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爪の下の

 キッカちゃん、僕を踏んで。

 そう、吐息とともに言葉を吐き出して、私の足にすがりついてくる男。
 右足の甲には彼の唇の感触。
 正直くすぐったいだけで、私に『そういう』趣味はない。

 ソファに座らされた私は体を縮こめて、事の成り行きを呆然と見守っていた。
 だって彼が何をしたいのか、さっぱり分からない。

 一人がけ用のソファはダークブラウンで、レザーの上貼りがペタペタと肘やら太ももにくっつく。両わきを固める肘掛けが逃がさないというふうに私に迫ってくるから、余計に縮こまってしまう。

 こんな暑い時期に、昼間っからシャッターを閉めた薄暗い部屋で、私達は一体何をやっているんだろう。

 クーラーが効いているはずなのに、汗がにじみ出てくる。
 彼が淹れてくれたローズヒップティーの匂いが身体から染み出して、クラクラする。

 彼が私を家に誘う口実にしたレポートが、二人分。
 部屋の真ん中のローテーブルの上に、向かい合って収まっている。

 眩暈だけがひどく鮮明だ。





 この日、一コマ目の講義が急に休講になった。
 白い紙のど真ん中に小さく印字されたそっけない通知を見た後、私は学食でレポートの課題を進めることにした。
 いつもみたいに、学食の適当な場所でやりかけのレポートを出して参考書を読んでいると、不意に声を掛けられた。

 それは全く知らない人ではなかったけれど、所謂知り合いではなかった。見たことがあるというだけで。

「ええと、磯貝君、だっけ。経済数学で一緒の」

 今日の一コマ目にあるはずだった講義の名前を挙げると、彼はそうだよ、と頷いた。
 特に話をした事もない彼が、一体私に何の用だろう。

 二十人くらいしかとってない、人気のない講義。
 一回の講義で何度も当たるから、接点がなくてもお互いの名前くらいはなんとなく覚えるようになる。
 そして、磯貝君は教授の覚えがいい優秀な学生だった。
 当てられて答えられないなんてことは先ずないし、難しいだろうと思われるものの半分くらいは彼に当てられる。

「それ、経営学のレポート?」

 私のノートを彼が覗き込んでくる。
 彼のような人に自分のレポートの中身を見られるのは恥ずかしかったけれど、突然のことでドギマギして、私は少し体をひいた。

 彼は時間にして一分くらい、それに目を通していただろうか。そして軽く頷くと、僕も同じ授業とってるんだ、一緒にやらないか、と言った。

「でも私、良く分かってないし、磯貝君に迷惑かけると思うけど」

「僕も分からないところがあるから。一緒に調べながらやろう、ね」

 有無を言わさぬ雰囲気に、私は気がついたら頷いてしまっていた。

 経営学のレポートを仕上げるのに必要なものを持ってきていないから、と彼のアパートに行くことになった。
 徒歩十分もかからないところに住んでいるのだという彼。

 後から思えば付いていかなければよかったのだけれども、午前という明るい時間帯と彼の柔らかな雰囲気に、私はすっかり警戒心をなくしていた。学食での一瞬の強引さが嘘みたいだった。

「中村さん、下の名前は」

「菊花(きっか)。菊の花って書くの、古くさいでしょ、おばあちゃんみたいで」

 そういって笑うと、彼はううん、そんなこと思わないけど、と頭(かぶり)を振った。

 磯貝君は元々の色素が薄いのか、縁なし眼鏡がよく似合う。そして夏の陽に溶けてしまいそうなくらい、髪の毛が薄茶色に見える。日焼けの様子が見えない白い横顔も、背景に続く水田に同化してしまいそうだった。

 まだ九時台なのに照りつける太陽はとても暑い。
 焼けはじめたアスファルトの上を、くっきりとした影が二本、ゆらりと伸びている。その長さの違いで磯貝君が私よりも頭一つ分くらい高いんだな、と分かった。


