バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

待ち受けるもの

 タクトは準備万端だった。座卓の上には弁当と同じだし巻き卵が湯気をあげている。アヤメがいつも座るベッドと座卓との間にクッションを敷いて、タクトはその席の左隣に正座した。背中は時折背後の本棚のへりに当たっていた。
 やってくるのをじっと待つ間、自分の口から出た言葉がタクトの中を行ったり来たりした。めまぐるしく移り変わるアヤメの喜怒哀楽が、今では当然のことだったとたやすく納得できる。アヤメは若い。もちろん神としては長い時間を過ごして、人に敬われては人に憎まれてを味わってきた。けれども、人間としては若いまま時間が止まってしまっている。本人は気づいていないかもしれないけれども、求めている。ほかの女の子が受けていただろう扱いを、人間的な扱いを、欲している。
 今か今かと待ち受けるタクトだったけれども、土踏まずのあたりにしびれを感じてきて、早くも正座を崩した。片手をついて足を脱出させたのだけれども、ちょうどそのとき、意識が外に向いた。人が歩いていた。
 それがサチ姉だと分かるまで一秒もかからなかった。こんな時間に出歩くのはサチ姉しかいない。髪の毛の長さもそうだし、上から下までパステルグリーンの服は寝巻でもなければめったに見られるものでもない。なにより、家の庭を歩いている。
 庭を出つつあるサチ姉とだし巻き卵を交互に見やって、タクトは立ち上がった。ノートを破いてアヤメに対する言葉をしたためて、皿の下に挟んだ。一番隅の一切れだけを口に放ったのは、ひとりでこの卵焼きと向き合わなければならないアヤメに満足してもらえるだけの味か確かめるためだった。
 行き先は分かっている。だからタクトはあえて一定の距離を保って尾行しようなどとは考えなかった。とにかく勘づかれないよう、なるべく離れて、かつ音が聞かれないように。ものの数分でサチ姉の姿を見失ったタクトは、自分の知っている道を歩いた。サチ姉とばったり出くわさないよう、周りへの注意はずっと怠らなかった。
 それにしても、家から社まではそれなりの距離がある。健康そのものなタクトが歩いても十数分はかかる道のりである。体の弱いサチ姉には酷な道だ。参道の下り階段だって、サチ姉には奈落へと続く階段のように感じられるはずだ。けれども事実、サチ姉は祠に向かって、アヤメ曰く完璧な作法でお参りをしていた。タクトにとって神様のようなサチ姉も恨みを抱えているとは思いたくなかったけれども、それ以上に、弱った体に鞭を打ってでも境内に赴くサチ姉が心配だった。
 下り参道を抜けて、石畳に到着したのはよかったけれども、見渡すかぎりだれもいなかった。頭上の月はやや欠けてはいるものの、照らす明かりは姿かたちを確かめるには十分な量だった。境内にあるもの全てに白んだ光を注いでおり、見えるもの全てが淡い色調となっていた。
 嫌な胸騒ぎがした。サチ姉がいないのは、もしかしたら途中でなにかあったからかもしれない。道路の隅に倒れこんで、息の苦しい思いをしているかもしれない。嫌なイメージが立て続けに現れて、じっと見つめてきている。酷くあえぐサチ姉の姿は、想像の産物であっても見ていられない姿だった。
 いったん道を戻って、サチ姉が倒れていないか確かめる。どういうルートで向かっているのかは分からなかったけれども、境内でじっとしていてもなにもはじまらない。タクトは振り返った。
 目の前に伸びる一直線の階段を、白っぽい服の華奢な容姿が下りている最中だった。タクトと目が合っても、慌てる様子は一切見せないで、ただほほ笑むだけだった。境内の石畳を踏みしめると、その場で立ち止まって、二度深呼吸をした。けれども息は大げささを残したままだった。
 サチ姉は特に驚くわけでもなく、さもそれがごく普通のことであるかのように振る舞った。
「タクト、こんなところでどうしたの」
「サチ姉こそなんでここに来てるんだよ。体は大丈夫なのか?」
「大丈夫、階段でちょっと息があがっちゃうだけ。だって階段が長いのだもの」
「そんな問題じゃないよ、心配させて。それに、部屋には外から鍵かけてあるし、どうやって外に出てるのさ」
「窓にまで鍵をかけることは考えなかったようでね、そこからは出入りできるの。私が外に出るとも思っていないでしょうし。いつもはカーテンを閉め切って、あまり意識させるようにはしていないから、気づいていないのでしょう」
「だからってどうしてここまで辛い思いをして来るのさ」
「タクトだってここにいるのなら、大体のことは分かっているでしょう?」
 サチ姉は胸に左手を当てて、一度深呼吸をしなおした。天を仰いだ顔を戻せば、すぐに口角をあげてタクトの安心を誘った。ほほ笑みはすたすたとタクトに迫ってきて、ついには抱きしめた。
 数年ぶりの抱擁に驚きを隠せなかったけれども、サチ姉の言葉で一気に冷めた。
「タクトは、だれを恨んでいるのかしら?」
「俺はだれにも呪詛を願ってない。俺はアヤメ様に頼まれたことをやってるだけだ。サチ姉こそ、だれに呪詛を願ってるんだよ、辛い思いをしてまで」
「そう、アヤメ様の神代なのね」
