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白星

 扉を開くと、温くじめじめとした空気が纏わりついてきた。
 コンクリートでできた灰色の空間にその人を見つけて、心なしか早足になって近づく。
 先輩は、学校の屋上のはしっこ。転落防止用の胸の高さくらいまである柵に、少し乗り出すようにしてよりかかっていた。
 そして、先輩の目線の先には、瞬く無数の星々。隣に望遠鏡はあるけれど、今はそのレンズはケースで覆われているようだ。

 いつもと同じ場所。先輩が三年間、星を見続けてきた場所であり、天文部の主な活動場所であった。
 しかし、今日はいつもとちがって、子供のような無邪気できらきらとした瞳は翳りを帯びていた。
 星を見ているときの先輩はいつでもこっちが羨ましくなるくらいに楽しそうなので、見たことのない寂しげな表情に言葉がでなくなってしまう。

 すると、こちらの視線に気づいたのか、先輩が安心させるようににっこりと微笑んだ。どうやら、よほど心配そうな顔で先輩のことを窺ってしまっていたらしい。

「先輩、どうかしたんですか?」
「いや、どうもしないよ」

 微笑を崩さないまま先輩が答える。しかし、その笑顔はどこかぎこちないように見えた。

「先輩嘘つくのへたすぎです。先輩が星を見るのにそんな顔してるなんて、雪でも降るんじゃないですか」
「そしたら、涼しくていいかもしれないねぇ」

 昼間より幾分ましになるとはいえ、二人を包む空気は夜風では抗いきれない熱を孕んでいる。

「話をそらさないでくださいっ」

 食い下がる私に観念したのか、星を見つめながら先輩が言った。

「こうやって星を見るのも最後かと思うとね……」
 
 なるほど、星が大好きな先輩のことだ。今日からしばらく星を見れなくなってしまうのが辛いに違いない。
 季節は夏。年生は受験に備え、部活を引退する季節だ。夏休みを翌日に控えた七月二十日。今日は私の通う高校で三年生が部活に出てもいい最後の日なのだった。

「先輩、お星さま大好きですもんね」

 そういう私に、しかし、先輩は予想外の返答をする。

「いや、星を見るだけなら部活を引退しても、家でもどこでだってできるんだ」
「え、じゃあ……」
「その、」

 先輩は、何か迷っているような素振りで言いよどみ、ちらとこちらを窺ってから言った。

「ここで、君とこうやって星を見るのが今日で最後だと思うと、なんだか無性に胸が締め付けられて。君が来る前まではずっと一人で見ていたのに、それでとても楽しかったはずなのに、僕はいったいどうしてしまったんだろうか」

 真面目そのものな表情で先輩がそう言うので、私は思わずちいさく笑ってしまった。

「先輩ってば、すっごく頭がいいのに、たまに小学生でも知ってるようなことを知らなかったりしますよね」

 確証なんてどこにもなくて、それは半ば以上私の願望だったのだけれど。
 会話の間もずっと星を見つめているその横顔を見つめながら、声に出さずに口の中で呟く。

「それはね――恋、って言うんですよ」

 瞬間、先輩の目が私をとらえた。
 キョトンとした顔で小首を傾げ、目を真ん丸にして驚いている。
 え、っていうか。えっ?
 先輩のその反応を見て、焦りが募る。

 ――もしかして、私、さっきの口に出てたんじゃ……。

 そう思うと急激に恥ずかしくなって、自分でも赤くなるのがわかるくらいに頬に熱がたまっていく。
 だって、こんなの、「あなたは私を好きなんですよ」って言っているようなものではないか。
 私はいったい、なんてことを言ってしまったのだろう。
 そう思うと同時に、けれど、私はこうも思っていた。

 あぁ、やっと見てくれた、と。

 先輩の目は、いつも星しか見ていなかった。出会ったときから、今までずっと。
 前に、「先輩って、お星様が恋人みたいですね」と冗談のつもりで言ったら、「そうかもしれない」と真顔で返されたことすらあるくらいだ。

 まぁ、その無邪気に星だけを見つめる子供のような瞳に、私は惹かれたのだけれど。
 三億光年くらい先にいるんじゃないかって、届かないんじゃないかって思っていた先輩は、 今、確かに私の隣にいる。

「なるほど、そうか、僕は、君が好きだったんだ」

 はにかみながら、納得したように言う先輩の目は、いつものようにまっすぐで。
 星たちはいつもこんな目で見つめられていたのかと、そんなことを思った。

「先輩の受験が終わったら、また一緒に星、見ましょうね」

 そんな私の言葉に、先輩ははっとした表情で言う。

「そ、れは……。それじゃぁ君は」
「もう、先輩ぜんっぜん私のこと見てくれないんですもん。これでも結構、アピールとかしてたつもりなんですけど」

 まぁ、先輩はほんとにいつも、星ばかり見ていたからなぁ。

「いっそお星さまになったら見てくれるかな、とか、考えちゃいましたよ」

 そう冗談めかして言って、いたずらっぽく微笑む。

「それは笑えない冗談だな」

 本当に顔をしかめながら、先輩が言った。

「だって、部活を引退してしまうってだけでもこんなにさみしいのに、もしも君がいなくなってしまったら、僕はきっと視界が滲んで、星を見ることすらまともにできなくなってしまうよ」

 あぁ、勝ったのだ。そんなことをぼんやりと思う。
 この恋は、てっきり今日、届かないまま終わるものだと思っていたのに。
 かつて恋人とまで言っていた星よりも、大切に思われているだなんて。

 私たちの頭上で、星々が少しだけ悔しそうに瞬いた。


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