 彼が住んでいるアパートは二階建てで、同じような青いドアが等間隔に並んでいる。
 コンクリの狭い階段を彼の後ろについて上がる。
 変哲のない階段なのに、私が履いているサンダルの網になった部分がキュキュッと足の甲に当たって、今までになく気になった。

 彼に招き入れられた部屋はこざっぱりしていて、背の高いスチールラック二つに本がぎっしり詰まっている以外はこれといって特徴のない部屋だった。
 本棚には小難しそうな本だけでなく小説や漫画も混ざっていて、なんだかホッとした。

 壁際にローテーブルと一人がけのソファが置いてあって、部屋の真ん中がぽっかり空いている。多分ここで寝ていたんだろうな、と推測できるような空間。
 変わっているのはシャッターが閉まりっぱなしだということくらい。

「窓、開けないんだね」

 適当に荷物置いて、と言われ、鞄を入り口端の方に置きながらそう聞くと

「ここ、東向きなんだよね、夏は暑いから洗濯干す時しか開けないんだ」

 彼は壁際のローテーブルを部屋の真ん中に移動させた。

 そしてお茶淹れてくるから先に始めてて、と言い残してキッチンに消えていった。

 初めてきた部屋に一人残されて少し心細くなったけど、キッチンからはカチャカチャと音がする。
 その音を頼りに、私は鞄からレポート用紙と参考書を取り出した。

 机の上にそれを並べていると、キッチンからひょいと顔を出した彼が、

「ねえ、中村さんはハーブティー飲める?」

「うん、どんなの?」

「ローズヒップ」

「大丈夫、飲めるよ」

 そう、良かった、と言ってあちらへ戻って行く。

 閉まっているシャッターが、薄衣のような閉塞感をもたらす。妙な息苦しさは気のせいだ、と自分に言い聞かせて、私は参考書に目を落とした。

 磯貝君が、おかしなことを言い始めたのは、レポートも一段落したくらいの時だった。

 お互い二コマ目は空きコマで充分に時間があった。
 レポート自体には一時間半くらい没頭していただろうか。

 私が困っているところを、磯貝君は目ざとく見つけて的確なアドバイスをくれるのに、私が彼の方をチラッと見ても、こちらばかり気にしているわけでもなく。彼は彼で参考書をめくったり、紙の上でペンを動かしている。

 一緒にレポートに精を出していると、デキる人だと思っていた磯貝君も普通に努力する学生なんだと思った。

 だいぶ余裕を持って、レポートの完成には目処が立った。
 下調べも終わったし、論点も結論もまとまったから、あとは文章にしていくだけ。

 次の講義まではまだ、一時間くらいある。

「ありがとう、磯貝君のおかげで早く終わりそう。それに一人でやるよりも中身、良くなったと思う」

 ハーブティーのお代わりを入れてもらって、二人でそれを飲む。
 私がそうお礼を言うと、彼は、良かった、と目を細めた。

「中村さん、キッカちゃんって呼んでもいい?」

 キッカちゃん。
 なんて、何年ぶりに聞くだろう。

 全然知らないこの土地に来てから下の名前で呼ばれることなんかなかった。
 それより、さすがに今日初めて喋った人に急に距離を縮められるとびっくりする。

 そういうと、磯貝君は視線を下げてふーっとため息をついた。

「やっぱり、覚えてないんだね」

「ごめん。私、磯貝君と喋ったことあったっけ」

 私が忘れているだけで、もしかしたら一年生の時、どこかで喋っている可能性もあった。
 一人暮らしを始めたばかりで、大学の講義も初めてで、サークルの勧誘も結構すごくって。広い校内あちこちに飛び回るようにして教室移動して、いっぱい単位取った方がいいだろうって授業詰めすぎて。
 初めてだらけで一人で空回りしていたから、正直去年の事はあまり覚えていない。
 磯貝君は同じ学部だし、学科も一緒だから顔と名前は知っていたけど。

 そう言ったら、磯貝君は首を振って、そんなに最近の話じゃないよ、と苦笑した。

「僕たち、昔ケッコンの約束してたの、覚えてない?」

 ケッコン。

 ケッコン。

 ケッコン?

