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呪は成された

 放課後にはヒマワリの種をまいて、その上から腐葉土をかぶせた。タヌキはタクトのもとにやってこなかった。タクトはけれども、タヌキのことをすっかり忘れたかのように、周りには目もくれず、腐葉土の入ったビニール袋を運んでいた。園芸部の部室であるうす汚い温室へ。部室には別の部員がいたけれども、ちょっとした言葉がタクトに投げかけられていたけれども、タクトは全く言葉を返さないで、腐葉土を置いて、荷物を持って、温室をあとにした。
 タクトには言葉が全く聞こえていなかった。頭の中にあるのは、今年のひまわりの出来ではなくて、部員の言葉ではなくて、昼休みの惨事だった。体が震えあがってしまうような言葉の投げ合いが頭の中で再生され続ける、いまだ、鮮明に。特に男の言葉が許せなかった。同じ人間を相手に投げかける言葉ではない。相手の人間性をないがしろにする露骨な表現が、タクトの心をブスブスと突き刺した。
 はたから見れば上の空以外のなにものでもなかった。そのため、足早に歩くタクトが強い怒りを覚えているとは、学校を出ようとしている生徒たちには気づかれていないらしかった。ただひとり、校門で待つ着物だけはすべてお見通しだった。
「ずいぶんお怒りになっておられますね」
「嫌なことを耳にしてしまったもので」
「たまたま運が悪かったのでしょう。神代となったとしても運気までもがついてくるとは限られませぬ。そういうこともありましょう」
「じゃあ、知ってるんですか?」
「大概のこと、タクト様が目にしていることにつきましては。わたくしの社ではないゆえ、当事者どもの感情はあまり分かりかねますが、かなりの呪詛をはらんでいるのは確かです」
「やはり、それだけの恨みつらみがたまっていたんですね」
「恐ろしいほどの力であります。あの言霊を社の前で口にされれば、たちまち呪詛となるでしょう。タクト様の伝聞であってもあの言霊の力をはらんでおります。さぞ言霊を耳に入れてからは苦しかったでしょう」
 アヤメの手がタクトの肩をとらえた瞬間、タクトの中でボコボコと湧きあがっていた男への怒りが、びっくり水を差されたようになくなっていった。憤りに満ちていた心がすっきり軽くなって、心地よくすがすがしい気持ちになった。考える余裕ができてようやく、怒りの中に体をどっぷりつかっておぼれかけていた自分に気づいた。自分には全く関係のない事柄に傍観者らしい無邪気な怒りを覚えるのは自由だけれども、それに自分の手で鉄槌を下そうとする意味があろうか?
 すっきりとした心が次に考えたのは、アヤメのことだった。わざわざ正門で待っている、というのは考えてみればおかしなことだった。どうしてわざわざ待つ必要がある? 都合がいいタイミングでひょこっと現れて、出る幕でなければ姿をくらませてしまえばよいだろうに。神だというのにいちいち人間くさい。だが、神様らしくないことがかえって、タクトには安心感につながっているところがあった。
「触られただけで、心がすっきりしました。これも神様の力ですか?」
「いいえ。だれにでも持ちうる力です。恐怖、怒り、不安、これらの感情はひどく人を追い込みます。そういった内なる言霊は、自分では制御できない場所でその姿を大きくしてゆくので、本人以外のだれかが取り除いてやる必要があるのです」
「でも、さっきはあの生徒の言葉が呪詛をはらんでいると」
「言霊が、タクト様の内なる言霊を呼び起こしてしまったのです。たとえば、残り香を感じることがありましょう、それと同じです」
 ふうんとタクトは相槌を打った。タクトはアヤメの言葉から新しい見方を見出して新鮮な気分でいた。アヤメの言葉を転用すれば、逆ギレをするのは内なる言霊が暴れたあかしと考えられる。だとすれば、あの暴言を吐き捨てた男子生徒もまた、女生徒に内なる言霊にかき乱されたのだろう。呼び起こされて罵ったのと同じように、タクトは男の言霊に呼び起こされて、男を責めたてたい衝動に駆られたのである。
 タクトはまたもや昼休みの出来事を再生していた。男に対する憤りは、しかしタクトを突き動かすほどのものではなくなっていた。
「あまり想像なさいますと、また言霊に毒されますよ」
「なかなか凄まじい言葉のやり取りでしたので、頭から離れないんですよ」
「強い印象もまた、者どもの言霊によるものであります。言霊は言霊を生むのです、同じ志向へ、ときにはより強い程度を伴います」
「なんでもかんでも結びつけますね」
「呪詛というのは、あらゆるところにその苗床があるのです」
 交差点に差しかかったところでアヤメは急に方向を変えた。タクトは正面や右側の道をきょろきょろして、そうしてからアヤメの後を追った。正面の道はアヤメの社のある住宅街、右側にゆけば家に帰ることができる道だった。タクトとアヤメに関係ないであろう道に、どうしてアヤメが自ら脚を踏み入れたのか、ちんぷんかんぷんだった。