 サチ姉はタクトを縛る腕を離した。一歩退くも、サチ姉は腕を回していた脇腹を手でつかんで離さない。サチ姉らしいとは思えなくて、むしろなんだか異様だった。タクトはサチ姉の手を引きはがすなり後ずさりをして距離を保った。
「ごめんなさいね、久しぶりにタクトと外にいられるから、うれしくなっちゃって」
「それで、サチ姉はだれを呪うんだよ。まさか、俺?」
「タクトは私の大切な弟なのだから、悪いことを願うわけがないでしょう。私が呪うのはね、私自身」
「私って、サチ姉が自分に呪詛を、だなんて、なんでそんなことしなきゃいけないんだよ」
「アヤメ様、その話はしていないのね」
 サチ姉は参道へ足を向けたものだから、てっきりそのまま帰ってしまうのかと思った。けれどもサチ姉は階段を上らずに、くるりと階段に背を向けた。下から二段目のところに腰を落ち着けて、脚を投げ出した。そうしてから階段をぺちぺち叩いて、お姉ちゃんちょっと疲れちゃったから、とタクトを催促した。
 タクトはサチ姉と同じ段に腰を下ろしたけれども、サチ姉がしているように脚を伸ばしたままにはせずに、もうひとつ下の段に足を置いてひざを抱えた。サチ姉がタクトに寄りかかってきたけれども、むげに逃げたり拒んだりはしなかった。サチ姉と遊んだ昔の記憶がよみがえる。一緒に遊んで、疲れたサチ姉はよくタクトの体に身を預けたものだ。
 あのね、とサチ姉がささやきかけて、話しを始めた。
 もともとこのあたり、住宅街の方までもを含めて、本堂に五穀豊穣の神を祭る大きな神社であった。けれども、戦の際に呪詛成就の神を、つまりアヤメを生み出し、ふたりの目の前にある祠を末社として建立した。
 戦のによる功績によって、次第に五穀豊穣よりも呪詛成就が求められるようになって、その神社は五穀豊穣の神を本殿から追い出してしまった。代わりにアヤメを本殿に据え、呪詛成就の神社となった。神社を取り仕切るのはだれもが一族の人間、アヤメの子孫にあたる人たちだった。
 そうして日々人々の呪詛を成就させてきたこの神社だけれども、次第に呪詛が呪詛を呼ぶようになった。人を苦しめたり死なせたりする呪詛が願われ成就すれば、その呪詛を施された相手あるいは周りの人間が、報復の呪詛を願う。これが日常茶飯事だった。呪詛のやりあいがいつしか、神社や神に対する憎しみとなって、しかし人々は呪詛に頼らなかった。自らの手で、神社を焼き討ちしたのだ。神社のほとんどは焼け落ちてしまい、何人かは死んでしまった。が、かつてアヤメがあてがわれた祠だけは、長年使われていないこともあって、火の手に襲われなかった。
 当時神社を取り仕切っていた神官――もちろんアヤメの血縁者だ――は神社としての限界を感じて、アヤメに関わるあらゆることを放棄してしまった。神事も、祝詞の詠唱も、とにかく全部。
「でもね、この行いが全てのはじまりなの。それからすぐにね、神官だった人の長女が急に体調を崩して、寝たきりになってしまったの。日に日に弱っていって、もう明日には死んでしまうという状況になったの。そうしたら、いきなり気に触れたように暴れて、人を殺したり傷つけはじめたのよ。ひとりだけじゃなくて、ほかの神官の長女も同じように衰弱して、それから暴れるようになった。それで、そのときは親がその子を殺めた。これが何世代も、その兄弟の子供にも、孫にも、ひ孫にも、ずっと。親か兄弟が殺めるのも決まりごと。ここで問題、これってどういうことだと思う?」
「神官を辞めたから」
「辞めたのは引き金。ずっとアヤメ様と共にあった人たちが社を放棄したのが原因で祟りが起きたのだと思う」
「呪詛で殺された人たちの?」
「もちろん含まれているでしょうね。呪詛を施されて苦しめられた人、不幸になった人、あるいはそう思い込んでいる人たち。そういった気持ちが膨れ上がって、神社の関係者に祟りとして降りかかったのよ」
 サチ姉はタクトから体を離すと、星がきれい、と全く話とは関係のないことを口にした。タクトが天を仰げば白い粒が方々に散っていて、一部は雲に隠れていた。月もいよいよ本格的に欠けが大きくなってきていて、月の一部が砕け散って白い星が広がったかのようだった。
「だからね、私も、いつかはタクトを殺すの。もしかしたら、タクトを殺す前に、タクトが私を殺してくれるかもしれないね。できれば、そうであってほしいな」
「祟りは今も止まってないってこと?」
「だからね、私が終わらせるの。お母さんもタクトも私が殺して、それから、自分に願った呪詛を受ける。お父さんはアヤメ様の子孫じゃないから殺さなくていい。そうすれば一族断絶、祟る相手がいなければどうしようもなくなるって算段」
「それは無理だよ、神代は俺だから、俺が死んだらだれも呪詛を施す人がいなくなる」
「そうなら、タクトがやって。だれがやるのかは関係ないの、とにかく、生きている子孫が死ななきゃね」
 サチ姉は膝を曲げて立ち上がると、その場で後ろに向いた。今日はお祈りするのはやめた、と言葉して階段を上りはじめた。一歩一歩をいちいち踏みしめるようなサチ姉の歩き方は見ていられなかった。タクトはサチ姉に肩を貸して、踊り場の平坦な場所に出るなりしゃがみこんで、サチ姉をおぶった。

しおり