 その言葉を何度も頭の中で繰り返した。

「ええと、確認なんだけど、ケッコンってあれよね? 役所に婚姻届出しに行って成立する関係のことだよね? 」

 本当に真面目に聞き返したのに、磯貝君は顔を歪めて我慢できないっていう風にぷっとふきだした。
 そして大笑いしながら、縁なし眼鏡を外して目をゴシゴシ擦った。

 そんなに酷いことを聞いたとは思えないのだけど。
 眼鏡をかけ直す彼をじとっと眺めれば、彼はごめんごめん、と茶色の瞳を私の方に向けて丁寧に言った。

「うん、その結婚で合ってるよ」

 彼の白い頬にかかるこげ茶の髪の毛は、シャッターの閉まった部屋の中で、さっきよりもハッキリと彼の顔の輪郭を作っていた。

「昔はキクちゃんって呼んでたんだけど」

「へえ。じゃあ、私は磯貝君のこと、なんて呼んでたの」

「アニサマ、って」

 磯貝君、そんな名前なんだろうか、聞き間違いとかじゃないんだろうか。
 私が数回瞬きを繰り返すと彼は、僕の方がお兄さんだから、と言った。

 アニサマって兄様の事なのか。私、そんな事言ってた頃があったんだ。

 呼び方の恥ずかしさよりも驚きの方が勝ってしまって、私は磯貝君をまじまじと見る。

「じゃあ磯貝君、さっき私の下の名前聞いてたけど、本当は知ってたの?」

「うん、話してたらキッカちゃんが気づいてくれるんじゃないかと思って。ああ、僕の名前は博睦(ヒロチカ)だよ、知らないよね」

 素直に首肯すると、彼はやっぱり、と私を責める風でもなく、ただ困ったように笑った。

 彼が言うには、私と彼の父が大親友らしく、自分たちに男の子と女の子ができたら結婚させようと約束をしていたらしい。
 僕は大学でキッカちゃんを見てすぐにこの子だって分かったんだけど、という彼はちょっと寂しそうだった。私はなんだか申し訳なくなって、ごめんね、と小さく謝った。

 私の記憶のどこにも磯貝君の影がなかったけれど、目の前の彼を見るとそんな事は言い出せなくなった。

「僕は覚えているから、てっきりキッカちゃんも覚えてるんだと思ってたんだけど」

「本当にごめんね、気付けなくて」

 そんな話を父から聞いたことがあっただろうか。母はなんて言ってたっけ。

 彼に謝りながら、私は一生懸命思い出そうとした。小さい頃の記憶をあれやこれやと探る。
 それを遮るかのように、

「ねえ、キッカちゃん。一つだけお願いがあるんだ」

 彼はそう、とても綺麗に笑った。




 そこに座ってて、と彼に言われるままに、壁際にポツンと一つあるソファに腰掛けた。

 ギシリと音がして、体重をかけたところが思ったよりも沈む。
 膝上丈のフレアスカートは、沈んだ時に体が前に滑ったせいでお尻の下でくしゃくしゃになったのかもしれない。太ももがレザーにくっつく感じがした。
 肘掛けに手を置くのはなんだか偉そうで、体の横に置いたら、手のひらにもペタリとレザーがくっつく。

