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修羅場とたぬき

 目がさめたタクトは、テーブルの上に金属のふたがのっかっている光景を目にして、体中の毛穴から汁がにじむのを感じた。とはいえ目がさめている間に誰も立ち入ったことはなかったし、人が入って来る戸の音で目がさめることもなかった。何事もない静かな部屋に、肌をぬらす汗がたちまち体の中へと引っこんだ。
 学校へ行く途中、『誰も』話しかけてこなかったことがなんだか不思議だった。近くにアヤメがいるというわけでもないから、連中はいつでもタクトに話しかけることができたろ。にもかかわらずそれがなかった。連中もよく分からない力でなにかを感じ取ったのだろうか? 神代になるということはつまり、そこらへんに湧いている連中に距離を置かれるようになるのか。
 アヤメが立ち入らなかった学校の中でも同じことが起きていた。やかましい教室を覚悟していたタクトにとっては拍子抜けするほどに静かな授業に教室だった。男子生徒の私語があって、数学教師が数式を板書する小気味よい音が短く弾けたり、長くのびたり、ときには笑い声が起きたりもした。しかし、目に見えない連中は全くモノを言わなくなって、見知らぬ人々に声をかけられることもなかった。
 しかし、一匹だけは全くわれ関せず、昼休みに園芸部の花壇いじりをしているタクトに迫ってきた――野生のタヌキ。どういう気まぐれか分からないけれども拓斗にすっかり懐いてしまったタヌキだった。
 タクトは花壇の土をクワで掘り返していた。校舎のそばにあるコンクリートで囲われた花壇ではなく、レンガを積んだ、その周りに柵をめぐらせた、タクト自作の花壇だった。どちらかというと体育倉庫に近い場所だった。学校のそれよりも日当たりはずっと良くて広さはコンクリート花壇の四倍以上、昼休みだけで耕すには広すぎる。花壇として機能していないコンクリートは、自作花壇に使う腐葉土の袋を置くのに使っていた。
 中高一貫のこの学校に入ってから、この時期の恒例行事がこれだった。この時期に種をまいて、育てて、すると夏休みごろには大きくてきれいなヒマワリが咲く。去年に採れた種を今年のひまわりにするのである。
 野性のタヌキが柵のすぐそば、ちょうどタクトを正面にみられるところに伏せていた。タクトがクワを振り下ろし続けている合間にタヌキをチラ見するのだけれども、そのときには必ず目が合った。タヌキにとってはタクトが地面になにかを振り下ろしているのに興味があるようだった。
 タクトが耕すペースはかなり早くて、昼休みがもう少しで折り返しという頃合いにはすでに花壇の半分以上をふかふかの土にしていた。クワの刃が地面を刻んでいる瞬間にはすでに一歩後ずさりをしているという手際のよさだった。
 ただならぬ調子の声が耳に入ってきて、クワを地面に突き刺したまま立ち尽くしてしまった。女がだれかに詰め寄っているような声だった。連中の声のように、耳元でしゃべられるような、心に不快感が広がるようなことはなかった。
 タヌキもただならぬ様子に顔をきょろきょろとさせて、ある一点を見つめた。校舎の陰に隠れた、薄暗い、じめじめした場所だった。ちょうどタクトのいる場所からも死角になっている場所、建物の角からスカートがチラチラはみ出ていた。
 ひまわりの畑をこしらえた辺りは、放課後にこそ生徒が立ち入ることが多い場所であるけれども、昼休みにもときどき、生徒がいる。大概がだれにも聞かれたくないような、人の邪魔が入ってほしくないような事柄にかかわっていることがもっぱらだ。屋上の出入りが禁止されているこの学校において、あのじめじめした校舎裏が、告白と別れ話という痴話のメッカだった。
 タクトはだから、ああまたか、とクワをその場に刺したままにして、タヌキを回収しに行った。依然、校内に迷い込んだタヌキが大暴れして男子生徒の脚を――生徒の悪ふざけが原因だけれども――噛んだことがあった。生徒の失態をなかったことにしてタヌキだけがひどく言われる様子がかわいそうで、懐いたその子については、柵の中に入れることにしているのだった。もちろん柵の中で自由にさせるわけではなく、一角に柵を取りつけてタヌキが脱走しないようにするのである。
 背後の隅にタヌキ用スペースをつくろってから再び作業に戻ると、たちまち死角の声が激しくなった。一方的に女がだれかを、まあ男だろうけれども、そいつを激しく調子で問い詰めた。どうしてトモちゃんを選んだの? 私と一緒に遊園地行ったり買い物したりして遊んだのがそんなにつまらなかったの? ひどいよ、私がいるっていうのにほかの子に手を出すなんて、それで別れろだなんて! 