 歩いている方面を進めば、左手に黒々とした色合いを揺らす川を左手に見るようになる。その先は役所やら零小企業の工場やオフィスがある一帯で、いわばこの落止市では一番都会な場所だった。
 アヤメが話をするには、呪詛を実現する方法を考えておきたい、とのことだった。
「呪詛を受ける童はこの先の道を決まって通るようであります。そばには川がありますので、突き落とすのはいかがかと思っているのですが」
「突き落とすって、まさか、川にですか?」
「それ以外に突き落とす場所がございましょうか。童であれば、川に流される程度で十分におののくでしょう」
「でも、それとあの子の恨みを晴らすことと、つながりはあるんですか?」
「わたくしの力をお忘れになりましたか。呪詛をなすことがわたくしの力であって、つまりはこの戒めが自らの行いによるものだと分からせるのです」
 ああなるほど。タクトはてっきり、天誅が必ず成功するようにするのがアヤメの力だと思っていたのだけれども、全くの見当違いだった。タクトの行いが成功するにせよ失敗するにせよ、それが自分のしたことに対する罪だと気づかせるということだ。アヤメの言葉を信じれば、気づくだけではなくて、悔い改めることも含まれているのだろう。というか、そうなってくれなければなんの意味もない。
 タクトにはしかし、引っかかることが一点だけあった。川に落とすのは悪いアイディアではないと思う、けれども、川に落としてから、はどうなのか。おぼれさせてハイそのまま、というわけにはいかないのではないのか。おぼれさせた末に川底に沈んでゆく姿は見たくはない。たとえ赤の他人で、社に来た男の子にひどい仕打ちをしているとしても。
 問題ありませぬ、と答えるアヤメはどうやら心の内をのぞきこんでいたらしい。
「童はタクト様が押したとは思いませぬ」
「いや、そこではなくてですね、その子の後処理はどうするんですか、ということです。川から助け出すのかどうか」
「それはわたくしやタクト様の関知するところではありませぬ。あくまでわたくしたちは童の言霊をなすために尽くすのでありまして、呪詛を受けた童が川の水の手から逃れられるかは別の問題であります」
「じゃあ、最悪死んでしまってもいいと言うんですか」
「なにを気になさっているのかは分かりかねますが、タクト様がなにをしようと周りの者どもはばちが当たったという解釈をします。罪悪感に身を浸す必要はありませぬ」
 だったら――タクトが言葉を返そうとしたところをさえぎるように、アヤメが正面を指さした。その先には歩道をランドセルが歩いていた。黒いランドセル、遠くからでもぼろぼろになっているのが分かるぐらいに、縁の塗装が剥げて革の茶色が露わになっていた。タクトたちに背を向けて、ひとりで歩いている。アヤメが指をさすのだから、ぼろぼろランドセルがあの男の子をいじめている張本人なのだろう。
 しかしまだ、川の水面はまだ遠かった。少年の前にある丁字路を右手に通り過ぎるといよいよ川が近づいてくる。タクトにはまだ手をかけるかけないの言い合いをする余裕があった。
「だったら、俺が助けても問題はないんですね」
「助けるとは、あの童に向けられた呪詛を除くのですか?」
「それはしません、いじめはよくないと思いますから、それの始末はしてもらいます。でも、それでおぼれて死なれてしまったら、俺が殺したことになって、それには耐えられないです」
「タクト様が殺したのではありませんよ。殺したのは呪詛を乞うたあの童であります」
「それでも、実行犯は俺です。それが耐えられない。だから、おぼれさせて、それから助けるんです。これからいじめの報いを与えられますし、殺すこともありません」
「さようですか。タクト様がおっしゃるのであれば、仕方がありませぬ。わたくしの力が者どもに効くには個人差がありますゆえ、それを以てから川の水から引きはがしてくださいまし」
「ちゃんと教えてくれるんですよね」
 はい、とアヤメが応えたところでちょうど、丁字路を通り過ぎた。左手には波音をたてない静かな水面が待ち構えている。歩道の隣には少年の膝ほどしかないブロック塀がアヤメの企てを阻もうと心もとなく身を据えていて、けれどもブロックの向こう側はコンクリートの急斜面、その先に待つのが暗い水だった。
 タクトはアヤメの横を離れ、静かにランドセルへと近づいてゆく。膝を少しばかりまげて、さらにかかとを浮かせて足音を立てないようにする。間合いがどんどん詰まってゆくものの、男の子はずっと正面を向いて歩いているばかりだった。一向に後ろを振り返る様子はない。