 何があったわけでもない。

 ただ座っただけなのに、途端に不安になってこちらに背を向ける磯貝君の姿を確認してしまう。

 彼はというと、キッチンへと続く扉の横にあるスイッチに手を伸ばして、リビングの電気を切った。

 パチン、と乾いた音がして、部屋の中が薄暗くなる。
 今はまだ午前中で明るいはずなのに、漏れてくる光はキッチン側からのものだけ。

 思ってもない展開に私は狼狽えた。
 え、と掠れた音が喉を震わせただけで、具体的な事は何も言えない。

 そして、磯貝君はそれまでと変わらぬ足取りで私の前までやってきて膝をついた。

「キッカちゃん。どうか、懺悔させて? 昔のことだけれど」

 そう言って彼は私の右足を柔らかくとって、彼の目の前に持ってくる。
 何を、と聞く間も無く彼は躊躇もせずに私のつま先にひたいを当てた。

 薄暗い部屋の中で、私の足と彼の手が、不気味なくらい白く浮かび上がっていた。

 どこから、話したらいいのかな。

 顔を上げた彼は、それでも私の足を離してくれなかった。
 私の足を手のひらに乗せて包むように持ったまま、ひたと私の顔を見た。
 薄暗い中で私は彼がポツリポツリと口にする事を、自分の知らない遠いところで起きた話のように聞いていた。





 僕は呉服商の長男で、キッカちゃんは材木問屋の娘さんだったんだ。
 さっきも言ったけど父親同士の仲が良くてね、僕が生まれた時におじさんの家に女の子が生まれたら結婚させようって決めてたらしい。
 僕が七つの年にキッカちゃんが生まれて、その時の名前は菊ちゃんだった。キッカちゃんの名前を見たときはすごく驚いたよ、前と一緒だって。

 君は僕のこと兄様(あにさま)って呼んでくれて、いつも僕についてきてくれた。僕にとっては結婚相手というよりも妹ができた感じだったのかな。すごく可愛くて、絶対大事にしようと思ってた。

 僕が十九、菊ちゃんが十二になったら祝言を挙げるはずだったからね。

 でも、その前に菊ちゃんは病で亡くなってしまった。
 僕は長男だったから、それから他の人と結婚せざるを得なかったんだけど、それをずっと君に謝りたいと思ってた、仕方なかったとはいえ本当に申し訳ない事だった。

 それから僕は毎日、神社に通ったよ。

 次に生まれ変わる事があったら、また菊ちゃんに会いたいって。
 今度こそ菊ちゃんを幸せにしたいって。

 それは僕が物心ついた頃から少しずつ記憶に混ざり始めて、今じゃすっかり前の記憶が戻ってる。僕がそうだからきっと菊ちゃんもそうだって思ってたんだけど、大学で再会した君は全く僕のことなんて覚えてない風で、何度も気づいてもらおうって努力したけど全然ダメだった。