 なんていう修羅場なのだろう、と考えている一方で、そんな修羅場の片隅で土いじりをしている自分という構図がいたく滑稽だった。頭の中でヒマワリ畑一帯を体育倉庫の上から眺めてみれば、右手では黙々と農作業、左手の奥では男と女のただならぬ会話。なんと温度差の激しい光景であることか。でも、タクトにはある意味ではこれもまた恒例行事でもある。
 花壇を耕し終えて、残りはタヌキをかくまう区画のみとなった。修羅場が終わるまでは耕すことも叶わないのでタヌキと戯れた。狭い場所に閉じこめられていたせいか、やたら攻撃的で、腹を向けてなでろと無言の指図をして、いざなでれば甘噛みをしてくるという始末だった。単に構ってもらえることがうれしいのかもしれないけれども。
 ずっと女の声だったのが、そこで突然別の声がさえぎった。男の声で、ひどくいらだっている様子だった。女の言葉の筋をぶった切るようにぴしゃりと一言、うざいんだよ! と投げ捨てるような口調だった。
 事実、男が口にしたのは女を棄てる言葉だった。聞くにも堪えない言葉を使って女を貶める――お前は何度頼んだってヤらせてはくれなかったがな、あいつは喜んでヤらせてくれたよ、ああそうだ、つまらなかったんだよ、オレはそんなガキみたいなことばっかするヤツよりも、抱かせてくれるヤツの方がいい。
 関係のないタクトも、奥底からふつふつと怒りが湧きあがってくるのを感じた。そんな男を殺してしまいたいような、死ぬ寸前まで殴って蹴ってどこかから突き落としてやりたいような、強い衝動だった。タヌキをけしかけて大けがでもさせてやろうか、とも考えたけれども、タヌキがひどい目にあう恐れがあるから、強い衝動が押し寄せるさなかでも却下できた。タヌキが腹をわしゃわしゃさせてくれているからこそ、タクトはそのおぞましい感覚を抑えることができた。
 男が死角から出てきた。足音に気づいて顔をあげるタクトは、不幸にも男と目が合ってしまった。とはいってもなにか起きるというわけでもなく、男がすぐさま目をそらして足早に昇降口の方へと消えてしまった。
 たちまちあたりにはいつもと同じような静けさが舞い戻ってくる。自然が生み出す音以外が排除された、田舎の静けさである。そう、人の音がない。男のことはどうでもよい、タクトの目には欠落した、死角の空間にはあの男にきゃんきゃん言葉を浴びせかけた女がいるはずだ。その女の音が、息づかいや、その場を離れようとする際の足音や、身体を動かすことによってもたらされる自然からの密告といったものがタクトの耳に入ってこないのだった。
 もしかして気を失っているのではなかろうかと心配になったけれども、タクトにとっては全く関係のない話であるのは分かりきったことだった。ただふたりの空間に巻きこまれたオブジェクトに過ぎず、これ以上干渉する意味も、必要も、義務も、ないわけである。
 タヌキを抱きあげて様子をうかがおうと立ち上がる半ば、タヌキが急に暴れて腕の中を飛びだし、校舎とは反対の体育倉庫の向こう側へと駆けていってしまった。立ち上がってその姿を見つめたタクトは、そのときになってはじめて、タヌキが駆けだした瞬間に自分が素っ頓狂な声をあげていたことに気づいた。そうしてから、背後でだれかが走り抜ける音が聞こえた。振り返ると、顔を見るのは叶わなかったけれども、後ろ姿ははっきりと目に収めることができた。だからといってだれであるかを特定できるわけではなかったけれども、どこかで見た気のする姿であった。

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