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透明な階段

 私は美しいものが好きだ。
 だから、彼女の鬱陶しい前髪に隠されたその顔が、美しいと気づいたときから、私は彼女を目で追うようになっていた。

 彼女の美しさに気づいたのは体育祭のとき。汗を拭うために長い前髪をかき上げた瞬間が、たまたま目に入ったのだ。陶器のようになめらかで白い肌は、暑さのためか運動のためか頬に薔薇の赤が灯り、普段前髪と眼鏡に覆われてぼんやりとしか印象になかった瞳は、黒々として真珠のようだった。その瞳を縁取る睫は鴉揚羽で、唇は珊瑚の桃色。

 メイクで可愛くしている顔は幾度も見たことがあるが、何も纏わずにあれほど美しい顔を、私は生まれて初めて見た。

「ユリカぁ、お昼たべよー」

 男受けしそうな間延びした声に振り向くと、お弁当箱をもったマナが居た。先生に怒られない程度に染められた茶色い髪の毛を、くるんと内側に巻いている。前の席に座る彼女ほどではないが、そこそこに可愛らしい。

「うん、たべよたべよ」

 インスタントの笑みを張り付けて、マナに返事をする。
 近くにあった空いている机と、自分の机をくっつけて座りなおした。彼女に対して、九十度の位置だ。
 マナがお弁当の包みを広げている間に、ちらりと彼女の方を窺うと、彼女は鞄に手をかける所だった。財布を取り出して、学食にでも行くのだろう。

 いつもそうだ、マナやアイリ、モモなんかが私の机に集まってくると、そのキャピキャピとした空気から逃げるかのように教室を出ていく。
 いつもはすぐ教室を後にするのだが、パンパンに膨らんだ鞄の中で財布が迷子になっているらしく、今日は長いことごそごそとやっていた。

 もうほとんど授業の無い私たち三年生には不似合いなその鞄は、山頂に持って行った、スナック菓子のようだと思った。中身がみえなくてやけに大きく、クラスの女子の半数が使っている、半透明なプラスチック製のバッグとは対照的である。
 一体何が入っているのだろう。気にはなるが、訊ねるようなことはしない。

 それどころか、彼女と私は声を交わしたことすらろくになかった。
 だって、彼女と私は、別の階層で過ごしているのだから。
 お弁当を咀嚼し、マナの話に適当に相槌を打つ。どうやら今日は、アイリとモモは委員会の仕事で外しているらしい。

 その間にも気になって彼女に視線を向けると、やっと財布が見つかったらしく、席を立つところだった。
 黒い髪の毛は無頓着に伸ばされ、彼女の丸まった背中を覆っている。スカートは膝まであり、温かそうだなと少し思った。
 次に彼女をみるのは昼休み明けか、そう思いながらマナの方に視線を戻したその時。

「ってぇーな」

 彼女の方から声が聞こえて、再び視線をそちらに向けた。今度は私ばかりでなく、マナを含む教室にいる生徒の大半も何事かとこちらを見ている。

「おい、これ邪魔なんだけど……つーか、なにコレ?」

 半笑いの、男子生徒の声。
 足を引っかけてことに苛ついてるのか、それとも受験勉強のストレスを発散しようとしているのか、俯く彼女に、クラスメイトの田中が突っかかっていた。
 どうやら、彼女の大きな鞄が通路をふさいでいて、それに田中が足を引っかけたらしい。
 そして不幸なことに、彼女の鞄はチャックがあいたままだった。

「高校生にもなって、くまちゃんとか」

 そう、田中が足を引っかけたはずみで顔を出したのだろう、彼女の鞄からは大きなクマのぬいぐるみがひょっこり顔をのぞかせていた。
 状況を把握した教室の生徒たちも、何がそんなにおかしいのか、田中に同調するようにクスクスと笑っている。

 自分より下の階層の者のことは笑ってもいいというような風潮が、この教室内には充満していた。
 教室の中は、目に見えないいくつかの階層に分かれている。私やマナの所属する階層は、教室内のトップ。常に行事では中心となり、いちばんに盛り上がる権利を有する。階層が下の人間は、行事で盛り上がることすら許されないのだ。下手にやる気を出しすぎると、何はりきっちゃってんの? と冷たく笑われてしまうか、でしゃばるなよ、と疎まれるかのどちらかである。

 誰が決めたわけでもないし、目に見えるものでもない。けれど教室内の階層のことは、誰もが肌で感じていた。
 彼女に話しかけたことがないのも、それが原因である。
 私たちは別の階に住んでいるから、まるでマンションの一階と最上階にいるかのように、話しかけることができない。

 教室という空間は、一人でいるものに、どこまでも厳しい。
 いつもうつむいて、ぼそぼそと喋り、自分からは人と関わろうとしない、そんな彼女のことは尊重しなくてもいいと、変だから笑ってもいいのだと、大多数の人が思っているみたいだった。
 馬鹿じゃないのか、と思う。

「田中、かっこわる」

 しまった、と思った。
 キャラじゃない。やってしまった、と。
 ほかの言葉を縫うように、不思議と静まり返ったタイミングで、その言葉は想いのほか教室中に響いた。

 彼女のことをかばうつもりは、決してなかった。
 努力してやっと手に入れた、とまでは言わないけれど、頭に綿菓子でも詰まってそうなトモダチに愛想を振りまいて、行事のときには好き勝手言うクラスメイトを何とか纏めて、身だしなみにも気を使って、折角手に入れたこの地位を手放すことには躊躇いがあったのだ。

 けれど、一度口からこぼれてしまった言葉は、もう飲み込むことができない。
 視界の端で、さっきまでクスクスと笑っていたマナが、しまったといった表情の後、彼女に同情するような視線を向けたのが見えた。
 私に合わせて、この階層にとどまろうという魂胆が、透けすけだった。
 そんなマナの様子を見て、やっと気づく。

 そうか、上にいることにしがみつくのって、こんなに美しくないことだったんだ。
 さっきは失言だと思った。しまった、と思った。けれどいまは、どこかすっきりとした気持ちだった。

「ねぇ、鞄の中身、何が入っているの?」

 四月からずっと気になっていて、訊けなかった言葉が、するりと口からこぼれる。
 そうか、私たちが居るのは教室で、けしてマンションの一階と最上階なんかではなくて。
 もっと周りが見渡せて、もっと自由に降りることができるんだ。

 そう、言うなれば透明な階段のような。

「あの、妹が、病気で、入院、してて」

 湖の上に貼った氷の上を歩くように、どこか怯えながら彼女は語る。

「それで、いつも、プレゼント、渡してて……今日は、ぬいぐるみ。淋しくないように」
「そっか、入院中の妹さんに渡す、プレゼントだったんだね」

 敢えて教室中に聞こえるように、大きめの声で言った。
 さっきまでうるさかったクスクス笑いが、いつの間にか消えている。
 事の顛末が分かったことで、ほとんどのクラスメイトがこちらに興味を失い、早くも各々のコミュニティでの会話に戻っているようだった。

 そして、彼女に突っかかっていた田中は、きまりが悪そうに舌打ちをして、友人と共に教室の外に出ていく。
 数拍の後、彼女もまた、学食に出かけるようだった。
 教室を去ろうとする彼女に、再度私は声をかける。

「あのさ、」

 驚いた彼女が、こちらを振り向く。

「よかったら、今度、お弁当いっしょに食べよ」

 黒真珠の目が、驚きに見開かれる。
 
「ああ、でもそうしたら、お弁当の分、また鞄がぱんぱんになっちゃうね」

 私がそう言ってほほ笑むと、彼女も花がほころぶようにはにかんだ。

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