 でも今日、こうやってキッカちゃんと話す事ができて、本当に嬉しいよ。

 ねえ、キッカちゃん。

 君は僕のこと覚えてないって言ってたけど、君の足は昔のままだ。
 白くて、細くて、貝がらみたいな薄桃色の爪が付いてて。






 磯貝くんの手は、ぴったりと私の足に張り付いて離れなかった。
 強く握られているわけでもないのに、私の足は石になったみたいに動かない。

 彼は懺悔と言ったけれど、変だ。
 だって、彼に後悔の色はなくって。

 彼の言葉を理解しようと試みたけど無駄だった。

 私が見つめた先の磯貝君は、まっすぐに私を見ている。

「キッカちゃん、今度こそ結婚しよう」

 本気で言ってるんだろうと思わせられるような、はっきりとした声。
 でも私の知るプロポーズの場面は大体手を握ってキスをするものなのに、彼は私の足に唇を落とした。

 まるで私の方が彼にそうさせているかような錯覚。
 小さな眩暈が霧のように私を覆ってくる。

 今日初めて喋ったのに結婚はおかしいと思う、と私はようやくそれだけを喉の奥から絞り出した。

 そうだよね、と磯貝君はあっさりと頷く。

「じゃあ、僕と付き合ってくれませんか、中村菊花さん」

「それなら……」

 結婚よりははるかにマシだと、私は彼の提案を受け入れた。
 ここの時点で既に、私の思考はおかしくなっていたのかもしれない。

 息を吐くたびに、私の体に溜まったローズヒップの薫りが纏わりついて、薄暗い部屋の中でさらに靄(もや)がかかる。

「磯貝君、そろそろ大学に戻らないと」

 彼は腕時計に目をやってふっと笑んだ。
 まだ、あと四十分あるよ、って。

 思ったよりも時間の流れはゆっくりしていた。
 彼に詰め込まれた情報は、私の中で行き場をなくしてぐるぐると渦巻いている。

「キッカちゃん、磯貝君、じゃなくて名前で呼んでほしいな」

「博睦(ヒロチカ)君? 」

「そう」

 名前を呼んだだけなのに、彼は嬉しそうだ。
 ねえ、これ持ってて、と彼は眼鏡を外して私に手渡した。
 繊細な造りが彼の分身のようで、両手でそっと持つと、二枚のレンズが彼と一緒になってこちらを見つめている気がした。

「彼女になってくれたキッカちゃんに、もう一つ『お願い』してもいい? あのね、」

 彼は床に膝をついたまま、私の方を蕩(とろ)けるように見つめた。




「博睦君、それは無理」

 彼の『お願い』に、私は恥ずかしくて泣きそうになった。

「なんで? 僕はキッカちゃんに踏まれたいんだよ。尤(もっと)もキッカちゃん以外には踏まれたくない。お願いだよ、僕にはキッカちゃんだけなんだ」

 他の人にお願いしてください、と言ったのに彼は頑なに拒んで私の右足に縋り付いてきた。
 彼は私の足に踏まれたいと言って聞かなかった。

 キッカちゃん、と名前を呼ばれる度に、彼が用意した底なし沼にズブズブと沈んでいくようだ。

「実は菊ちゃんには隠してた事があるんだ」という言葉から始まった彼の告白に、私は狼狽えた。


 菊ちゃんに踏まれたい。

 そう言えば軽蔑される。その想像だけで僕は耐えられなくてね、それで僕は遊郭に通うようになったんだ。
 十六の時だったかな。

 ああ、そんな顔しないで、違うんだ、僕は女の人と寝に行ったわけじゃない。
 僕はただ、踏みつけて欲しかっただけなんだ。

 ほら、そういう顔する。
 だから、菊ちゃんには絶対に頼めない事だったんだよ。

 でも、何度か通ううちに違う理由で耐えられなくなってきた。
 誰に踏まれても、満足できなかったんだ。
 顔の美醜や年齢、果ては性別まで色々試してみたけど、全然満足できなくて、それどころかどんどん心は乾いてくる。踏まれるたびに、菊ちゃんの可愛らしい足を思い出すんだ。
 白くて、ほっそりとして、貝がらみたいな爪が僕を惑わしてくる、あの足を。

 だから結婚して何年か経ったら、告白して踏んでもらおうって決心した。

 でも、菊ちゃんは先に亡くなってしまった。

 僕は抜け殻みたいになって。
 あんな思い、もうしたくない。

 磯貝博睦になってからは、キッカちゃんに顔向けできないようなことは何一つやってない。
 誰とも付き合ったこともないし、キッカちゃん以外を好きになったことすらない。

 産まれた時から僕にはもう、キッカちゃんしかいないんだよ。


 強烈な独白。
 私の足にすがりついてくる白い手。

「キッカちゃん、僕を踏んで」

 切実な声。
 足の甲に何度も落とされる口付け。
 眩暈はだんだんと私を侵食してきて、かかる靄は一層濃くなっていった。

 右足は相変わらず彼に囚われていて、自由なのは左だけ。
 ぐらつく意識を支えたいのに、手の中には簡単に壊れそうな彼の眼鏡。
 足にすがりつき私の足だけを見つめる彼の両目に代わって、それが私の顔をじっと観察している気がした。

