、紺色は異様だった。座卓の天面をはるかに超える大きさのムラが部屋に会った覚えはないし、なにより、ベッドのすぐ横という邪魔極まりないところに置いた覚えもない。むしろ、ありえない。
 一度目をこすったら、多少視界のぶれは治まったけれども、はっきりと形を認めるには程遠かった。さらにもう一度、何度も目をこすって、枕の生地で視界が戻ったのを確かめて、紺色に顔を向けた。紺色着物のアヤメが正座していた。
 考えるよりも先に体が反応した。いきなり雷撃をくらったようになって、体じゅうが固くこわばった。足に至ってはその場から逃げ出そうとして、かかとをしたたか壁に打ちつけてしまったほどである。
 アヤメはタクトの慌てぶりにクスリと一笑して、下唇に指を添えた。ひどく驚かせてしまったようで、と口にするアヤメはどこか楽しそうで、わざと驚かせようとしたのは何となく見当がついた。驚かないわけがないとの反論に対しては、それはそれは申し訳ありませぬ、とニコニコしながら口にして、言葉と表情が全く一致しなかった。
 タクトはベッドの上であぐらをかいて、アヤメと向かい合った。座るのに邪魔だった枕を太ももに乗せてひじをめりこませた。
「伝言には、タクト様のお姉さまを追って、とのことでしたが、やはり社にいらしておりましたか」
「はい、実際は俺の方が先に到着してしまったんですけれど、サチ姉はまた願掛けをしようとしていたようです。でも、俺がいたんで、願掛けはなくなりました」
「なにかお話は伺っておりましたか」
「大体のことは聞きました。アヤメ様が自分の先祖に当たる人で、呪詛が呼び起こした恨みが今も祟りとして残ってる、そうですよね」
「おっしゃるとおりでございます。ほとんどのことをお話されたようで、わたくしからお話することがありませぬ」
 アヤメは背筋を伸ばしたまますっと立ち上がり、タクトに背を向けて小股で進んだ。帰ってしまうと感じた瞬間、まだ帰してはならないのを思い出した。けれども、口にでるよりも先にアヤメは座卓のまわりを一周してきて、タクトの隣に腰を下ろした。
 アヤメは足を揃えて左へと斜めに流して、腰をひねってへそをタクトに向けた。かなり無理のある体勢にもかかわらず、アヤメの背筋はまっすぐのびていて、涼しい顔でほほ笑んでいた。
 笑みをたたえる口が開いて出てきたのは、ヨシワラにはアヤメを呪う意志はあるのか、だった。
「わたくしに呪詛を願っていただけるのでしょうか」
「ヨシワラは、そんなことしたって死んだ相手は帰ってこないって言ってました」
「そうでしたか。残念です。となると、また別の呪詛を期待するしかありませぬ。いまだ呪詛にあらずとはいえ、者どもがいくらか、願いを捧げているようでありますから」
「どうしてアヤメ様は自分が死ぬのを期待してるのです」
「わたくしは以前からその手の呪詛を聞き、しかし施せずにおりました。成就を願っても、呪詛は返されてしまい、それがまた新たな呪詛を生むのです。ですから、呪詛をかなえられなかった者どもの思いにこたえたいのです」
「俺はそんな呪詛をアヤメ様に『施し』たくありませんし、呪詛返しをして相手を死なせてしまうのもやりたくありません」
「わたくしを殺めればよいのです、タクト様」
 アヤメは手をタクトの膝に重ねた。タクトをまっすぐに見つめる目からは柔和な優しさが消し飛んでしまっていた。自身の考えを受け入れてほしいと訴える目は、しかしタクトには強がりにしか見えなかった。アヤメは甘えたい。思い込みではあるけれども、あながち間違っているとは思えなかった。
 タクトはひざの小さな手を自らのそれで包みこんだ。
「殺す必要なんてありません」
「呪詛は文面どおりに実行されなければなりませぬ。わたくしを、アヤメを、殺せ。これだけであります」
「ほかに解決策があるかもしれません。それを探してからでも遅くはないでしょう」
「呪詛を成就させる、これがわたくしの唯一の力であります」
「だからなんですか、だから呪詛でわが身を滅ぼそうと考えるんですか」
「わたくしには、それしか手立てがありませぬ」
「それしか手立てがないと思ってるのはアヤメ様がひとりでなんとかしようとしてるからです。俺ってそんなに信用できませんか」
「タクト様は神代であっても、神ではありませぬ。神となってしまったわたくしになにかできるとは思えませぬ」
「手立てを一緒に考えるぐらいはできますし、俺はアヤメ様と違って人間ですから、いろんなことができます。俺はアヤメ様の神代なんだから、アヤメ様のできないことはオレに預けてくれればいいんです」
 タクトはアヤメの手を膝から引き離して、自分の手の中に捕らえた。それでさらにぐっと自分のところへ引き寄せたものだから、アヤメの背筋が崩れて前のめりとなってしまった。タクトは手を介抱して、すかさず倒れ込む体に腕を回した。アヤメの軽い体はタクトの力で簡単に引き寄せられて、肩と肩とがぶつかりあった。
 タクトの視線の下で、アヤメが困った顔をして見上げていた。なにをなさるのですか、という言葉は明かに戸惑っていた。手のひらをタクトの胸に当てて少しばかり力を入れているところ、静かに離れたいと意思表示しているらしかった。
 タクトはアヤメの意思を無視した。無理やりにでも、タクトはアヤメに示さなければならなかった。
「神とかそんなの関係ありません。神代だからどうとかいう問題も関係ありません。俺はアヤメ様を助けたいと思ってます。だから、俺に甘えてください。困ったことがあればこの胸に飛び込んできてください。辛いことがあれば俺の胸で泣いてください」
「わたくしが甘えるだなんて、どうやって甘えればよいのかも分からぬというのに」
「自分の感情に素直になってください、それだけでいいんです。この先どうなるかなんて考えないで、今思ってることを、感じていることを、表に出すんです」
 タクトに不安な目を向けている顔がうつむいた。胸に感じていたささやかな抵抗感はなくなって、しかし新たに脇腹に触れる手が感じられて、しまいには背中まで達した。背中の手はタクトを引き寄せようと力が入ったものの、動いたのはタクトではなくてアヤメの方だった。アヤメはほとんど寝そべった恰好になって、胸と胸とがくっついた。アヤメの胸は、ひくひくと震えていた。
「うれしいときは、タクト様の胸でどうすればよろしいのですか」
「好きなようにすればいいんです。うれしければ笑って、ケラケラ笑いたければ声をあげてもいいんです」
「ですが、わたくし、笑えません。笑おうと思っても、全然、笑えません」
「無理に笑わなくたっていいんですよ」
 アヤメのタクトを捕まえる力が強まって、手は服を握りつぶした。引きつった声でアヤメは泣いた。丁寧な物言いのアヤメが、タクトの名前に様をつけないで、まるで普通の女の子のように言葉を漏らした。さびしいよう、辛いよう、怖いよう、うれしいよう、タクト、タクト。わたくしの大切なタクト。

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