 いよいよランドセルがタクトの目の前に迫ってきたところで、つばを飲みこんだ。これから正面の小学生を川に投げこまなければならない。これは社に助けを求めた男の子のためである。それでいて、目の前のランドセルを危険にさらすことになる。最終的には自分で助けるのだからなにも問題はないと信じたいのだけれども、やはり、他人の人生の大きな局面にかかわるのは緊張するものである。
 タクトの振る舞いは一瞬だった。ランドセルをがっしりとつかんで、そのまま左に向かって投げ飛ばす。タクトの攻撃に全くの無防備だったいじめっ子はすんなりと宙に浮いて、足元のブロックを飛び越えていった。後ろを振り向く様子はなかった。
 少年は沈まなかった。ランドセルが浮き輪代わりとなって、浅いところを漂った。川に落ちたとたんそいつはじたばたと暴れはじめて、でも川の水の手を振り払うことはできずにいた。流れに押されるまま、どんどん左手の方へと滑ってゆく。じたばたは止まらなくて、むしろ激しくなる一方だった。声までもあげはじめた。言葉になっていないうめきのような音があったと思えば、水をかき混ぜる音にさえぎられて、顔が水中に沈んで、顔を水の手から引きはがしたかと思えば、助けて、の言葉。しかしまた水の中に引きずりこまれてしまった。
 それでもなお、アヤメは約束の言葉を発さない。墜落地点からすっかり離れているのに、アヤメは微動だにせずその様子を眺めるばかりだった。まだですか、まだですか、とタクトは右往左往しながら幾度となく問いかけるけれども、答えはそろって、まだです。沈んでは這い上がってを繰り返している名前も知らないランドセルはますます遠のいている。助けないと、救い出さなければ、にもかかわらずアヤメの約束は果たされない。浮き足立ってその場に―アヤメの近くに留まっていられなかった。早くしないと溺れ死んでしまう! 
 アヤメは目をつぶって、すっかり石像のようにたたずんでいた。微動だにしないところがなんだか腹立たしかった。人間ではない神様だからこのような芸当ができるのか。アヤメにとって大事なのは、自分の力が効果を発するかどうかだけということ。人を守るべき神様は、人の命が目の前で消されようとしているのを気にしないのである。
 タクトは我慢ならなかった。人間にはこれ以上、人が死にかけている光景を眺めてばかりいると心が砕けてしまいそうだった。人を威嚇するような言葉で、まだですか、と投げつければ、なに一つ変化のない答えだった。たった一言だったけれども、タクトの心を爆ぜさせるには十分な威力があった。
 もういい、タクトは吐き捨ててアヤメのもとを離れた。バッグを地面に置いてブロックを飛び越える。蟻地獄のような川べりの斜面に手をつけながらも、川下でじたばたしている男の子を追いかけた。タクトが突き落とした場所からはだいぶ離れていたけれども、暴れまわっているせいか、それとも川の流れが緩やかなのか、流されている速さはそれほどでもなかった。
 コンクリートの斜面は足場として悪かったけれども、腕でバランスを保ちながらタクトは小走りで駆け抜けた。男の子の助けを求める声が耳に痛い。助けて、だれか、死んじゃう! 水に飲みこまれそうになるのを必死にやり過して人の手を求めるものの、再び水が飲みこもうと少年を鎮める。その繰り返しだった。
 助けて、だれか、ごめんなさい、助けて。タクトが少年を助け出せるところまで来たとき、救いを求める声はなぜか謝っていた。ただ助けてほしいと願っていればよいものを、どうして謝罪をしているのか。まさか攻撃を仕掛けてきた犯人にこれ以上のことはしないよう乞い願っているのか? 川に流されてもなお犯人がさらなる行動に出ると思っているのだろうか。
 ランドセルが漂流している地点よりやや先回りをして、川の手から救い出すタイミングを待ち構えた。バシャバシャとけたたましい音が全てを支配する。ときおり交ざるガキの叫び以外には音を耳にできなかった。
 ゆっくりと、けれども暴れまわって迫ってくる相手に手を伸ばした。けれどもこの急斜面はバランスを取るにはあまりにも急で、手を伸ばそうにもなかなか伸ばせない。ランドセルが進む先の見当をつけても、指先がふれるぐらいにしかならなかった。
 それでも、意地でも、捕まえなければならない。
 もがいて助けを求めて謝罪をするランドセルは、いよいよタクトの指先に触れるほどになった。捕まえようとしてもランドセルの端をつまむのが精いっぱいで、とてもじゃないが引き上げられない。暴れる腕がタクトの手首を払いのけた際にはバランスを崩して片足を川の中につっこんでしまった。危うくタクトもランドセルの後を追う羽目になるところ、なんとか踏ん張ってやり過せば、ついに少年を引き上げられるほどのところに腕が届いていた。

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