 さあ、足を。

 誰も喋っていないのに叱咜する声が聞こえて、私は目をギュッと瞑った。
 もう、逃げられない、彼を踏まない限り。

 私は観念して、浅く息を吐いた。
 私が左足の爪先を床に立てたのを見て、彼は右足を抱えたままソファのすぐ近くに伏せた。
 彼の後頭部に隠されて右足がどうなっているかはわからないけれど、箒の先でなぞったような感覚がふくらはぎや太腿を伝ってきてぞわっとする。
 唇とまた違う、この柔らかいものは、彼の頬だろうか。その中に少しだけチクチクするモノがある。

 私の視界にうつるのは、彼の首筋と白いワイシャツに覆われた大きな背中。
 体の線は私の女友達とは比べるまでもなく、硬質な線で構築されていた。

「博睦(ひろちか)君、どこを踏めばいいの? 」

 自分が口にした『踏む』という音に、顔が火照った。
 覚悟を決めたものの、すぐに現実に挫かれる。

「どこでもいいけれど、直接肌に触れるところがいいな」

 そんな私に気づいている筈なのに、彼は容赦がなかった。
 蕩けるような声をしているくせに。

「じゃあ、最初は首、かな、そこしか見えてないんだけど」

「うん」

 伏せたせいで遠くなってしまった彼の声は、疑うことのできないほどの喜色を纏っている。
 密やかで熱い吐息が右足の甲を這った。

 私は意を決して、左足の爪先を床から離した。
 ソファにくっついていた太ももがペリッと剥がれる。

 緊張で口に溜まった唾液を一度だけ飲み干して、そろそろと彼の首に爪先を近づける。

 人をこんな風に踏むことなんて想像したこともなかった。

 怖くて苦しい。

 両肘から肩にかけてぷるっと微かに震えたけれど、その最後の警告を振り切って、私は彼の首に爪先を落とした。



 親指の先に触れた彼の首は、ゴツゴツして熱を持っている。
 この硬いものは首の骨だろう。

 触れてみたはいいけれど、次にどうしたらいいのか分からない。
 踏むっていうくらいだから、もっと強く押したらいいのだろうか。

 私は足先を立てたまま、彼の首にぐいっと押し付けた。
 途端、爪は骨に弾かれて横に滑って、さっきよりも少しだけ深く肉に沈む。
 流石に痛かったのだろう、彼から、んっと吐息が漏れた。

 その艶めいた音に私の心臓が大きく跳ねる。

「っごめん、痛かった? 」

「ううん、嬉しいよ、キッカちゃんの足が僕の首に当たってるだなんて、もう死んでもいい」

 大袈裟だよ、と言ったけど、笑えなかった。
 私は人間のドロドロと溶けたような部分に触れたことがなくって。
 床から顔だけ上げた彼は、さっきまでの彼とは違う人みたいで。

 彼の動きに、爪先はさらに深く首に沈み込む。
 踏んでいるのは私なのに、爪に当たった肉に私はどんどん侵食されていった。

 キッカちゃん、もっと。もっと踏んで。

 色づいたばかりの果実のような声で、彼は私に強請った。

 人の肉の心地よさに浮かされて、私は足を彼の頭の上に動かした。
 毛の流れに逆らって足を滑らせる。それは手の代わりなんかじゃなかった。

  浮かされているのは私だけではないのかもしれない。
 さっきまでの感触と変わって、右足のあちこちでぬるり、としたモノが這っている。
 音にはならない彼の呼吸が、それが這った後を冷たくする。

 彼の髪の毛も私を『その気』にさせるのに充分な長さだった。

 足の指に彼の髪の毛を絡ませてみたり、指の間に挟んで引っ張ってみたり。
 そんな事を続けていると、私は自分の身体がもう、縮こまっていない事に気付いた。

 閉じられた空間で私は彼によって自由を与えられていた。
 ソファに深く沈んで、海を漂うクラゲみたいな気分。
 彼を足で愛でているのに本当は私の意思なんてなくて、彼にそうさせられているのが、こんな。
 ゆらゆらして気持ちいいなんて。

 私は部屋の中の穏やかな波に乗っかるようにして、ソファから身体を起こした。
 一旦彼の頭から足を下ろして、座る位置を浅くする。

「キッカちゃん、まだ少し時間あるよ。もうちょっとだけ」

 私が足を乗せるのをやめたと思ったのか、焦ったような声が足下から響いた。
 彼が足を離そうとしないのが、なんだか可笑しかった。

「やめるわけじゃないよ、背中の方に足が届かないなと思って」

 私がそう言うと、彼は再び身を伏せた。
 さっきよりも背中が近くなるように身体を揺するのを見ると、私の中に感じたことのない感情が湧いてくる。

 そっと足を伸ばして、彼の背に置く。最初は主張する背骨を丁寧に爪先でなぞる。
 それだけで、右足にかかる彼の呼吸は深くなった。

「ねえ、キッカちゃん」

「何? 」

「足、ちゃんと靴下履いてよ、UVカットのやつ。じゃないと、焼けてきてるよ。日焼け止めしてるのかもしれないけど、もっと大事にして? 」

 もう、キッカちゃんだけの足じゃないんだし。

 そういって右足のふくらはぎに甘く噛み付いてきたので、思わず右足を振り払ってしまった。
 その拍子に誤って彼の頬を足で打ってしまう。

 ごめん。

 そう言うと、頬を押さえて恍惚とした表情で私を見る彼が足下にいた。
 いいんだよもっと蹴ってくれても、とウットリと呟く。

「踏まれたいんじゃなかったの」

「踏まれても蹴られても嬉しいよ、だってキッカちゃんの足だから」

 そういうものなの、と私はもう、彼の言葉を深く捉えなくなっていた。

「今日はサンダルだし、今すぐ履くのは無理だけど」

 そのうちね、と言いながら再び彼に足を伸ばす。
 彼は私の足の動きを視線で追って、躾の行き届いた犬のように這いつくばった。
 私はその背中に爪先をのせる。そして、首にやったようにぎゅっと爪を押し付けた。

 ああ、背中を覆う薄っすらとした肉の感触が、好きだ。
 シャツ越しのくせにこれは狡い。
 こんなに服が邪魔だなんて、思ったことない。

 彼は私に踏まれるのに、ぴったりの体をしている。
 荒い息を繰り返す彼の背中は、先ほどまでよりもはっきりと上下していて、私はそれを足の裏で押さえつけた。それから彼の背にまた、爪を立てる。

 もう少し、爪をのばそう。
 爪の下の彼の肉が、私を捕らえやすくなるように。

 好きだよ、キッカちゃん、すごく好き。

 足下から聞こえる熱っぽい声に、私は、そう、と素っ気なく返した。
 ただ『菊ちゃん』が彼を踏まなくて良かった、と思った。



 彼のことを好きかどうかなんて、まだ分からないけれど。

 彼に足を当てていると、湧き立つような気持ちになる。
 蹴ったり踏んだりするよりもよりも、もっと凶悪で、醜悪で、崇高な。
 足の動きは優しいくせして、私は彼をめちゃくちゃにしてやりたくなっている。
 撫でているのに、心の中では何度も何度も彼を踏み抜いて。
 ジャムみたいになった彼が、それでも嬉しそうに笑っていて。

 これって、恋なんだろうか。


 薄暗い部屋とローズヒップの香り。
 私の膝に抱かれた彼の眼鏡、それから彼と私の呼吸。
 クラクラする頭じゃ、何にも考えられない。

 だからって外にでても、肉の感触は私を追って、私はきっとそれを振り切れない。
 夏の暑さの中でも彼の肉は腐敗しないし、私の爪はそれが欲しい。

 大学までの平坦な道は、きっと今日だけ下り坂。
 私は石ころで転がったら転がりっぱなし。
 隣にいる彼が坂の下で待っている。

しおり